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風の強い寒い日にはC …………
 センリと暮らすようになってから三週間ほどたった頃、思いの外早くにミスサイトウがセンリの身元を調べて来てくれた。
「本名、飯島千里、16歳。日本人。母親は飯島唯といってヨーロッパでは結構有名なチェリストよ。千里自身もチェロの天才と騒がれていて、1年ほど前から親子でヨーロッパを中心に公演を行っていた。…クラシック雑誌に載ってたわ。見る?」
 ミスサイトウは複雑そうな表情で、僕にそのクラシック雑誌を差し出す。センリは僕らから大分離れた部屋の隅っこで窓の外の景色をじっと眺めていた。どうやら機嫌が悪いらしい。
 雑誌を受け取って見てみると、見たことのないような男の子が燕尾服を着てチェロを弾いている写真が小さく載っていた。ドイツ語で『天才少年チェリスト』と見出しが付いている。その写真の男の子は見た目は確かにセンリなんだけれど、でもここにいる僕と三週間一緒に生活してきたセンリではなかった。
 どこか張りつめたような表情。自分以外の存在を何だか全身で拒絶しているような印象をその写真から受けた。
「ところが、そのヨーロッパ公演中に母親が死亡」
 淡々としたミスサイトウの口調に、僕は顔を上げる。
「母親が死亡?」
「ええ。何でもツアー中に事故死したらしいわ。それでショックを受けて演奏どころではなかったこの子を無理矢理ステージに引っぱり出したら、ステージ上で棒立ちになってしまったみたい。…ステージの上で立ち往生して弓を構えることすらできなかったらしいわ。それ以来、一切口が聞けなくなってしまったって。いくらお金のためだからって、母親を亡くしたばかりの子供にそんな扱いをするのはどうかと思うけれど。チェロの天才って言ったって、母親の前ではただの子供でしょうに」
 相変わらずミスサイトウの口調は感情を覗かせない淡々としたものだったけれど、何となくその中に責めるような色が見えた。センリはじっと窓の外を見つめていて、聞いているんだか聞いていないんだかわからない様子だった。
「口がきけなくなってしまってからは精神的に閉じこもりがちになってしまったらしくて、一旦病院に入れられていたらしいわ。…記憶障害とあと少し幼児退行も起こしているという話だったけど。一時期は食事も自分で取れないほどで、その間は点滴で栄養を補充してたそうよ。だから栄養失調も少し起こしかけてる。そんな状態でほとんど寝たきりだったのに、三週間ほど前にいきなり病院を失踪。ここにいるって言ったら、病院の人が驚いていたわ。あんな状態で良くそんな遠くまで一人で行けたって」
 そこまで一気に言うと、ミスサイトウは小さなため息を一つ吐いた。他に聞きたいことはある? と聞かれて、僕は首を横に振る。なんだかひどく胸が痛むようで、到底何かを言う気にはなれなかった。
「それでね」
 これまでの口調とは変わって、少し困ったような、言いにくいような様子でミスサイトウは切り出す。
「どうやらその子には母親以外に近い身内がいないらしいのよ」
「身内がいない?」
「ええ。つまり今すぐにこの子を引き取ってくれる人はいないってことなのよ」
 困り切ってしまった表情でミスサイトウは告げた。
「その子の後援を引き受けていた音楽協会がロンドンにあるんだけど、そこもひどい対応でとても面倒見きれないって」
「面倒見きれないって、母親を亡くしたばかりで身内もいない子ですよ?」
 僕が憤慨した様子で食ってかかると、ミスサイトウは困ったように肩を竦めた。
「最近割と有名になってきた金の卵だったらしいわ。その子。もう1年先までスケジュールがびっしりだったみたい。そのキャンセルに追われてて協会も大変なんだってのが向こうの言い分よ?」
 どうする? と尋ねるような表情でミスサイトウは言った。
「…もういいです。当分センリは僕が面倒みますから」
 僕はもう怒っているのを隠す気にもならなかった。憮然とした表情のまま僕が言うとミスサイトウは苦笑いして
「…そう…何かまたわかったら伝えに来るから」
と幾らか優しい口調で答えた。
「それから何か困ったことがあったらすぐに連絡すると良いわ。…まあ今のところ大分顔色も良くなって調子が良さそうだけど?」
と付け加えるように言って帰っていった。僕はミスサイトウが帰ってもじっと窓の外を見つめているセンリに近づいて、後ろから腕を回してぎゅっと抱きしめる。抱きしめると彼の身体は思った以上に細くて、また僕は胸が痛くなってしまった。センリはこんなに細くてこんなに小さいのに。そう思ったら自然と腕に力が入ってしまって、センリは振り向いて不思議そうに僕を見上げる。大きな黒い目に不安の色が浮かんでいた。
「大丈夫だよ。僕がずっとセンリの側にいるからね」
 僕がそう言うとセンリは曖昧に笑って頷く。その笑顔が何だかとても儚くて、今にも消えそうで僕は涙が出てきてしまいそうだった。

 それからしばらくは穏やかな日々が続いた。何という事はない平凡な日々。
 センリも大分生活に慣れて来て、そう不自由はしなくなってきた。記憶障害も幼児退行もほとんど治ったように見えた。…もっとも、元々センリはあどけない感じがするというか、実際の年齢よりは幼く見えるので、本当の所はどうなのかと言われるとわからないけど。笑顔も良く見せてくれるようになったし、顔色ももうほとんど健康と言っていいほどだった。ただ体重だけはやっぱり思ったように増えなくて、相変わらず折れそうなくらいに細かった。体力もまだ完全とは言えなくて体調を崩しやすい面もあったけれど、それもきちんと気を付けて生活していればどうということは無かった。
 センリは大分家のことができるようになったし、僕も日本料理をたくさん覚えた。時々センリにせがまれてバイオリンを弾いたりもした。僕がバイオリンを弾くとセンリは真剣な表情で聞き入り、時々泣いてしまったりする。逆に嬉しそうに聞いてくれる事もある。色んな曲を弾いてあげると色んな表情を見せてくれるから、それが何だか楽しくて僕は次から次へと色んな曲を弾いた。センリに出会うまでは、もうバイオリンを弾く事は無いだろうと思っていたのに、今は殆どわだかまりもなかった。とにかく、僕にとってセンリとの生活は新鮮で楽しくて、あっという間に時間が過ぎてしまうみたいだった。
 けれども僕の中には奇妙な感情が密かに育っていて、それは日増しに強くなっていく。それを無視しなければならなかったのが、唯一不自由な事といえば不自由な事だったかもしれない。僕はもうセンリの事がすっかり気に入って好きになってしまっていたのだけれど、それが友達に対する好意なのかと言われると首をひねってしまう。例えば何かと口実をつけてはセンリの身体に触りたがる自分を、僕はとっくに自覚していた。
 けれどもセンリは心の病なのだ。
 嫌な事をきちんと嫌だと言えない限り、僕は自分の感情を認める事はできないと感じていた。ましてやその感情をセンリに告げるなんてもっての外だった。
 そんな風に考えているうちに、僕は次第にセンリの声を切望するようになり始めた。センリは精神的ショックを受けたから言葉を失ってしまった。ならば、言葉を取り戻すということがそのショックから立ち直った証拠になるような気がしたのだ。



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