gloria - 1 ………………… |
Gloria in excelsis Deo, Et in terra pax hominibus bonae voluntatis. 中庭に開け放たれた窓から、美しいテノールが聞こえてくる。ベンチにぐったりと腰掛けながら、藤田千晴(ふじたちはる)はその美しい声を聞いていた。初秋らしく、真っ赤な西日が建物越し、向こうから差し込んでいる。千晴の白い肌は、その光に橙色に染まっていた。 目を開くのも億劫なのか、閉ざされた瞼。長い睫が頬に影を落としている。疲労の色濃いやつれた表情も、だがしかし、千晴の顔の造作の良さを損なってはいなかった。むしろ、奇妙な艶をそこに乗せている。 propter magnam gloriam tuam, domine deus rex coelestis, 歌声は続いている。神の栄光を讃える歌。 いつ聞いても、美しい声だと千晴は、安堵の息を深く深く吐き出した。体の奥のほうに溜まっている、淀んだ澱のようなものが綺麗に浄化されていくかのような錯覚。だが、錯覚でよかった。今ひと時だけ救われるのならば。 次第に藍を色濃く刷き始める北の空に一つの星が光り始める。北斗七星の柄杓の一辺を何倍か伸ばした位置にあるのだと、その星の探し方を彼に教えたのは一体、いつのことだろう。全ての星はこの星を中心にして回っていると教えたら、それなら世界の中心はあの星なんだねと彼は無邪気に笑った。 そんなことは無いよ、ただ単純に地軸の真上にたまたまその星が存在しているだけなのだと千晴は少しだけ彼の夢を壊すようなことを言ったけれど。 それならば、自分にとってのその星はきっと彼なのだろうと、どこか心の片隅で密やかに思った。 目を閉じても、はっきりと見える。 嘘じゃない。 それは、光り輝くpola star(北極星)。 藤田楓(ふじたかえで)が、並み居る上級生たちを押しのけて、学内コンクールで優勝し、イタリア留学の切符を手に入れたという噂が、隣接した姉妹校、つまり、千晴が籍を置いている教育学部まで届き始めたのは、金木犀の香りが漂い始めた九月の終わりのことだった。だが、千晴にしてみれば、それは驚くことでもなんでもない。当たり前の結果だった。楓に必要だったのはチャンスだけだったのだ。チャンスさえ与えられれば、必ず楓は大成するだろうと千晴は信じて疑わなかった。 「楓の歌を聞いて、コネだとか、話題性だとか言う奴はまともな耳を持ってないんだよ」 千晴がそう言い捨てると、楓は少し困ったような苦笑いを浮かべた。 「そんなことは無いよ。今回は、たまたま運が良かっただけで」 「ふざけんな。お前は、俺の耳を疑うのか」 「そういう訳じゃないけど…」 言いよどみながら、楓はすっかり冷めてしまったハンバーグ定食に箸をつける。安いだけがとりえの学食のメニューは、ただでさえまずいのに、冷めてしまったらさらにまずい。だが、楓は文句一つ言わずにそれを食べ続けた。 「それより、千晴、最近、何かあった?」 「何かって何だよ?」 「え? 何だか、最近痩せただろ?」 内心はギクリとしながらも、だが、千晴は平然と、 「あー。レポートの提出が重なって、結構、キツかったからな」 と嘘をつく。そして、楓はその嘘を見破ることが出来なかった。鈍いからではない。人が嘘をつく生き物だと考えられないほど、楓は好意の塊で出来ているからだ。千晴には、それが時折窮屈で、それと同時に酷く安心する。 「それより、留学、いつから?」 「うん? とりあえず、準備期間が2ヶ月で、出発するのは年末かな」 「へえ。結構のんびりしてるんだな」 「そんなことない。今からイタリア語、せめて日常会話くらい出来るようにならないと」 それが一番憂鬱なのだと、ため息をついた楓に千晴は軽やかに笑った。 「歌う時は、あんなに綺麗にイタリア語で歌うじゃないか」 「歌とは別だよぅ」 そういいながら、楓はハンバーグの最後の一口を食べきった。対照的に、千晴のきつねうどんは半分ほど残されて、伸びきっている。それに気がついたのか、楓はふっと訝しげな表情を見せた。 「ねえ。やっぱり、千晴、どこか悪いんじゃないの? そんなに残して」 食欲が無いのは、今朝方まで繰り返された狂ったような行為のせいだ。気持ち悪さが、胃を満たしている。まるで、ありとあらゆる汚物を体中に詰め込んだかのような嫌悪感。だが、それを完璧に隠して千晴は微笑んだ。その綺麗な笑みを見て、楓は一瞬、ぽうっと頬を赤く染める。長年、家族として一緒に暮らしてきた楓でさえ、千晴の笑顔は中々衝撃的であるらしい。