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お医者様でも草津の湯でも@ …………
 裕太は夜の繁華街を物凄い勢いで歩いていた。わき目も振らずに黙々と歩く。
「ちょっと待てよ!」
と、蓮川に後ろから声をかけられても待ったりしない。決して振り向くものかと固く心に誓いながら歩き続けた。
 センター街を抜けてそのままスクランブル交差点を渡り、駅に向かって歩き続ける。
「ねえねえ。彼氏一人?」
と、後ろで女の声がして、蓮川が、
「ゴメン、急いでるから」
と答えても絶対に振り返らない。
 今度と言う今度は、堪忍袋の緒が切れた、と裕太は思っていた。



 それは、実に楽しい週末だった。
 研究のテーマも一区切りつき、論文も大方出来上がり、年明けの学会の締め切りにも間に合った。
 何となく開放感があって、珍しく裕太から蓮川を誘ったら、蓮川も満更ではない顔をしていた。
 蓮川と待ち合わせして、見たかった映画を見て、案外面白かった。
 フラリと二人で立ち寄ったタワレコで、ずっと探していたインディーズのCDが見つかった。
 バイト代が入ったと言う蓮川に、少し高めの夕飯を奢ってもらった。
 良い事続きで、楽しくて、裕太は少しばかりハイにもなっていた。このまま、蓮川のうちに行ってエッチしたいなあ、などと珍しい事まで考えて、上目遣いに蓮川を見て、
「これから、蓮川んち行ってイイ?」
とねだってみれば、蓮川は少しだけ嬉しそうに笑って、
「いいよ」
と答えてくれた。そのまま、何事も起こらなければ、今頃、蓮川のワンルームマンションのベッドの上で、あんなことや、こんなことをしていたはずなのに。
 不幸な出来事が起こってしまったのだ。
 いや、蓮川にとっては日常茶飯事の出来事で、別段、不幸な出来事でもなんでもなかったのだろう。だが、裕太には耐え難い出来事だったのだ。
 二人で話をしながら駅に向かう途中でそれは起こった。今にして思えば、近道だからといってあんな裏道を通ったのが間違いだったのかもしれない。そもそも、あの通りには蓮川に連れて行かれた胡散臭い店が幾つも並んでいたのだから。
「要?」
と、一人の女性に蓮川が呼び止められた。見れば、美人とも可愛らしいとも見える小さな女性が丁度通りがかった店の中から出てきたところだった。
 幾つくらいだろう。多分、自分達よりも年上だよな、と思いながら裕太はその女性をぼんやりと眺める。もしかしたら、蓮川の昔の(もしかしたら今現在も続いている)女だろうかと、嫌な予感が胸を過ぎった。
「涼子さん?」
「久しぶりね」
 涼子と呼ばれた女性は蓮川に近づいてくると、チラリと裕太の顔を見て悪戯な笑みを浮かべた。その表情が酷く蠱惑的で裕太は何となく馬鹿にされたような気がした。さっさと別れを告げて、二人で蓮川の家に行きたかったのに、蓮川はそんな裕太の気持ちに気がつかずに、立ち止まり涼子と立ち話を始める。
 二人が並んでいる姿が、なんだかとても絵になって、裕太は勝手に傷ついた。
 蓮川は楽しそうに涼子と話を続けている。何を話しているのか裕太には良く分からなかったが、どうやら家の話らしく、ふと、裕太は自分が蓮川の家庭の事情なんて一切知らないことに気がついた。
 不意に、疎外感を感じて裕太は泣きたくなる。
 そんな裕太をチラリと見て、涼子はこれ見よがしに蓮川に腕をかけた。しな垂れかかるように蓮川に体をよせ、上目遣いに誘惑の視線を向ける。
 裕太は、カッとはらわたが煮えくり返るような気がしたが、何とかその時は感情を押さえ込んだ。何も感じていないような無表情を装い、二人を少し離れた場所から見詰める。
 涼子は、最後にチラリと裕太に意味深な視線を送りながら、蓮川の腕を引き耳元に何か囁いたようだった。
 ヒソヒソ話をするなんて感じが悪いと思っていたら、そのまま、グイと蓮川の腕を更に引き、事もあろうか涼子は蓮川にキスを仕掛けたのだ。
 しかも、見ていてもかなり濃厚なキスだと分かるようなそれ。
 挙句、蓮川は涼子が自分から唇を離すまで全く拒絶しようとせず、突き放そうともしなかった。裕太は、最初、その光景を呆然としたまま眺め、ようやく事態が理解できた途端、弾かれたように踵を返した。

