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gloria - 3 …………………




 どんな時でも、楓の歌を聞けば千晴は癒された。小さな頃からそうだ。いまひとつ人よりも不器用で、のんびりとした楓だったけれど、歌だけは得意だった。伸びやかで透明感のある美しい楓の歌。
 親のいない、寂しい二人きりの家。何か歌えよ、と千晴が言えば、楓は様々な歌を歌って聞かせてくれた。小さな頃は知っている限りの童謡や流行の歌謡曲。中学に進学してからは、親切な音楽教師が特別にレッスンしてくれたソルフェージュや外国語の練習曲。そして、高校に入ってからは入部したコーラス部で覚えてきた難解な合唱曲や宗教曲。その中でも、千晴は楓の歌うミサ曲が好きだった。kyrie、gloria、credo、sanctus、benedictus、agnus、dona。何度も楓に歌わせて、千晴も歌詞を覚えてしまうほど。
 千晴は無神論者というわけではないが、ごく普通の若者らしく、何かの宗教を信心しているわけでもなければ、とりたててその存在について深く考えたことなど無かった。いるかいないか、と言えばいないような気がするけれど、困った時の神頼み、をしたことがないかといえば、そうでもない。
 だが、楓は宗教曲に取り組む時、いつでも真正面からそのことについて考えて向き合っているようだった。
「ミサ曲は、日本人には概念がつかみ難いんだよ。日本人、というか、キリスト教に馴染みのない人間、と言ったほうが正確かなあ」
 普段はどちらかといえばおっとりとして、千晴にものを教わることが圧倒的に多い楓だったが、楽曲のことを語るときだけは饒舌だった。
「千晴。神様ってどこにいると思う?」
 真面目な顔で楓は問うた。千晴はその存在の有無自体、かなり曖昧に考えていたので、当然、それには答えられなかった。だから、ただ、困ったように首を傾げる。楓は、そんな千晴を優しい瞳で見つめ、まるで、聖人か何かのような深い表情を浮かべていた。
「宇宙があるだろう? 宇宙には果てが無い。果てが無いのに、さらのそのもっと上、天上に神様はいるっていうんだ。それが実感できなければ宗教曲は歌えない」
 場所は近くの街灯の少ない公園だった。真夜中の散歩をした時だっただろうか。頭上には珍しく、星が沢山瞬いていて、その中の一つ、千晴が探し方を教えた北極星を見つけ、楓は子供みたいに喜んでいた。その星を見上げて楓はそんなことを呟いた。その時の楓の横顔を、千晴は今でも鮮やかに覚えている。何かの為に、あるいは誰かの為に、何の欲も無く、ただ無心に祈りを捧げる殉教者のような美しい横顔だった。
 この美しい横顔と安寧を守るためならば、千晴は何でもするだろう。そう、例え、悪魔に魂を売るようなことでも。
 千晴には正直に言って、神様の存在など信じることが出来ない。けれども、楓の歌を聞いていると、漠然と、見えざる力のような存在を薄っすらと感じるような気がした。それならば、楓が千晴に間接的に神様と言うものの存在を知らしめてくれるのかもしれない。
 願わくば。
 願わくば、自分が息絶える時に楓の歌う美しい曲を聞けますように。
 もしそれが叶うのならば、その時は、神様の存在というものを信じることが出来るかもしれない。










 カラスの鳴き声が遠くから聞こえる。こんな雑然とした歓楽街にもカラスの声が聞こえるのだろうか、嗚呼、いや、むしろこんな雑然とした場所だからこそカラスが寄り付いてくるのかもしれないと、ぼんやり考えながら千晴は薄っすらと目を開いた。
 体がひんやりとしているのは、自分が裸だからだ。思考ははっきりしている。時々面白がって牧は薬を千晴に投薬するけれど、決して後に引くような薬を使ったりはしない。
