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amber and sacrifice-3 ………
「ねえ、ヒイラギ。一緒にジャスの所に行こう」
 放課後、教室に残っていたヒイラギを誘ったら、ヒイラギは不思議そうに首を傾げた。
「何か用があるのかい?」
「代表の事だよ! 僕は納得いかない。代表にはヒイラギがふさわしいと思う」
 僕がそう言うとヒイラギは苦笑いして、僕の髪の毛を優しく、クシャクシャとかき混ぜた。
「君はまだそんな事を言っているのかい? 僕は、君のほうが代表にはふさわしいと思うよ」
「どうして? 今までは、ずっと君が代表だったのに」
 僕が必死に食い下がろうとしたら、ヒイラギは眉を寄せて困ったような顔をした。
「それは・・・」
「コハクは凄いヤツだよね。よりにもよって、あのジャスパー=ジェードをたらしこむなんてさ」
 ヒイラギが何かを言い掛けた時だった。不意にアガットが僕達の会話に入ってきた。何だかニヤニヤと嫌な笑いを浮かべて僕を見ている。
「たらしこむってなんだよ」
「言葉の通りさ。君がジャスをたらしこんで代表の座を無理矢理ヒイラギから奪い取ったって皆が噂している」
「何を馬鹿なことを!」
 あまりに見当はずれな中傷を受けて僕は顔に血を上らせる。言うに事欠いて、僕がジャスをたらしこんだなんて!
「アガット。冗談でも言って良い事と悪い事がある。コハクがそんなことをする訳が無い」
 ヒイラギが僕をかばうようにアガットを嗜めるとアガットは面白く無さそうに肩をすくめた。
「ヒイラギも随分と人が良いね。自分を陥れた人間を庇うなんて。でも、残念ながら冗談でも嘘でもない。トープが見たと言っていたんだから」
「見たって、一体何を?」
 アガットはヒイラギに尋ねられて、得意げな微笑を浮かべるとゆっくりと僕の方を見た。それから業とらしいと思えるほどゆっくりと焦らす様に口を開いた。
「コハクとジャスが放課後のレッスン室で抱き合ってキスしてる所を、だよ」
 アガットの言葉を聞いて、僕は頭の中が真っ白になってしまった。ヒイラギは酷く驚いたように目を大きく見開いて僕を穴が開くほど見つめている。僕は、こんな時なのにヒイラギに見詰められる事が嬉しくて、ヒイラギのホーリーグリーンの美しい瞳に見とれてしまっていた。
「コハク、本当かい?」
 震える声でヒイラギが尋ねてくる。僕はすぐにでも否定したかったが、出来なかった。あんな無理矢理にされたキスは、本当のキスでもなんでもない。でも、していないと言うとヒイラギに嘘をつく事になりそうで上手に否定できなかった。
「・・・あの・・・違う。違うんだよ」
「へえ。そんな風に焦っているなんて本当だったんだ」
 アガットの嫌な声が後ろで聞こえる。耳障りで嫌な声。
「やっぱり血は争えないって事だね。流浪の民の売女の血が君にもしっかり流れているって事だ」
 違う、と大きな声で否定したかった。けれども、僕は混乱していて何をどう言って良いか分からなくなってしまった。あんなのは本当のキスじゃない。そう思っていたけれど、ジャスがあんな事を僕にしたのは僕の中に流れる汚らわしい血のせいなのかと思った。
『君の髪の毛は血のような赤だね』
とジャスが言っていた言葉を思い出す。
 アガットは昔から言っていた。
『あの髪の毛は呪われた血の色だ』
 僕は突然、逃れられない呪縛の鎖に捉えられて身動きできなくなってしまったかのような息苦しさを感じた。ヒイラギはらしくも無く動揺した表情のまま僕の事をじっと見詰めている。僕は何かを言わなくては、と思っているのに、焦れば焦るほど言葉は浮かんでこないのだった。
「・・・ジャスと・・・キスした?」
 相変わらず震える声で、ヒイラギは僕に小さく尋ねた。僕は首を横に振る事が出来ず、とうとう、小さく頷いてしまった。
「でも、でも、違うんだよ! 僕は嫌だったんだ! 嫌だったのに、ジャスが無理矢理!」
 僕は何とか言い訳しようとしたけれど、ヒイラギは驚愕に目を見開き、それから酷く傷ついたような表情をした。その顔を見て僕の胸も痛んだ。
「君が・・・君が誘ったんじゃないのか」
 押し殺すような低い声でヒイラギが言い、僕は自分の耳を疑った。ヒイラギは、僕がジャスを誘ったと疑っているのだ。代表の座を手に入れるために。
「そんなことしない! 僕は、僕は、絶対にそんな事は!」
「どうして言いきれる? 君は、いつだって、僕の事を誘っているようにさえ見えるのに」

 ───言われた言葉の衝撃で、僕は足元がガラガラと崩れていくような気がした。一体、ヒイラギは何を言っているんだろう。僕がヒイラギを誘っている?