 後ろから、蓮川が自分を呼び止めたような気もするが、あまりに血の上った頭では素直に聞くことが出来なかった。
 とにかく、物凄い勢いで歩き続けた。
 胸の中で思いつく限りの悪態と罵倒を蓮川に向かって吐き続ける。それでも気分は収まらない。そのまま、電柱を蹴り飛ばしてやろうかとも思ったが、すぐ後ろから蓮川が追いかけてきているのが分かったので、そんなみっともない真似はできなかった。

 駅の入り口に入ろうとしたところで、パシンと蓮川に腕を掴まれる。
「待てよ。何で先に行くんだよ。俺のうちに来るんだろ?」
 ケロリとした顔で言われて、裕太は頭が沸騰するかと思った。
 このオトコはアホかと、本気で思った。
 目の前で別の女とあんな濃厚なキスを見せ付けたその直後に、うちに来るんだろうだなんて。正真正銘のアホだ。

「いかねえよ。さっきの女でも連れ込めばいいだろ」
 裕太はあまりに怒りすぎると顔から一切の表情が無くなる。声の調子も酷く単調になって冷たくなり、所謂、静かに怒るタイプだった。そのせいで、怒っていると分からない人間も少なくない。
 ほんの少し頭にきた程度ならば、割と口調が激しくなったり、顔を紅くしたりするので分かるのだが、本気の本気で怒っている時程分かりにくいのだ。
「何言ってるんだよ、ただの知り合いだって」
 ただの知り合いと、蓮川はあんな濃厚なキスをするのか。
「あの人とは何にも無いんだって」
 こんな下半身がいい加減な人間の言葉は信じられない。
「何だよ。嫉妬してるわけ?」
 そこまで言われて、裕太はプツンと切れた。ブンと激しく腕を振って蓮川の手を引き剥がす。それから、にっこりと極上の笑顔を浮かべて蓮川の顔を見上げた。
 裕太の鮮やかな笑顔に、蓮川は一瞬度肝を抜かれたように呆ける。間抜けな顔。と冷めた頭で裕太は普段は秀麗と評されるそのかんばせを見詰める。そして笑顔を浮かべたまま、
「何言ってるの? 嫉妬なんかするわけ無いじゃん。ただのセフレに」
と冷たく言い放った。更に、
「別に蓮川が誰と何しようと勝手だけど、かち合わないようにするのは最低限のマナーだろ? 遊びにしたってルールは守ろうぜ」
と言ってやる。次の瞬間、蓮川は綺麗な形の眉を激しく歪め、どこか痛いような、怒ったような顔をした。が、すぐに、すっと全ての表情を削ぎ落として、冷たい表情で裕太を見下ろす。
 なまじ蓮川は整った顔をしているので、こんな風に無表情になるとどこか怖い印象になる。裕太は、その時すでに、しまったと思っていたが言ってしまった言葉は取り戻せない。
「そうだな。悪かったよ。じゃあな」
 冷たく言い放つと蓮川はそのまま踵を返す。そして、駅とは反対の方向、先程の裏道の方向に歩き出してしまった。裕太は呆然としたまま、そのピンと伸びた姿勢のいい背中を眺め続ける。それが遠くなり、小さくなり、人ごみに溶けて消えた途端、ぶわっと涙が溢れてきて止まらなくなった。
 周りの人間が、物珍しそうに裕太にちらりと目をやりながら通り過ぎて行ったが、そんなことに構っている余裕は裕太には無い。しゃくり上げんばかりに泣きながら、改札を潜り、電車に乗って自分のアパートに向かう。
 実に最悪の週末だ、と、数時間前とは正反対の事を考えながら裕太は一人の寂しいアパートで眠ったのだった。