「そこまでロクデナシじゃない。使ってるのはどれも合法のドラッグだけだ」
 牧のその言葉を千晴は信じている。なぜか、疑おうと思わない。
 牧の中には不思議な線引きがあった。牧にしか理解できないルールがあって、そのルールでは、千晴のことはある一定のライン以上には痛めつけない、という決まりになっているらしかった。牧の言葉の通り、この部屋の外まで引きずるような薬を千晴は使われたことが無いし、最低最悪な様々な蹂躙を加えられたが、そこには必ず牧の監視の目があった。酷く体を傷つけてしまうような行為を男たちがしようとすれば、牧のストップが必ず入る。牧が『この場所』につれてくる下世話な男達も、千晴の生活とは一切関係が無く、そして、この場限りで全てを忘れ去る、そんな人間ばかりだった。
 ベッドに横たわったまま、首と視線だけを動かし、千晴は部屋の中を見渡す。誰の姿も見当たらない。『今日の相手』は全て帰ったらしい。いくら休日だからとは言え、日も高い昼間から猥褻な行為を繰り返されるのは、さすがに参った。
 今がどのくらいの時間なのかは分からないが、この部屋にある唯一の窓からオレンジ色の光が射してくるので、夕方だということだけは分かった。
 牧は、窓辺にいた。窓の桟に腰掛け、ただぼんやりと外を見つめながらタバコをふかしていた。時折、手持ち無沙汰のようにタバコの箱をクシャリと握り締めたり緩めたりしている。その仕草が意外なほど子供じみていて、千晴はパチパチと何度か確かめるように瞬きを繰り返した。
 牧の横顔は美しかった。悪魔のような笑顔を浮かべるか、そうでなければ死んだような目をして無表情でいるか、牧の顔で思い出せるのはその二つだけだったけれど、その時の牧はそのどちらでもなかった。
 牧を満たしているのは、やはり孤独だ。その横顔に存在するのはそれだけ。静謐なその孤独に触れることが出来る人間は、ただの一人もいないだろう。それが無性に悲しい、と千晴は思った。
 オレンジ色に冷たく染まった横顔を、千晴はただじっと見つめ続ける。
「牧がそんな風になってしまったのはなぜ?」
 答えなど求めたわけではない。ただ、独り言のように、単純な疑問が口をついただけ。牧は千晴が目覚めていたことに気がついていたのか、驚いた風も無く、ただ、窓の外を眺めてタバコを吸い続けていた。
「俺の父親、知ってるだろう?」
 だが、意外なことに牧は答えを返して寄越した。答え、ではなかったのかもしれない。ただの独り言。それでも構わない。ほんの一欠けらでも良い、牧の真実が知りたいと、千晴は強く希求した。
 千晴は牧の言葉に小さく頷く。知っている。恵まれない環境の自分が大学に通えるのは、牧の父親のお陰だと言っても良かった。
「生まれた時から一度も父親らしいことなんてしてもらったことが無い。俺の母親は馬鹿な女だった。父親に尽くして尽くして尽くして。その為には平気で俺を殴ったりもしたのに、あっさり捨てられて惨めに死んでいった」
 牧はクシャリとタバコの箱を握り締める。そして歪にひしゃげてしまったそれを無造作に床に放った。
「母親が死んだ次の日に新しい女がやってきた。あんなに尽くしてたのに、男は愛人を囲ってたんだ。別にそれは良い。問題は、ノコノコやってきたその女が人間の皮を被った犬畜生だったてことだ。知ってるか? 千晴。強姦ってのは男が女にするだけじゃない。女が男を犯すことも出来るんだ。俺は何不自由ない生活を盾に女に犯された。何度も何度も。薄汚い、気色の悪い場所に無理やり突っ込まされて、全身汚物まみれになったような気分になったさ」
 牧は楽しそうにクツクツと笑いながら独り言を続けている。その瞳には何も映っていない。ビルの谷間に沈む、恐ろしいほど鮮やかな夕日も、美しく橙色に染まる千晴の顔も。
