風の強い寒い日にはF ………… |
窓の外は相変わらず強い潮風が吹いている。部屋の窓が潮風を受けてガタガタと音を立てていた。外は酷く寒そうだったけれど、部屋の中は十分に暖かく保たれている。パチパチと暖炉の火の音だけが、何だか妙にくっきりと聞こえていた。 僕は、ずっと死んだように眠り込んでいるセンリの顔をじっと見詰めていた。センリの顔色はあまりよくなくて、少し青ざめているような感じだった。僕は大きなため息を一つ吐いて目を閉じる。それからゆっくりともう一度目を開くと、センリが静かに目を覚ました。センリはすぐに僕の姿を見つけてじっと僕の目を見詰める。僕は何も言う事ができず、半ば恐怖に襲われてセンリを見つめ続けていた。 罵倒の言葉か、拒絶の言葉か。 次に来る言葉が怖かった。 センリは僕の目を見詰めたまますっと手を伸ばす。手を伸ばして僕の頬に触れた。 「どうして、そんなにつらそうな顔をしてるの?」 それから、僕が想像していたどの言葉にもあてはまらないセリフを、子供のようなあどけない口調で言った。 「どこか痛いの?」 僕を心配しているような声。こんな状況でもセンリの声と言葉は新鮮で、僕の胸を打った。 「痛いのはセンリの方だろう?」 力無く僕が言うと、センリは少しだけ何か考えていたようだったけれど 「…そういえばそんな気もする」 と本当に何でもない事のように話した。それから大きく息を吸って吐き出すと静かに目を閉じる。なぜだかセンリの口の端は僅かに上がっていて、まるで笑ってるみたいだった。センリはもう一度ゆっくりと目を開けて 「ああ。やっと僕出られたんだね。ありがとう」 と言った。センリのいってる事がわからなくて僕は訝しげな目でセンリを見る。 「出られたって?」 「…今まで、何だか見えない檻に閉じ込められているみたいだった。…話せなくなってしまってからずっとだよ。…ショウの顔もきちんと見えているし声も聞こえてるのに、なぜだか見えない壁があるみたいに、何もかもがはっきりしなくて、ずっともどかしかった。ショウに何かを伝えようとしても、やっぱりその壁みたいなものが僕を邪魔して伝える事ができなくて。でも今はすごく何もかもがはっきりしてる。恐いくらい。何だかはっきりしすぎてて…。ああ、僕ちょっと興奮してるのかな?」 センリは一気にまくしたてると不安げに僕を見つめた。 「…急に話せるようになったからかな。僕の声、変じゃないかな? それから話し方も。…その、嫌な感じがしたりしない?」 「…いや。ちっとも。僕はセンリの声も話し方も好きだよ」 僕がそう言うと、センリは少しだけ頬を染めて、ありがとう、とはにかんだ。多分、センリは自分でも言ってるように急に話せるようになったから少し興奮しているんだと思った。何となくセンリの為には話したいだけ話させてあげるのがいいような気がしたからそのまま促す。 「僕は君の声がもっと聞きたい。聞かせて?」 そう言ったらセンリは嬉しそうに笑って頷いた。そのままベッドから身体を起こそうとして身体に痛みが走ったらしく、眉をひそめてもう一度ベッドに沈み込む。 「…ああ。無理はしないで」 僕が慌ててセンリの体を支えると、センリは不思議そうな顔をした。 「なんでこんなに身体が痛いんだろう? …僕、何してたんだっけ?」 邪気の無い表情で尋ねられて僕は絶句した。そんなことを聞かれても何と答えていいのかわからない。僕が言葉に詰まって後ろめたい気持ちでセンリを見つめていると、センリはだんだんと何かを思い出して来たみたいで、あっという間に顔を真っ赤にした。それから蚊の泣くような声で 「…そういえば、ショウとケンカしたんだっけ」 と言う。僕は思わず目を丸くして、それから苦笑い混じりの大きなため息を一つ吐いた。 「…ケンカとはちょっとちがうけど…乱暴してゴメン…」 「…あ、うん。でも、僕も言葉が足りなかったし」 僕がうなだれて謝るとセンリは慌てたように言い返した。その言葉に思わず僕は吹き出してしまった。 「センリは話せなかったんだから、言葉が足りるも足りないもないじゃないか」 「…あ。うん。そうなんだけど。何かショウの気に障る事をしてしまったんだと思って」 「…気に障った訳ではないよ。センリがあんまりあっさりここを出て行くって言ったから、気が動転してしまったんだよ」 僕が少し表情を曇らせて言ったら、センリはきょとんとした表情になる。 「どうして?」 「どうして…って、その…センリにとっては、僕の存在なんてどうでもいいのかと思ったら、悲しくなってしまって…」 僕が言いにくそうに告げると、センリはびっくりした表情でガバリと身体を起こした。 