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風の強い寒い日にはE …………
 その人は背が高くて少し気難しそうな感じのする初老の男の人で、足首まで隠れそうな真っ黒なロングコートを着て黒い帽子を被っていた。まるで小さな頃絵本で見た人攫いみたいな人だと思った。
 突然僕の家に訪れたその人は黙って僕に名刺を差し出す。聞いた事のある音楽協会の名前がそこには書いてあった。イギリスでは割と有名な協会で、ヨーロッパでは有名な聖歌隊や室内管弦楽団の後援をしている団体だった。
「連絡が遅れて申し訳ありませんでした。彼の母親の事故の後処理に意外と手間取ってしまったのです」
と淡々とした感情を感じさせない口調でその老人は言った。決して慇懃無礼な態度ではなかったけれど、僕はどうしても嫌な印象を拭えない。…その協会がセンリにした仕打ちを知っていたから、先入観があったのかもしれない。
「ようやく彼を引き取る準備ができましたので、こうして挨拶にあがったのです」
 まるで今日の天気の話でもするような何でもないような口調で彼は続けた。僕は、きっとその協会はセンリのことなどもう一切構わないだろうと思っていたから、正直言ってとても驚いていた。青天の霹靂といった感じだった。
「…引き取るって…彼はもうチェロは演奏できないんじゃ…?」
 僕が戸惑ったように言うと、彼は微かに苦笑した。
「ええ、存じておりますが?」
「だったら連れて帰ってどうするんですか? 第一、センリは口もきけないんですよ?」
「ええ。それも存じております。ですからカウンセリングやリハビリの準備もしておりますが?」
 だから何だと言わんばかりの口調で彼は言った。その口調に、僕は怒りを覚えずにはいられない。金のために傷ついたセンリを無理矢理ステージに引っ張りあげ、チェロが弾けないとなると今度は放り出し、今度はまた治療して無理矢理チェロを弾かせようとする。その仕打ちが以前僕になされた仕打ちとダブって、僕はとても冷静ではいられなかった。
「勝手な事を言わないでください。ようやくセンリはちょっとずつ心を開いてくれるようになったんです。もし今、無理矢理ロンドンに連れ帰ったら、また元の状態に戻ってしまう」
 僕はなるべく感情を抑えるように努めて言った。けれども声が震えるのを止める事が出来ない。動揺のあまり手も震えていた。
 彼は僕の言葉を聞いて、少しばかり呆れたようにため息を吐く。それから取ってつけたような愛想笑いを浮かべて
「もちろんあなたが彼を世話してくださった間の経費はお支払い致します」
と言った。それで僕はもう完全に冷静さを失い、怒りのあまり目の前が真っ赤になったような気がした。
「お金の事を言っているんじゃありません。センリのためにも彼はロンドンになんか帰らない方がいいんだ」
 僕は彼を睨み付けながら唸るように言った。けれど、彼は少しも怯んだ様子を見せずに
「けれども彼は私たちと契約を結んでいるのです。感動的な友情論も結構ですが、これはビジネスですよ?」
と静かな口調で答える。それで僕はもう完全に頭が沸騰してしまった。
「帰ってください! そしてもう二度と来ないでください!」
 僕がらしくもなく大きな声で怒鳴ると、その人はじっと僕の顔を見詰め小さなため息を一つ吐いた。それから、鋭い視線で僕を睨み付けると
「君に、そんな事を言う権利があるとは思えんがね。…決定権は君ではなく、彼にあるんだよ?」
と落ち着いた、けれどもなにか圧力みたいなものを感じさせる口調で言った。
「センリだってそんな所に行きたいとは言わないでしょう」
「それはどうかな? 君は彼ではない」
「…センリは行きたがらないに決まってる。もういいから帰ってください」
