novelsトップへ 風の強い寒い日にはAへ 風の強い寒い日にはCへ

風の強い寒い日にはB …………
 センリはすごく細い。僕もお世辞にも逞しいとは言えない体型だけど、センリは異常に細い。多分、骨格とか骨の太さ自体は同じくらいなんだろうけど、手首とか骨と皮だけなんじゃないかと思うくらい細くて、ちょっと力を入れただけで折れてしまいそうで触るのも恐い。恐らく元はもっときちんと肉がついていたのだろうが、何か精神的ショックを受ける出来事があり、そのせいで痩せてしまったのではないかとミスサイトウは言っていた。
 体質が太らない体質だというならば構わないがこんな風に病的に細いのは良くないから、とにかく蛋白質を取らせてもう少し肉がつくようにしてあげてね、とも言われた。成長期の男の子なんだし蛋白質は必須よ、とも。
 僕はそんなに料理は上手じゃないけれど、何だかんだ言って1年以上一人暮らしを続けて来たから、まあそれなりにできるようにはなった。ミスサイトウに言われたようにセンリに蛋白質を取らせようと思って色々な料理を作ってみたんだけれど、実はセンリは、困ってしまうくらいの偏食家だった。
 とにかく肉が食べれない。魚も殆ど駄目。
 そんな状態でどうやって、蛋白質を取らせればいいのかと僕は頭を抱えてしまった。それでも好き嫌いは良くないから、何とか食べさせようと強引に口に入れてしまおうとしたら突き飛ばされてゲーゲー吐き出されてしまった。
「何も僕は君を苛めようと思ってるんじゃないんだよ? 君の身体はすっかり衰弱してしまっているから、蛋白質をたくさん取って体力を戻さなくてはいけないんだ」
 僕が言い訳をするみたいな気分で一生懸命言っているのに、センリはその嫌悪を浮かべた表情を消してはくれなかった。子供の好き嫌いにどうしてこんな風に僕が説得するようなばかばかしいことをしなくてはならないのかと一瞬腹が立ったけれど、彼の指が小刻みに震えていることに気がついてはっとした。それから僅かに覗いた手首のあたりの肌が泡立っているのも見えた。驚いて慌てて彼の手首を掴んで引き寄せ袖口をまくり上げると、プツプツと腕に鳥肌が立っているのがはっきりとわかった。
 僕は、額に手を当てて天を仰ぐ。
「そんなに肉が嫌い? 匂いを消しても駄目?」
 僕が半分泣きそうになりながら尋ねると、センリも目に涙を溜めながら首を横に振る。そんな表情をされたら、まるで僕が苛めているみたいで僕はどうしていいかわからなくて困ってしまう。一応センリは年齢は僕より一つ下らしいけど(筆談で年齢は教えてもらった。最近16歳になったばかりらしい)、意志の疎通は殆ど首を縦に振るか横に振るかに頼っているから、感覚としてはもっと小さな子に接しているようだった。だから余計にセンリが嫌がったりすると小さな子供を苛めているみたいで精神衛生上良くない。ほとほと困ってしまって、とうとうナナミに助けを求めたら。
「馬鹿だなあ。肉と魚が駄目だったら、豆を食べさせればいいんだよ、豆を」
と言ってトーフとか納豆を山程持って来た。
「ショウは日本語はできても食生活とかは完全にこっちの人間だからなあ。こういう食材には詳しくないんだな」
 そう言って味噌汁とか湯豆腐の作り方を教えてくれた。でも納豆の匂いには僕はどうしても慣れなくて駄目だと思っていたら、センリはおいしそうに食べていてちょっとだけ驚いた。
「やっぱり、日本人なんだなあ」
とナナミはセンリが納豆を食べているのを感心したように見ていたけれど、実は僕はあまり面白くは無かった。
「僕が一生懸命つくった料理は吐いたくせに、ミスターナナミの料理は食べるなんて…」
