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gloria - 4 …………………


 薄紅色に染まる高い空を見上げながら、千晴はぼんやりと練習室の窓を見上げていた。楓の姿は未だ見えない。レッスンが始まるには早い時間なのだろう。
 時折、千晴が、こんな風に楓の歌声を盗み聞いていることを楓は知らない。知らなくて良いと千晴は思っていた。
 風に乗り漂ってくる金木犀の香りに秋の深まりを知る。じきに冬が来るだろう。冬が来れば、楓はいなくなる。今だっていないようなものだけれど、更に遠く離れてしまう。だが、それでも構わないと千晴は思っていた。
 千晴にとって、楓は北極星のようなものだ。遠く、手の届かない場所で光り輝いてくれさえすれば良い。そうすれば、千晴はどんな場所でも迷ったりしないから。
 そんなことをぼんやりと考えていると、微かな笑い声が練習室の窓から漏れ聞こえてきた。鈴が鳴るような、明るい、軽やかな笑い声。屈託の無い、無邪気な楓の笑い声。
 中庭から誰かがこっそりと盗み見ているなどとは思いもしないのだろう。楓と、その講師は二人並んで練習室で談笑していた。だが、何かの弾みに、ふと二人の視線が絡み合う。そして、ごく自然な仕草で二人は抱き合い、キスをした。唇が離れると楓は嬉しそうに笑った。これ以上の幸福は無い、というような輝いた笑顔だった。
 ズキリと千晴の胸は痛む。楓の隣、その場所に、かつては自分がいたこともあったけれど、今は、その席は千晴の席ではないのだ。不意に居場所を失ったような不安感と、寂寥感に千晴は駆られる。それでも。それでも、楓の幸福が素直に嬉しいと思う自分も真実だった。
 やがてレッスンが始まる。聞こえてきたのは、ブルックナーのgloriaだった。

 Gloria in excelsis Deo,
 Et in terra pax hominibus bonae voluntatis.

「綺麗な歌だな」
 と、不意に後から声がする。すぐそこに牧がいたことに千晴は驚かなかった。声を出さず、ただ小さく首を縦に振った千晴の横に、牧は静かに腰掛ける。
「Gloria in excelsis Deo,Et in terra pax hominibus bonae voluntatis.」
 牧は、流暢な発音で、見事にその歌詞を再現して見せた。
「どういう意味だ?」
「…いと高き所では神に栄光があるように、地においては人々に安寧があるように」
 千晴がその言葉の意味を教えたなら、牧は自嘲とも取れる笑いを漏らした。
「千晴。安寧とはなんだ」
 牧は淡々とした口調で、素朴な疑問を口にする子供のように尋ねた。
 安寧とは。穏やかな安らぎ。例えば。
 楓と二人きり、身を寄せ合い、体温を分け合って眠った夜のようなもの。
 千晴にとってはそれが安寧だと思ったけれど、牧に説明することは出来なかった。千晴がその例えを牧に教えたところで、牧は理解することが出来ないだろう。そもそも、そんな穏やかな安らぎを牧は感じたことが無いに違いない。牧を見ていれば、それが容易に想像できた。だから千晴は口を噤まざるを得ない。
「…分からない」
 と答えた千晴に、だがしかし、牧は
「そうか」
 と言ったきり、それ以上は何も言わなかった。
 千晴の胸は、掻き毟られるように酷く痛んだ。先程の、楓の隣を失った寂寥感など比にならぬほどの痛み。この人に、それ、を与えてやりたい。教えてやりたいと思った。
 安寧とは。
 牧にとって、それは千晴の隣で眠ること。いつか、牧がそう思ってくれたなら、千晴はもう、死んでも良いと心の底から思った。