 僕がその人を睨み付けながら言うと、彼は少しばかり呆れたように肩を竦めた。それからゆっくりとした動作で立ち上がる。
「どうも君は興奮しているようだ。日を改めてもう一度来る。…君ももう少し落ち着いて考えたまえ。彼にとって本当に何が一番いいのかを。君は彼のチェロを聞いた事があるのかい? …あの才能をこんな田舎でむざむざと潰してしまうなど、私なら耐えられないがね? 君も音楽家の端くれならば理解できるだろう」
 相変わらず癪にさわるほどの穏やかな口調でその人は言った。僕は言い返せない悔しさで無意識に唇を噛む。けれども、そんな僕を気にした風も無く、その人はコートを羽織り帽子を被って訪れて来た時と同じ格好に戻ると
「それではお邪魔して悪かったね」
と無表情に告げて去っていった。その人が帰った後、僕はしばらくテーブルに伏せて考える。
 (君ももう少し落ち着いて考えたまえ。彼にとって本当に何が一番いいのかを。)
という言葉が頭の中を駆け巡って僕は混乱していた。正直に言えば、僕はその人の言う事も一理あるなと思っていた。だからといって、センリがここから出て行くとなると話は別だった。
 センリがここから出ていってしまう。
 ほんの少し想像しただけで、僕は言い知れぬ焦燥感と不安に襲われてしまう。そして、あれほど穏やかで安定していたと思っていた僕とセンリの関係が、酷く脆くて儚いもののように思えてきた。僕とセンリの間には一体何があるというのだろう。約束も何も無い。一度離れてしまえば、もう一度会えるかどうかもわからない。そんな不安を抱えたまま、到底僕はセンリを離す事などできないと思っていた。そしてその反面、それは僕のエゴだと自分を責める自分もいる。ゴチャゴチャとした整理できない状態で頭を抱えていると、ガタリと音がして僕は慌てて顔を上げた。センリが僕のすぐ近くまで来ていて、僕を心配そうに見ていた。
「…センリ…どうかしたの?」
 不自然な笑顔で話し掛けるとセンリは一瞬躊躇するような表情を見せたが、きゅっと自分の手の平を握り締めると踵を返し、いつも筆談に使っていたレポート用紙とペンを持って僕の所に戻って来た。それから僕の目の前にレポート用紙を置く。
 (僕は一度ロンドンに戻ろうかと思う)
 センリはさらさらと紙にそう書くと、僕の顔色を伺うかのように上目遣いに僕を見た。僕はその媚びるような(もちろんセンリにはそんなつもりは無かったんだろう)目つきにかっとして血が上ってしまうみたいだった。
「ロンドンに行って? それでどうするの? 君をひどい目に会わせた連中ばかりがいる場所に帰るって言うの?」
 僕が語気を荒くして言うと、センリはビクリと身体を竦ませた。それから、おどおどと
 (でも、僕に音楽の楽しさを思い出させてくれたのはショウだよ)
と書いた。手が僅かに震えていたのか、文字は少し歪んでいたようだった。確かに僕はセンリにチェロを弾く楽しみを思い出して欲しかった。けれどもそれはあくまでセンリの心の病気を治してあげたかったからだ。それなのに、センリはそんな僕の気持ちも知らずここから出て行くと言う。僕は自分の労りとか優しい気持ちを踏みにじられたような気持ちでいっぱいで、もう情けないやら腹が立つやらで完全に頭に血が上ってしまっていた。そしてそれは今迄抑え込んで来たどす黒い欲望をも誘発させてしまう。僕はもうセンリを引き止める事に精一杯で、センリを思いやる事なんてこれっぽっちも出来なかった。
「センリは口がきけないんだよ? それでもロンドンに行くっていうの? …馬鹿げた話だね」
 僕が憎々しげに言うとセンリはひどく驚いた表情を見せた。僕がこんなことを言うのが信じられないと言った表情だった。それから急に顔色を変える。青ざめたような表情で悔しそうに唇を震わせ僕を睨み付けていた。
