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風の強い寒い日にはA …………
 パチパチと音をたてて暖炉の火が燃えている。
 僕と彼が海に落ちてからだいぶ時間がたって、冷えた身体ももうすっかり元に戻った。濡れた服もコート以外はほとんど乾いていたけれど、そんなに時間が経っても彼は目を覚まさなかった。
 窓の外はすっかり薄暗くなっている。
 僕は、もう何杯目かわからなくなったお茶を口に運びながらぼんやりと彼を見つめた。
 ナナミは暖炉から少し離れた場所にある揺り椅子に腰掛けて、何か本を読んでいる。
「そういえば、今日は奥さんはいないんですか?」
「ああ。今日は研究所に泊まりらしい」
 そうですか、と相づちを打ったところでお腹がぐうと鳴った。そう言えば今日は朝食を食べたきり、色々大騒ぎしていたから何も食べていなかったことを思い出す。ナナミは僕のお腹の音を耳ざとく聞きつけると、楽しそうに笑った。
「そういえばもう夕食の時間だな。何か作るよ。無骨な男料理ですまんがね」
 そう言ってナナミが立ち上がった時に不意にガタリと音がして、慌てて振り返ると彼が目を覚まして身体を起こしかけていた。開かれたその大きな黒い目に僕は目を奪われて、一瞬何も言う事も考える事もできなかった。
 大きな、大きな、真っ黒な瞳。
 ナナミやその奥さんが働いてる研究所にはたくさんの日本人がいて黒い瞳なんて見慣れているはずなのに、僕はその時黒い瞳を初めて見たかのような驚きに襲われていた。
 彼は起きたばかりで状況が把握できていないのか、ぼんやりとした様子で部屋の中をグルグルと見渡している。その大きく開かれた目と寝癖のついた黒い髪とナナミのダボダボの服を着ている身体が、なんとなく子猫を連想させた。
「え…っと…目が覚めた? …センリ…でいいのかな?」
 僕は珍しく少し緊張して日本語で尋ねる。彼はまだ意識がはっきりしていないらしく、ぼけっとした表情で僕をぼんやり見つめている。ブランケットから上半身だけ出してモソモソしている感じが、生まれたてのひな鳥みたいで、何だかかわいかった。
「ah…can you speak English?」
 日本語がわからないのかと思って今度は英語で話し掛けてみたけれど、やはり反応はなく、相変わらずぼんやりとした表情をしている。僕は困ってしまってナナミの方を見た。
「ミスターナナミ、日本語も英語もわからないのかな?」
「…いや…そうじゃない気がする…」
 そういうとナナミは彼の側に近寄り、身体を屈めて彼の目線まで降りる。降りて彼の目をじっと見つめながら、
「俺のいってる事が分かるかい?」
と、大きなはっきりした口調でゆっくり言い聞かせるように言った。まるで耳が遠い人に話すみたいな話し方だった。すると彼はようやく焦点が合ってきたらしく、微かに首を傾げてナナミの顔を見た。
「日本語、わかる?」
 もう一度ナナミが尋ねると、彼はぼんやりとした表情のままコクリと頷いた。僕はナナミの横から身を乗り出して彼に近づく。すると彼は少しだけびっくりしたように目を見開いて僕を見た。
「君の名前は? センリで良いの?」
 なんだか急かされるような気持ちで僕が尋ねると、彼はじっと僕の目を見詰めてコクリと頷いた。僕は彼が僕の言った事に反応してくれたという事がなぜだか妙にうれしくて、無意識に彼に近寄ると、
「…あ…僕は、ショーン・エフィンジャー。ショウって皆は呼ぶけど。君…センリは、日本人なの?」
と尋ねる。センリはもう一度コクリと頷いた。それからもう一度部屋の中をきょろきょろと見渡して、不思議そうな顔をした。なぜ自分がここにいるのかわからないんだろう。その理由を説明しようとして、僕は自分がセンリのせいで危うく凍死しかけたことを思い出す。さっきまで腹を立てていたはずなのに、今はもう文句を言う気なんてちっとも無くなっていた。それよりもセンリがあんなことをした訳を聞きたかった。
「君が、海に入って行こうとしたのを僕が助けたんだけど…覚えてる?」
 なるべくきつい言い方にならないように注意しながら尋ねると、センリはきょとんとした表情で僕を見つめた。それから僅かに首を傾げる。僕のいってる事がわからない、と言った表情だった。何か日本語を間違えたのかと思って、もう一度、
「…えっと、センリ、海に入って行こうとしてただろ?」
