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風の強い寒い日にはD …………
 ある日、いつものようにセンリにバイオリンを弾いてあげた時のことだった。
 僕が弾き終わると、センリはパチパチパチと拍手をしてくれる。それで僕はふざけるみたいにお辞儀して、センリの隣に腰掛けた。じっと僕のバイオリンを見つめているセンリに気がついて、何とは無しに
「センリも弾きたい?」
と尋ねてみる。センリは一瞬僕の目をじっと見詰め、それから複雑そうな表情で首を横に振った。本当は弾きたいのを我慢しているような態度だった。
「本当はチェロが弾きたいんじゃないかい?」
 僕が注意深く慎重に尋ねると、センリは少し驚いたような表情で僕の顔を見上げた。
「だってセンリを見てると音楽が嫌いだとは思えないからね。本当はチェロが弾きたいんじゃないのかい?」
 僕がなるべく優しい口調で言うと、センリは戸惑ったように僕を見つめていた。僕はセンリに聞かせるためにバイオリンを弾いているうちに気がついてしまったのだ。本当はとても音楽を愛している自分に。一度はバイオリンを捨てたつもりだったけれど、センリと出会って僕は誰かの為に弾くということを知った。そしてそれがとても僕を満たされた気持ちにさせるのだということも。だから恐らくセンリもそうなのではないかと思った。
「チェロは嫌い?」
 僕が静かに尋ねると、センリは少し俯いて首を横に振った。
「またチェロを弾きたいと思う?」
 その質問にはセンリは頷かなかった。頷けない理由が何となく僕にはわかった。
「チェロを弾くのが恐い?」
 僕が少し強い口調で尋ねると、センリはぱっと顔を上げ僕の顔を見詰めた。不安そうな表情と驚いたような表情が入り交じってセンリの顔に浮かんでいた。
「恐いんだね」
 僕がそう言うと、センリは不安な表情を一層深めて僕の顔をじっと見詰めていた。
「僕もね、バイオリンを弾くのが怖かったんだよ」
 僕はフッと表情を緩めてセンリの不安げに揺れている黒い瞳をじっと見つめた。
「僕の両親はね、ヨーロッパじゃ結構有名なバイオリニストでね。僕は小さな頃から当然のようにバイオリンを習わされていたんだ。…バイオリンを習う事に疑問を抱いた事なんて無かった。小さな頃から人前に連れて行かれては両親と一緒にバイオリンを弾いていたんだよ」
 センリと似てるだろ? と僕が笑うとセンリは素直にコクリと頷く。
「バイオリンを弾くとね、みんなが僕の事を誉めるんだよ。さすが天才バイオリニストの息子だって大抵の人が言ってた。僕もそれが当然だと思ってたんだ。それが僕の才能だと思ってたんだよ。…今思えばすごい己惚れだけどね」
 そう言って僕が苦笑すると、センリはそんなことはないと言ったように首をブンブンと横に振った。
「でもね、ある日僕の友達があんなの親の七光りだって陰口を叩いてる所を聞いてしまってね。それで僕は何だか自分のバイオリンに自信が持てなくなってしまってスランプに陥った事があったんだ。でもスランプに陥ろうが公演があれば演奏しなくちゃいけない。でも何度弾いても自分の思った通りに弾けない、そういう苦しい時期があったんだ」
 そこまで話すとセンリは心配そうな瞳で僕の事を見つめていた。本当はセンリの方が病気で僕が守ってあげなければいけないはずなのに、立場がなんだか逆転してるなと苦笑いしてしまう。
「だから僕は上手く弾けないからステージに上がる事はできませんって言ったんだよ。そしたらね、上手いか下手かなんて関係無い。あの両親の子供が演奏しているというのが大事なんだと言われてね。もう僕はそれを聞いてすっかり絶望してしまった。僕自身のバイオリンには価値が無いのかと思った。あの両親の子供が弾いているのなら、僕でなくてもいいんだと思った。そしたらもう僕は何のためにバイオリンを弾いているのかわからなくなってしまったんだよ。だから僕はバイオリンは二度と弾かない事に決めたんだ」
 そこまで言うとセンリはぎょっとしたように僕を見た。すごく心配そうな顔をしている。
「もちろん両親は怒ってどうしてバイオリンをやめるんだって僕を責めた。だけどあなた達の子供だから僕はバイオリンを弾きたくないんだとは言えないからね。毎日毎日バイオリンを弾きなさいと言われるのがつらくて、僕は家を飛び出してしまってここに逃げて来たんだよ」
 僕の話を聞きながら、センリはもう半分涙目になっていて今にも泣いてしまいそうだった。まるで自分の事のように痛みを感じているみたいだった。そんなセンリをどうやったら僕が憎く思ったりできるんだろう。
「でもね、僕は見つけたんだ」
 僕は優しく笑うとセンリの頬を軽く撫でる。
「僕がバイオリンを弾く理由だよ。僕はセンリに聞いてもらうためにバイオリンを弾いているんだよ」
 僕がそう告げてセンリの大きな黒い瞳をじっと見つめると、センリは目を逸らすことなく真っ直ぐに見つめ返してくる。その目が何か言いたそうに見えて僕は僅かに首を傾げる。
「何か言いたいことが?」
 センリが答えられないのを知っていながら僕は尋ねた。どうしてもセンリの声が聞きたいという願望のせいかもしれない。センリは一瞬躊躇するような表情を見せ、それから口を開きかける。けれども出てきたのはやっぱりヒュウという息の音だけだった。それから彼は数回何とか声を出そうと試みていたが、やはりヒュウと息の音がしただけだった。センリはとうとうあきらめて悲しそうな表情で俯くと力無く首を左右に振った。その悲しそうな表情に僕まで悲しくなる。
「ああ、ごめんよ。無理に話させようとした僕が悪かったね」
 そう言いながらセンリの悲しそうな表情を見ていたくなかったので彼の頭を自分の胸の方に抱き寄せた。センリは僕の胸の辺りをぎゅっと掴んで、もう一度左右に首を振る。それから二人でそのまま言葉も無くじっと身体を寄せていた。外は冬の潮風が吹き荒れる音が聞こえていたけれど、部屋の中は静かで本当に部屋の中は別世界のようだった。部屋の中と同じように僕の心の中も恐いくらい穏やかで静まり返っていた。こんな風に落ち着いて過去の話ができるなんて想像もできなかったのに。そう思ってセンリの方を見るとうとうとしかけていた。その姿が何だか可愛くて、僕は思わず笑ってしまう。
「いいよ。僕の膝の上で寝てしまっても」
 僕が笑いながら言うと、センリは寝ぼけ眼で頷いてことんと僕の膝の上に頭を落とした。それからすぐにすうすうと静かな寝息を立て始める。僕の膝に頭を預けて何の警戒心も抱かず眠っている、その無防備な寝顔を見ていると僕はトクンと心臓が跳ね上がったような気がした。
 暖炉の火で僅かに紅潮しているすべすべした赤ん坊のような頬。
 ほんの少しだけ開いている薄い唇。
 僕はその誘惑に勝てず、つい彼の唇に指で触れる。そしてその形をなぞるように指を動かす。彼の唇は想像していたよりも乾燥していて、想像していたよりも柔らかかった。その感触に指を離し難くて、なんだかいけないことをしているような罪悪感を抱きつつも何度も指を行ったり来たりさせる。すると、彼は眠ったまま無意識にピンク色の舌を覗かせてぺろりと唇を舐めた。そして偶然に彼の舌が僕の指に触れる。その時の胸に広がった甘いような感覚を、僕は何と表現したらいいのかわからない。僕はとうとう我慢できずに眠っている彼の顔に自分の顔を寄せ、その唇に唇で触れた。
 それはまるでバニラクリームを舐めたときのような甘さ。決して彼の唇は味などしないはずだったけれど。
「ねえ、僕は君を好きになったみたいだ」
 センリはスゥスゥと静かな寝息を立てていて、完全に眠ってしまっているのはわかっていたけれど、それでも僕は彼の耳元で囁く。
「僕はもう、すっかり君のことが好きになってしまったんだ」
 僕はうっとりとした気持ちで彼の耳元に囁くとその頬に唇を寄せる。窓の外では相変わらず冷たい強い潮風がビュウビュウ鳴り響いている音がしていたけれど、この部屋はとても暖かかった。僕の心の中も。
 僕は、もう、彼が側にいるならばいつでも暖かくいられるような気がした。けれども一つだけ僕の心に引っかかっていることがある。
「僕は君の声が聞きたい」
 穏やかな規則正しい呼吸を繰り返すそのピンクの唇を割って人差し指を差し入れる。
「いつかこの口で僕の名を呼んで欲しいんだよ」
 いつか君がその心の病気をすっかり治してしまった日に僕は君の側にいたいと思う。そうしてそのピンクの唇で僕の名前を一番最初に呼んで欲しい。静かに目を閉じて、僕は君が僕の名を呼んだときのことを想像する。そのバニラクリームみたいに甘い唇で。
 想像したら僕は何だかふんわりとした甘いようなあったかいような気持ちになって、いつのまにかそのまま彼と一緒に眠ってしまっていた。