そもそも、千晴はあまり笑顔を見せないので、尚更なのだろう。 千晴はもっと笑えばいいのに、と千晴の笑顔を見るたびに楓は口癖のように言うが、千晴は作り笑いというものが苦手だった。何かに媚びへつらう事も出来ないし、迎合したり、自分を殺して他人に混じることも滅多にしない。それを『お高くとまっている』と陰口を叩く連中もいるが、楓は千晴の本質を見極めているので、 「千晴は自分の感情を表現するのが下手くそで不器用なだけなのにね」 と、苦笑いを漏らす。楓が理解してくれているのなら、それで良い、と千晴は思っていた。多くに理解されたいとは思わない。多くを欲しいとも思わない。 少しでいいのだ。手に入れたいのはほんの微かな真実であるもの。それだけで良い。 「朝飯食いすぎたんだよ」 嘘だった。朝食など食べられる状態ではなかった。昼食でさえ、口に入れなければ倒れてしまうという危機感で無理やり押し込んだだけだというのに。それでも、何でもないことのような口調で千晴が答えると、それに続くかのように、後から、 「それに、これから、俺と美味しいもの食べに行く約束してるからな」 と唐突に、二人の会話に割り込んでくる声が聞こえた。深みのある、どこか優しげにさえ聞こえる声。何も知らない人間が聞いたなら、恐らく、その声の持ち主は慈悲深い観音様のような人間だろうとイメージするような。だが、千晴は知っている。彼の内側には、慈悲など雀の涙ほども存在していないことを。 今ではすっかり聞き慣れてしまったその声に、千晴は全身鳥肌を立てる。意識してのことではない。条件反射のような反応だった。 驚いたように、楓は声のした方に振り返り、訝しげな表情で彼を見上げた。だが千晴は振り返ることが出来ない。箸を握る手が微かに震えているのが自分でも分かった。 契約違反ではないかと、キュッと口を噤む。楓には何も知らせない。絶対に何も悟らせない。その条件が契約の中には含まれていたはずだ。それなのに、何故。何故、こんな昼間の光が差し込む明るい場所で、話しかけてくるのだろう。 「…あの?」 楓は訝しげな表情を彼に向けたまま、首を傾げて見せる。そんな風に警戒心を顕にしても、何の威嚇にもならないのは楓の良いところなのか、悪いところなのか。案の定、彼は悪びれる様子も無く、 「こんにちは。藤田楓君、だろ?」 と、胡散臭いほど整った優しげな笑顔を楓に向けた。そして、さりげない仕草で千晴の肩に手を置く。薄いシャツ一枚越しに伝わる彼の手の体温。決して暖かくは無い。むしろ、ひんやりとして屍のようで、その手の冷たさに、千晴はぞっとした。 「はあ、そう…です…けど」 戸惑ったように楓は彼と千晴を交互に見ている。だが、千晴は震える体を誤魔化すのに精一杯で、楓の視線に答えることは出来なかった。 「まだ1年なのに、芸術学部のコンクールで優勝したって? 教育学部にまで噂が届いてるよ。おめでとう」 作ったような綺麗な笑顔。通り一遍等の祝いの言葉に、楓は戸惑ったようにチラチラと千晴の横顔を盗み見ていた。一体、誰なのかとその視線が問うている。だが千晴には答えることが出来なかった。何と彼を紹介したらいいのか分からない。到底、事実など言える筈も無い。もうすっかり穢れきってしまった自分を、楓にだけは知られたくなかった。 自分が軽蔑されることが怖いのではない。自分が嫌われることが怖いのではない。楓がこんな千晴から離れていくことが怖いのでもなかった。ただ、綺麗な綺麗な楓を汚してしまいたくなかっただけ。 事実を楓が知ってしまう、それだけで、楓まで汚してしまうようで千晴はそれだけが怖かったのだ。 「…はあ、ありがとうございます。あの…貴方は?」 千晴が何も言わないことに痺れを切らし、堪えきれず楓が尋ねると、男は、 「俺? 牧和成(まきかずなり)。千晴の友人なんだけど。聞いてない?」 と答えた。 聞いているわけが無い。千晴が自分から楓に話す訳が無いと知っていて、そんな風に尋ねる男が、千晴は理解できなかった。 出会ってから数ヶ月、すなわち、それは、こんな馬鹿げた狂った関係を続けている期間に等しい。だが、その間、牧が『契約違反』をするようなことは一度としてなかったはずだ。 千晴は震えを誤魔化すように、箸を持つ手にギュッと力をこめる。割り箸が折れそうなほど軋んだけれど、それでも震えは止まらなかった。 「ええと…」 なんと答えていいのか分からずに、楓はちらちらと千晴の顔に視線を向け続けている。何か取り繕わねば、と思いながらも、結局、千晴は口を開くことが出来なかった。落ちる沈黙に、居心地の悪い空気が蔓延する。 