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amber and sacrifice-2 ………
「話にならないね」
 唐突に不機嫌な重低音で告げられ、僕はセロを弾いていた手を驚いて止めた。顔を上げてジャスのほうを見れば、彼は苛立った表情で僕をじっと見詰めている。
「あ・・・あの・・・」
「君はこの学校で二番の生徒だと聞いたけど? そんな演奏で、本当に?」
 辛らつな口調でジャスは続ける。僕は誰にもこんな風に厳しく言われた事は無いので驚いて、どうして良いか分からずにオロオロとしてしまった。
「もう君は良い。放課後に補習を行うから残りなさい」
 それだけ言われて僕は自分の席に戻った。次に演奏するのはヒイラギだ。僕の時とは打って変わって、ジャスは目を閉じてじっとその演奏を最後まで聴いていた。
 そして、目を開くと
「君は、全く問題が無いね」
 とヒイラギを褒めた。けれども、褒められたヒイラギはあまり嬉しそうではない。苦笑いにも見える微笑を浮かべ自分の席に静かに戻った。
 僕は酷く惨めな気持ちでその日の授業を受け続けていた。
 僕は確かにヒイラギのような素晴らしい才能はないけれど、セロを弾く事が大好きで、試験の時はいつだって二番になっていた。ヒイラギがいるから一番になれないのは仕方がない。それでも、そこまで辛辣に貶されるほど酷い演奏をしただろうか。いつだって僕よりも成績が下のアガットでさえ、ジャスは「筋が良いね」と褒めていた。

 僕だけ。
 本当に僕だけだった。その日、ジャスにあんなにこっぴどく貶されたのは。

 僕は、憂鬱な気持ちで放課後を迎えた。行きたくなくて仕方がなかったが、レッスン室に一人で向かった。
 僕がレッスン室のドアを開けると、意外なことに彼は僕に向かって屈託の無い笑顔を向けた。
「やあ、来たね。まあ、そこに腰掛けて」
 そう言うと僕に椅子を差し出す。僕は、てっきり、僕の演奏についてすぐにでもお説教を受けると思っていたので、面食らってしまって、思わずジャスの顔を見詰めてしまった。すると、彼は少しだけ困ったように頭を掻き、それから肩をすくめた。
「授業の時も思ったけれど、君の瞳は本当に美しいね」
 唐突に褒められてしまい、僕は一瞬意味が分からずにポカンとしたままジャスの顔を見上げてしまった。
「誰かに言われないかい? コハクと言う名前は実に君に似合った名前だね。その瞳の事だろう?」
 何だか、どこか興奮しているかのように早口でジャスは捲くし立て、僕の肩を掴むと少し強引に椅子に座らせた。
「あの・・・僕は叱られるのではないんですか?」
 戸惑いながら尋ねるとジャスはクスクスと楽しそうに笑う。授業で見たときとは別人のように子供っぽい笑い方だった。
「叱ってもいいんだけどね。まあ、あれは半分は君を呼び出す口実だったからね」
「口実?」
「でも、半分は本当だよ。僕は、才能のある人間にしか厳しい事は言わない。あのクラスで俺の眼鏡に適ったのは君だけだった。他の人よりずっと弾けているのに、あんな風に叱ったりして気を悪くしたかい? それだったら悪かったね」
 バツが悪そうにジャスは言ったが、僕は彼の言っていることが半分も理解できていなかった。
「・・・あの。僕の演奏のどこが悪かったのでしょうか?」
「悪くなど無いよ。未熟ではあったけれど。その未熟ささえも魅力だった。君は、本当に選ばれた人間なんだよ」
