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amber and sacrifice-7 ………
 それは満月の晩だった。
 余りの明るさに、星の光など見えないほどの。
 ヒイラギは、僕をベッドに座らせて、何度も何度も優しいキスを落としてくれる。それは、別段、普段の夜と変わらなかった。
 けれども、何かが違った。
 何が違うのかは分からない。ただ、僕はその日の月がどうにも神経に障って仕方が無かった。
 ヒイラギの顔にはいつもの慈愛に満ちた穏やかな笑顔しか浮かんでいない。
 冬の夜のように美しい漆黒の髪と、神聖なホーリーグリーンの深い瞳。僕の大好きなヒイラギのそれは、なぜか、犯し難く、彼がどこか遠くへ行ってしまうのではないかという不安が僕に押し寄せていた。
 ヒイラギは右手で僕の指を失った左手をやんわりと握り締める。それから、恭しくそこに口付けた。
「コハク。僕の告白を聞いてくれるだろうか?」
 唐突にヒイラギは告げた。僕は不安げに彼の顔を見上げた。
 ヒイラギは少しだけ悪戯な笑みを浮かべて、僕の目のすぐ下の辺りに軽くキスをした。
「君の瞳は琥珀の瞳。とても美しいね」
 僕は、ギクリとした。僕が自分の指を自分で駄目にした日と同じ事をヒイラギが言い出したからだ。
「僕はもう、本当に小さな頃から君を愛していた。その琥珀の瞳も、オックスブラッドの髪も、孤独で穢れの無い魂も、僕だけのものにしたくて仕方が無かったんだよ」
 そう言って火傷の跡が残る左手で僕の右手をきゅっと握る。
「けれども、僕には君にセロの才能があることが判っていた。いずれは、それが僕と君を引き離すだろうという事も。幼い頃は君の才能に嫉妬した事もあったけれど、でも、誰よりも、僕が君のセロを愛していた。君は知らなかっただろうけれど」
 なぜ、今になってそんな話をするのか。
 僕は酷く不快な気分になって、顔を顰めてヒイラギを見上げた。
「君のセロはね。未熟だけれど自由だった。奔放で何物にも縛られる事無く、まるで深い海の中をどこまでも泳いでいくような演奏だった。僕は、本当に、本当に君のセロを愛していたんだ。
 それなのに、僕はその半面で君のセロが憎かった。セロなどなければ、君を僕だけのものにできるのに、と思っていたよ。僕は、もう、半分狂っていたのかもしれない。君を欲する余り、君の腕を切り落とす夢さえ見てしまうほど。
 けれどもね」
 物騒な告白をしているのに、ヒイラギの表情は無垢で、どこにも罪悪の翳りなど見当たらない。御神に使える使徒の様に清浄で僕は空恐ろしくなってしまった。
 そう。まるで、ヒイラギが既に、この世の人ではないかのような錯覚に陥ったからだ。
「けれども、君が自分の指を切り落とした時にこれは僕の罪なのではないかと思った。僕の醜い狂ったような熱情が、君の指を奪ったのだと思った」
「ヒイラギ! 違う! 違うよ! それは僕の願いであって、決して君の罪なんかじゃ無い!」
「うん。それは、もう、どうでも良いんだ。ただ、僕は君に知って欲しかった。君に伝えたかった。僕は、もう、気が違ってしまうほど、魂を闇に売り渡してしまっても構わないほど君を愛していると。君を愛している。何よりも。誰よりも」
 そう言ってヒイラギは僕の両手を取り、傅くように僕の指に神聖なキスを落とした。




 ヒイラギの影が薄い。
 まるで、この世に別れを告げている人のように。僕は背中を冷たい何かが滑り落ちるような気がした。全身鳥肌が立ち、凄まじい冷気に僕の体は包まれる。
 僕は真っ青になってヒイラギの顔を見上げ続けていた。
 ヒイラギの顔はこの世の人とは思えないほど冴え渡り、美しかった。
 ヒイラギの背後に見える月は、酷く大きく、ヒイラギを攫おうとしているかの様に見える。
「僕は君の愛を受け入れた。コハク。君も僕の愛を受け入れてくれるね?」
 ヒイラギは穏やかに尋ねたが、僕は返事につまり黙り込んだ。
 重大な決断を迫られているのだと漠然と分かっていたが、正しい答えは見当もつかなかった。
 僕は、震える唇を僅かに開く。何を答えればよいのか分からず、喉はカラカラに乾いている。僕は間違ってはいけない。間違ったならヒイラギを失ってしまうだろうと確信していたのに。