と尋ねる。けれどもやっぱりセンリはわからないい言った表情だった。話が何だか噛み合わなくて、僕が焦れて更にセンリに近づいて何か言おうとしたら、ナナミが僕の頭をポンポンと軽く叩く。
「まあ目が覚めたばかりなんだ。そう慌てて問い詰める事も無いさ」
 そう言ってナナミは立ち上がり、僕とセンリを置いて台所の方に行ってしまった。僕はセンリと二人きりにされて、なんだかますます緊張してしまって、居心地の悪さを感じてしまう。なんでそんな風に感じてしまうんだろう。この今にも落ちてしまいそうな大きな黒い目が苦手なんだろうか。
「えっと…センリの名字を教えてくれる?」
 僕が尋ねるとセンリは少し困ったような顔をした。何かまずい事を尋ねてしまったのかと思って、僕は一瞬あせってしまう。けれどもセンリは困った表情のまま口を開きかける。開きかけて何か言おうとしたけれど、その細い喉から言葉が発せられる事はなかった。出て来たのはヒュウという息の音だけ。
 センリは何度か同じように何か言おうと口を開きかけたけれど、結局聞こえたのは息の音だけだった。数回それを繰り返して、センリは諦めたように口を噤む。それから悲しそうな表情で力無く首を横に振った。
「センリ、君…声が…?」
 僕が驚いたように尋ねると、センリはますます暗い表情で俯いてしまう。
「どうかしたのかい?」
 僕がどうしていいかわからないでいると、ナナミが暖かいお茶の入ったカップを持って戻ってくる。それからそのカップをセンリに手渡して、僕等の横に座り込んだ。
「ミスターナナミ、この子、口がきけないみたいです」
「口が?」
 ナナミは少しだけ驚いた顔をしたけれど、暫く何か考えて、それからまた立ち上がると部屋の奥から鉛筆とレポート用紙を持って戻って来た。そして、それをセンリの前に置く。
「取りあえず、君の名前を教えてもらえるかな?」
 ナナミが優しく尋ねると、センリは戸惑いながら鉛筆を持ちあげ、レポート用紙に『飯島千里』と書いた。もっとも、僕は日本語は読み書きはできないから何と書かれていたのかはわからなかったけれど。
「いいじま、せんり君、でいいのかな?」
 ナナミがポリポリと頭を書きながら尋ねると、センリはコクリと頷く。
「そう。それじゃあ、もう一つ聞きたいんだけど、どうしてこんな寒い時期に海になんて入ろうとしたんだい?」
 ナナミがさらりと尋ねると、センリは僕が聞いた時と同じように不思議そうな顔でナナミを見つめた。それから、鉛筆を持ってサラサラとレポート用紙に何か書いた。ナナミはそれを見て訝しげに眉を寄せる。
「君、海に入ろうとしていたんだろう? 覚えてないのかい?」
 ナナミが尋ねると、センリはコクリと頷く。ナナミはしばらくうーんと何か考え込んでいた。
「…何だか記憶が混乱してるみたいだな。専門医に見せた方がいいかもしれないな」
「記憶が混乱?」
 ああ、と言うとナナミは立ち上がって電話をかけに行ってしまった。僕は、センリとまた二人にされてしまって少し困ってしまう。僕は日本語が読めないからセンリと筆談もできないし。
「…えっと…今日のお昼くらいに君が海の中に入っていくのが見えて、それで僕がそれを止めたんだけど…覚えてないんだよね…?」
 僕が尋ねるとセンリは頷いた。
「えっと。じゃあ、何でセンリはここに来たの?」
 今度は別の質問を僕が尋ねると、センリは何か考えていたようだったけれど、すぐに僕の顔を見詰め首を横に振った。
「それも、覚えてないの?」
 今度は首を縦に振る。
「じゃあ、君の家はどこにあるのかな?」
 僕が尋ねると、センリは僕の目をじっと見詰め、それから悲しそうに俯くとため息を一つ吐いた。それからレポート用紙にさらさらと書いたけれど、日本語で書かれていたから僕には読めなかった。
「ああ、ごめん。僕、日本語は読めないんだ」
 僕が申し分けなさそうに言うと、センリは少し考えて、それから今度はレポート用紙に『nowhere』と書いた。
「nowhere…って…家どこかも覚えてないの?」
 驚いたように僕が聞くと、センリはフルフルと首を横に振った。それから、もう一度『nowhere』とレポート用紙に書く。一体どういう事なのかと思って尋ねようとしたけれど、センリの表情があんまり悲しそうで何も聞けなくなってしまった。
 二人で黙ってじっと座っていると、暖炉の火がパチパチと燃える音だけが妙にはっきりと響いてくる。
 どうしていいのかわからず僕が困っていると、ようやくナナミが電話を終えて戻って来て、それで僕は少しだけほっとした。
