amber and sacrifice-4 ……… |
それ以来、ヒイラギは徹底的に僕を無視し続けた。 ジャスは勝手に僕が都に行く準備を着々と進めていく。 気がつけば、僕に対する周りの評価は大分変わっていた。教師達は、僕の事を誉めそやし、期待しているから都でも頑張れと叱咤激励する。 学校の生徒達は僕の事をこの町の誉れだとはやしたて、その反面、嫉妬による陰口や嫌がらせもされた。僕がジャスを体でたらしこんだのだというどうしようもない噂は今でもひっそりと続いているらしい。噂の出所はアガットらしかったけれど、僕は、もう、そんな事はどうでも良くなっていたので放っておいた。 最近、アガットはこれみよがしにヒイラギにくっついている。それまで僕がいたはずの場所に、当たり前の顔をして居座っている。 僕は、悔しくて、悲しくて、寂しくて仕方が無かった。 「集中していないね。手が等閑だよ」 不機嫌な重低音で指摘されて僕は思わずセロを弾いていた手を止める。いつのまにか義務付けられていたジャスとの放課後のレッスンの時間の事だ。 教師の言うことだからと、仕方なくレッスンを受けてはいるが、僕は全くやる気など無かった。いい加減、僕のやる気の無さと、凡才ぶりにジャスが失望して諦めてくれないかと思ってさえいる。 それでも、ジャスは諦めずに僕の面倒を見続けているのだった。 「君も大概しぶといな。もういい加減諦めてくれれば良いのに」 「諦めた方が良いのはアナタの方ですよ」 「やれやれ。顔に似合わず、本当にきつい。ヒイラギに対してもそんな風に頑ななのかい?」 「・・・ヒイラギは関係無い」 僕が砂を噛むような気持で答えると、ジャスは酷く意地の悪い顔で笑った。 「君がそんなに頑なに拒むのは彼のせい? 彼とは恋人同士なのかい?」 ───頭が沸騰するかと思った。一体何を言い出すのかとジャスの顔を見上げればジャスは面白く無さそうな顔で僕を見下ろしていた。その薄い緑の瞳はどこか酷薄にさえ見える。 「清純そうな顔をしている割に進んでいるのかな? セックスはしているの?」 嘲るように言われて、今度こそ、僕は頭が沸騰した。 そんなものをするわけが無い。僕達の関係はそんな不純なものではないと思い、怒りに体が震えた。 「・・・そんなこと、そんなことしていない。侮辱するな! 取り消せ!」 僕が怒りに任せて怒鳴ってもジャスは少しも気にした風もない。ただ冷静な表情で僕を見詰めたまま言った。 「でも君は彼が好きなんだろう? 彼とセックスしたいと思っているんだろう? 君はセロよりも、富や名誉よりも、そちらの方が大切だと言うんだろう?」 捲くし立てるように尋ねられ、僕は混乱してしまった。違うと否定したかったのに、思い浮かんだのはあの日ヒイラギとした嵐のようなキスだった。 僕は、あの時、心から気持良いと思い、ヒイラギとどうにかなってしまいたいと思った。確かに、そう思ったのだ。それを思い出して僕は酷くうろたえてしまった。 僕は、思わず大切なセロを放り出してレッスン室を逃げ出した。 違う、違う、と頭の中で繰り返しながら外に飛び出す。霙が冷たく僕の体を濡らしたが、そんな事はどうでも良かった。 たどり着いた楓の木の根元に蹲る。 『流浪の民の売女の血』と言ったアガットの嫌な声が頭の中で木霊した。 目の前に突きつけられて、僕はどうにも逃れる事が出来ない。追い詰められて出る結論は全て肯定的なそればかりだった。 そうだ。僕はヒイラギが好きなのだ。 キスをしたり、裸で抱き合ったりしたいというイヤらしい意味で。 僕は暗澹たる思いで自分の中の気持ちと欲望を認めた。認めざるを得なかった。僕はヒイラギから離れなくてはならないのかもしれない。 どこか、遠くへ行かなくてはならないのかもしれない。 「僕は、都に行こうと思います」 久しぶりに四人そろっての夕食を食べている時に、僕はヒイラギの家族にそう告げた。母は、少しだけ寂しそうな顔をしたけれど、優しく笑って、 「体には気をつけて。つらくなったらいつでも帰ってきて良いのよ?」 と言ってくれた。父は納得したように深く頷いて、 「私もそれが良いと思うよ。君はいつも私達やヒイラギに遠慮しているような所があったけれど、私には君に才能があることが分かっていた。頑張っておいで」 と優しく僕の頭を優しく撫でた。 ヒイラギは。 ヒイラギは表情も顔色も変えず、ただ、淡々と僕を見詰め、 「元気で」 と、一言告げただけだった。冷たい、何の暖かさも感じられない言葉だった。 急に従順になった僕にジャスは最初驚いていたようだったが、敢えて何も言わず、いつもの通り僕に接し、セロのレッスンは続いた。 おかしな話だけれど、僕はジャスのレッスンは嫌いではなかった。 