gloria - 5 ………………… |
牧は容易く、独りきりの世界に入り込むことが出来る。その世界には、誰一人として存在しない。いるのは、牧、唯独りだけ。孤独を愛しているのだろうか、と千晴は疑ったこともあったけれど、そうではないのだと今は分かる。牧は、ただ、それだけしか知らないのだ。『孤独』以外の世界を知らないだけ。それが無性に憐れで、そして愛しい。 窓辺に座り、外を眺めながらいつものように煙草をふかしている牧に、千晴はそっと近寄る。千晴の気配を感じているだろうに、牧はあからさまにそれを無視していた。まるで、意地を張っている子供のように思えて、千晴は思わず苦笑いをこぼす。 「…楓に、随分な金額の援助をしてくれたって聞いた」 千晴が話しかけても、牧はピクリとも反応しない。むしろ、それが尚更子供じみて見えて、千晴は悪戯心を刺激されてしまった。ふわりと柔らかく牧の頭を抱きしめ、旋毛の辺りにキスを一つ落とすと、牧はようやく煩わしそうに千晴の腕を振り払う。だが、煙草の火が千晴に触れないように、細心の注意を払っているのが千晴には分かった。牧は戸惑いがちに、時には乱暴な仕草で千晴を振り払うけれど、決して千晴を傷つけない。千晴は、もう、牧が怖いとは微塵も思わなくなっていた。 だが。 「…手切れ金代わりだ」 と、牧は唐突に言った。抑揚の無い、感情の読めない声。千晴は、え? と耳を疑ったが、牧は、 「千晴…お前は、もう、ここから出て行け」 と、やはり淡々とした口調で千晴に告げた。千晴は、何を言われたのか分からず、ただ、目を大きく見開く。 「もう、お前に何かを強要したりしない。金も…まだ必要なら、その都度、藤田楓に送ってやる。だから、もう、お前はここから出て行って、もう、二度と、俺にその顔を見せるな」 投げやりな、突き放すような牧の言い草に、千晴は憤りのようなものがこみ上げて来るのを抑えることができなかった。 牧は、逃げようとしているのだと思った。 何から。千晴から? 違う。もっと別のものだ。牧の内側から生まれてこようとしている『何か』から。それは、決して醜かったり、汚かったり、弱いものではないはずなのに、牧は、端からそれを信じようとしない。ただ、価値の無いもののように捨てようとしている。千晴にはそれが無性に悔しくて、仕方が無かった。 千晴は何かの覚悟を決めるかのように、ぎゅっと両の手を握り締める。逃げることなど許さない、と思った。 「嫌だ。絶対に出て行かない」 はっきりとした口調で言い切った千晴に、ようやく、牧はノロノロと視線を移し、億劫そうに千晴の顔を見た。濁っているだろうと予想したその瞳は、だがしかし、不思議と澄み切っており、千晴と同じような、何かを覚悟したような色が浮かんでいた。牧の中でどんな答えが出て、今、千晴を切り離そうとしているのかは分からない。けれども、千晴は決して引こうとは思わなかった。むしろ、ここで引いてはいけないのだ。この牧に、負けてはいけない、と、直感めいた警告が頭の中に響いている。 「絶対に、出て行かない」 今度はゆっくりとした口調で、千晴は同じ言葉を繰り返した。落ち着いた、凪いだ声に牧は微かに瞳を揺らしたようだった。その、揺れる、暗い、深海を思わせるような瞳が千晴は美しいと純粋に思う。 「俺は、牧が好きだから、絶対に出て行かない」 初めて、千晴は牧に向ける感情を言葉に出した。それは、酷く勇気のいる行為だった。とても、危険な行為だと千晴の本能が告げている。だが、口にしなくてはならないとも思った。 それを聞いた瞬間、牧は表情を一変させた。今まで見たことの無いほど激しい表情。それは、拒絶でも、戸惑いでも、ましてや喜びでもない。憤怒だった。 「好き…だって?」 腹の底から嘲笑うように、低い恫喝するような声で牧は聞き返した。千晴が怯みそうになるほど、恐ろしい声だった。 「好き、か。そうか」 クックと押し殺すように牧は笑ってみせる。