amber and sacrifice-5 ……… |
ヒイラギが学校に出て来れるようになってから数日経ったある日、僕はジャスの所に行き、都には行かないと告げた。ヒイラギからセロを奪っておいて僕だけがのうのうと弾き続ける訳にはいかないと思ったからだ。ジャスはその申し出に決して首を縦には振ろうとしなかった。 「今は、まだ精神的にも落ち着かないだろうから暫く時間を置きなさい。音楽学校への入学の件は延期してあげよう」 「でも、僕はもうセロを弾くのを辞めるつもりです」 「冗談だろう?」 「いいえ。ヒイラギからセロを奪っておいて僕だけがのうのうとセロを手にするわけにはいきません」 僕がきっぱりとした口調で告げると、ジャスはらしくもなくうろたえた様子で僕の顔をじっと見詰めた。 「馬鹿なことを・・・逃げられると思っているのか? 君は絶対に逃げられない。逃げれば逃げるほど周りに災いをもたらす。『才能』というのはそういった性質の物なのだから」 「何と言われても僕はヒイラギの傍から離れません」 僕が頑なな態度でそう告げると、ジャスは眉間に皺を寄せそれから僕の腕を不意に強く掴んだ。 「・・・そんなに彼が好きなのか」 咎めるように尋ねられたけれど、僕は答えなかった。答える義理は無い。それは、僕の心の中だけにしまっておけば良い事だと思っていた。 「やっと見つけたと思ったのに。君は俺を再び孤独の中へ突き落とすと言うのか」 地を這うような、低い声で彼は独り言のように僕の耳に囁いた。 「僕は・・・僕はヒイラギを置いては行けません」 壊れた蓄音機のように僕は同じ言葉を繰り返した。 彼は僕の体を乱暴に引き倒した。 ガタンと椅子が倒れる。 押し倒された衝撃で背中が酷く痛んだ。 「逃げる事は出来ないよ。残念ながらね」 と、呪縛のような甘い言葉が僕の耳に吹き込まれる。僕は必死で抗って手足をばたつかせたが、敵うはずも無い。体格差がありすぎる。 簡単に剥がされて放り投げられる制服を、僕はまるで別の世界の出来事のように見詰めていた。すぐ隣に石油ストーブの赤い炎が見える。それはジャスの髪と同じ色をしている。 僕は漠然と、ヒイラギの左手を灼いたのはもしかしてジャスの炎だったのではないかと思った。益体も無い世迷言だ。けれども、僕はその時に確かにそう思ったのだ。 乱暴に体が暴かれる。引き裂かれるように押し入られて、僕は痛みの余り気を失いかけた。けれども、必死に意識の糸を手繰り寄せる。この痛みは僕に与えられた罰なのだと思ったからだ。 ・・・一体、何の罰だと言うのだろう。 僕が持って生まれた流浪の民の血が罪なのか。 ふさわしくない才能をその身に宿したのが罪なのか。 ヒイラギに邪まな感情を抱いたのが罪なのか。 それとも、ヒイラギを傷つけた罪なのか。 或いは。 或いは、僕の存在そのものが罪悪の塊であるかのように思えて、僕はジャスに激しく突き上げられながらひたすら懺悔の言葉を思い浮かべていた。 主よお許しください。 主よ憐れみください、と。 僕は、ヒイラギの父と母にも、都に行く気が無くなった事を告げた。父も母も、それはいけないと言って何度も僕を説得しようとした。特に父は強く僕に都に行くように勧めた。 僕はジャスに言った様に、ヒイラギの腕を奪ったのにセロを続けることは出来ないと伝えたが、普段は穏やかで冷静なあの父が、少し怒ったように、 「あれは事故だと言っているだろう? 君には何の責任も無い。そんなことで君がセロを辞めるなど、こんな悲劇があって良い訳が無い。君の才能は類稀なるものだ。それを捨てるなど許される事ではないよ」 と言うので僕は困ってしまった。 終いには、ヒイラギを呼び出して、僕の意思を伝え、ヒイラギからも説得するようにお願いまでしてしまった。 ヒイラギは、怒ったようなそれでいて、どこか冷めているような目で僕を見詰めていた。 