「・・・あの。何をおっしゃられているのか分かりません」
「おやおや。お姫様は直截な愛の言葉でなければ理解できないらしい。つまりね」
 ジャスはそこで言葉を切ると、不意に僕の方に顔を近づけてじっと僕の目を覗き込んできた。
 すぐ目の前にジャスの緑色の瞳がある。
 ヒイラギも同じ緑の瞳をしているけれど、もっと深い色で落ち着いている。見ているととても穏やかな気持ちになる瞳。
 けれども、ジャスの瞳はどこか現実離れしていて、僕をとても心許無い気分にさせてしまう。何だか不安な気持ちになってしまうのだ。それなのに、目が離せない。魅入られたように僕は目を逸らす事が出来ずにジャスの目を見詰め返していた。
「僕は君の才能に惚れ込んでしまった。君をヨハン音楽学校に推薦したい。一緒に都に行かないか?」
 無意識のうちにその緑の瞳に見惚れていたせいで、僕にはその言葉がすぐには理解できなかった。頭の中でその言葉を何度か反芻した後、ようやく、その意味が分かった。ヨハン音楽学校とは、都にある、国で一番の権威ある音楽学校だ。
「冗談ですよね?」
 僕は呆然としたまま問うた。
「まさか。こんな冗談は言わない。僕は普段は大概ふざけた人間だが、音楽に関しては決して嘘はつかないし、冗談も言わない」
 ジャスは真剣な表情をしていた。
「でも・・・でも、僕を推薦するくらいなら、ヒイラギを推薦するべきだ。本当に才能の有るのは彼なのだから」
 僕は、それが当然の事だと思って言い返したというのに、ジャスはその言葉を鼻で笑った。
「ああ、あの小器用な演奏をした子? まあ、確かに技術はそれなりだったけどね。あの子はあそこ止まりだよ。才能が有るわけではない。彼は選ばれた人間ではない」
「そんなことは無い!! ヒイラギは天才だ! ヒイラギの才能が分からないなんて、アンタの方が選ばれた人間なんかじゃないんだ!!」
 僕は、ヒイラギが好きだった。彼のセロも。それなのに、僕の大好きな一番大切なものをいとも容易く馬鹿にされて、僕はとても腹が立った。生まれて今まで、これほど腹が立ったことがあるだろうかというほどの怒りだった。
 僕の剣幕にジャスは一瞬鼻白んだが、すぐに自分を取り戻して皮肉っぽく笑った。
「話にならない。全く話にならないね。良いから、セロを出しなさい」
「・・・どうして」
「君は、そもそもセロの補習を受ける為にここに来たんだ。セロを持ってきていないという事はないだろう? 良いからさっさと出せ」
 苛々したように、厳しい口調で命令されて今度は僕の方が少し怯む。気に入らない事を言おうと一応ジャスは僕の先生なのだ。命令は聞かなくてはならない。気が乗らなかったが、嫌々セロをケースから取り出すとジャスの前に座った。見れば、ジャスも自分のセロを取り出していて弾く準備を済ませていた。
 一体、何をするつもりだろう、と思いながら僕はジャスを見た。
「・・・君は可愛らしくて、それでいて妙に艶めいているのに案外気が強いんだね。そういうのも悪くないけど」
 ジャスは悪戯な笑いを浮かべてそう言うと弓をポジションに当てるように僕に指示した。
「バッハの無伴奏組曲」
 そして、曲を弾けと命令する。僕は彼の真意が測れずに戸惑いながらも言われた曲を演奏し始めた。すぐ後にジャスが即興で伴奏を付け始める。伴奏の無い曲に伴奏をつけるなんて非常識な、と思ったけれど、それは本当に一瞬の事だった。

