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amber and sacrifice-8 ………
 コハク、コハクと僕の名前を呼ぶ声が聞こえる。僕の大好きなヒイラギの穏やかな声だ。
 僕は、楓の木の下でうずくまり泣いていた。アガットに「流浪の民の子! ロクデナシの穢れ者!」と虐めらたからだ。
 優しい手が僕の頭をなで、それから肩を抱く。
「アガットが僕はロクデナシの穢れ者だって」
「そんなことは無い」
「でも、ヒイラギも本当はそう思っているんだろう?」
 泣き腫らした目で見上げると、ヒイラギは本当に優しくて、きれいな顔で笑った。
「なぜ? そんな事、あるわけが無い」
「でも、アガットは僕の目の色が、髪の色が気持悪いと、禍々しいと言ったよ」
「君の目はとてもきれいだよ。髪の色も。僕はとても美しいと思う」
「ならば。ならば、ヒイラギは僕の事が嫌いでない?」
 僕が恐る恐る尋ねると、ヒイラギは少しだけ驚いたように目を見開き、それからその目をすぐに細め穏やかに笑った。
「嫌いではないよ。僕はコハクが好きだよ」
 あまりに気軽な調子で言うので、僕は不安で信用が出来ない。
「だったら、きちんと御神に誓って」
 子供じみた要求を僕がすると、ヒイラギは声を立てながら笑った。それから、心臓の上に手を置いて、僕が言った通りにしてくれる。
「構わないよ。御神に誓います。僕はヒイラギを愛している。誰よりも、何よりも」
 僕は、ようやく安心して顔を上げ、ヒイラギの顔をじっと見詰める。綺麗なホーリーグリーンの瞳に、冬の夜闇のような髪。そして、穏やかな笑顔。
 僕はバツが悪そうに少しだけ笑って、ヒイラギに腕を伸ばす。ヒイラギも僕に腕を差し出し、僕達は抱き合った。僕の耳元でヒイラギが囁く。
「僕の愛の拠り所は、いつだって、君のその穢れの無い孤独な魂なんだ」
 僕にはヒイラギの言葉の意味が分からなかったけれど。
 確かにその時、僕は幸福だった。







 ───他愛も無い、子供の頃の記憶だ。
 なぜ、そんな事を思い出したのだろう。もやが掛かったように頭がはっきりとしない。視界はどこまでも濃灰色だ。
「コハク、コハク」
と、僕を呼ぶ声が聞こえる。思い出の中とは対照的な切迫した調子だったが、声の主は同じだった。
「コハク!」
 呼び続ける声は半分泣き出しそうにも聞こえる。なぜ、こんなつらそうな声で僕の名を呼ぶのだろうと思って、僕は目を開けた。けれども、視界はかわらない。相変わらず、どこまで行っても濃灰色だった。
 そこで、僕は全てを思い出した。そうだ。僕はヒイラギの魂と引き換えに、あの老婆に自分の目を差し出したのだ。目を開いても何も見えるはずがない。
 はっと、大きく息を飲み込む音がすぐ傍で聞こえた。
「・・・コハク! 君は、目が!」
 悲嘆に暮れた声が聞こえ、僕はきつくきつく抱きしめられる。何も見えなくとも抱かれた感触ですぐにも分かった。この腕は間違いなくヒイラギの腕だ。僕は安堵して深く息を吐き出した。ヒイラギはここにいる。ここにいて、僕を抱きしめてくれる。ヒイラギの魂は闇の世界から戻ってこれたのだ。
「なんて愚かな事を」
 けれども、僕の安堵とは裏腹に、ヒイラギの酷く落胆した声が耳元で聞こえ、僕の頬に冷たい雫がポトリと落ちた。ポトリ、ポトリと何度も落ちた。一瞬雨かと思ったけれど、そうじゃない。僕の頬を伝い、唇まで達したそれは潮の味がした。雨ではなく、涙だった。
 ヒイラギが泣いている。僕の失われた目を悼んで。痛いほどにヒイラギの悲嘆が僕にも伝わってきたが、僕は少しも後悔していなかった。
「・・・愚かなのはヒイラギのほうだ」
 僕はそう呟きながらヒイラギの体を強く抱き返す。もう、二度と彼が僕から離れて、どこかへ行ってしまわないように。
「僕は指なんて要らない。目だっていらない。僕が一番大事なのはヒイラギだとどうして分からないんだ。君がこんなことをするのなら、僕は何度だって、指でも目でも、なんだって捨てるだろう」
 怒ったように、責めるように捲くし立てながら、知らずのうちに、僕の頬もびっしょりと濡れていた。僕の言葉にヒイラギは、はっと息を呑んだようだったが、僕は言った言葉を撤回するつもりなどなかった。あくまでも、それは真実だ。僕にとっては何よりもヒイラギが一番で、それ以外は捨てても構わないものだ。
「僕だって・・・僕だって、コハクの為ならば何だって差し出したろう。君より大切なものなど無かったというのに!」
 僕の頬に、自分の頬を寄せてヒイラギは叫ぶように言った。触れ合う頬は冷たい。僕達は、一体、何をやっているんだろう。互いに泣き濡れて、溺れて助けを求める人のように必死で互いに縋り付き、同じ事を叫びあっている。