 こちらを見て欲しい。せめて千晴の顔を映して欲しい。そうすれば、この部屋には牧一人ではないということに気が付くかもしれないのに。泣きたい気持ちで千晴は思ったけれど、口に出すことなど出来なかった。
 牧の独白は続いている。
「そして、それを知った父親は俺を殴り倒した。嗚呼、あんなジジイに大した力なんてない。自分の側近に実際はやらせたんだがな。骨が折れて、足も腕も反対のほうに曲がるほど殴られた。それで、父親は俺にあのマンションを買い与えて家には帰ってくるなと言った。俺はせいせいしたさ。やっと逃げられると思った。あの家からも、あの雌豚からも。それなのに」
 牧は、その先を続けることはしなかった。それなのに、何だったというのだろうか。その先を知りたい、と思うのと同じだけ強く、知りたくない、とも千晴は思った。知っても知らなくとも、きっとこの胸の痛みは変わらない。そして、ひとたび、千晴が牧に向けてしまったこの感情は消せないだろう。それは、唐突に訪れた感情だった。
 牧に駆け寄り、その頭を抱きしめて、ただ動物の本能のように牧の傷口を舐めてやりたい。そんな覚えのある感情。それは出て行った母親を探して泣き濡れていた楓に抱いた感情と酷く類似していた。だが、更に、強い衝動が付加していた点が異なっていた。
 牧の内側に入り込みたい。そして、その深淵の孤独を覗いてみたい。そんな強い欲求。
 牧の孤独が癒せるだなどと、そんな傲慢な事を考えたりはしない。いかに自分が無力であるかは千晴自身が一番良く知っている。そうではなく、ただ、牧の隣に寄り添い、牧の手に自分の手をそっと重ねてみたいと思っただけだ。
 そんな千晴の衝動を見抜いたわけでもないだろうが、牧は窓の桟から立ち上がる。そして横たわる千晴に静かに近づくと、そっと千晴の髪を梳いた。穏やかな優しい仕草だった。そして、千晴の顔に自分の顔を近づける。
 すぐそばにある、牧の美しい顔に千晴はただ見蕩れていた。悪魔に魅入られてしまったのかもしれない。それでもいい。奈落の底まで突き落とされようとも、たった今、牧からの刹那の触れ合いが得られるなら。
 重なる唇に、千晴はそっと目を閉じた。
 当たり前のことなのに、牧に体温があったことに、千晴は酷く心を突き動かされた。触れ合った唇が暖かかったことが、千晴の何かを激しく揺り動かす。この人は悪魔なんかじゃない。ただの孤独な一人の人間なのだ、と。
 それは軽く触れるだけのキスだったのに、言葉には出来ない様々なものが千晴の中に流れ込んでくるようだった。
 千晴は、その時に気がついた。これが初めてするキスなのだと。散々見知らぬ何人もの男に犯され、蹂躙されたけれど、キスだけはされたことがなかった。千晴は、これまでも、誰ともキスしたことが無かったから、それが正真正銘のファーストキスだった。
 もう、どうしようもないほど体なんて汚れきってしまったけれど。
 牧とした初めてのキスだけは、汚れることの無い、大切な宝物のようだと千晴は透き通った気持ちで思った。
 唇が離れても、牧は千晴から視線をはずさない。相変わらず、作ったような、綺麗な悪魔みたいな笑顔を見せているのに、その瞳だけはなぜか、困惑に揺らめいているようだった。
「千晴。これ以上、俺の中に入ってくるな。入ってきたら…俺はお前を壊すよ。壊して、きっと、自分も壊れるだろう」
 牧は、独り言のようにそんなことを言う。
 嗚呼、この人は。
 この人は愛し方も愛されることも知らぬ人なのだと、千晴は目を閉じ、刺すように痛む胸に右手を置いた。








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