「なっちゃん呼んだから、少し診てもらうといい」
「ミスサイトウを?」
「ああ。専門は精神医学じゃないが多少はわかるだろ。心の方だけじゃなくて健康状態も少し気になるしな」


*
*
*


「精神的ショックで口がきけないだけね。声帯には全く異常は無いもの。それに少し記憶障害も起こしてるわ。これも多分精神的な事が原因だと思うけど…。何が原因なのかはわからないわ。完全に自分に閉じこもってる感じ」
 ミスサイトウはお手上げ、といったようにセンリを診察した結果を報告した。ミスサイトウはナナミと同じ研究所で働いている人で医師の免許も持っている。でも研究の方が好きだから、今は研究所のスタッフとしてやっているらしい。
 ミスサイトウの診察結果を聞いて、僕とナナミは顔を見合わせて肩を竦める。
「それと身体の方は大分衰弱してるわ。まともな食事をきちんと取ってないみたいよ。栄養失調も起こしかけてる。とにかく栄養のつくものを食べさせて、体力を人並みに戻してあげないと病気にすぐかかってしまうわ」
 付け足すようにミスサイトウは言うと、ため息を一つ吐いた。
「ショウも厄介なもの拾ったわねえ…。まあ一応調べられる範囲で身元は調べてあげるわ。警察にも届ける?」
「…警察はできれば…」
 僕が躊躇するように言うと、ミスサイトウは苦笑して、
「そうね、嫌がるかなと思ったけど。それじゃ研究所の伝手で調べてみるけど、時間がかかるかもしれないわよ?」
と言った。僕は仕方なく頷く。
「問題は身元が分かるまでこの子をどうするかだなあ…」
 ナナミが困ったようにボリボリと頭を掻きながら言う。僕は小さくため息を一つ吐いた。
「僕が引き取ります。僕が拾ったんだし」
「引き取るって言ったって…君は日本語の読み書き出来ないだろう?」
「…そうですけど…話す事はできるから…」
 僕が半分意地になって答えると、ナナミは肩を竦めて苦笑いした。
「まあ、君がそう言うなら止めないが…何かあったら、すぐに連絡しなさい」
「そうね。身元がわかったならすぐに連絡するから」
 二人に優しく言われて今度は僕が苦笑する。話題の渦中の当の本人であるセンリは、聞いているのかいないのか、もうすっかり暗くなってしまった窓の外をじっと見つめていた。けれどもその瞳はやっぱりなんだかぼんやりしているようで、何も写していないようにも思える。ダボダボの服から覗く首筋があまりに細くて、僕はなんだかドキリとして慌てて目を逸らしてしまった。
 何だかいわくのありそうな子で、僕は元々面倒ごとは嫌いだし、本当は関わりたくないという気持ちもあったんだけれど、センリの細い手首や首筋を見ていると、なぜだか可哀想に思えて見捨てる事なんて到底できないだろうと思った。窓の近くに佇むセンリに近寄って、
「センリ、暫く僕の家で生活するんだよ?」
と言うと、センリは窓の外から視線をずらし僕の方を見る。それから、また不思議そうに首を傾げた。僕は小さな子供にするみたいにその手を取って
「センリは、これから、僕と一緒に暮らすんだよ?」
と、殊更優しい口調で言う。センリの手は僕の手よりも小さくて、指は酷く細くてまた僕はドキリとしてしまう。センリは僕に手を取られたまま僕を見あげる。それからコクンと頷く。子供みたいな表情だった。
「驚いた。ショウには割となついてるのね」
 後ろの方からミスサイトウが突然言った。僕が、え? と、振り向くと
「私の時はもっと警戒してたんだけど」
と、複雑そうな表情で僕等を見ていた。
「まあ一応命の恩人だしなあ。それとも雛の刷り込みと同じで、最初に見た人間になついたのかな?」
 からかうようにナナミが後ろから茶々をいれる。僕は苦笑いして肩を竦めた。センリは相変わらず子供みたいな表情で僕を見上げていて、僕は何だか少しだけ胸の奥がムズムズするような気がした。
 センリは子猫とか雛とかそういう小さな動物を連想させて、僕はぎゅっと抱きしめたくなってしまうんだけど、同じ年くらいの男の子にそんなことをするのは変だと思って我慢する。
 早くセンリの家族が見つかって引き取ってくれるといいんだけど、と思いながら、それとは逆の事もちらりと考えて、僕はセンリの手を引いて歩き出す。掴んだ手は小さくて指は冷えていたけど、なぜだか暖かいような気がした。


 これが、センリと初めて会った日の出来事だった。



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