風の強い寒い日には@ ………… |
その町は人口八千人の小さな町。 ロンドンからチェスターまで、電車で4時間。そこから更に乗り継いで二時間ほどの所にある小さな町で、僕が逃げ込むには丁度いい町だった。 農業と漁業が中心の小さな港町には、誰も僕の知っている人はおらず、誰も僕のことを知らない。 だから僕はこの町を選んだ。 何も起こらない、誰も僕を責めない穏やかな日々。 けれども、僕は確かに少しばかり退屈も感じていた。 そうして、そんな生活の中で僕は彼と出会ったのだ。 ***** 僕は冷たい北風が吹きつける海岸線を一人歩いていた。 ただでさえこの季節の風は冷たい上に海は荒れていて、そこからの風は凶器とも思えるくらい冷たく鋭い。 少しでもその風を遮ろうと、僕はコートの襟を立てた。 こんな日は外には出たくないのだけれど、不運なことに丁度砂糖とパンと缶詰と固形燃料が切れかかっていたから、買い物に行かざるを得なかった。 少し重たい荷物を両腕に抱え、僕は岬へと続いている細い道を歩き続ける。 すぐそこに見える岩壁に高い波がぶつかって白い飛沫をあげ、ザバンと聞いているだけで寒くなってしまうような音をたてる。 僕は更に寒さが増したような気がして無意識に肩をすくめた。 けれども、岩壁の隙間に上手に群を作っている海鳥達は寒さなどお構いなしで元気に動き回っている。岩場をひょこひょこと歩き回って、互いの毛繕いをしながらじゃれあっているのが見えて僕は思わず苦笑した。それから、その岩壁を下るように視線を移動する。海鳥達が群を作っている辺りよりずっと下の方にはなだらかな海岸線が続いていて、岩壁に叩き付けられている波ほどではないけれど、それでも少し高めの波が押し寄せていた。 その海岸線を歩いている人影を発見して、僕はまた肩をすくめる。 この場所でも十分寒いのに、あんな波の近くに行ったら強い潮風が吹きつけて凍えるようだろうに物好きだなと思ってそのまま立ち去ろうとする。けれども、何となく気になってその人影を見続けていると、フラフラと今にも倒れそうな足取りでどんどん波打ち際に近づいていく。それで僕は、ようやくその人の様子がおかしいことに気がついて、その場所に立ち止まって眉を寄せた。 まさかこの時期に入水自殺もないだろうと疑うようにみていると、その人影はどんどん波の方に近づいていく。どう考えても、おかしな行動だと思って、僕はその場に荷物を投げ出すと歩いていた道から外れ、その人に向かって走り出した。その間にもその人はどんどん波の方に近づいていって、もう足下は水の中に入りかける。 「冗談じゃない」 僕は忌々しげに呟くと、もうほとんど全速力の状態で走り続けた。 僕が走っていく間も、彼はザブザブと音を立ててどんどん深いところまで行こうとしている。時折、高い波に足を掬われてフラフラしながら、それでももう膝の辺りまで水に浸かっていた。 その辺りでようやく僕は波打ち際までたどり着く。 水の中に入ることを一瞬だけ躊躇したけど、その人がヨロリと体勢を崩しかけたのが視界の端に入って、そのまま水に飛び込む。ブーツの中に海水が入り込み、刺すような冷たさが足下から襲ってくる。 こんな中に入って行こうだなんて、正気の沙汰じゃない。 何も僕が見ているときに入って行かなくてもいいじゃないかと内心舌打ちをしながら、それでも見ない振りなどできないから仕方なくその人の後を追いかける。波に足下を掬われて、上手に前に進めなくて転びそうになってひやりとした。こんな中で倒れ込んだら、心臓麻痺で死ぬか凍死するのは間違いなしだ。 僕は必死でその人を追いかけて腿まで水に浸かるくらいの深さのところでようやく腕を掴むことができた。 「何を考えているんだ! 死ぬ気か!」 大声で叫んで腕を引いてその人を引き寄せる。 掴んだ腕はコートの上からだというのに、折れてしまうのではないかと思うくらい細かった。そのあまりの細さに僕はどきりとする。けれども悠長にその心理を分析している余裕は無かった。 振り向いたその人の真っ黒な瞳が一瞬大きく開かれて、僕はそのまま文句を言い続けてやろうかと思ったが、彼はそのままフッと目を伏せた。伏せてそのまま倒れ込む。 「ちょっと! まっ…」 「て」まで言わせずに、彼は、僕を巻き込んで海の中に倒れ込んだ。 刺すような、その冷たい海の中へ。 * * * 「いやいや、この寒空の下、海水浴だなんて豪儀だね」 「からかわないでください。もう少しで、死ぬところだったんですから」 僕が憮然として言うと、ミスターナナミは悪びれる様子もなくすまんすまんと笑った。ミスターナナミは僕の家の近くに住んでいる日本人で、この町にある研究所の職員だ。詳しい事は知らないけれど、イギリスの企業と日本の企業が提携して経営している研究所で、海洋汚染の調査と研究を行っているらしい。そこの研究所の職員は半分は日本人だから、この町は小さな割に日本人の人口比率が高い。