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gloria - 2 …………………



「一年間の授業料がおおよそ200万、それとは別にレッスン代が月10万程度かかるらしいからまあ、合わせて320万。それが四年で1280万、てトコだな。つまり、それが千晴。お前の体と心の値段ってワケだ」
 実に安い体と心だな、と、牧は嘲笑った。千晴の愚かさを心底軽蔑しているような、そんな表情だった。だが、千晴には他に方法が思いつかなかったのだ。
 同じ講義を受講している、ただの学友。それだけの関係のはずだったのが、歪んで狂ったそれに変容してしまったのは、大学に入って一ヶ月ほど経った時のことだった。入ってしまえば何とかなると高をくくっていた大学生活だったが、お金というものは実にシビアなものだった。千晴だけだったなら、どうとでもなっただろう。そもそも、千晴はその優秀な頭脳を最大限活用して、学費全額免除の資格を勝ち取っていたのだから。千晴が必要としていたのは、他でもない。楓のための全てだった。
 楓にはチャンスが必要だった。逆に言えば、必要なのはチャンスだけだった。だが、そのチャンスが与えられなかったのだ。

 楓と千晴は、二人がまだ六歳の頃、親同士が再婚して義兄弟になった。だが、母親、つまり楓の生みの親は再婚して五年ほどで蒸発してしまった。千晴の父親も、二人が高校に上がる頃にはさっさと外に女を作り、滅多に家には戻らなくなった。必然的に、千晴は楓と身を寄せ合い、助け合うしか道が無かった。だが、家庭環境が不遇でなくとも、きっと、千晴は楓のことを心底好きになっただろう。
 楓は、素直で、心の綺麗な少年だった。のんびりとして、少し抜けたところもあったけれど、それさえ愛嬌で、千晴にとっては光のような存在だったと言っても良い。
 千晴は、もともと、その飛びぬけた容姿と不器用な性格のせいで、他人と交じり合うということが極端に苦手だったのだ。だが、楓はそんな千晴をよく理解していた。
 どちらかといえば鈍い人種で、洞察力があるわけではない楓だったけれど、なぜだか、人の本質、というものを見抜くことには長けていた。
「千晴は見た目と中身がとても一致しているよね」
 と言うのが楓の千晴評だった。
「外も中も凄く綺麗。綺麗過ぎて、近寄れないって思う人もいるみたいだけど。僕は千晴が好きだよ? すごく好きだ」
 父も母もいない暗い家の中、シンと静まり返っているのが怖くて二人一つの布団にもぐりこんで眠ったときに、楓はそんなことを言った。弱いもの同士が身を寄せ合い、何とか自分たちを守ろうとするかのように二人は抱き合って眠った。触れ合った体温と、すぐ近くに聞こえる心音が、千晴の心を酷く穏やかに和いでくれた。
 千晴には楓が全てだった。他の誰の理解も愛情も無くとも、楓さえいれば生きていけるのだと思っていた。千晴にとって『家族』と『世界』は同義語で、すなわちそれは『楓』という人間だったのだ。
 正直に言えば、千晴は両親の愛情というものを感じたことが、ただの一度も無い。母親は千晴どころか、血の繋がった楓にすら関心を示さず、殆ど出歩いてばかりのどうしようもないアバズレだった。父親は、そんなアバズレに引っかかった憐れな男だったが、子供に関心が無かったという点では母親と大差は無かった。ただ、世間体だけは気にしていたようだったから、あからさまな虐待などは受けたことが無かった。高校までの学費やら生活費やらも、それなりに出してくれた。だが、そこまでだった。
 それ以上は出せない。独立しろと言ったきり生活費以外は与えてくれなかった。だから、千晴はこの大学を選んだ。
 とある政治家が美談作りのために作ったともっぱらの噂のその私大には、学費全額免除の制度があり、千晴にはその特待制度を勝ち取るだけの頭脳があった。だが、要領の悪い楓はそうは行かなかったのだ。
 それでも千晴は、楓の声楽の才能を知っていた。楓がいかに歌うことが好きかということも。そして、何より、千晴自身が楓の歌をこよなく愛していたのだ。だから、千晴は何としても楓を芸術系の大学の声楽部に進学させたかった。そうすれば、必ず、誰かの目に留まり、歌を生業とする職業に就けると思ったのだ。だから。

 楓に必要だったのはチャンスだけだった。

 楓が大学に在学している間の学費と、学内コンクールに参加する為の資格。
 千晴は、それがどうしても欲しかった。
 特待生として面接を受けたときに、その場に居合わせた理事と、たまたま知り合った学部生が同じ姓だったことに気がついてしまったのは、一体何の采配だったのだろう。
 恐らく、悪魔の悪戯だったのだろうと千晴は冗談交じりに思っているけれど、それでも、やはり、選んだのは自分なのだ。