「すみません。お父さん。コハクと二人で話をさせて下さい」 そう言うと、僕を自分の部屋に連れて行った。 ヒイラギは乱暴にドアを閉めると僕をベッドの上に放り投げる。上から見下ろすように僕を睨みつけて、 「僕を馬鹿にするのも大概にしてくれないか」 と咎めた。 「馬鹿になんてしていない」 「では何故? 僕のためにセロをやめるなんて馬鹿馬鹿しい。本当に馬鹿馬鹿しいよ」 「・・・だって。ヒイラギは僕のためにそんな大怪我をしてしまったんだよ? 僕は罪を償わなければ気がすまない。僕はヒイラギの傍にいて、なんでもする。君が望むことならば何でも」 必死に言い募りながら僕はヒイラギに縋った。ヒイラギは眉間に皺を寄せ、何かを耐えるような表情でじっと僕を見下ろし続けていたが、不意に驚いたように目を見開いて顔色を変えた。 急に青ざめて唇を振るわせ始めたヒイラギに、僕は驚いて呆然としてしまう。何が起こったのか分からずにヒイラギを見上げていると、ヒイラギは不意に口の端を上げて僕の事を馬鹿にするかのような嘲笑を浮かべた。 「・・・何でもするだって? それなら。それなら服を脱いで足を開いてくれよ」 皮肉めいたはすっぱな口調で彼は言った。僕は一体、何を言われたのか判らずに唖然とヒイラギを見詰め続けた。ヒイラギは呆けている僕に苛付いたのか、不意に僕のシャツに両手を掛け、思い切り左右に引き裂いた。 釦が飛び、僕の胸元が晒される。 そこには、ジャスに残された情交の跡がはっきりと刻まれていた。 「誰と寝たんだか知らないけど。随分な体だね。君にはやっぱり売女の血が流れていたって訳だ」 嘲るように言われて、僕は頬を拳で殴りつけられたような衝撃を受けた。 今まで誰が僕の悪口を言って、僕を罵ったとしてもヒイラギだけは決して僕の生まれについて僕を侮辱した事など無かったからだ。 ヒイラギは僕の頬を撫でながら僕に深くキスをする。 以前した時と同じに、ヒイラギの唇は少し冷たく、けれどもその舌は熱を帯びて熱かった。こんな時なのに、あんなことを言われた直後なのに、僕はあっさりとヒイラギのキスを受け入れ、触れ合えた事に体は歓喜した。 抵抗する事など、どうして思いついたりするだろう。 僕はヒイラギとこうして裸で抱き合う事を心の奥底の方で、いつでも望んでいたのだから。ヒイラギの言うように僕には売女の血が流れているに違いない。 体を弄られ、あちこちを舐め嬲られ、抑える事が出来ずにイヤらしい嬌声を漏らした。ヒイラギに触れられた場所はまるで火が付いたかのように熱くなり、僕は恥知らずにも次第に官能に溺れていった。 終いには、ヒイラギの腰に自ら足を絡ませて、淫らに腰を振りたてていた程。 僕にはろくでもない、淫売の血が流れている。どうしようもなく自己嫌悪に陥る一方で、それでも、ヒイラギが僕の中で果てた時、僕はこのまま死んでしまっても良いと思うほど幸福だった。 醜く焼け爛れたヒイラギの左手の火傷さえ、愛しくて仕方が無いと涙が零れた。 それからは、もう、なし崩しだった。 僕はひたすらジャスを避け、ヒイラギの父と母の目を避けてはヒイラギと情交を重ねた。 僕から誘ったのかもしれないし、ヒイラギから誘ったのかもしれない。その辺は曖昧だったけれど、僕らは毎晩のように家人が寝静まるのを待って、こっそりと抱き合った。 けれども、いつだって僕らの間に言葉は無かった。 暗黙の了解のように、ヒイラギは何も言わないし、僕も何も言わない。 何かを口にすれば、この危うい、薄氷の上を歩くような関係が壊れてしまうと分かっていたからだろう。 ただ、僕らは黙って抱き合い続けた。 口を閉じてさえいれば、それは擬似的な蜜月の行為に他ならなかった。 ヒイラギとの情事に僕はあっという間に慣れてしまったし、昼間とは人が違ってしまったかのように奔放にヒイラギを求めた。 