僕がこの町を選んだのは、そのせいもある。 僕の中には4分の1だけ日本人の血が流れている。父方の祖父が日本人で、僕は特にその祖父が好きだった。親族の中には保守的で、祖父を嫌っている人もいたけれど、僕はこの不思議な感じのする祖父に良くなついていたし、祖父とはいつも日本語で話していたから日本語も日常会話程度なら不自由しない程度に話せる。 でも、初めてナナミに会った時に日本語で話し掛けたらひどく驚かれた。 「だって、君、外見はちっとも日本語を話しそうにないじゃないか」 と、ナナミは後になって笑いながら言ったけど。確かに僕の外見には日本人らしさは少しも見当たらない。母方の血を完全に引いてしまった外見で、髪は明るめのハニーブラウンだし、瞳の色はブルーグレーだ。 本当は、少しくらい祖父の外見が遺伝しても良かったのにな、と思うことがある。 僕は日本人らしい黒い髪や黒い目が決して嫌いではなかったし、実際に日本に行った事は無いけれど、多分、もし日本に行ったとしたら好きになれるような気がしていた。 だから僕は日本人が多いこの町を選んだのだった。 「まあでも助かりました。ミスターナナミが通りがかってくれなかったら、間違いなく凍死してましたから」 「いやいや。しかしまあ、こんな時期に入水自殺を図るなんてすごい子だね」 「こっちはいい迷惑ですよ」 僕はシーツにくるまって、足は熱めのお湯を浸したブリキのバケツの中につっこんでいる。暖炉の前は僕が拾った『この時期に入水自殺を図ったすごい彼』が占領していたから。 「もう少し暖炉の火、強くするかい?」 「お願いします。その子の所で暖が止まってこっちまで来ない」 僕が忌々しげに言うのを聞いて、ナナミがぷっと吹き出すのがわかった。 「しかしまあ、当の本人は呑気に寝てるときてる。寝顔は可愛いんだがな」 「どういう神経してるんだか疑いますけどね」 「いや、でも一度きちんとした医者に見せた方が良いんじゃないかな?」 「なぜですか? 肺炎でも引き起こしてますか?」 「いや、それはないが…どうも衰弱しているような気がする。顔色も悪いようだし。不自然にやせすぎてる。ここ見てごらん」 そう言うと、ナナミは暖炉の前を占領しているその子の腕をシーツの中から引っぱり出してくる。 ナナミが指さしたところ、左腕の肘の裏側の肉の薄い辺りにいくつも針の後が残っていた。 彼の腕はナナミが言ったように不自然なほど細くて色も妙に白く、それは例えば病人のような、何だか不健康そうな白さだった。 「何ですか? この跡」 「注射や点滴の跡みたいだが。どういう子だろうね」 先ほどより幾らか真面目な口調でナナミは言った。 「育ちも良いみたいな感じだし」 そう言うとナナミは彼の腕をシーツの中に戻して立ち上がった。それから暖炉の側に干してある僕と彼のびしょぬれになってしまった衣服の所に近寄って行き、彼が着ていたベージュのコートを手に取りしばらくじっと見ていた。 僕は毛布を被ったままナナミの様子をじっと見つめる。 「何で育ちが良さそうだって思うんですか?」 ナナミは僕の質問を聞いてちらりと暖炉の間の彼に目をやり、それからポリポリと頭を掻いた。 「このコート、カシミアのコートだよ。しかも、オーダーメード」 「それが?」 僕が不思議そうに尋ねると、ナナミはもう一度、今度はさっきよりも少し大袈裟にボリボリと頭を掻いて苦笑した。 「そういえば、君も育ちの良いお坊ちゃんだったな」 と、少しからかうような口調で言われて僕はむっとする。けれどもナナミは気にした風もなく 「普通、庶民はカシミアのコートをオーダーメードで作ったりはしないんだよ」 と答えた。それから、またしばらくそのコートをじっと検分している。 「イニシャルの刺繍があるな。S…センリ…I…日本人かな?」 「日本人? チャイニーズかと思ったけど」 「いや、この名前なら日本人だろう。…このシミは何かな…」 ナナミはぶつぶつと独り言を言いながらじっとそのコートを見続けている。 僕は目を暖炉の前の彼に移してじっと見つめてみた。ナナミが言うように彼の顔色はだいぶ悪く、血の気がないように真っ白で、唇は寒さのせいか青ざめていた。全体的に華奢なイメージを受ける外見をしていて、ちょっと見た感じ女の子に間違えそうな容姿だった。僕がじっと彼を見つめていると、ナナミが困ったような表情で暖炉の前まで戻ってくる。やっぱり頭をボリボリと掻いていた。 「どうかしましたか?」 「…いや…どうも、あのコートに付いているシミがね…」 「シミ?」 「ああ。何だか血痕みたいなんだがなあ…」 「血痕って…血が付いてるってことですか?」 僕が少し驚いたように尋ねると、ナナミは難しそうな顔をして黙り込んでしまう。 「…妙なことに巻き込まれなければ良いんだが…」 「こんな子供みたいな子が物騒なことに関わっているとは思えないですけど」 「それもそうなんだが…まあ、目を覚ましたら話を聞いてみるさ」 |