 きっと、何度同じ場面に遭遇しても、同じ答えしか僕には返せないだろう。
 僕はヒイラギを愛していた。心の底から。
 ヒイラギに愛を告げられたなら、それを拒絶する事など嘘でも出来るはずなど無い。
 出来るはずが無かった。








「僕は。僕は、君を愛している。君の愛を受け入れるよ」
 僕が震える声で答えると、ヒイラギは満足そうに鮮やかに笑い静かに目を閉じた。不意にヒイラギの体から力が失われ、僕の体に尋常ではない重みが掛かる。
「ヒイ・・・ラギ・・・・?」
 呼びかけても返事は無い。
「どうしたの? 気分が悪いの?」
 僕の胸は早鐘を打っているかのように激しく動悸を刻んでいた。
 ヒイラギは静かに微笑んだまま決して目を開かない。冴えた月光に照らされたその頬は青白く、血の気が全く無かった。まるで、蝋で作られた人形のようだった。
「ねえ、ねえ、ヒイラギ? 目を覚まして?」
 僕は冷や汗をびっしょりとかきながら必死にヒイラギをゆすり、呼びかけたが、ヒイラギはぴくりとも反応しない。ふと触れたヒイラギの手は、ぞっとするほど冷たかった。


 外から、バタバタと激しい足音がだんだんに近づいてくる音が聞こえていた。
 バタンと凄い勢いでドアが開け放たれ、ヒイラギの父と何人かの村人、それと、教会で一番偉い神父様が部屋の中に駆け込んできた。
 そして、部屋の中の状況を見た瞬間に、皆、一様に難しい顔をしたまま立ち尽くしてしまった。騒々しく部屋の中に駆け込んできたのとは裏腹に、誰も、何も言わず、部屋の中は奇妙な静寂に包まれている。
 そんな中で神父様は深々と一つ息を吐き出し、静かに僕達に近づいてきた。それから、神妙な面持ちでヒイラギに手を伸ばし、その額に手を当てて暫くじっとしていたけれど、不意に首を横に振りながら重々しく口を開き、
「間に合いませんでした」
と告げた。
 ヒイラギの父は
「なんと愚かな事を」
と悲痛な声で言いながらその場にくず折れた。
「もはや、私には救済の仕様が無い。明日の朝、日が昇ったらばすぐにでも柊の木で焚いた火でこの子の体を灼くしかないでしょう。せめて体だけでも浄化しなくては」
 神父様が重々しい声で言い、父は床に膝をついたままゆっくりと首を横に振った。
 僕には何が起こったのか全く分からずにただ呆然と目の前で繰り広げられている出来事を眺めていただけだった。
「・・・一体。一体、何が起こったんですか? ヒイラギはなぜ目を覚まさないの?」
 僕が尋ねると、神父様が僕の前に立ち、体を折って僕の目線まで降りてきて下さった。
「ヒイラギはね。闇の力に魂を売ってしまった。彼の魂は穢れ、彼の体を離れてしまったのだよ」
「魂を売った? 一体、何を馬鹿な事を」
 僕は告げられた言葉が真実だとは俄かに信じられず、震える左手で胸元のシャツを握り締めた。その仕草で気がついた。違和感を感じて、ふと自分の左手に目を落とせば、僕の指はまるでなにも起こらなかったかのように五本全て元の通りになっていたのだ。
 それを見た瞬間、僕は全てを悟り、慄いた。
「町のはずれ、禁忌の森の奥に住んでいるという老婆の話は知っているね」
 確認するように神父様は僕に尋ねた。僕はそれに頷きながら、最後まで教えてもらわなくとも何が起こったのか分かっていた。

 そうだ。ヒイラギは、何という事をしたのだろう。

 邪悪な精霊が住み着いているからその森には決して近づいてはならないと、町の人ならば誰でも知っている。そこにはいつからか怪しげで恐ろしい呪いを使う老婆が住んでいて、人の魂を悪魔に売り渡したり、誰かを病気にしたり、死に至らしめる呪いをかけていると。
 関わったならば、魂が穢れ、御神の救いを受けられない。
 約束の地に辿り着けないからと、僕達は教会で固く教えられていたのに。

「ヒイラギはね、穢れた闇の力と契約し、魂を売り渡してしまったのだ。満月の夜だというのに、酷く邪悪な空気が蔓延っていて、それがこの方角に真っ直ぐに向かっていた。急いで駆けつけたのだが、間に合わなかった」
 神父様は辛そうにそう言うと、パラパラとヒイラギの周りに南天の赤い実をばら撒いた。
「もう、私には彼の魂を救済することは出来ない。約束の地に導く事は出来ない。せめて、彼の体だけでも浄化して土に返してあげなくては」
 神父様のその言葉を最後まで聞き終えない内に、僕は部屋を飛び出した。後ろからヒイラギの父が声を掛けていたような気もしたが、そんな事に構ってはいられなかった。