 今迄見たことの無いような挑戦的な表情。…恐らく、口がきけないと言う事はセンリには鬼門だったのだろう。今迄はあえて僕は触れる事が無かったから気がつかなかった。それとも実はセンリの中でもそれはもどかしくて歯がゆいことだったけれど、今迄隠して抑え込んでいたからなのかもしれない。けれどもその時の僕には、それを冷静に分析する余裕なんてこれっぽっちもなかった。ただ、センリのその挑戦的な表情が燗に障った。いや、これまで抑え込んで来た衝動を誘発されたと言った方が正確かもしれない。
「何? 何か言いたい事があるなら言ってごらんよ? …もっとも、口がきければの話だけどね」
 僕が嘲笑うみたいに笑ってセンリの顎をぐいと掴むと、センリは本気で怒ったように僕の手をバシンと叩き落とす。それで僕はもう完全に理性の糸が切れてしまった。
 センリの細い腕を捻じりあげ、強引にその細い腰を抱き寄せて、無理矢理噛み付くみたいにセンリの口を自分のそれで塞ぐ。顎を無理矢理掴んで口を開かせると舌を滑り込ませ、センリの舌を捉えて強く吸い上げる。センリは驚いた様に目を大きく見開いて僕の腕の中で突然に暴れ始めた。それからガリと僕の頬を引っ掻く。
「っつ!」
 頬に走った痛みで僕はセンリを思わず解放してしまう。センリは僕の腕の中から逃れ、少し距離を置くと息を荒くしかけて僕を睨み付けていた。そんなセンリを見ていると、僕はもう自分の中の狂暴な「何か」を抑える事はできなくなってしまった。無表情のままセンリに近づいて僅かにあとずさったセンリを逃がさず乱暴に肩を掴む。それからセンリの足をざっと払って強引に床に押し倒した。倒れ際にセンリが延ばした腕がテーブルの足にぶつかり、テーブルの上に置かれていた瓶や缶が派手な音を立てて転がる。そのうちの幾つかはゴトンゴトンと床にも落ちた。
 倒れた時にセンリは後頭部をしたたか打ったらしく、少しの間動きが止まる。僕はそのまま抵抗の少なくなった細い体の上に乗りあげてセンリを組み敷いた。センリは脳震盪を起こしかけているのか、顔を顰めてしきりに後頭部の辺りに手を当てている。その間に、僕はセンリの着ていたシャツに手をかけて強引に左右に開いた。ビリッと言う音が派手に聞こえてボタンがあちこちに飛び散る。センリはさすがにそれには驚いたようで、目を大きく見開いて信じられないような表情で僕を見つめた。それから狂ったように暴れ出す。
 さすがに始めのうちはてこずったけれど、もともと体力の差は歴然だったから暫くするとセンリはすっかり息が上がってしまってゼイゼイ言い始める。繰り出される腕ももう殆ど力なんて入っていない様子だった。
 それは逆に僕の嗜虐心みたいなものをますます刺激してしまう。僕はもう完全に理性など失っていて、おとなしくなった身体をじわじわと嬲るように撫でたりまさぐったり舌を這わせたりし始める。それでもセンリはまだ諦めていない様子で、ゆらりと腕を上げて僕の身体を押し返そうとしていた。
「それで抵抗しているつもりなの?」
 僕はわざと楽しそうな声で彼の耳元に囁く。センリの衰弱してしまった身体から繰り出される抵抗はすっかり力など無くなっていて、全く抵抗にならない。むしろ誘っているようにしか思えず、僕はますます正気を失っていった。性急にセンリを煽り立てると、息を荒くしてきつく目を閉じたまま必死に波が押し寄せてくるのを我慢していたようだったけれど、身体は素直で反応を返してしまうのだった。
「へえ。口はきけなくてもちゃんと反応するんだね」