もともと、セロを弾く事は大好きだったのだ。ジャスの教え方はとても上手く、僕は今まで躓いて先に進めなかったところを簡単に乗り越える事が出来たし、自分でもどんどんと上達していっているのが分かってしまう程だった。 セロを弾いている時は僕は別の場所にいける。何も嫌な事は思い出さない。寂しさも追いかけては来ない。僕は逃げるようにセロに没頭するようになり、皮肉な事に、気がつけば学校の誰もが、ヒイラギさえもが追随できないほど先に進んでしまっていた。 「・・・コハクは俺を恨んでいるのか?」 「別に。恨んでなんていません。もう、どうでも良いと思っているだけ」 僕は窓の外の雪を眺めながらぼんやりと答えた。時間はあっという間に過ぎ去り、ジャスがこの学校に来てから既に三ヶ月の月日が経とうとしていた。今は冬の最中だけれど、あと二ヶ月も経ち春の兆しが見える頃には僕は都に旅立つ。 僕の無気力な態度にジャスは小さく溜息を吐いて、僕に近寄ってきた。僕の顎をやんわりと取り僕の唇にキスを落とす。僕は抵抗するでもなく、かといって積極的に受け入れるでもなく人形のようにされるがままになっていた。 ジャスのキスは優しいけれど、僕の心を動かさない。1ミリだって動かす事は無い。 「人々が欲しがる『才能』は与えられた『恩恵』なんかじゃない。そんなものは『呪縛』でしかない。君なら分かるだろう?」 ジャスは穏やかな口調で僕に話しかける。 「逃れる事は出来ない。凡人には持ち得ないものだから簡単に捨ててはいけないと追い詰められ閉じ込められる。これが呪縛でなくて何だと言うんだろうな?」 「・・・僕を追い詰めたのは貴方なのに。そんな事を言うなんて笑える」 僕が皮肉な口調で言うと、ジャスは苦笑いした。 「そうだな。君は俺の犠牲になったようなものなのかも」 そう言ってジャスも窓の外を見る。シンシンとまっさらな雪が降り積もる景色はどこか神聖で、犯し難い静寂がそこにはあった。ジャスの横顔はどこか神妙で、まるで神父に告悔を捧げる罪人のようにも見えた。 「・・・どうして、ジャスは舞台を降りてこんな場所に来たの?」 僕は不意に浮かんだ疑問をそのまま口にしていた。ジャスは窓から僕の方に視線を移し、凪いだ穏やかな笑みを僕に見せた。 「舞台の上は孤独だ。人々は俺を勝手に高みに押し上げ、祀り上げ、そこから逃げ出さないように閉じ込めた。愛する人からも引き離された。もう、孤独で孤独で死んでしまいそうだったよ。そしたらある日、稲妻が落ちたように閃いたんだ。誰かの声が聞こえた。『お前と同じ種類の人間を探せ』とね。 コハクは笑うかもしれないが、君を見た瞬間、俺は君が俺と『同じ種類の人間』だと思った。 ・・・どこまでも深く底の無い海に行ける人間だとね」 静まり返ったレッスン室に彼の低い声が響き渡る。それは、僕が気がつかなくとも何時でも流れ続けていた通奏低音のように僕の中に流れ込んできた。僕はこの孤独感を知っている。どんなにヒイラギの両親やヒイラギに優しくされてもそれは、僕の心の奥底から去ることは無かった。それが、流浪の民の根無し草の魂の呪いであるかのように。 『同じ種類の人間』とジャスは言った。僕にはその意味が漠然と分かっていた。 「ヒイラギはね、君と違う人間だよ。残念ながら、君を完全に理解する事は彼には一生出来ない」 追い討ちをかけるようにジャスが言う。そんな事、僕は知っていた。だから、僕は彼に強く惹かれたのだ。自分とは違う種類の人間だったから。 とても悲しくてやり切れない気持に陥って、僕は思わず涙を零していた。 たまらない喪失感。 耐え難い孤独感。 ジャスは声も立てずに涙を流し続ける僕の頭を優しく抱きしめてくれていた。いつまでも、いつまでも。 淡々と過ぎていく日々。僕はそうして、そのままこの町を離れ、都へ行きヒイラギとも離れ離れになってしまうのだと思っていた。 けれども、運命は僕達には決して易しくは無かった。 まだ僕達が穏やかに過ごしていた頃にヒイラギが冗談で僕が死の預言者バンシーだと言った事があった。僕の髪は呪いの血の赤。呪縛の赤。何時か災いを成すだろうとアガットが中傷混じりに言った言葉があんな最悪な形で実現するなんて、一体、誰が予想できただろう。 その日はどんよりとした濃い灰色の空、吹雪を呼ぶ暗雲がすぐそこまで近づいてきている嫌な日だった。 吹雪が来るといけないから、と言って授業は午前中だけでお終いになり、あとは教室の掃除をして帰宅するだけだった。 僕とヒイラギとアガット、それと数人の級友達は科学室の掃除当番で僕はストーブの灯油がなくなっていたので、それを補充しに行った。事務室から灯油を貰い、戻ってくると何人かの生徒がアルコールランプとマッチで遊んでいた。