 僕は走った。
 満月の夜の中をただひたすらに。
 空気は冴え冴えと冷え渡り、僕の肌を切り裂くようだった。吐き出す息は酷く白い。
 けれども僕は少しも寒さなど感じていなかった。感じていたのは、なぜ自分の足はもっと速く動かないのかというもどかしさだけだった。
 町の中を横切り、教会の前を通り過ぎ、学校の学舎を遠く右手に見ながら町外れまで辿り着いた。心臓が飛び出してしまうほど鼓動は激しく、呼吸がままならなくて吐き気さえ感じたが、僕は走るスピードを落としはしなかった。
 目指す場所は、たった一箇所だ。
 入り込んではいけないと言われた森の中に、躊躇無く飛び込む。
 ガサガサと何か黒い塊が動き回っていた。きっと、平静な時に来たならば恐ろしくて仕方が無かったろうが、その時の僕には恐怖感などありはしなかった。
 僕が最も恐ろしいのはヒイラギを失うことだ。それ以外に恐れるものなど無かった。
 何かが僕めがけて飛んできて、頬を掠めた。
 ピリピリと頬が痛んで怪我をしたのだと思ったが、そんなことには構わなかった。
 森の奥へ奥へと進んでいくほど、辺りは酷く荒廃して、恐ろしげな空気が漂っている。禍々しい匂い。邪悪な気配。
 一時間ほど走り続けて、ようやく、僕は目的の場所に辿り着いた。
 人の住処と言えないほど、みすぼらしい家。
 あちこちが崩れ落ちていて、家の周りには毒々しい真っ赤な花が蔓を絡ませていた。
 僕は躊躇することなくその家のドアを開く。予想していたよりもあっけなくそれは開き、僕は必然的に家の中に転げ込んでしまった。
 息を切らしながら、顔を上げる。
 そこには、醜悪で、薄汚れた老婆が一人座っていた。

 老婆は、僕の姿を見ても少しも驚かず、ただ、ニヤリと不気味に口の端を上げて笑った。
「よく来たね。コハク」
 そうして、人とは思えないほどしわがれた、鴉の様な声でそう言った。
「・・・なぜ、僕の名前を?」
「私に分からないものなど何も無いのさ。何もかも分かっている。お前の名前も、お前がどうしてこの場所に来たのかもね」
 老婆は自信に満ちた表情でそう告げた。僕は、その何もかも見透かしたような表情も、言動も気味が悪くて恐ろしかったが、老婆が言う事はなぜだか本当だろうと思った。
「ならば。ならば、ヒイラギを元に戻して!!」
 僕は叫ぶように訴えたが、老婆は僕を見て皮肉な笑みを浮かべただけで何も答えなかった。
「お願いだよ。ヒイラギを。ヒイラギを元に戻してください」
 繰り返し僕が懇願すると、老婆は手にしていた杖でコツコツと木の床を叩き、それから、ようやく口を開いた。
「ならば、お前は何を差し出す?」
 老婆は、老獪な笑みを浮かべたまま尋ねた。きっと、この老婆と契約などしたら僕は取り返しのつかぬ事になるだろう。魂は穢れ、約束の地になど行けない。ともすれば、邪悪な存在になって、一生、この森をさまよう事になるかもしれない。
 それが分かっていても、僕は手を差し出した。
「・・・僕の指を・・・僕の指を元に戻して構わないから」
「それだけじゃ、私はくたびれ儲けだ。ただ働きはゴメンだよ。・・・そうだね。お前の瞳は随分と綺麗だね。琥珀の石だ。それを二つとも寄越すと言うのなら、考えてやっても良い」
「そんなもので良いのなら、いくらでもやる。目でも耳でも、何でも持っていけば良い! だからヒイラギを元に戻して!」
 僕が必死で訴えると、老婆はフンと鼻で笑って、杖の先で僕の事を指した。
「指を失い、セロの才能を投げ捨てて、その美しい瞳まで失くしたなら、彼はお前を決して愛すまいよ。それでも良いのかえ?」
 嘲笑うように老婆に言われて、僕はぐっと言葉に詰まったが、それは一瞬の事だった。
 確かに、何もかもを失った僕をヒイラギは愛さないかもしれない。けれども、それでも僕は構わなかった。
 ヒイラギが、また、あの穏やかな笑顔で笑ってくれるのならば、それだけで良い。
 例え、二度と、僕にはその笑顔を見る事が出来なくとも。
「構わない。僕の何もかもを持って行っても構わない。だからヒイラギを」
「そこまで言うなら、仕方が無いねえ」
 老婆は薄ら笑いを浮かべると、静かに立ち上がった。それから、僕が見たことも無い不思議な道具を幾つか持ち出すと、その上に様々な色の石を奇妙な形に配置し始める。
「暫く時間が掛かるから、その間にセロでも弾いておくれ」
 老婆は不意にそう告げて、やはり、木の杖で部屋の奥を指した。驚いた事に、そこにはセロが置いてあり、なぜだか、それは僕のセロだった。
「どうして、これが、こんな場所に・・・」
「言ったろう。私には分からない事は無い。手に入らないものもないんだよ」
 老婆はそう言って、僕を正面からじっと見詰める。その時に僕は、老婆の顔が思ったよりも若い事に気がついた。顔が薄汚れているから良く分からなかっただけで、よくよくみれば、意外に若い顔をしている。杖を持ってはいるが、腰が曲がっている訳でもない。
 そして、その目の色がとても僕に似ている事に気がついた。濃縮されたハチミツのような、琥珀酒のような、光の加減によって曖昧な色を放つ瞳。
「貴女は、流浪の民?」
 僕は思わず尋ねてしまった。けれども、老婆は何も答えない。ただ、黙々と石を拾っては置き、何かのまじないを唱え、また、石を拾っては置き、という事を繰り返している。その合間に、
「さっさとセロを弾くんだよ」
と文句を言っただけだ。
 僕は仕方なく、セロを取り出し、弾く準備をした。
「セロを弾けるのは恐らくこれが最後だろうよ」
 老婆は嘲るように言ったが、確かにそうだろうと僕は思った。