「つまり、千晴は、大事な義弟の為に自分の体を犠牲にしてもいいから金が欲しいって事だな?」
 随分と豪華な、けれども成金趣味の品の悪い椅子に腰掛け、ふんぞり返ったまま牧は煙草をふかしている。その時の牧は、大学での牧とは別人だった。優しそうな完璧な笑顔になど、どう見ても見えない、酷く冷酷そうな顔。そんな牧の裏の顔を千晴が知ったのはほんの偶然だった。
 深夜の水商売のバイトは割が良い。だから、少々の後ろめたさを感じながらも、プライドを切り売りして、下手くそな媚を場末のバーで何とか売っていたそんな時だった。
 どこぞの政治家のドラ息子が、金を湯水のように使って遊んでいるのだと、年若い、チンピラ崩れのような男が話していたのを千晴は偶然聞いてしまったのだ。それが、まさか、牧だとは当然千晴は最初は思わなかった。
 そのドラ息子は酷く気まぐれで、気に入ったことには、どんな馬鹿馬鹿しいことにでも百万単位で金をばら撒く。だが、怒らせるとこんなに恐ろしい男はいない。ソイツの機嫌を損ねて、行方不明になった奴もいる。片腕と片足を切り取られた奴もいる。バックに親が控えているから、どんなにヤバイことをしても揉み消されてしまうから、本当に恐ろしい。だから、俺は逃げなくてはならないのだ、と男は震えていた。
 何某かの失態をしでかして、どうやら、そのボンクラ息子の機嫌を損ねてしまったらしい。
「ソイツは、何かと引き換えにお金を出してくれたりするの?」
 千晴は、藁にも縋る思いでそう尋ねた。いくらバイトをしたところで稼げる金額には限度がある。深夜のバイトは体力もすり減らしてしまう。そもそも、こんな仕事は、不器用で笑うことが苦手で、潔癖症の千晴には全く向いていなかったのだ。
 男は、何か恐ろしいものでも見るかのように千晴の顔を見、
「やめとけ。お前みたいな奴は、何をされるか分からない。本当に、アイツは恐ろしい奴なんだ。悪魔みたいな奴だ」
 と、忠告した。
「でも、俺は、どうしても金が欲しいんだ」
 そう訴えた千晴に、男は憐れみの目を向け、
「お前が本当に、魂を悪魔に売れるって言うなら、牧の居場所を教えてやっても良い。だが、その代わり、時間を稼いでくれよ。俺が逃げるまでの時間を」
 と縋り付いて来た。
「……牧?」
 その名を聞いて千晴の頭によぎったのは、入学してすぐに知り合った学友のことだった。整った綺麗な顔をしていて、いつもソツなく人と付き合い、穏やかに笑っている人当たりの良い学友。父親が政治家で、その大学にかなりの金額を出資している理事なのだと千晴が偶然知ったのは、学費全額免除の資格を取る時に、その理事と顔を合わせたことがあったからだ。
 だが、まさか、あの牧の筈がない、と千晴はその時は思った。あの穏やかな笑みと、悪魔のような、という形容詞はあまりにもかけ離れている。それなのに、なぜだか千晴の中には嫌な予感があった。
 稀に。そう、ごく稀に。牧のあの穏やかな笑顔が、作り物のように、嘘くさく、冷たく見えることがあることを千晴は不意に思い出していた。
 結論から言えば、男に教えてもらった『あの場所』にいたのは、確かに牧だったけれど。大学にいる時の牧とは全く別人の牧だった。