とぶつくさ膨れていたらナナミに苦笑いされた。センリも何だか申し分けなさそうに僕を見ていたけど。
 僕がナナミに教えてもらって作った味噌汁をおいしそうに食べてくれたので僕が機嫌を直したら、またナナミに笑われた。
 そんな風にして僕とセンリの生活は過ぎていく。
 最初のうちはセンリに家の中の説明をしたり生活用品の使い方を教えたりするのが大体殆どだった。そのうち教える事が無くなって、試しに掃除や料理の仕方を教えたあげたら結構物覚えが良くて、あっという間に簡単な料理は上手に作れるようになった。
「もしかして以前料理とか家のことをしていたのかな?」
と僕が尋ねると、センリは少しだけ暗い顔で曖昧に頷く。過去のことを尋ねようとするといつもこうで、結局僕はセンリの過去に深く触れる事はできなかった。けれども、それ以外の事では大体において僕等はうまくやっていた。
 それまで気楽な一人暮らしで誰か他の人と一緒に暮らすなんて煩わしいと思っていたけれど、思いのほかセンリとの生活は楽しかった。
 センリはとても不思議な子で、普段は少し幼いような印象を受けるのに、時折酷く大人びた表情でじっと窓から海を見詰めていたりもする。僕の方が世話をしているつもりでいると、朝寝坊してしまった僕の世話を色々焼いたりして、僕は戸惑ったりする事もあった。
 基本的にセンリが僕に意志を伝えるのは筆談でだった。センリはあまり英語は得意でないらしく、思うように意志の疎通ができない時もあったけれど、不思議ともどかしさは感じなかった。なぜだか理由はわからない。ただ僕はセンリの中に自分に似た匂いを見出していた。センリの心には何だか大きな傷みたいなものがあって、その傷は僕が隠し持っているそれとどこか似ているような気がしていたのだ。そのせいか、僕はすぐにセンリの存在に慣れてしまって、一週間も経つ頃には『他人と暮らす煩わしさ』などちっとも感じなくなっていた。それよりもセンリと一緒に料理をしたり掃除をしたり筆談をしたりすることのほうが余程楽しく感じてしまっていて、正直に言えば、僕の生活は急に鮮やかに色を帯びたようだった。
 センリも最初の頃は少し戸惑っていたようだけど、次第に僕にも慣れて来て、もう殆ど普通に接するようになった。ご飯も肉と魚を使っていなければきちんと食べてくれるようになった。時々僕の食べた事の無いような日本食を作ってくれる事もある。体力はまだ十分に戻っていないし相変わらず肉付きは悪かったけれど、それでも来た時より随分顔色も良くなって、ちょっとは体重も増えたみたいだった。
 そんなある日のことだった。
 僕が暖炉の側で揺り椅子に座って本を読んでいるとガタガタと物置の方で音がする。センリが暇つぶしに物置をあさっているのは知っていたから、そのまま放っておいたらセンリは物置の中から何かを引っ張り出して僕の所まで持って来た。何だろうと思ってセンリの方を見たら、頭の辺りに埃がついていて頬っぺたもちょっとだけ煤けていた。
「センリ、埃だらけじゃないか」
 その姿に笑いながら僕は本を置いて立ち上がりセンリの頭を払う。センリはバツが悪かったのか、少しだけ頬を赤く染めながら僕に何かを差し出した。
「…これ…」
 差し出されたのは、すっかり埃を被ってしまったバイオリンケース。
「…何で、こんな物…」
 知らず知らず口調が厳しくなる。センリは僕の厳しい口調に首を傾げ、でも気にせずにバイオリンケースを開けた。中からバイオリンと弓を手慣れた手つきで出すと僕に差し出した。どうやら僕に弾けと言っているらしい。
「…これは僕のじゃないんだよ。だから僕には弾けない」