 ───馬鹿馬鹿しい。本当に愚かな話だ。僕達は、互いが互いの為に何もかも投げ出して、そのせいで、互いを傷つけあっている。けれども、僕達は全く真剣だったし、それを誰かが笑う権利など無かった。


「ならば、僕にヒイラギを頂戴。僕が欲しいのはヒイラギだけだ。ただ、ヒイラギが幸福で、穏やかに笑って、僕の傍にいてくれるのならば、その他は何もいらない。ただ、それだけしか欲しくない」
 泣きながら僕が言うと、ヒイラギは痛いほどに僕の体を抱きしめた。
「君は、万人の愛を受ける才能を持っていたというのに」
 この期に及んで、ヒイラギはまだそんな事を言う。一体、万人の愛が僕に何を与えてくれるというのだろう。そんなものは曖昧で、形のない、幻のようなものだ。穏やかさも、暖かさも何も無い、虚構の産物。
「僕が欲しいと思わなければ、どんな高価な宝石だって、どんなに素晴らしい才能だって、何の価値も無い。なのに、君は、僕にいらないものを押し付けて、一番欲しいものを取り上げようとする。そんな酷い話があるっていうの?」
 子供のように泣きじゃくりながら、僕はヒイラギに訴える。いつだって、僕はそう訴えてきた。けれども、ヒイラギはその度にそれを否定する。僕の言葉は届かず、理解されない。
 不意に、僕とヒイラギは理解しあえないと言ったジャスの言葉を思い出したけれど、僕は訴えずにはいられなかった。きっと、僕は何度でも同じ事を訴え続けるだろう。たとえ、死ぬまでヒイラギがそれを理解してくれなくとも。
 この時も、ヒイラギは僕の言葉を分かってくれたのか、分かってくれなかったのか、それ以上は何も言わなかった。ただ、黙って、僕の体を抱きしめ続けた。
 空気はすっかり冷え渡っていたけれど、ヒイラギの体温をすぐ近くに感じて、僕は、改めてヒイラギが戻ってきたのだと実感して、心の底から安堵した。ヒイラギを返してくれた事を御神に感謝し、あの老婆にさえ感謝した。
「僕が、死ぬより怖いのはヒイラギを失ってしまうことだ。お願いだから、もう、僕の事を遠ざけないで」
 懇願するように、僕は呟く。
「そんなものの為に、才能や、君の美しい目を捨てただなんて・・・」
 嗚咽を漏らし、ヒイラギはそう言ったが、僕はその言葉にヒヤリと冷たいものを感じてしまった。
 ヒイラギは、何よりも僕の才能を尊重し、そして僕のセロを愛してくれていた。そして、僕の琥珀色の瞳も。閨で何度も美しい瞳だと呟かれた睦言を思い出し、僕の胸のうちは急に翳り始めてしまった。
 しわがれた、鴉のような老婆の声が頭の中でこだまする。
『指を失い、セロの才能を投げ捨てて、その美しい瞳まで失くしたなら、彼はお前を決して愛すまいよ』
 僕は俄かに恐ろしくなってしまった。ブルリとその不安に身を震わせれば、気配でヒイラギが訝しげにしたのが分かった。
「コハク? どこか痛むの?」
 心配そうに尋ねてくれる声。そこには確かに慈愛のようなものが含まれていたが、それが以前と全く同じものなのかどうか、僕には分からなかった。ヒイラギの愛は、何かが変質してしまったかもしれない。それ以前に、既に、僕の上から失われてしまったのかも。
 そうだ。何もかもを失った盲目の僕を、ヒイラギはもう愛せず、愛想を尽かし、捨ててしまうかもしれない。
 俄かに浮かんできた疑問に、僕は慄いた。けれども、例え彼の愛を失おうともヒイラギを返して欲しいと望んだのは他でもない、僕なのだ。
 だから、もし、ヒイラギの愛を失ったとしても、僕はそれを受け入れなくてはならなかった。