*
*
*


 それからまたしばらく何という事はない穏やかな日々が続いた。僕はもうこのままこの穏やかな日々が続いていくのではないかと錯覚していた。相変わらず僕はセンリにバイオリンを聞かせていたし、その度にセンリは色んな表情を見せてくれる。センリの心の病気も、もう本当に完全に治ったような気さえしていた。ただ相変わらずしゃべることができないというその一点を除けば。
 僕はセンリに対する感情が単なる同情や憐憫ではなく一種の恋のようなものだと既に自覚していたので、センリとの生活は楽しくて仕方が無い物だった。
 だってそうだろう。
 好きな人と毎日一緒にいることができて不快に思う人間がいるのなら見てみたい。もちろん時折訪れる欲求をやり過ごすのは、結構難儀な事だったけれども。とにかく、総じて僕は冷静さを欠いていたといえる。
 恋は盲目とは良く言ったものだ。
 だから僅かなセンリの変化に気付く事ができなかった。不意に一瞬だけ見せる強い意志を秘めた黒い瞳にも、何か考え込むように遠くを眺めている事も、普段の僕だったら気がついたはずのシグナルをことごとく見逃していたのだ。そして僕が唯一気になっていて不満だったことといえば、センリがなぜ声を聞かせてくれないのかということだった。
 本当におめでたい。
 ちょっと考えれば、センリの声が出ない事はすなわち、まだ心の病気が完治していない証拠だとすぐにわかりそうなものなのに。その時の僕はセンリの大きくて黒い瞳や細い首筋や時折見せるはにかんだような笑顔やちっとも怖くない、怒ったような表情にばかり夢中になっていて、本当に他のことが見えなくなっていた。
 だから。
 センリがここを出て行く事を考えていたなんて、全く想像すらできなかったのだ。


 そしてその日は突然訪れた。
 望まざる訪問者と共に。



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