 自分でも意地が悪いと分かっている口調で言ってやる。センリは僕の言葉に視線をずらし、反抗的な表情で自分が押し付けられている床を睨み付けている。けれども、センリの素直に反応を返す身体が僕のなけなしの理性を完全に破壊してしまい、僕はどんどん夢中になってしまって、もうその時はセンリに対する思いやりや優しさなど心の中にカケラも残っていなかった。草食動物を貪り食らう獣か何かになってしまったように、僕の中には獰猛な欲望しか無かった。
「もうこんなになってる。気持ち良いんだね」
 右手は休むことなくセンリ自身を煽り立てたまま、左手は胸の辺りをさまよって反応を返す場所を探っては執拗にそこを嬲っている。唇は飢え乾いていて、魚が水を求めるように狂ったように口腔を蹂躪していた。センリの身体は何もかもが僕にとって心地よく、どんどん快楽を生み出していく。やせ細ってしまっているともすれば可哀想に思えるかもしれない華奢な体も、滑らかな肌も、骨が浮き出ている鎖骨や脇腹の辺りも、何もかもが正気を失った僕にとっては麻薬のようだった。
 僕はひたすらセンリの身体を貪り続ける。少し触れるだけでビクンビクンと反応を返す身体がたまらなかった。
「…ああ…気持ち良いんだね…もっとしてあげる」
 熱に浮かされたようにセンリの耳元で囁くとまた身体が跳ね上がって、潤んだ切なそうな黒い瞳が開かれて責めるような色を浮かべて僕を見つめる。けれども、そんな瞳でさえその時の僕にとっては誘われているのだとしか思えなかった。
 これまでセンリに対して抱いていた淡い恋のような感情と、そんな風に思ってはいけないという抑圧と、その反動と、それから僕の周囲にまつわる様々な事に対する不満と憤りと絶望と悔しさが全て混ざり合い、僕の中でとてつもない嵐を巻き起こしていた。そしてその嵐がセンリの身体一点にのみ集中して襲い掛かっていたのだ。
 センリはその嵐から逃がれようと何度も何度も身体をずりあげようと試みる。けれども僕はそれを許さなかった。一層センリを責め立てている右手を激しく動かすと、センリは背中を壊れてしまうかと思うくらいしならせて眉を切なげに寄せ、ポロポロと涙を流し始める。息はすっかり上がってしまっていて、ハァハァと必死に胸を上下させて空気を取り込もうとしていた。それでも何とか達するのを堪えようとしているのかぎゅっと拳を握り締めて我慢している。僕はその拳の上に自分の手を重ねて彼の耳元に口を寄せた。
「どうしたの? 我慢しなくて良いんだよ? 僕の手の中でイってしまって?」
 わざと優しい口調で言ってやると、センリは苛められた子供がするようにぎゅうっと眉間に皺を寄せ、悔しそうな表情を作る。けれども、次の瞬間には一際大きく息を吸い込んで喉をヒュゥと鳴らすと身体を強ばらせ、僕の手の中でイった。センリは達してしまった後もぎゅっと目を閉じたままで、けれども身体には力が入らないらしくただハァハァと荒い息を繰り返していた。僕はセンリが僕の手のひらに放ったものをペロリと舐める。口の中に青臭い匂いが広がって、僕はますます興奮して正気ではない状態になってしまう。センリが身体を休める暇も与えず、むしゃぶりつくように唇を自分のそれで塞いだ。甘ったるくて熱いような錯覚さえ起こすセンリの唇。僕はもうひたすら馬鹿になってしまったようにセンリの口の中を探り続ける。時折センリが苦しそうに僕の身体を押し返そうとするけれど、そんな抵抗は逆に火に油を注ぐようなもので、僕は彼の膝の当たりに引っかかっていたズボンを自分の足で器用に蹴り落として、完全にセンリを裸にしてしまうとセンリの後ろ側に手を回した。それから性急に身体を開こうと強引に指を進入させる。センリはそれには驚いたようで、身体をビクリと反応させると大きく目を開いて僕の顔を見た。センリの表情には恐怖と不安が浮かんでいて、先ほどよりも強い力で僕の肩を押し返そうとしてきたけれど、やはりまだ完全に体力の戻った訳ではない身体では大した抵抗にはならない。僕は強引に指を奥まで入れようとしたけれど、乾いている上に思ったよりも強い力で進入を阻まれて思った通りにできなかった。イライラして、チッと舌打ちをすると辺りを見回す。さっき僕がセンリを押し倒した時にテーブルの上から転がり落ちたものが見えた。その中のすぐ近くに落ちていた瓶を拾いあげると上体を起こし、膝でセンリを押さえつけたまま瓶の蓋を開ける。