だがその目は決して笑ってなどいない。怒りのあまり、赤く染まっているのではないかと思うほど、牧は激昂しているようだった。千晴にはその理由が分からない。分からないけれど、怯みそうになる足を叱咤して、ただ、真直ぐに牧の顔をじっと見つめ返した。 「同じ事を俺に言った人間が一人だけいた」 そう言いながら牧は窓の桟に煙草を押し付け、そのままポイと外に放る。それからゆっくり立ち上がると一歩一歩、追い詰めるように千晴に近づいてきた。 「だが、俺は信じなかった。どうすれば信じてくれるのかとソイツが聞くから、俺は『それならば、死んで見せろ』と言った。そしたら、そいつはあっさりと死んだよ」 そこまで言うと、牧は狂ったように腹を抱えて笑い出した。だが、千晴には笑っているようになど見えない。ただ、牧がのたうち回って苦しんでいるようにしか見えなかった。だが、それを癒す術を千晴は知らない。 「馬鹿な奴だ。俺は、ソイツのことをこれっぽっちも愛してなどいなかったのに。ただ無駄に命を散らしただけで…馬鹿としか言いようが無い」 笑いながら、侮蔑するようにそういう牧の言葉を、千晴はそれ以上、聞いていたくは無かった。だから、即座に否定する。 「嘘だ」 と。 「それは嘘だ。……牧が、本当にその人のことを愛していなかったのなら…どうして、どうして牧は、今も、そんなに苦しんでいるんだ」 千晴が悲鳴のように甲高い声で訴えたなら、牧はピタリと笑いを止め、ふっと全ての表情をその顔から消し去った。そこには何も無い。何の感情も。全くの『無』だった。 先程の憤怒の表情など比較にならぬほど、千晴はそんな牧にぞっとする。本能が恐怖を訴えて、逃げろと、自分のどこかが叫んでいたけれど、千晴は意志の力でその場所に立ち続けた。 「…知ったようなことを言うな。それなら、千晴。お前も死ぬか」 冷たい声でただ、牧は淡々とそう言うと、ゆっくりとした動作で千晴に両手を伸ばした。ひんやりとした手のひらが千晴の細い首に触れる。気が付けば千晴は床に押し倒され、ゆっくりと、首を絞められていた。ジワリジワリと気道が塞がれていく。動脈が圧迫されて、ドクドクと血が塞き止められる音を千晴は直に聞いた。 生きようとする動物としての本能が、牧を押し返し抵抗しようとするのを、だがしかし、千晴は空恐ろしいほどの意志の力で抑え込んだ。抵抗してはいけない。ここで、抵抗してはいけないのだ。例え、牧に殺されたとしても。抵抗することはすなわち牧を裏切ること。牧の中で生まれかけている『何か』を殺す行為なのだから。 だから、千晴は牧の体を押し返したり、その腕を振り払ったりしないように、爪が欠けてしまうほど強く床を掻き毟る。そして、目だけは決して牧のそれから離さなかった。視界が赤く霞む。苦しくて、意識が朦朧とし始めて、それでも、千晴は努めて笑おうとした。牧を絶対に裏切ったりしないと、それだけを伝えたくて。 そのまま、死ぬか、落ちるかするかと思っていたけれど、自分が激しく咳き込む音と、空気を必死に肺に取り入れようとしている音に、千晴は意識を取り戻した。 気が付けば、牧の手は千晴の首を離れ、自分の顔を覆っていた。千晴は一瞬、牧が泣いているのではないかと思ったが、 「千晴…お前は馬鹿だ」 と、搾り出すように呟いた声は濡れてはいなかった。 「一緒に堕ちて、汚れても良いって言うのか」 罪を懺悔するかのように、その声は苦渋に満ちていた。だから、千晴はそっと体を起こし、その体を抱きしめる。 「堕ちても良い、汚れたって、死んだって良いんだ。ただ俺は、牧の隣にいたい」 幼子に言い聞かせるように、千晴は、ただ、ただ、優しいだけの声音で牧の耳に囁きかける。 「…お前は馬鹿だ」 と、牧は再び呟いて、顔を覆っていた両手をそっと外す。その顔はやはり泣いてなどいなかったけれど、千晴には泣き濡れた子供のようにさえ見えた。 どちらからともなく顔が近づいて、そっと唇が触れた。