 牧が千晴を『あの場所』に連れて行くことをやめ、自分が生活している部屋に移り住ませたのは、それからすぐのことだった。楓は大分前に家を出てしまっていたので、何の問題も無かった。父親も滅多に帰らぬ家で、たった一人、千晴は暮らしていたのだから。
 だが、牧は決して千晴を抱こうとはしなかった。牧と『契約』してからずっと、それこそ数え切れないほどの男と千晴はセックスさせられたが、ただの一度も牧とはしたことがなかったのだ。
 千晴と一緒にいるからといって、牧は、何を求めてくるでもなかった。ただ、空気のようにあって当たり前の存在であるように千晴を扱う。それは奇妙な同居生活だった。
 自分の部屋にいる時の牧は、決して作り笑いを浮かべない。恐ろしくなってしまうほど、ただ静まり返った表情で大抵タバコをふかしている。
 学生が住むには分不相応な高級なマンションで、牧はたった一人で住んでいるようだった。そして、誰も、牧の家を訪れてはこない。
 大学での牧は表面上、社交的で友人も多いように見える。それが牧の本性を覆い隠すための演技だと千晴は知っているけれども、それでもその友人の誰一人として訪れないのが不思議だった。聞けば、誰にもこの部屋の住所を教えてはいないのだという。
 それでは、大学外でのどうにも胡散臭い怪しげな仲間たちはどうかといえば、やはり牧の家を知らなかった。
 牧は全身で他人を拒絶している。否、人間を拒絶しているのだ。それなのに、千晴だけはその部屋に入れた。そのことが指し示す意味を千晴は測りかねている。
 牧が、自分に何を求めているのか。千晴にはさっぱり分からなかった。相変わらず、楓の学費を援助し続けてくれているのに、千晴を『あの場所』に連れて行くこともしなければ、牧自身が千晴を抱くこともしなかった。それなのに、牧は千晴にキスだけは与えるのだ。触れるだけの恭しいそれから、官能を呼び起こすような深いそれまで。
 一度、千晴が、
「なぜ、牧は俺を抱かないの? 興味が無い?」
 と勇気を出して尋ねたならば、牧はらしくもない、苦笑いを零した。
「抱かないんじゃない。抱けない。恐ろしくて、お前の中になんて入れない」
 答えを誤魔化すではなく、牧は本心を千晴に吐露したようだったが、やはり、千晴にはその真意が分からなかった。
「俺は汚れきっているから、お前みたいな綺麗な奴の中には入れないんだ」
 と、牧は真面目な顔で言ったけれど、それには千晴は心底驚いた。
「俺のどこが綺麗だって言うんだ。散々、色々な男とセックスして女みたいに悦んでいるってのに」
 千晴がそう反論すれば、牧はやはり苦笑いを浮かべて、
「人間は、そんなことで汚れたりしない。汚れたりしないんだ」
 と言った。それならば、どんなことで汚れるというのか。千晴にはさっぱり分からない。
「それじゃあ、牧の言う『汚れる』ってのはどういうことなの?」
「カインとアベルの話を知っているか?」
 千晴の質問に、牧は唐突にそんな事を尋ね返してきた。千晴は訝しげに眉間に皺を寄せる。
「旧約聖書? それが?」
 千晴が更に問い返せば、牧は自嘲めいた笑いを漏らし、どこか遠くのほうに視線をやった。
「主はカインに言われた。いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう。主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた……旧約聖書の一節だ」
 そう言いながら、牧は突然、シャツの前ボタンを外し始める。牧の行動の理由が分からずに千晴が戸惑っていると、牧はシャツを片方だけはだけ、丁度心臓のあたりを指し示した。千晴はその場所を見て、ハッと息を呑み青褪める。そこには相当深かったのだろうと容易に想像がつくほど酷い傷跡が残っていた。
「俺にもある。死に損なったしるしがな。…いや。殺されそこなったしるしと言ったほうが良いか」
 牧は楽しげにクツクツと笑った。だがその瞳は決して笑っていない。笑ってなどいなかった。千晴には牧が苦しみ、のたうちまわっているようにしか見えなかった。この人は、誰も知らない、深海のような孤独の深淵でただ一人苦しみ続けている。それが千晴の胸を鋭く切りつけた。
「俺にも弟がいた。あの雌豚が産んだ子供だったが、なぜか、お前みたいにまっさらで、潔癖症で、冗談みたいに無垢な奴だった。悪魔みたいな俺の父親も、アイツだけは別格に溺愛していた」
 弟が『いた』と牧は過去形で話した。つまり。
「世の中は実に無情に出来ているとは思わないか? 神様なんていやしない。死んだほうが良い人間がのうのうと生きながらえて、生きていなければならない人間があっさり死ぬ」
 不意に表情を無くし、牧はそれだけを言うと黙り込んだ。何も言葉など掛けられない空気がそこには充満していた。
 息が苦しい。呼吸の仕方が分からない。あまりに苦しくて千晴は死んでしまいそうだった。千晴はただ焦燥に任せて牧の近くに駆け寄った。そして、牧の体を抱きしめる。
 自分の存在を牧の中から締め出さないで欲しい。この部屋の中には、少なくとも千晴がいるのだから。それを忘れては欲しくなかった。だから、そっと牧の体を抱きしめる。そして、そのまま、慈しむように牧の唇にキスを落とした。初めて千晴のほうからしたキスに、牧は微かに体を震わせる。
「……千晴。俺の中に入ってくるな。入ってくるんじゃない」
 苦しそうに吐き出された牧の言葉に、だがしかし、千晴ははっきりと首を横に振り、牧を抱きしめ続けたのだった。