 ヒイラギは僕の表情を見て、失言を悟ったかのように顔を青くしたけれど、口にした言葉を取り消しはしなかった。くるりと踵を返して僕を置いて教室を出て行ってしまった。その後をアガットが慌てて追いかけていく。僕はただ呆然としたまま、たった一人で立ち尽くしていた。







 僕には小さな頃から奇妙な強迫観念があった。
 流浪の民。
 呪われた血の色の髪。
 いずれは誰かに仇成すに違いないと子供の頃から陰口を叩かれて、奇異の目で見られていた。けれども、ヒイラギの両親やヒイラギ本人はそんな悪意から僕を守ってきてくれた。僕は小さい頃からそれが痛いほど分かっていたので、とにかく、何もかも一生懸命頑張って、信仰心を深く持ち、人から立派だと言われる人間になろうと努力してきた。そう、ただひたすらに努力してきたというのに。
 僕はこんなことで躓いてしまった。
 僕は、本当にヒイラギを誘うような恥知らずな真似をしていたのだろうか。分からない。僕はただ、純粋にヒイラギが好きだと思っていただけのつもりだったけれど、ヒイラギの目にはそれがイヤらしいものに映っていたのだろうか。
 あれ以来、ヒイラギは僕を避けて、僕に話しかけてくれない。僕の顔さえ見ようとしない。そんな事は初めてのことで、僕は随分とこたえてしまった。そうこうしている内に、あっという間に冬祭りが到来してしまう。僕は落ち込んだ気分のまま、結局、ジャスに引きずられるようにして冬祭りの演奏会に参加した。演奏自体は問題は無かったと思う。ジャスが、僕と一緒に舞台に立つというのでいつもの演奏会よりも沢山の人が来ていた。初めて、ジャスと一緒に弾いた時よりも、彼は多彩な世界を僕に見せ、相変わらず熱のこもった様な嵐の最中に僕を攫った。それは深い海の光景であったり、森を渡るキセキレイの目に映る空の世界であったり、或いはどこか禍々しい魔女達の晩餐会であったり、光しか存在しない天上の光景であったりした。
 つくづく、彼という演奏家は天才なのだと思ったが、演奏の後に与えられた会場が割れんばかりの拍手と喝采を聞いていた時は、僕が舞台に立つ必要性などどこにあったのだろうかと、虚ろな頭で考えてしまった。
 僕は、何かを失いつつあった。







 ある日の事だ。ジャスが突然に僕が住むヒイラギの家に行きたいと言い出した。一体何のためだと聞いても笑って教えてくれない。僕は嫌だと言い張ったが、彼は半ば強引に、放課後、僕と一緒に家に帰ってきた。
 その頃は、もう、ヒイラギとの仲はすっかりこじれてしまっていて、一緒に帰宅するという事が全くなくなっていたので、その日も結局、僕とジャスの二人で帰ることになった。
 天才奏者であるジャスが訪問した事で、ヒイラギの母はとても驚き、それからいたく喜んだ。父は案外に冷静で、普通のお客さんを招き入れるのと変わらぬ態度でジャスに接していたが、ジャスは終始機嫌が良かった。
 僕達は一緒に夕飯を取る事になり、五人の食卓は僕とヒイラギを除いては概ね和やかだったと思う。
 ヒイラギは、とにかく、徹底的に僕とジャスを無視し続けた。ジャスもヒイラギの存在などないかの様に振舞っていた。その場所だけ放電してしまうのではないかと思うほどピリピリした空気が漂っていて、僕は気が気ではなかった。
 それなのに。
 ジャスは見事な爆弾をそこに落としてくれたのだ。
「実はですね。今晩、お邪魔させて頂いたのはコハクの事についてなのです。この前の冬祭りの演奏会でもお分かりになったとは思いますが、彼にはセロの才能がある。この田舎町でその才能を埋もれさせてしまうには実に惜しい。もし、養父母であるあなた方が許して下さるなら、私はコハクを都に連れて行き、ヨハン音楽学校に入学させたいと考えています」
 僕が良い返事を返さなかったので、とうの昔に諦めていたと思っていた事をジャスは突然口にした。それを聞いた母は少し狼狽したように父を見た。父は、なぜか、そう言われるのが分かっていたかのように冷静な態度で、
「彼の才能を見出して下さった事に感謝します。お申し出は非常にありがたいですし、そう出来たら素晴らしいと私も思います。けれども、一番大事なのは彼の意思なので、彼の意思を尊重したい。コハク。お前はどうしたいと考えているんだい?」
と言った。父が僕を見詰める目は冷静だったが、穏やかで慈愛に満ちていた。僕は、なぜ、ヒイラギの方が才能があると父が訴えないのか不思議でならなかった。
 ヒイラギは、俯いて酷く青ざめていた。それはそうだろう。その誘いを受けるべきなのはヒイラギなのだから。
「僕は・・・僕にはそんな才能はありません。音楽学校に入るのはヒイラギの方がふさわしいと思います」
 僕が最後まで言いきったかどうか、という瞬間だった。ヒイラギはドンと激しくテーブルを叩き、僕を憎々しげに睨みつけた。僕は今まで一度だって、ヒイラギにそんな目で見られたことは無い。とても驚いて、動揺した。
「君は、まだそんな事を言っているのかい? いい加減にしてくれ」
「・・・どう・・・どうして怒るの? 僕は・・・僕は本当にそう思って・・・」
「コハク。少し黙っていなさい」
 僕が動揺したままヒイラギを見詰めて何か言いかけると、父がそれをやんわりと制してヒイラギの方を見た。
「ヒイラギ。君はどう思う? 君の方が都に行くにはふさわしいと思うかい?」
「いいえ。僕にはそんな才能はありません。いつだってコハクの方が素晴らしい演奏をしていた」
「そ・・・そんな! だって、いつも成績は君の方が良かったし、演奏会の代表だって今までは・・・」
「馬鹿だね。コハクは本当に馬鹿だ。そんなのは僕が少しだけ小器用だっただけだし、父さんが学校の理事だったから、先生達が僕のご機嫌取りをしていただけだ。そんなこと、とっくに知っていた。僕は、知ってたんだよ」
 穏やかな口調でヒイラギはそう言うと、僕を見てとても寂しそうに笑った。僕は、そのヒイラギの表情を見て胸が一杯になる。どうして、そんな目で僕を見て、そんな事を言うんだろうかと思った。
「・・・僕は・・・僕は都になんて行きたくない。セロの才能なんて知らない。僕は、僕はずっとこの町に住んでいたいんだから!」
 僕はそう叫ぶと椅子から立ち上がり、そのまま自分の部屋に逃げ込んだ。
 どうして、こんなことになるんだろう。僕は、才能なんて本当にどうでも良いのに。僕の望みはこの暖かい家で、暖かい家族とずっと一緒にいることなのに。
 僕はベッドにうつ伏せてしゃくり上げて泣いていた。何もかもが上手く行かない。訳の分からない奔流に流されそうになり、僕は闇雲に足掻いていた。