 とても不思議だった。最後のセロを聞かせる相手が、こんな恐ろしい怪しげな老婆だなんて。
 それなのに僕は少しも恐怖を感じていなかった。奇妙に心の中は澄み渡り、ただ、無心にヒイラギが元に戻してくれた手でもって、セロを弾いた。
 夢中で弾き続けていたので、老婆が僕の近くに近寄ってきた事に気がつかなかったくらい。

「準備が出来たよ。セロを置いて、こちらにおいで」
 しわがれた声で命令され、僕は、はっとしてセロを弾いていた手を止めた。言われたように老婆の近くに寄れば、テーブルの上にある首の取れた猫の屍骸が目に入り、ぞっとして鳥肌が立った。
「この椅子にお座り」
 老婆は単調な口調で告げる。僕は一体何をされるのだろうか。
 生きながらにして、指を再び切り取られ、目を抉られるのかと思ったら恐怖が押し寄せてきた。けれども、ヒイラギの綺麗な笑顔を思い出したら、何もかもが耐えられた。
 僕は黙って椅子に座る。
 老婆が僕の目の前に立つ。
 その時、初めて老婆は深々と被っていたフードを取り外した。その髪は血に濡れたように赤い。僕と全く同じ色の髪の毛だった。僕は、驚いて息を呑む。もう一度、
「貴女は、流浪の民?」
と、尋ねたが、老婆は決して答えてはくれなかった。

「お前は愚かな子だ」
 老婆は穏やかな口調で呟く。
「せめて、健やかに生きていけるようにと与えられた手であり、指であったのに」
 僕には理解できない言葉を呟きながら老婆は僕の額に手を当てた。
「だが、それがお前を追いやり、不幸にすると言うのなら仕方あるまいよ」
 老婆のガサガサに荒れた手が僕の瞼の上まで下りてくる。目を抉り取られるかもしれないというのに、なぜだか、その時、僕の中の恐怖は跡形も無く綺麗に消え去っていた。
 その荒れた手が、奇妙に暖かかったからかもしれない。
 老婆の手が僕の目を完全に覆う。僕の意識はなぜか、ぼんやりとし始めて、眠たくて仕方が無かった。
「最後の賭けだよ。何もかもを失ったお前を、彼がそれでも愛すると言ったのならば、お前にそれを返してやろう。今度は使い方を間違えるんじゃない。良いね。傍に導(しるべ)を指してくれる人がいるならば、別の行き道も見つかるだろうて。
 私が出来るのはそこまでだ」
 意識を失う直前に聞こえた老婆の言葉は、全く意味が分からなかったけれど。
「私はお前のセロが嫌いではないよ」
 最後の言葉だけは、僕の脳裏に焼きついて離れなかった。



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