啄ばむように何度も触れるだけのキスを繰り返して、次第に、それは深いものへと変わっていく。互いの心音が伝わるほど体を密着させて抱き合い、貪るように千晴は牧とキスを続けた。まるでセックスのようなキスだと千晴は思う。否、セックスよりも、更に深く交じり合うようなそれだと思った。 牧の葛藤や懊悩が千晴の中に流れ込んでくるようだった。けれども、それを千晴は全て受け止めて受け入れる。代わりに、牧の中にようやく踏み込んだような気がした。無意識のうちに重ねられた手。指と指を絡め合わせるかのように硬く繋ぎ合わせた手に、千晴は幸福を感じた。 これが、幸せ、というものの形なのだろうと千晴は思った。 けれども。運命とはそう容易いものではなかった。 大体、最初から奇妙な違和感はあったのだ。 牧が再び、『あの場所』へ自分を呼び出すなど、よく考えたら、おかしかったのに。 その男は、大学の前で千晴を待ち構えていたようだった。最初、千晴はその男が顔見知りだとは気がつかず、そのまま通り過ぎようとした。だが、肩を掴まれた。相手の痛みなど頓着しない、乱暴な仕草で。まるで、千晴には痛覚など無いと思っているか、あるいは人形か何か、無機的な物体だと思っているような、そんなぞんざいな扱いだった。 千晴は驚いて顔を上げる。そして、男の顔を見て、さっと顔色を青くした。 牧が『あの場所』に呼んでくる男は、決して普段の千晴の生活に関わるような人間では無いはずだった。昼間の千晴に干渉してくるような、そんな人間では。 「よ。久しぶりだけど元気?」 と、奇妙な明るさで男は千晴に笑いかけてきた。だが、どこかその目はおかしい。千晴は直感的に思った。だが、大学のまん前、人目もある。激しく拒絶することは出来なかった。そもそも、 「牧に頼まれて迎えに来たんだけど」 と言われてしまえば、千晴には頷くしかできない。どこかで事故ったのか、脇のへこんだ車に半ば無理やり乗せられて、千晴は連行されるように大学から引き離されてしまった。頭の中に奇妙な不安と違和感があった。牧は、今日、ゼミがあるといって千晴よりも早い時間に大学に行った筈だった。それなのに、なぜわざわざ、別の人間を迎えに寄越すのだろう。 「何で最近、あそこに来ないんだよ? 俺、お前の体、かな〜り気に入ってたんだぜ? お前も、散々ヨがって腰振ってたくせに薄情だよなあ」 男は下卑た笑いを浮かべて、そんなことを話しかけてくる。千晴は不快感を抑えるだけで精一杯だった。返事などできるはずもない。吐き気すら催してくる。嘔吐感を誤魔化そうと、千晴は無理やり頭を回転させて男の名前を思い出そうとした。 林。確か、牧が『林』と呼んでいた男だった。 何度かセックスしたことのある相手だったが、取り立てて、千晴の記憶に残るような人間ではなかった。そもそも、『あの場所』に来た、牧以外の人間を千晴は覚えたいとも思わなかった。 「最近、どうしてたんだよ? 牧もぱったり来なくなったし。金払いの良い奴が来なくなると困るんだよな」 取り繕うこともせずに、男はそんな卑しいことを平気で言った。牧が付き合っている、あの胡散臭い連中と、牧の関係が健全な友好関係だなどとは千晴だって思わない。だが、それにしても、牧の金だけが目当てだと言い切る男が千晴には許せなかった。 「もしかして、牧とヤりまくってた? アイツも、結構上手いらしいしナ。でも、俺も悪くないだろ?」 車の中に、タバコのにおいが充満している。千晴はそもそもタバコを吸わないので、その匂いが好きではなかった。生理的な嫌悪感と、感情的な拒絶で千晴の不快感は絶頂に達しようとしていた。 牧もタバコを吸う。だが、こんな風に不快に思ったことは一度も無かった。キスだって、時々タバコの味がした。それでもその苦味が、むしろ好きだと思ったりもした。 「……牧とは一度もヤったことなんて無い」 無理やり搾り出すように、千晴がそれだけを言うと、男は何がおかしいのか声を立てて馬鹿にしたように笑った。 