 僕が少し後ろめたい気持ちでそう言うと、センリはとても残念そうに肩を落とす。それから淋しそうにバイオリンの裏板の辺りを撫でた。その姿が何だか叱られた小犬みたいで僕は少しだけ可哀想になる。ゆっくりとセンリの煤けた頬を自分の手で拭って小さくため息を吐いた。
「センリ、これ、聞きたいのかい?」
 浮かない気持ちで尋ねると、センリは顔を上げて僕の顔を見詰め目をクルクルさせた。それから嬉しそうにコクリと頷く。こういう表情は本当に小犬か子猫みたいで、僕はつい何でも言う事を聞いてあげたくなってしまうから不思議だ。
 僕はもう一つ小さなため息を吐くとセンリの手からバイオリンを受け取る。それから弦に軽く弓を当てて簡単に調弦する。僕が調弦している間、センリはじっと僕の手を見つめ続けていた。
 人前で演奏するのはもう1年ぶり位で、本当は一生誰かの前で演奏したくはないと思っていたんだけれど、センリがあんまり真剣に見つめているので僕はついその気になってしまった。
「本当はね、僕は人前で演奏するのは嫌いなんだよ」
 センリの真剣な表情に苦笑いしながら僕が告げると、センリは少しだけ驚いた表情になってそれからしゅんと落ち込んだように俯いてしまう。僕は肩を竦めると片手でセンリの俯いてしまった顎を上げ
「でもセンリには特別だよ。久しぶりで上手く弾けるかわからないけど」
と、なるべく優しい口調になるように言った。するとセンリは急に嬉しそうな表情になって頷く。すぐ目の前で嬉しそうな笑顔を見せられて、僕はドキリとしてしまった。センリは男の子なのに、なんでそんな風になってしまったんだろう。僕は少し変だ。でも、センリのそんな嬉しそうな笑顔を見ると何だか僕も嬉しくなってしまって、僕が自分に架した禁忌を破ってしまう事などどうでも良い事のように思えてしまう。
 センリは僕から少し離れて床にぺたりと腰を下ろす。
「ああ、床は冷たいから。揺り椅子に座って?」
 僕が弓を構えながら言うと、センリはコクンと頷いて揺り椅子に移動する。センリが揺り椅子に深く腰掛けたのを見守って、僕はゆっくりと弓を弾き始めた。
 選んだ曲は『オンブラマイフ』。何となく、今の穏やかでそれでいて少し切ないような心境を表すのに一番だと思ったから。『オンブラマイフ』はイギリスの偉大なる音楽家ヘンデルが作曲した曲で、歌劇『セルセ』の中のアリアとして作曲された曲だ。『ラルゴ』の愛称でも知られるその曲は、ヘンデル自身が楽団に曲を演奏させているときに『もっとラルゴで! もっとラルゴで!』と指示したことからその愛称がついたと言われている。その名の通りとてもゆったりとした穏やかな曲で、僕の好きな曲の中の一曲だった。
 しばらくぶりに弾いたから指は思った通りに動いたとは言い難かったけれど、僕はその曲を心を込めて弾いた。少しでもセンリの心に響けばいいと思いながら。上手い下手は問題じゃないような気がした。センリのために弾こうと純粋に思いながら弾いた。そのせいだろうか。バイオリンを持ったなら、きっと嫌な事を思い出して途中で演奏を止めてしまうかもしれないと弾く直前までは考えていたのに、結局僕はそのまま最後まで曲を弾いてしまった。嫌な事は一つも思い出さなかった。ただ純粋にセンリの事だけを考えて弾いていて、センリの様子すら気にならないほど僕は集中しきっていた。
 だから。
「センリ?」
 弾き終わってセンリを見て驚いてしまった。センリは、僕をじっと見詰めたまま静かに泣いていたのだ。
「どうしたの? どこか痛い?」
 僕が慌てて近寄ると、センリは首を激しく横に振って口を開く。何かを言おうとして。