ヒイラギは、そんな淫乱な姿を晒している僕を咎めるでもなく、乾いた旅人が水を求めるかのように情熱的に僕を貪った。 僕は幸せだった。 例え偽りの関係だったとしても、事実を欺瞞で覆い隠した幸福であっても、僕は確かに幸せだったのだ。 「何度言われても、僕は決して都へは行きません」 頑なに僕が言い張ると、ジャスは不機嫌な表情で乱暴にスコアを放り投げた。 「学校の方では、もう全ての準備が整っている。断ることなど出来ない。僕の顔と、校長の顔と、ヒイラギの父の顔を潰す気か?」 「何と言われても、誰に責められようと僕は絶対に行かない」 ジャスは深々と溜息を吐くと額に手を当てて目を閉じていた。暫くして目を開くと、唐突に、 「コハク。君はヒイラギと寝たね?」 と尋ねる。僕は黙ったまま否定も肯定もしなかった。けれど、それが肯定の返事だと思ったらしく、ジャスは鼻でせせら笑った。 「答えなくても分かるよ。君の様子を見ていればね。随分と艶めいて、誰彼構わず誘惑しているようじゃないか」 僕を挑発するようにジャスは言ったが、僕は乗らなかった。ただひたすら沈黙を守る。 「そんなに彼は良かったのかい? 都に行くのが嫌になってしまうほど?」 ジャスは椅子から立ち上がると僕の前に立ち、僕の顎を乱暴に掴むと無理矢理上を向かせた。 「その目で誘惑したって訳だ。大した玉だよ、君も」 「・・・そんな事はしません」 「今更隠し事は無しだよ。ヒイラギと俺とどっちが上手かった?」 僕を見下ろしてくるジャスの表情は決して笑っていなかった。口の端は皮肉っぽく上がっていたけれど、その緑の目は怒りに燃えているようだった。僕にはジャスがどうしてそんなに怒っているのか分からなかった。都に行くと一度は言ったのに、それを翻したから裏切ったと思っているのだろうか。 「そんなに誰かと寝たいなら、僕が抱いてあげるから彼のことは忘れておしまい」 僕の顎を掴みながら、ジャスは切羽詰っているかのように言ったが、僕は何を馬鹿なことをこの人は言っているのだろうとしか思わなかった。 ヒイラギと誰かを比べることなど出来ない。ヒイラギの代わりなど誰にも出来るはずが無いというのに。 僕のそんな気持ちが通じたのか、ジャスは不意に僕から手を離し、お手上げだというように肩を竦めて見せた。 「君を攻めるのはあまり利口なやり方じゃないみたいだね。仕方が無い、ヒイラギに当たってみよう」 「彼に余計な事をしたら許さない」 僕が反射的にそう言うと、ジャスはニヤリと笑った。 「やっと反応したね。余計な事なんてしないよ。君が都に行くように説得してもらうだけだよ」 「ヒイラギは僕に都に行けだなんて絶対に言わない」 そうだ。ヒイラギがそんな事を言うわけが無い。僕らは毎晩のように抱き合っているのだから。まるで、愛し合っている恋人同士のように。 「それはどうかな? 言っただろう? 彼は君とは違う人種だと。君を理解する事は出来ないと。ヒイラギは君を孤独に追いやると知らずに、君の才能を奉る愚か者でしかない」 嘲笑うようにジャスは言ったが、僕はそれを認めることは出来なかった。 「貴方は、自分が呪縛から逃れられなかったからといって僕を無理矢理巻き込もうとしている。けれども、僕と貴方は違う。僕にはヒイラギがいる。僕は孤独になんてならない」 「どうかな? 君はまだ幼い。抗えない運命の力というものを、『才能』という名の下に架せられた呪縛の恐ろしさを知らない。そのうちに、君は知るだろう。そこから逃げる事など出来ないという事を」 もう、それ以上話しても無駄だった。 僕は、ジャスとは違う。ジャスのように孤独に追いやられたりはしない。なぜなら、僕にはヒイラギが居るからだ。何よりも、誰よりも大切なヒイラギが。 幼く、愚かな僕は、その時、頑なにそう信じていた。 |