最も引き合わせたくなかった二人に挟まれている。こんな最悪で滑稽な状況があるだろうか。そのまま立ち上がり逃げ出したい衝動に千晴は駆られたが、上から肩を押さえつけてくる牧の力は決して弱くは無かった。 だが、そんな千晴を救ってくれたのは、楓の携帯電話だった。 突然に鳴り出したそれに、一番ビクリと体を震わせたのは千晴だった。不自然なほどあまりに過敏な反応だったが、楓は電話に気を取られてそれには気が付かなかった。慌しい仕草で受信ボタンを押し、通話に出た。 「…はい、そうです。はい。ええ……あ! すみません! 忘れてました!」 会話しながら楓は間抜けにもその場で頭を下げている。普段の千晴だったら、そんな楓を笑いながらからかっただろう。だが、その時は、魂の抜けた人形のように、ただ、ぼんやりと楓を見ているだけだった。 楓は通話を終えると、慌てた様子で席から立ち上がる。 「あの。牧さん、すみません。俺、呼び出されてたの忘れてて」 牧の素性も全く分からないだろうに、楓は申し訳なさそうな表情で謝罪した。それをどう思ったのだろう。牧は、面白がるような笑みをスッと浮かべた。 「ああ、良いよ。でも、そうだな。今度ゆっくり話聞かせて欲しいかな。…千晴の小さい頃の話とか」 この男が、そんなものに興味があるはずがない。興味があるとすれば、どうすれば、更に千晴を精神的に痛めつけることが出来るか、それだけだ。牧が楓にそんな事を言うのは、ただ、自分を追い詰め、いたぶるためだけ。 千晴の手は不意に力を失い、カランと音を立てて割り箸が落ちた。けれども、助けを求める悲鳴のような、その微かな音は、急いでいる楓には届かなかった。ただ、千晴の手が滑っただけだと思ったのだろう。 「はい。それじゃ、千晴、また後で」 と、慌しく言っただけで、楓はくるりと千晴に背を向けた。 「ああ」 その背中に、何とかそれだけ返事をしたけれど、声は明らかに震えていた。だが、慌てている楓は気がつかない。バタバタと足音を立てて、学食を出て行ってしまった。 「忙しない『弟』だな。千晴には全然似てない」 「……似てるわけないだろ。血は繋がってないんだから」 低く押し殺したような声で、必死に威嚇するように千晴が答えると、牧は実に楽しそうに声を立てて笑った。 「そうだな。血は繋がってない。血は繋がってないワケだ」 だから、なんだと言いたいのか。苛々しながら千晴はガタリと乱暴に席を立つ。トレーを手に持ち、半分以上残った昼食を返却口に無造作に返した。 今はまだ、夜ではない。しかも大学内だ。千晴が牧に従う義務は無いはずだ。そのまま、逃げるように牧から離れようとしたけれど。 「行くぞ」 と、不意に、千晴は牧に肩を抱かれた。千晴の体は反射的にビクリと竦みあがる。 おかしな話だ。千晴は、牧本人には暴力を振るわれたことなど無い。酷い行為をされたこともない。そもそも、牧とはセックスすらしたことがないというのに。 この震えは何なのだろう。憎悪とも、嫌悪とも違う。恐怖だ。 その恐怖の種類について、深く考えることを千晴は放棄している。もう、大分前から。 「どこへ?」 尋ねる声は、やはり震えていたけれど。 牧は、肩を抱く腕に力を入れ、千晴を自分の体に引き寄せた。まるで、恋人を抱き寄せるような、そんな自然な仕草だった。むしろ、その優しさと見間違うような態度の方が、より千晴を混乱させ、傷つけ、そして迷わせる。 「俺は嘘はつかない。美味いもの食わせてやる。これ見よがしに食欲不振になって痩せるってのも分かりやすい抵抗で良いけどな?」 食べたいものなど無い。欲しいものも。牧から与えられるもので本当に欲しいのは『自由と解放』だけだった。だが、それを放棄しているのは千晴自身なのだ。牧は決して強要しない。どんなに最低な行為でも、最初に千晴に尋ねる。 「どうする? 断っても良いけど」 と。断れない理由が千晴にはあると知っていながら尋ねるのだから、強要されているのと同義なのかもしれないけれど、それでも、やはり、千晴は全てを選択しているのは自分なのだと思っていた。そして、それが、どうやら牧を苛立たせるらしい。最近は、どんどん行為がエスカレートしていくので、千晴の精神も体も、正直に言えばボロボロだった。 「何が食べたい? 寿司? 肉? それとも、美味いワインでも飲みに行くか?」 金は湯水のようにあるから、好きなものを選んで良いよと牧は綺麗に笑う。だが、目が笑っていない。牧の目が本当に笑っているところを千晴は見たことが無い。 表面上は完璧な作り笑いだけれど。 牧の目は、いつだって濁って、死んでいるように千晴には見える。 |