 目隠しをされているので、実際には自分がどんな格好をさせられているか、千晴には見えない。どうしようもない、見るに耐えない姿だというのは、手や足を縛られているので容易に想像がついた。もう、感覚など麻痺している。何遍イかされたのかも、何人の男に犯されたのかも分からなかった。
 牧と『契約』したその日から、千晴はこの場所に牧の気まぐれでつれて来られる様になった。薄汚れて、どこかドブ臭い嫌な匂いのするこの部屋。一体、何の目的で作られた部屋なのかなど想像もしたくない。ぞっとするような卑猥な道具が幾つも置かれている部屋だった。
 千晴はそれまでセックスなどしたことがなかった。誰かと付き合ったことも。千晴の世界は楓だけで成立していたのだから、『恋愛』などというファクターが介入する余地など無かった。そんな千晴に、まず、牧は徹底的に快楽の何たるかを叩き込んだ。
 感情など無くとも、肉の器はあっさりと精神を裏切るのだということを千晴は何人もの男に犯されて知った。千晴のプライドはあっという間にグチャグチャに切り裂かれて、自分がもう、どこにも引き返せないほどドロドロに汚れてしまったのだと千晴は思った。もう、二度と、楓に綺麗だなどとは言ってもらえないだろう。
 それでも千晴は、耐えた。楓が興奮気味に、
「僕の才能を認めてくれた、とある財団の人がね、僕を援助してくれることになったんだ」
 と話してくれた、その時の笑顔。それだけで十分だと思った。だが、千晴が耐えれば耐えるほど、牧は千晴に対する苛立ちを深めるかのようだった。
 次第にエスカレートする行為。肉体に対する痛みに案外と千晴が耐性を持っていることに気が付いた牧は、別の方向で千晴を痛めつけることにしたようだった。即ち、精神的な苦痛を与えるという。
 カシャンカシャンとシャッターの音が聞こえるので、きっと、今回も後で、その写真を見せられるのだろう。ビデオカメラで取った映像を見せられたこともある。目を背けることを許されず、それどころか、何人もの男に犯されている脇で、そのビデオを流されたこともあった。
 とにかく千晴に精神的なダメージを与えることに、牧は心血を注いでいるようだった。まるで、激しい憎悪を向けられているのではないかと錯覚するほど。だが、そう問えば牧は首を横に振る。
「俺は誰かを愛したことも、憎んだことも無い」
 牧は笑うように、歌うように、軽やかにそんな事を言う。その表情に嘘は無い。この場所にいる時、牧は絶対に嘘をつかない。その口から零れる言葉は恐ろしいほど冷酷だったり、悪魔のようなそればかりだけれど、そこに嘘は無かった。
「俺はただ、確かめたいだけだ」
 と、牧は更に言う。笑っているその瞳はやはり空虚で、死んだように濁って見えた。
 牧のこの目を見るたびに、胸の片隅がチクリと痛むようになったのは、いったいいつからのことだろうか。
「本当の愛などこの世には存在しない。自己犠牲なんて、ただ、相手に負債を負わせることで相手を繋ぎとめようとしている行為に過ぎないだろう。それが、意識的、無意識的にしろね」
 千晴は牧の大概の部分が理解できないけれど、この言葉だけは胸に深く突き刺さった。それは真理だ。千晴は気がついている。楓と千晴は同じ人間ではないことに。そして、楓が、少しずつ、自分から離れようとしていることに。
 だが、と思う。自分は本当に楓を繋ぎとめようとしているのだろうか。楓に負債を負わせようとしているのだろうか。幾ら考えても、それは本意ではないような気がする。むしろ、楓には一切を知られたくないと強く願った。自分が汚れたことを知られたくないから、だけではない。
「契約はいつだって破棄できる。お前がもう嫌だといえば、金の援助は一切ストップする。イタリア留学の話もパアだ。あるいは、お前が、真実を藤田楓に話したら、俺は何の条件も無しに金を出してやるだろうよ」
 真実を楓に話したら。すなわち、楓の将来の為に千晴が自分の心と体を差し出し、犠牲にしたのだと言う事を。だが千晴は頑なに首を横に振る。
「楓のためなんかじゃない。これは俺の自己満足のエゴだ。だから、楓に負債なんて負わせるつもりは無い」
 本心からそう言った千晴を牧は嘲笑った。
「千晴。お前は馬鹿だな。お前がそういう潔癖症なことばかりいうから、俺は躍起になる。躍起になって、お前の化けの皮を剥がそうとするんだ。嘘でも良い、これが俺の愛だと、藤田楓の為に犠牲になっているんだと言えば、俺はすぐにでもお前に対する興味を失うだろうに」
 じっと千晴の目を真直ぐに見つめながら牧は言った。その目は深く、千晴の中の何かを探ろうとしている。心のずっと底の部分までを暴こうとしている。散々、千晴に酷い行為を強いて、ここまで汚したのだから満足だろうと千晴は思うけれど、牧はまだ満足できないようだった。だから、牧はさらに酷い行為を千晴に強いて、千晴を試し続ける。千晴が負けて、この『契約』を破棄することを待っているのだ。
 千晴がいつか負けてしまうこと。それが牧の確かめたいことなのだろうか。
 すべからく、人間という存在は醜く、弱く、汚らしい生き物なのだと。牧は、それを確認したいのかもしれない。だが、そこには微かな牧の捨てきれない希望のようなものが見えるような気がする。むしろ、それを否定したいが為に、牧は残酷な事を試し続けているのではないか。
 この薄暗い場所で、何度も蹂躙され続けながら、千晴はぼんやりとそんなことを考えた。
 千晴には牧が理解できない。そして、怖い。それなのに、牧から目を離す事が出来なかった。恐ろしい、逃げてしまいたいと思うのと同じだけ強く、牧に惹かれているのだと千晴はもう気がついている。ずっと、その事に目を逸らしてきたけれど、本当は気が付いている。
 そう。千晴は牧に惹かれているのだ。その内側の深淵に。
 ただ、彼の中には深い深い、光の一粒も届かないような深海の暗闇がある。それは犯しがたい孤独。むしろ、静謐と言っても良い、その恐ろしいほどの孤独が千晴の心を抗えない引力で惹き付け続ける。







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