 中から甘い匂いがした。
 その中のどろっとしたものを指で掬い取るともう一度センリの中に指を沈めようと試みる。今度はその適度に粘度のあるものが潤滑剤の役目を果たして、さっきよりも簡単に指は奥まで入った。入った途端にセンリの身体はまたビクリと跳ね上がる。必死で足をばたつかせて僕の身体をどかそうとしたけれど、無駄な努力だった。
 僕はもう一刻も早くセンリの中に入りたくて、センリの身体の事を考える余裕も無くさして慣らしもしないままもう一度瓶からそれを掬い取って中に塗りたくると、そのまま自身を無理矢理押し込んだ。
 瞬間に見開かれたセンリの大きな黒い潤んだ目。
 センリの背中はきれいにしなって僕に胸を突き出す格好になる。僕はそのままセンリの背中に腕をさし入れて、無理矢理抱き起こした。そのせいでセンリの身体は丁度僕の腿の上に抱えあげられる事になり、自分の体重でより一層深く繋がってしまって、苦しそうに必死で首を横に振った。けれどもそんな風に苦しそうにしていても、決してセンリの喉から声が発せられる事はない。僕がずっと恋焦がれて、聞きたいと切望しているセンリの声は。
 それは突然に僕に理不尽な怒りを引き起こす。
「どうして声を聞かせてくれないんだ?」
 その理不尽な怒りをセンリにぶつけて、僕はイライラしたように言った。それから、快楽を与えるというよりは苦痛を与える目的で嬲るように彼の胸の突起を強くガリと噛んだ。センリはまたビクビクと敏感に身体を反応させて、もう目からはボロボロ涙を流して僕の首に必死でしがみつく。痛みや苦しさを誤魔化そうとしているのか、そのまま僕の肩に歯を立てた。そのせいで僕の肩に痛みが走ったけれど、それは決して苦痛ではなく、むしろ僕にますます狂暴な衝動を引き起こす。
「ねえ、声を聞かせて? 僕は君に何でもしてあげただろう?」
 センリを下から何度も激しく突きあげたまま、手は背中を優しく宥めるように撫でさすり、責めるようにセンリに向って言葉を発する。センリはもう、僕の言っている言葉など耳に入っていない様子で、切なげに僕の肩に顔を摩り付けていた。
 センリの涙で僕の肩が濡れる。鉄の匂いが鼻を突いて、ああ切れたんだなと思ったけれど、もう理性を完全に失っていた僕にはそんな事はなんの抑止力にもならなかった。ただ、センリと繋がっているのだということ、センリの中に入っているのだということが、とてつもない快感を僕にもたらす。センリの中は狭くて熱くて、僕が夢中になってしまうのは簡単だった。
 それまでセンリを抱くということを考えた事が無かった訳ではないけれど、やはりどこか子供を犯すような罪悪感がつきまとって、そんな風に具体的に想像した事は無かった。ある意味、僕はセンリの存在を「犯してはいけない神聖な存在」のように考えていて、そんな事を欲すること自体いけないような気がしていたからだった。けれども今は、逆にその「きれいなもの」を犯しているという事実が僕をもっと煽り立てて、どうしようもない状態にしてしまう。センリは相変わらず呼吸するのもままならない様子で苦しそうにハァハァと必死で息を吐き出し、僕の首にしがみついている。肩からセンリの流した涙がつ、と流れ落ちるのを感じたけれど、もしかしたらセンリの涙では無くて僕の汗だったのかもしれない。そんなことはどちらでも良かった。