 暫くそうしてベッドで泣いていると、ギイとドアが開く音がした。振り向けば、ヒイラギが僕の部屋に入ってきて、パタンと静かにドアを閉めた。
「・・・コハク。君は都に行くのが良いよ」
 穏やかな声でヒイラギは言った。
「嫌だ! 嫌だよ! どうしてそんな事を言うの? ヒイラギは僕が嫌いになったの? 邪魔になったの?」
「そんなことあるわけ無いじゃないか!」
「じゃあ。じゃあ、僕はずっとこの家にいていいだろう?」
「・・・誰もが君の才能を惜しむよ。君は都に行き舞台の上で光や拍手や喝采を浴びる資格があるのだから」
「そんなものはいらない! 僕は、この家にいてヒイラギの隣にいられるなら、他には何もいらないのに!」
 僕が泣き叫ぶと、ヒイラギは僕の腕を強引に掴んで僕の体を引き上げた。そして、あっという間に抱き込んでしまう。あまりに近くにヒイラギの体があって、僕は酷く狼狽した。
「そんな事を言ってはいけない。君は僕から離れるべきだ」
「なぜ? なぜ、そんな酷い事を言うの? 僕が嫌いなの?」
「違う! 僕は君を壊してしまうよ。君の才能を奪って、君自身さえ奪ってしまう。そんな事は耐えられない。僕に、自分自身を軽蔑させないでくれ!」
 悲痛な叫びでヒイラギは僕を強く抱きしめ、強引に僕の顎を掴み、僕にキスをした。奪い取るような、嵐のようなキスだった。
 以前にもジャスに同じような事をされたけれど、ヒイラギとのキスはそれとは全く違った。僕は、突然キスされた事に一瞬驚きはしたけれど、すぐにヒイラギの背中に腕を回して抱きしめた。ヒイラギと離れたくなかったからだ。
 嫌悪感などあるはずもない。僕はまるで夢を見ているみたいにうっとりとして目を閉じ、ヒイラギの唇を受け入れた。しっとりとした彼の唇は思いの外冷たかったが、潜り込んできた舌は熱を帯びていた。
 穏やかな彼の奥の方にはこんな熱が潜んでいたのかと思ったら、訳の分からない衝動が湧き上がってきて、僕は必死で彼に応えようと舌を絡めた。
 素直に、ただ、気持が良いと感じて、そのままヒイラギとどうにかなってしまいたいと思った時だった。
 唐突にヒイラギは僕の体を突き飛ばし、僕から離れた。今まで触れていた場所が体温を失い、急に僕は寒さを感じる。ヒイラギは痛みを堪えるような笑いを浮かべ、
「これが最後だ。お別れのキスだよ」
と言って、あっさりと僕の部屋を出て行った。僕は何を言われたのか判らずに、ただ呆然と部屋の中に立ち尽くしていた。

 夜の静寂が辺りを包んでいる。闇がヒタヒタと音も立てずに、僕のすぐ傍まで近づいて来ている夜だった。



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