* * *


「で? 冷戦に突入しちゃったってワケ?」
 人の不幸を他所にイチコはケラケラと楽しそうに笑っている。
「煩い。人の事はほっとけ」
「そんな事言ってもねえ。同じ研究室内で、そんな風にどんよりとした真っ黒な雲を背負われると迷惑なのよね」
 そんな事は研究に何の影響も無いだろうが、と心の中で反論しつつも、イチコには言い返せば言い返すほど酷い反撃が返ってくると分かっているので裕太はむっつりと口を噤む。
 イチコは、裕太の机まで寄せていた古い回転椅子に深く凭れ、ギっと音を立てた。
「しっかしまあ、蓮川も酷いオトコね。完全にユウタの事無視しちゃって。相当怒らした?」
「怒ってるのは俺の方だっつーの。何で、俺が無視されなくちゃならないんだよ」
「まーたまた。結構落ち込んでるくせに」
「落ち込んでないっ!」
 大きな声で言い返せば、やっぱりイチコは楽しそうに笑う。
「まあまあ。可哀想なユウタちゃんにアタシがいっちょ奢ってやるから。今晩、一緒に飲みに行かない?」
「ヤダ。イチコと飲みに行くと絶対潰される」
 本気で恐れをなして裕太は体を引く。
 ザルを通り越してワク。イチコは皆にそう言われるほど滅法酒には強い。今まで腕に覚えのある酒豪と呼ばれている男達が何人も返り討ちにあってきた。一説によると、日本酒を一升空けてもケロリとしているだとか、ビールジョッキの大を10杯空けても顔色一つ変えなかっただとか、ウイスキーをストレートで二本開けても足らないと言っていただとか。
 そもそも、この細い体のどこにそんな大量の液体が入るのか裕太はそっちの方が疑問だったが。
「何よー。潰れたってアタシが介抱してやるわよ」
 イチコが不満げに唇を尖らしたが、それこそ恐ろしいと裕太はフルフルと首を横に振った。
「イチコが量子物性の水島先輩にとんでもない事したって俺は知ってるんだからな!」
 量子物性の水島は裕太たちの一つ上の先輩だが、これが中々細身でたおやかな顔をした今流行の男だった。所謂、イチコ好みの。水島は酒には自信があると豪語して、イチコに勝負を挑み、結局潰されて、そのオプションでイチコに「イタズラ」されて泣き寝入りしたという噂が実しやかに流れている。
「何よー、とんでもないことって。未知のめくるめく世界を見せてやっただけじゃない。新しい資質に開花したみたいだし感謝して欲しいくらいよ」
「俺はイイ! いらない! 新しい資質になんて目覚めないでイイ!」
「しっつれいなヤツねー。まあ、裕太で遊ぶと蓮川が怖いし。変な事はしないわよ」
 裕太『と』遊ぶ、ではなく、裕太『で』遊ぶと表現したソコに言い知れぬ恐ろしさを感じたが、触らぬ神に祟りなし、である。
「ヤダ・・・イチコと飲みに行くなんて・・・」
「アンタ、ほんっと失礼なヤツね。尻に試験管ぶち込んでやろうか?」
 イチコなら実際にやりかねないと、裕太は震え上がってブンブンと首を横に振る。
「まあ、冗談はさておき」
 本当に冗談だったのか、と裕太は訝しげに上目遣いにイチコを見たが、イチコは腕を組んでなにやら考え込んでいるようだった。それから、不意に、ニヤリと楽しそうに笑う。
「ねえ。じゃあさ、別の人間も一緒なら良い? それならユウタも安心でしょ?」
 何か良からぬ事を思いついたような笑いに、裕太は一抹の不安を覚えたが、イチコにこれ以上逆らえるはずも無い。
「・・・うう・・・他の人って・・・誰?」
「マスカレードのバーテン。マスカレード行った事あるんでしょ?」
「あーうん。蓮川に連れて行かれたことある」
「そこのバーテン覚えてない? 楠田ってヤツ。背が高くて、ひょろっとして、ちょっと綺麗な顔してる。ユウタ話したことあるはずだけど」
 裕太は記憶の糸を手繰ってみたが、なんとなくしか思い出せない。そもそも、蓮川に連れて行かれた店では、いつも蓮川の動向を追いかけているだけで精一杯なのだ。他人に意識を向けることなど出来ない。
「・・・なんとなくなら、覚えているような・・・」
 はっきりしない裕太の答えに、イチコは呆れたような顔をする。
「楠田も可哀想に。ユウタの事、すっごく気に入ってて、一緒に飲みたい、ってずっと言ってたのに」
「え? そうなの?」
「そうよ。だから、そいつ呼んでいいでしょ?」
「ああ。まあ、良いけど・・・でも何で俺の事なんか気に入ったんだろ? あんまり面白い話した記憶も無いけどなあ・・・」
 見当はずれな答えを返す裕太にイチコはケラケラと笑いながら、
「まーいいじゃないの。たまにはアンタも蓮川の事なんか忘れてぱーっと遊びなさいって」
と答える。裕太は、それもそうだな、と馬鹿正直に考えながら頷いたが。

 他人の痴話喧嘩や修羅場が大好きで、煙の無いところにも無理矢理火を起こすのがイチコの悪い性癖だと、哀れな子猫は全く知らないのだった。



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