 僕はますます乱暴にセンリを突き上げる。その度にセンリは背中をしならせて反応するくせに、いつまでたっても声を聞かせてはくれない。僕はもう半ば躍起になって、尚更センリを乱暴に嬲る。苦しそうに必死で空気を取り込もうとしている唇を荒っぽく塞ぐと、強くセンリの舌を吸い上げた。けれども彼の口から漏れてくるのは空気を懸命に取り込んだり吐き出したりしている音だけだった。
「他のことなんて望んでない。声が聞きたいだけなんだよ」
 僕はもう途中から哀願するように彼に何度も繰り返し呟いた。
 誰も僕の事をわかってくれない。
 誰も本当の僕の事を知ろうとしない。
 僕には何の価値も無いのだという不安が僕の胸を過ぎる。そしてセンリだけがそんな僕を理解し不安を拭い去ってくれる唯一の存在だったのだ。だから僕はセンリの声が聞きたかった。そんな考えが急に思い浮かんだら、なぜだか涙が溢れてきて止まらなかった。
「アアァッ! !」
 不意にそれは訪れた。一瞬、何が起こったのか僕には理解できなかった。悲鳴のような、泣き声のようなその音。それは一瞬ではなく何度も繰り返し発せられる。
「…アァッ! …アッ! …・ア…」
 それがセンリの声だと僕が理解するまでに数秒を要した。理解した途端に驚きが僕を襲う。センリは相変わらず苦しそうに呼吸を繰り返していて、身体はビクビクと反応している。目からはポロポロと涙が零れたままで、眉は切なげに寄せられている。苦しそうな呼吸の合間にセンリはその声を発しているのだった。
 初めて聞くセンリの声は、僕が想像していた声と全く違うようで、それでいてどこか似ているようだった。
 思ったよりも少し高目の声。
 苦しそうに喘いでいるのに甘さを含んでいるような声。
 想像していたのと違った事で逆にそれは妙なリアリティを僕にもたらし、僕を促す事になる。僕はあっさりとセンリの中に熱を放ち、短い声を上げて彼の身体を床に押し倒してその胸の上に倒れ込んだ。
「…ハァ、ハァ、ハァ…」
「…あぁ…あ、あ…ん…」
 僕がセンリの上で荒く息を吐いていると、センリは喘いでいるような泣いているような声を上げ続ける。まるで赤ん坊みたいな声だった。
 それを聞いた途端、僕は猛烈に後悔に襲われて「してはいけない事をしてしまった」気持ちでいっぱいになる。まるで、自分が一番大切にしていたものを自分で叩き壊してしまったような気持ちだった。そう考えたら自然と涙が溢れてきて、僕はもうどうにもそれを止められなくなる。鳴咽を漏らすようにセンリの上で泣き続けていると、不意に手が伸びてきて僕の頬に触れた。
「ショ…ショ…ウ…?」
 それから戸惑いがちな声。その声が僕の名前を呼んでいるのだとわかった瞬間、僕の胸にはとてつもない感動が押し寄せてきて、僕はもう何も言う事が出来なくなっていた。
 初めて聞いたセンリの声が僕を呼んだという事実は今迄感じた事のない程の喜びを僕にもたらす。
 後悔と絶望とやりきれなさと、そして感動と喜びと、相反する感情が僕の中で渦巻いていて、何だか心が分離してしまうかと思った。
「ショウ?」
 今度はもう少しはっきりした声で僕の名を呼ぶ。嗚呼、僕はずっとこんな風に君に僕の名前を呼んで欲しかった。
「どうしてそんな風に泣いてるの?」
 不思議そうに僕に尋ねてきたけれど、僕は答える事ができずに涙を流しながら首を左右に振る。センリはそんな僕の頬を撫で続ける。それから
「僕をここから出してくれてありがとう」
と小さな声で呟くと、その手をパタリと落とした。



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