「才能も、君の愛した琥珀の瞳も失ってしまった僕には、もう、愛される価値は無いのだろうか。君の愛は僕の上から失われてしまった?」
 恐る恐る尋ねれば、ヒイラギは、
「何を馬鹿な」
と強く答えた。まるで、心外だと言わんばかりの少し怒った声で。そして、僕の体を更に強く抱きしめる。
「僕の愛は、いつでも君の上にある。たとえ、君が遠く離れようとも、君がどんな姿になろうとも」
 僕に言い聞かせるように、耳元で囁かれたヒイラギのその言葉を聞いた途端、僕の頭の奥の方で、何かが弾ける音がした。ガラスが割れるような、鎖が切れるような、そんな不思議な音。
 何が、なのかは、はっきりとは分からない。それは酷く曖昧なものだったけれど、確かに僕の中で何かが壊れ、断ち切られた。不意に体も心も軽くなり、何かから開放されたような気がした。

 僕は、ヒイラギの胸に手を置いて、少しだけ体を離し、見えない目を必死に凝らしてヒイラギを見上げた。
「ヒイラギは、僕にとって太陽のような存在だった。失くしては闇に囚われ凍えてしまう。生きてはいけないだろう」
「君がそう言うのなら、僕はいつまでも君の傍らにいる」
「いつまでも?」
「いつまでも」
 濃灰色だった僕の世界は、いつしか乳白色に変わる。視界は決して戻る事はなかったけれど、光を感じる事だけはできるようだった。
 いつのまにか、朝日が昇って来ていたらしい。
 気がつけば、僕らは、なぜだか学校の裏手にある丘の上に佇んでいた。もっとも、僕には辺りの様子が全く見えなかったので、ヒイラギがそう教えてくれたのだが。
 取り合えず、家に帰ろうとヒイラギが言うので、僕らは手を繋ごうとした。その時に、「それ」に気がついた。
 僕の左手の指は、なぜだか、五本揃ったままだったのだ。
「なぜだろう。ヒイラギは元に戻ったのに、僕の指は残ったままだなんて」
 僕は、何か、しこりのようなものが胸に残って嫌な気持になってしまったのだけれど、ヒイラギは、
「もしかしたら、戒めなのかもしれない」
と、穏やかな声で言った。
「戒め?」
「君の、では無く、僕への」
「ヒイラギへの? なぜ?」
 僕は全く意味が分からずに首を傾げたが、ヒイラギは僕の額に優しいキスを一つ落としただけで、答えてはくれなかった。そして、そのまま僕の手を引き家路をたどる。
 もう、すっかり、ヒイラギはいつもの穏やかな優しいヒイラギに戻っていて、あんなに大変なことが起こったなんて、夢みたいだった。


 実際、その出来事は夢みたいなものだった。


 家に帰ると、何故だか、町の人も神父様もいなくなっていて、僕達は夜遊びをした、という咎で父に叱られただけだった。僕の目は、病で視力を失ったことになっていて、そして、何より不思議な事に僕が指を切断した一連の事件を、町の人は誰一人として覚えていなかった。
 僕は、視力を失ったせいで、ヨハン音楽学校へ行くのを断念した事になっていた。
 本当のことを覚えているのは、僕とヒイラギだけだ。
 何となく、ジャスだけは何もかもを覚えているような気がしたけれど、今となっては彼がどこに行ってしまったのか全く分からない。風の便りで、再び舞台に立ち始めたと聞いたけれど、会いに行きたいとは思わなかった。