僕は、危ないなと思いながらそれを見ていたけれど、小さな子供でもないし、わざわざ注意するほどでもないと思ってそのままストーブの方に向かって歩いていった。 タンクを空け、貰ってきた灯油を移す。ドポドポと音を立てて灯油をタンクに入れている時だった。 僕は本当にぼんやりしていて、ふざけていた級友の二人がマッチとランプを取り合っているのに気がつかなかった。そう。ドンとそのうちの一人が僕の背中にぶつかってタンクが倒れ、そこに引火してしまうまで。 まるで爆発するように上がった火の手に僕は驚くばかりで、状況が掴めなかった。 気がついたときには、僕はヒイラギの腕に抱き寄せられて庇われていた。僕のすぐ近くでヒイラギの左手が燃えていた。僕は、呆然としてそれを見詰めるだけで、全く動く事が出来なかった。 そこから先はまるで夢の中の出来事のようで、僕には現実感が少しも無かった。ただ、酷く嫌な、何かが焦げる匂いが立ち込めていて、僕はヒイラギに突き飛ばされて、安全な場所に尻餅をついた時も、何かの悪い冗談だとしか思えなかった。 教師達が慌てて駆けつけてくる。 大きな布をかぶせてヒイラギの左手を燃やしていた炎を抑えた時には、すでに、ヒイラギは意識を失っていた。布の端から覗いたヒイラギの手は、とても人の手とは思えないほど真っ黒で、僕は、それを見た瞬間に気を失ってしまった。 ヒイラギは、三日三晩意識を失ったままで、ずっと熱にうなされ続けていた。 火傷のショックから来る熱で、命に別状は無いと医者は言っていたが、恐らく、ヒイラギの左手は元のように自由に動く可能性は低いだろうと言っていた。 とにかく、酷い火傷だった。左の肩から手の甲まで、醜く爛れてしまった。ヒイラギの象牙のように美しい肌に一生、この醜い傷跡が残るのだ。 アガットは錯乱した状態で、ずっと僕を責め続けていた。僕のせいでヒイラギがこんな事になってしまったと。 後で聞いたところによると、火の手のすぐ傍にいた僕をヒイラギが庇ったせいで、ヒイラギの左手に引火してしまったらしかった。お陰で、僕は少し髪を焼いて顔に軽い火傷を負っただけで済んでいた。信じられないほどの軽症だった。 僕は茫然自失の状態で、ただ、ひたすらヒイラギの看病をし続けた。母にも父にもそんな調子では僕が倒れてしまうからと窘められても聞かなかった。 思いの外、ヒイラギの熱は続いて、ようやく安定した状態に戻ったのは一週間後だった。ヒイラギは火傷が酷く痛むだろうに、僕に対しては落ち着いた穏やかな表情を見せていた。 僕は、学校の事も、セロの事も何もかも忘れ去って、ただひたすらヒイラギに尽くし続けた。いつでもヒイラギのすぐ傍にいて、ヒイラギが欲しがるものを何でも与えてあげた。 ヒイラギ自身が、そんなことはしなくても良いと言っても僕はそうしていた。 一ヶ月ほどの時を経て、ようやくヒイラギは何とか普通に生活が出来るくらいに回復してきた。もちろん、無理はしてはいけなかったけれど、学校に行っても構わないと医者の許可も出た。 久しぶりに学校に行くと、級友達が心配した顔でわっと押し寄せてきた。ヒイラギは、心配をかけて悪かったと穏やかに笑っただけでそれ以上は何も言わなかった。 誰かが、 「手は元通りに動くんだよね?」 と遠慮がちに聞いて、ヒイラギはやはり穏やかに笑った。何もかもを受け入れたような凪いだ静かな笑顔だった。 「元には戻らない。セロはもう弾けないだろう。高等部からは音楽科をやめて普通科に移るつもりだ」 静かに答えたヒイラギの言葉に教室はシンと静まり返った。僕はあまりのことに居た堪れなく、涙が零れそうだった。 医者は、ヒイラギの左手は、やはり多少麻痺が残るだろうと言った。複雑な動きをするようなセロの演奏は恐らく無理だろうと。 ヒイラギはその死刑の宣告にも近い言葉を落ち着いた様子で聞き、取り乱すことも無く納得したように頷いただけだった。僕の方が余程衝撃を受け、動揺していた。 なぜ、腕をダメにしたのがヒイラギだったのか、なぜ、ヒイラギは僕を庇ったりしたのか、僕はひたすら自分を責めた。僕が泣き伏している傍らで、ヒイラギは、 「怪我をしたのが君でなくて良かった」 とぽつりと零した。僕は、それを聞いた時に、もう、死んでしまっていなくなってしまいたいと思った。 流浪の民の血は呪いの血だ。確かに災いをもたらした。仇を成した。僕の最も大切にしていたものをあっさりと奪ったのだ。 ヒイラギのいない場所で、アガットは僕を酷く責めた。お前がいたせいでヒイラギがあんなことになった、お前こそが腕をなくせば良かったのに、と。 酷い言葉だったけれど、いっそ、僕を責めて非難してくれるアガットの言葉の方が余程安心できた。 彼の他は、誰一人として、僕を責めてはくれなかったから。 |