「いたっ!」 それでやっぱり痛みが走ったらしくて、ベッドの上で蹲る。 「大丈夫かい!」 僕が慌てて腕を伸ばすと、センリは眉間に皺を寄せて「大丈夫」と言って身体を起こした。それから僕の腕につかまると真剣な目で僕を見上げる。 「僕、ショウの事どうでもいいなんて思ってないよ。すごく感謝してる」 「…感謝なんてして欲しくない。…そんなものいらない」 そんな風に言われると、まるでこれで本当にお別れみたいで、僕は不安になる。そのせいで苛々したような口調になってしまい、センリはそんな僕の口調に傷ついたような表情を見せた。 「ああ、そうじゃなくて。違うんだ。僕は別にセンリに感謝して欲しいなんて思ってないんだよ。僕は自分がしたいようにしていただけなんだから」 そう言いながら、僕はもどかしさを感じていた。本当は僕はもっと別の事が伝えたい。例えば、僕たちのこの関係はあまりに曖昧で、今にも消えてしまいそうな不安が僕を襲っているのだという事や、センリにずっとここにいて欲しいのだという事や、それから僕はとてもセンリの事を好きなのだということとか。僕は言葉を失っている訳ではなく、きちんと話せるはずなのに、どうしてこんなに上手く気持ちを伝えられないんだろう。僕はセンリと離れたくない。センリを離したくない。ずっと側にいて欲しい。 「…違うんだよ。僕はただセンリが好きなんだ。センリと一緒にいたいだけなんだ」 祈るような気持ちで僕が言うと、センリは、はっとしたような表情になる。 「…僕はセンリにロンドンに行って欲しくない。ずっと僕と一緒にいて欲しい。それだけなんだよ」 うな垂れたように僕が言うのをセンリはじっと黙って聞いている。真剣な表情だった。 「…僕もショウが好きだよ。…ずっと一緒にいたいと思う」 あっさりと言われて僕はかっと来た。僕を宥めるために適当な事を言っているんだと思ったから。それで、少しだけ意地の悪い気持ちになってしまった。 「へえ、あんなことされたのに?」 投げやりな口調で言うと、センリは眉間に皺を寄せ言葉に詰まる。 「センリ、自分が何をされたか分かってるのかい?」 追い討ちをかけるように尋ねると、センリは眉間に皺を寄せたまま僅かに頬を染めた。その言葉は、センリを追いつめると同時に僕自身をも追いつめる。自分で言った言葉に自分で傷ついていれば世話はないと思いながら、僕は自嘲的な笑みを浮かべた。センリは毛布の上でぎゅっと拳を握り締めてしばらく何か考えていたようだったけど、不意に顔を上げた。 「あんなことされても、だよ。ショウが呼んでくれたから僕は話せるようになったんだ」 何か決意を秘めたような表情でセンリははっきりと言った。 「目の前で母さんが死んだ時、母さんの血で目の前が真っ赤になった。でもきっとこれは夢なんだろうと思って、どうしても信じられなかった。そのうち覚めてしまう悪い夢なんだろうと思った。その時からだよ。目にみえない檻みたいなものが僕の周りを囲んでしまったのは。僕は何が夢で何が本当の事かわからなくなってしまって、何もかもがぼんやりしていて、周りで色んな人が色んなことを言っていても、まるで膜が張ってるみたいにちゃんと聞こえなかった。目に映るものさえフィルターがかかっているみたいに輪郭ははっきりしないし、ずっと長いこと霧に中にいるような感じだった。そのうち、何もかもがどうでもよくなってしまったんだよ。でも、初めて海の中でショウの目を見た時に急に物がはっきり見えるようになった。ショウの声を聞いたら急に物がはっきり聞こえるようになった。ショウのバイオリンを聞いた時から、完全に僕の周りの檻は無くなったような気がした。でも、やっぱり僕は話す事ができなかった」 センリはまくしたてるように、けれども真剣に僕の目をじっと見詰めて言った。そして、そこまで言うと悔しそうに、ぎゅっと眉を寄せる。 「ショウが苦しんでいるのに僕は何も言えなかった」 センリはそう言うと僕の手をぎゅっと強く握る。 「でも、あの時、ショウが泣きながら僕の声を聞きたいと言ってくれたから、僕は死んでも声を出さなくちゃいけないと思った。だから声が出るようになったんだ。…ショウは僕を見えない檻から出してくれたんだよ」 半分、泣きながらセンリは言った。それで僕もどうしようもなく切なくなってしまって、泣いてしまいそうだった。反射的にセンリの身体を引き寄せて、ぎゅっと抱きしめる。センリは僕にしがみつくみたいに僕の背中をぎゅっと握り締めた。 