「へえ? あの牧が? お前は好みじゃないってことかー?」 違う。そうではない。自分が汚れているから、千晴の中には入れないのだと牧は言ったのだ。 あの日、牧の内側に確かに入り込んだと思った日も、結局、牧はキス以上のことをしようとはしなかった。千晴の中に入るのは、やはり怖いのだと言って。 牧には時間が必要なのだろうと千晴は思った。だから、牧の言ったとおり、ただ、その日は抱き合って一緒に眠っただけだった。 牧は、それまでにないほど、安心した表情で深く眠ったようだった。その寝顔を見ただけでも千晴は満ち足りた気持ちになったのだけれど。 なぜ、牧とセックスしておかなかったのだろうかと、千晴はその時に猛烈に後悔した。きちんと抱き合っていれば、牧にも分かったはずなのに。千晴が汚れていようがいまいが、そして、牧が汚れていようがいまいが、結局、千晴が牧に対して抱いている感情には何ら関係など無いということが。 だが、もう遅い。何が遅いのかは分からないけれど。ただ、漠然と千晴はそう思った。 つれてこられたのは、何度も来た事のある『あの場所』だった。薄汚れた、汚い部屋。だが、千晴は扉の前で立ち尽くし、竦みあがってしまった。この場所に入りたくない、と強い拒否を体と心が訴える。もう、牧以外の誰かに自分の体を触らせたくなどない。だが、そんな千晴の拒絶など林は頓着しなかった。林はあっさりと扉を開け、千晴を無理やり部屋の中へと突き飛ばした。 部屋の中には何人か男がいた。見知った顔もあれば、知らない顔もあった。だが、そこに牧はいなかった。 いなかったのだ。 「…牧は?」 千晴はじりじりと後ずさりながら尋ねる。 「んー? まあ良いだろ? たまには牧のいないトコで楽しんでも。それともアレか? 牧に見られてた方が興奮するとか?」 それじゃ変態だよなあと、林は下品に笑った。 変態はお前らだと毒づきながら千晴は逃げようと体勢を整える。だが、それは結局は叶わなかった。 いつの間にか背後に回っていた男に羽交い絞めにされ、他の男に無理やり腕を拘束されて、チクリと、そこに痛みが走った。無理な体勢で何とか視線だけをそちらに向ければ、注射器で、何かの薬物が自分の腕に注入されていくのが見えた。すぐに訪れる血の下がるような嫌な感覚。 「なあ、マジで大丈夫なのか? そんなヤバい薬使って」 と、千晴に触れていない男がそんなことを尋ねていた。 「大丈夫だろー? ヤバい事になっても牧が後始末するって」 「でもよー。珍しく、牧、ソイツの事気に入ってたみたいだっただろー?」 「大丈夫だって。気に入ってるって言ったって所詮は玩具だろー? 壊れたら、また別の奴探してくりゃ良いんだよ。それに、アイツがヤっちまった時はアイツのオヤジが揉み消したって話だしナ」 林は、何がおかしいのかゲラゲラと笑い続けていた。 男たちの会話は、もう、千晴には理解できていなかった。とにかく頭が朦朧とする。視界に白い靄が掛かっているようだった。体の痛覚も相当鈍くなっている。それが証拠に、大した準備もされずに後を犯されても、痛いと感じなかった。 何をされているのかも良く分からない。ただ、自分がボロ雑巾か何かになったような気がした。人間ではない。ただの、汚されて捨てられていくモノ。 何人の男に犯されたのか、どのくらいの時間、そうされていたのか千晴には分からない。気が付いたときには、自分は裸で、グチャグチャに汚れて、たった一人でベッドに横たわっていた。 薬のせいなのか、牧という監視者がいなくなった分、男たちの箍が外れて酷く残酷に蹂躙されたせいなのかは分からないけれど、目が覚めても千晴の意識は朦朧としたままだった。だが、その場所に、それ以上いたくないと強く思った。 だから、フラフラとする体を無理に動かし、適当に服を身に着けて部屋を出た。 正常な思考など少しも戻らぬまま、千晴は楓の姿が見たいと思った。