 表面上は、酷く穏やかな日々が続いた。
 牧は、もう、千晴をあの部屋に連れて行くことはなくなったから、随分と体は楽になった。ある意味、精神的にも楽になったはずなのだけれど、別の意味で千晴は次第に苦しくなった。キス以上のことを決してしようとはしない牧。それが縮まらない二人の距離を表しているようで、千晴は焦れていた。
 千晴はごく自然に、自分の性的な欲求を肯定していたし、そもそも、自分が綺麗だなどとは露ほども思っていないから、牧を求めることに抵抗など無かった。
 自分の心が牧に向いていることを千晴は一切隠さなかった。むしろ、戸惑っていたのは牧の方だっただろう。
 千晴が精神的にも、物理的にも牧との距離を縮めようとすると、牧は苛々とそれを振り払う。近寄るな、と酷く険悪な空気を漂わせたかと思うと、寝室から追い出されて一人リビングのソファで寝ている千晴に急にしがみつくように抱きついて、キスをしてきたりする。そのキスも、まるで初めてキスする少年のように恐々とした触れるだけのキスかと思えば、このままセックスに突入しないのが不自然なほど濃厚なものだったりした。
 牧は、恐らく、迷っているのだろうと千晴は思う。
 そもそも、牧の人生において『迷う』などと言うことが果たしてあったのかどうか。だから、尚更、牧の行動は統一性に欠けた矛盾したものになっていたのかもしれない。
 それでも、千晴は辛抱強く待った。少しずつ。実に少しずつではあるけれど、牧が千晴を中に入れようとしているのは確かだと思ったから。
 そんな千晴を楓はどう思ったのだろうか。
「千晴。君、好きな人ができたよね?」
 と、寂しそうに笑った楓に、千晴は首を縦に振った。
 『好きな人』が、できたのだ、と思った。
 楓は、やっぱりどこか寂しそうな、けれども安堵したような表情を浮かべただけで、それ以上を千晴に聞こうとはしなかった。千晴が自分から話してくれる日を待ってくれているのかもしれない。
 イタリア留学への準備は着実に進んでいるらしく、楓は忙しなく立ち動いているように見えた。以前に比べ、格段に楓と千晴は接する時間が少なくなったけれど、千晴はもう寂しいとは思わなかった。ただ、
「イタリア留学の準備としてね、随分な金額を援助していただいたんだよ。一体、どういう人なんだろうかと思って、その人のことを調べたんだけど…何だか分からない部分が多くて、少し不安なんだ」
 と、楓が言ったのを聞いたとき、千晴の胸はズキリと痛んだ。どういうつもりで牧が楓に援助を続けているのか、そして、そんな風にさらに金を出してくれたのか。
 千晴にはさっぱり分からなかった。
「……大丈夫だよ。きっと、楓の才能を理解して援助してくれている人なんだろうから」
 取り繕うように千晴が楓に言えば、楓は探るような目で千晴をじっと見つめた。
「ねえ、千晴。そういえば、牧さんとはどうなってるの?」
 と、真剣な表情で楓が尋ね、千晴はギョッと体をこわばらせる。この話の流れで牧の名前が出てきたことに酷く動揺した。よもや、楓は知っているのではないか。そんな不安が胸に浮かぶ。
「どう…どうって…別にどうもしないけど」
「千晴の昔の話を聞きたいって言われたっきり、まだ約束を果たしていないから」
 あんなものは社交辞令と脅しのようなもので約束でもなんでもない。何を馬鹿正直に真に受けているのかと千晴は呆れたが、楓の顔はいつになく千晴を責めるような表情で、千晴は何も言うことができなかった。
「今度、牧さんと話がしたい」
 楓らしからぬ、実に強い語調で告げられた言葉に、千晴は頷くことも、首を横に振ることも出来なかった。
「ねえ、千晴。牧さんって千晴に似てるよね」
 穏やかな慈愛に満ちた笑顔を千晴に向けて、楓はそんなことを言った。千晴は、思いもしなかったことをいわれて、きょとんとした顔をする。無防備な、どこかあどけない子供のようなそんな表情は、実は楓が好きな千晴の表情の一つだった。だが、千晴はそれを知らない。
「似てる? …って、俺と牧が?」
 意外だという風に千晴が問い返せば、楓は深く頷いて見せた。
「外見が、じゃないよ、もちろん。そうじゃなくて。空気が似てるよ。とても、似てる。千晴の好きな人って牧さんだよね?」
 千晴に視線を真直ぐに合わせて楓は問うた。その質問に対しての罪悪感は、千晴には一切無かった。だから目を合わせたまま顔を上げる。そしてはっきりと頷いた。
 牧に惹かれている。それは疑いようも無い。その内側に入り込みたいとも思う。だが、それが、愛だとか恋だとかいう感情と等しいのかどうなのか千晴には分からない。そもそも、それを考えること自体、千晴には無意味なことに思えるのだから。そんな千晴の気持ちを分かっているのだろうか。楓はそれ以上の答えを求めたりはしなかった。ただ、一言、
「千晴がね、幸せならそれで良いんだ」
 と独り言のように呟いただけだった。




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