「僕がロンドンに行くのはもう一度チェロが弾けるようになりたいからなんだよ。…僕にもう一度チェロを弾けと言ったのはショウじゃないか。ショウが僕のためにバイオリンを弾いてくれると言ったから、僕はショウのためにチェロをもう一度弾けるようになりたい」 僕の肩の辺りに顔を埋めたままセンリは言った。センリの口調はとても真剣で、必死なのがわかって、僕は切なくて胸が痛かった。 「今はまだチェロを見たら母さんの事を思い出してつらいかもしれない。…本当はロンドンにだって行きたくない。母さんの事故の事を思い出すから。でも、こんな風に逃げてたらいつまで経ってもチェロを弾けるようになんてならないと思うんだよ。だから僕はロンドンに行く。そしてチェロが弾けるようになったらもう一度戻ってくる。ショウの為にチェロを弾きに戻ってくる」 そう言ってセンリは顔を上げて僕の顔をじっと見詰めた。初めて見た時から僕を落着かなくさせる、その大きな黒い瞳で。 「絶対に戻って来るって約束できる?」 「できるよ!」 「約束を破ったら?」 ぼくがあんまり心配症でしつこく言うもんだから、センリは少しだけ気を悪くしたようで、ムッとした表情になる。それから少し拗ねたような口調で 「約束を破ったらその時はショウの作った肉料理を食べる」 と言った。それで僕は思わず笑ってしまう。本当は、あんまり切なくて涙が出てしまいそうだったんだけど。 僕が笑ったら、センリも泣いたままつられて笑った。そのままセンリの顔に自分の顔を近づける。センリは一瞬だけ驚いたように目を見開き、それから少し戸惑ったように顎を引いたけれど、おずおずと静かに目を閉じた。僕の唇とセンリの唇が触れる。 それは、少しだけ涙の味がする、優しくて切ないキスだった。 * * * 「僕は必ずチェロを弾けるようになって帰ってくるから、ショウもバイオリンを弾いていてね」 駅のホームまで見送りに来た僕にセンリは言った。もうあと5分で電車がやって来る。永遠の別れではないけれど、やっぱり僕もセンリも淋しさは隠せなくて、駅に来る道すがらほとんど言葉はなかった。駅に着いてからも。 僕が苦笑いを浮かべて 「どうかな。センリがいないと弾かないかもしれない」 と言うと、センリは怒ったような表情になる。 「そんなの駄目だよ」 そう言うとセンリは少し乱暴に僕の左手を取った。それから手を取った時の乱暴さとは裏腹に、うやうやしく僕の指に唇を寄せる。…初めてセンリにバイオリンを聞かせてあげた時のように。 「この指は音楽の神様に愛されている指なんだから?」 唇を離すとセンリはそう言って悪戯っぽく笑って僕の顔を見上げた。僕は大袈裟に肩を竦めて見せる。それから、センリの身体を抱き寄せた。センリの身体は相変わらず小さくて細くて少しだけ切なくなる。でも、涙は見せずに別れよう。必ず、僕と君は、また会えるのだから。 「センリ、次に会う時までにもう少し太った方が良いよ?」 僕が深刻そうに言うと、センリは僕の顔を見上げて不安そうな表情になる。ジリリと電車がホームに入って来るベルが鳴り始める。センリは不安げな表情のまま 「…どうして?」 と尋ねた。君のそんな表情も僕はとても好きだから、本当はずっと見ていたいけど。 センリの乗る電車がホームに滑り込んで来る。 「する時に骨が当たって痛いから」 センリの耳元に顔を寄せて僕がからかうみたいに言ったら、センリは最初何のことかわからないらしく、きょとんとした表情で僕を見て、それから真っ赤になって馬鹿! と怒鳴った。でも、ふざけていられたのはそこまでで。僕もセンリもそれ以上何も言う事が出来なくて、ぎゅっと互いの身体を抱きしめる。それから、名残惜しそうに互いの身体を離した。 「僕、ロンドンについたら手紙を書くから」 「うん」 「電話もするから」 「うん」 センリは泣きそうな表情でそう言って、それからきゅっと唇をかみ締める。最後に無理に作ったみたいな笑顔で 「それじゃあ、ショウ、またね」 と言った。 「センリ元気でね。またね」 と僕も笑顔で返事をするとセンリは頷いて、タラップを登って電車に乗り込んだ。電車はセンリを乗せると、すぐにジリリと出発のベルを鳴らして走り始める。僕は電車が見えなくなるまでセンリを見送って、それから潮風の冷たい家路を辿り始める。相変わらず海岸線の海鳥たちはのんきに群れを作っていた。 センリのいなくなったあの家は少し淋しいけど、帰ったらとりあえずバイオリンでも弾こうかな。 この次会う時は二人でチェロとバイオリンを合奏するのも悪くない。 そう思いながら、僕は一人家路を急いだ。 E N D . |