 それから何かが変わったという事は無い。
 アガットは、僕の目を慮ってか、以前ほど僕に辛く当たる事は無くなった。時折、ヒイラギの火傷に関して棘のような嫌味を言う事は忘れなかったけれど。
 ヒイラギの左手の火傷は、決して良くなる事はなかったけれど、リハビリのせいで、少しはセロが弾けるようになった。子供が弾くような簡単な曲を遊びで弾いては穏やかに笑っている。
 ただ、音楽学校はやっぱりやめてしまい、普通科に移ってしまった。
 僕は一人、音楽科に残りセロを弾いている。僕も、いっそのことヒイラギと同じに普通科に移ってしまいたかったが、ヒイラギが僕のセロを聞きたいと言ったので残る事にした。
 ヒイラギは、もう、僕に、万人の為にセロを弾けとは絶対に言わない。
「僕がコハクのセロが好きだから。僕の為だけにセロを弾いて」
と僕に強請る。
「その指は、僕の為だけの指だから」
と、悪戯に笑う。
 ヒイラギは、自分に架していた何かを削ぎ落としてしまったかのように、僕に優しく、時に甘く接する。まるで、恋人にそうするように。
 それは、穏やかで優しい日々だ。

 けれども、時折、僕は悪夢にうなされる。
 それは、ジャスの姿で現れたり、僕を絡めとる蛇の形で現れたり、あの森に住む老婆の姿で現れたりした。
 今でも、僕はセロを弾くと、何かに攫われてしまいそうになる事がある。深い深い海の底をどこまでも進んで行き、そのまま引き返せなくなってしまうかのような錯覚だ。
 ジャスが『才能という名の呪縛』と言ったそれは、僕を決して解放してはくれない。
 きっと、死ぬまで僕を解放してはくれないだろう。
 それでも、僕の傍らにはヒイラギが常にいるので、僕は自分を見失ったりしない。ヒイラギは、光を失った僕に行き道を照らす太陽のようなものだ。

 そういえば、禁忌の森の奥に住んでいた、あの怪しげな老婆は、いつの間にかいなくなってしまったのだと、みんなが噂をしているのを聞いた。
 本当のところは誰も知らないけれど、僕には、その噂が本当なんだろうなと思えた。
 そもそもが、流浪の民だ。ひとどころに留まれば、濁り腐ってしまう存在。それが、どうして長い間、あの場所にいたのかは僕には計り知れない。計り知れないけれど、今は、もう、あの老婆を恐ろしいとも思わなければ、恨みがましい気持も持っていない。
 あるいは、僕と近しい血が流れていたのかもしれないと、奇妙な親近感さえある。
 いずれにしても、もう、二度と、あの老婆に会うことは無いだろう。


 そうして日々は穏やかに過ぎていく。僕は音楽学校を、ヒイラギは普通科を何事もなく卒業し、そして、僕達は遠くの町に旅立つ事に決めた。ヒイラギの両親は、この町を出て行くことをとても反対したけれど、普段は我侭など言わないヒイラギが決して譲らなかったので、結局、最終的には渋々と納得してくれた。

 出発を間近に控えたとある日に、教会の神父様にお別れの挨拶を告げに行った。神父様は僕達を見て、とても複雑な悲しそうな顔をされて(僕は実際には見えなかったけれど、ヒイラギにはそう見えたらしい)、
「私には、もはや君達を導く術は無い」
と、おっしゃられた。僕もヒイラギも心当たりがあったので、深くお辞儀をしてその場を立ち去り、それ以来、一度も教会の中には足を踏み入れていない。
 おそらく、御神の手から漏れてしまった僕達は、約束の地には行けないだろう。
 それならば、自由な流浪の民になり、風のように流離(さすら)えば良いのだとヒイラギは明るく笑う。僕は、それに静かに頷く。




 そして、僕は、今日もセロを弾く。
 ただ一人、ヒイラギのためだけに。
 僕は死ぬまでセロを弾き続けるだろう。ヒイラギが望む限り。
 そして、それが僕の幸福であり、ヒイラギの幸福でもあるのだ。






 僕達が何を犠牲にし、何を得たのか。
 それは、僕達二人だけが知っていれば良い。






†end.



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