 瞬間、僕はそのままするりとセンリの口から何か言葉が出てくるような錯覚に陥る。けれどもセンリの声が聞こえる事は無かった。聞こえたのは虚しく空気だけがセンリの喉を通過するヒュウという音だけ。
 センリは泣きながら何度も何か言おうと必死に口を開いたけれど、結局センリの思った通りに言葉が出てくる事は無かった。センリは暫く何か言おうとがんばっていたけれど、結局最後は諦めてしまって悔しそうに唇を噛んだ。センリは必死で何か話そうとしているのに、それが出来なくてもどかしくて悔しがっているのだ。そう思ったら何だかセンリが可哀想で切なくなってしまった。
「良いんだよ? 無理に話そうとしなくても」
 僕がそう言うとセンリは首を左右に振って立ち上がり、僕の持っているバイオリンを指さしてもう一度何か言おうと口を開く。けれども、やはり聞こえたのはヒュウという息の音だけだった。
 センリは悔しそうにダンと足を踏み鳴らすと僕に手を伸ばす。え? と僕が戸惑っていると僕の頬に唇を寄せ軽くキスをした。突然の出来事に僕が驚いて硬直していると、今度は跪いて弓を持つ僕の右手を取りうやうやしく手の甲にキスをした。それで僕はもうすっかり動転してしまい、弓をコロンと床に落として、ただ、ただ、ひたすらセンリの顔を見詰める。
 うっとりしたように閉じられた瞳。
 滑らかな頬に影を落とす睫。
 それから僕の頬と指に触れた唇。薄いピンク色の唇。
 僕はもうセンリの唇から目が離せなくなってしまって、ひたすら言葉も忘れてセンリの唇を見詰め続ける。センリは暫くそうして僕の手にキスをしてから唇を離し、ふっと目を開き僕の顔を見上げた。それで僕の目とセンリの目が合ってしまう。初めて見た時から印象的だった黒い大きな瞳。
 センリは僕が動揺して呆けているのに気がついて首を傾げる。僕はそれで慌てて我に返った。
「…あ…の…あり…がとう…僕の、バイオリンを誉めてくれたのかい?」
 しどろもどろに尋ねると、センリは僕に気持ちが伝わったのが嬉しいのか大きく首を縦に振り、ぱあっと明るく笑った。
 その笑顔と言ったら言葉に仕様が無い。
 僕は完全に舞い上がってしまって自分で自分の口を抑える。きっと顔も赤くなっていただろう。そんな僕の様子をやっぱりセンリは不思議そうに見ていた。
「…あ…いや。何でもないよ、ありがとう」
 必死で誤魔化すみたいに言ったけれど内心は穏やかではなく、動揺は収まってはいなかった。
 例えば何か感動する音楽を聴くとどうしようもなく心が興奮してしまって、何かを伝えたいような気持ちになってしまうことはある。それは僕も何度か経験した事があった。
 多分センリのはそれと同じで、僕のバイオリンの何が気に入ったかはわからないけれど、とにかく僕のバイオリンを聞いてある種の興奮状態になったのだろう。本来ならそれを言葉で伝えれば良い事なんだけど、センリはそれが出来ないからああいうことをしたんだというのは容易に想像ができた。できたけれど、それと僕の心の動揺は別の問題だ。
 最初から僕はセンリの事は嫌な感じはしていなかった。最近は好きだと言っても過言ではないほど惹かれてはいたけれど、こういうことはマズイのではないかと思った。何というか、つまり、センリに特別な感情を持ちかけているのではないかということは。
 センリは僕と同じ男だし、それに今は心に病気を持っていて口をきく事もできないし、僕は多分役目としてはセンリを保護する立場のはずで、と自分に言い聞かせるように考える。

 何度も何度もそう考えようとしたけれど、僕の頬と指に触れた柔らかい唇を忘れる事は暫くの間、到底できそうになかった。



novelsトップへ 風の強い寒い日にはAへ 風の強い寒い日にはCへ