楓の歌が聞きたいと思った。そして、それよりももっと強く、牧に会いたいと思った。 牧に会いたい。牧に会わなくては。 そう思ったら止まらなかった。感情が氾濫を起こしたかのように、頭の中は牧の事だけで一杯になってしまった。それ以外のことは何も考えられない。 自分の体が、どこかおかしいことも。 頭が朦朧としていることも。 視覚が全く、普通ではなかったことも。 視界が揺れる。はっきりとしない意識の中で、だが、千晴は強迫観念のように考えていた。牧の所に帰らなくてはならない。牧が待っているから。牧が寂しがっているから。 冷静な頭だったなら、きっと千晴はそんなことは思わなかっただろう。 あの牧が寂しがっているだなどと。何の笑い話だろうと。 だが、その時、千晴は信じて疑わなかった。奇妙な確信。牧はきっと、あの広い、寂しい部屋でタバコをふかしながら、どこにもいかずに千晴の帰りを待っているに違いない。 もう、あの、暗く、ただ薄ら寒いだけの孤独という名の深海に、牧をたった一人で眠らせておきたくは無い。何の力も無い、ただ無力な自分だけれど、それでも、黙って牧のとなりに寄り添うことだけならば出来ると千晴は思った。 おぼつかない足。ふらつく体。明らかに様子のおかしい千晴を、だが、深夜の裏道の世界の人々は気にとめたりはしない。 車の音が聞こえる。幾つもの赤いテールランプの群れ。深夜なのに、どうしてこんなに車が多いのか不思議に思いながら千晴は横断歩道のほうに向かって歩き続けた。 この町は夜の街。眠らない街だから安心するのだと牧が言っていた事を思い出す。でも、どうでも良い。とにかく牧の家のほうに行きたかった。 信号が赤を指し示している。 赤? 青? 視界がぶれて千晴には良く分からなかった。 黄色い光。 信号が青になる。 青? 赤? 多分、青。 千晴は躊躇無く、道路に飛び出した。 次の瞬間の衝撃と痛みを、けれども、千晴は一切感じ取ることが出来なかった。ただでさえ、頭も体も朦朧としていたからだ。自分に起こったことさえ、きちんと把握していなかっただろう。 ただ、分かるのは、今や、奇跡のように自分の周りには光が満ち溢れていることだけ。まるで、天上の世界のようだった。苦しみも、悲しみもない。幸福な神の国。約束の地。 瞼の裏にも光が満ち溢れる。嗚呼、この光だと千晴は思った。暗闇だけの深海に住む牧と一緒に陸(おか)に登ることは出来なくとも、この光の届く水面まではせめて牧を導いてやりたいと思った。 遠くから歌声が聞こえる。楓の歌うgloriaだ。 Gloria in excelsis Deo, Et in terra pax hominibus bonae voluntatis. いと高き所では神に栄光があるように 地においては人々に安寧があるように 安寧とはなんだと牧は言ったけれど、それを牧に与えることが自分には出来るのだと確信と共に思った。遠のく意識はより光の氾濫のほうへと近づいているようだ。光の中心は何だろう。嗚呼、あれは星だ。常に頭上に輝いている北極星。こんなにも強い光で千晴を照らしてくれる。もう、何も迷うことなど無かった。 楓以外にむける愛など千晴は知らなかった。けれども、今は、これが愛なのではないかと思う。いつか、その深海のような牧の犯しがたい孤独の横に、そっと影のように安寧を寄り添わせてやりたいと、千晴はただ、穢れない無心な心で願った。 千晴の意識は、もはや輪郭を失いかけている。 恐怖も不安も無い。ただ、聞こえてくるのは楓の声。美しい賛美歌。そして傍らには、牧の姿が見えた。 なんと幸福な。 自分はなんと幸福なのだろうか。世界は光に満ち溢れている。 千晴は唐突に悟った。自分が幸福だということを。 楓の賛美歌はどこまでも美しく続いている。まるで、千晴を楽園へと誘う天使の歌声のように。 『gloria』 それは、千晴が、息絶える時に聞いていたいと思っていた歌声そのものだった。 |