 とにかく、彼の演奏は凄まじかった。有無を言わせぬ引力がある。惹き付けられて振り回される。僕は熱のこもった嵐に攫われぬよう足を踏ん張るのが精一杯。
 僅か二分かそこらの演奏時間だったはずなのに、僕にはとてつもなく長い時間に感じ、全精神力を使っているような舵の取れない敗北感を味わった。
 脳裏に深海が浮かぶ。深海になど行った事が無いはずなのに、そんな光景が目の前に鮮やかに浮かぶのだ。どこまでも広く広がり続け、深く沈み続ける。彼の演奏には底が無い。底が無く無限に無限に上かも下かも分からずとにかく広がっていく。
 主旋律は僕のはずだ。けれども、僕は完全にそれを失念させられていた。

 息苦しい、とにかく引きずられるだけの演奏だったのに、その曲がエンドマークを迎えた時、僕は終わった事に対する安堵感と疲労感と同時に、奇妙な寂寥感を感じた。演奏が終わってしまったことがとてつもなく寂しい、と思ったのだ。
 僕はすっかり脱力して、弓を持つ手をだらしなくダラリと落としたまま、呆然とジャスを見上げた。天才とはこういうものなのかと圧倒され、ただ、ただ、彼の前にひれ伏した。
 彼は、僕の顔を見るとニヤリと不敵な笑いを浮かべ、
「深い海の底が見えたかい?」
 と尋ねた。僕は呆然としたまま、無意識に首を横に振る。
「・・・底なんて見えない。怖い」
 考えなしに、感じた事を素直に口にしただけだ。それなのにジャスは得意げな顔をした。
「そうだろう。凡人には海すら見えない。君ならもっと深くまでいける。一緒にヨハン音楽学校に行くね?」
 そう言われて、僕はようやく理性を取り戻した。
「行きません! たった・・・たったアレだけで才能なんてわかるもんか! ヒイラギに・・・ヒイラギにも弾かせてみれば、もっと上手に弾ける!」
 僕は、心底そう思って言った。僕はヒイラギの弾く無伴奏組曲がとても好きだったからだ。だのに、ジャスは嘲るように笑っただけだった。
「一目見れば天才には天才が分かる。ただそれだけのことだ。残念ながら彼は選ばれた人間ではない」
「そんなこと!」
「本当に君は可愛い顔をしていて意外に煩いね。煩い口は塞いでしまおうか?」
 彼は口の端をチラリと上げて、僕の腕を捻り上げる。何をするんだと抗議しようと思った時には強引にキスされていた。一体全体、彼はどういうつもりなのか。
 僕は腹が立って、腹が立って仕方が無かった。人を馬鹿にするにも程がある。
 思い切り彼の唇に噛み付いてやると、彼は慌てて僕から離れ、それから怒るでもなく苦笑いを浮かべただけだった。
「やれやれ、とんだじゃじゃ馬だ。手懐けるに苦労しそうだな」
「だったら、放っておけば良いじゃないですか」
「そうは行かない。これは俺が音楽の神様から受けた天啓だからね。知っているかい? いつの時代も赤は魔力を司る色だ。君の髪は血のような赤だね? 俺には君の呪縛が見える。人を魔力で魅了してしまう『才能』という名の呪縛だ。逃げる事は出来ない」
 そう言って笑ったジャスの顔は酷く禍々しく、悪魔に魂を売った人間のように見えた。その癖、蠱惑的で魅惑的で目が離せない。悪魔に魅入られるとはこういう事なのだろうか、と、僕は一瞬理性を失いかけた。
 けれども、次の瞬間に思い浮かんだのは、穏やかなヒイラギの笑い顔だった。

 そうだ。僕には暖かで穏やかな家がある。ヒイラギがいる。僕にとって一番大事なのはヒイラギで、才能だのなんだの、そんなものは必要ない。必要ないのだ。
 僕はいつのまにか転がってしまっていたセロを慌てて拾い上げるとすぐにケースに仕舞い込む。
「僕は絶対に都になんて行きません。絶対に」
 それだけ言い捨ててレッスン室を脱兎のごとく逃げ出した。これ以上、ここにいてはいけないと、頭の中で警告の言葉が響いていた。







「冬祭りの代表演奏者はコハクにする」
 冬祭りの一週間前の授業での事だった。ジャスは慇懃な態度でそう告げた。途端に、教室の中がザワザワと落ち着かない空気でさざめいた。それもそのはずだ。僕達が音楽学校に入学してから8年間、一度として僕が代表になったことなど無かったからだ。冬祭りの代表はいつだってヒイラギだった。
 ヒイラギはジャスのその言葉を聞いて、少しだけ訝しげに眉を寄せたが、それ以上は表情に変化を見せなかった。けれども、内心は納得いかず怒っているに違いない。僕は焦って、立ち上がって抗議した。
「待ってください。僕は・・・僕には代表になる程の素晴らしい演奏は出来ません」
 けれども、ジャスはちらりと僕を見ただけで、すぐに視線をヒイラギに移した。
「ヒイラギ。コハクはそう言っているけれど君はどう思う?」
 突然に話を振られて、ヒイラギは少しだけ驚いたような顔をした。けれども、すぐに穏やかな微笑を浮かべ、
「僕は、コハクが代表にはふさわしいと思います」
 と応えた。
 僕には理解できなかった。
 なぜ、真の代表演奏者にふさわしいヒイラギこそがそんなことを言うのか。僕は呆然とヒイラギの顔を見詰めていたが、ヒイラギは決して僕の方を見なかった。その態度がヒイラギの怒りと拒絶を表しているようで、僕はとても不安になってしまった。
 僕は、代表の地位なんて要らない。ヒイラギの横にいさせてもらえて、ヒイラギが僕の事を見てくれるならそれだけで良いのに。どうして、ジャスはこんな余計な事をするのだろうかと腹が立った。
「ヒイラギもそう言っている。代表はコハクだ。異論は認めない。それではテキストの30頁を開きなさい」
 僕が一生懸命抗議する為にジャスを睨みつけていても、ジャスは一向に気に留める様子も無く飄々と授業を開始した。彼が僕の言う事を簡単に聞いてくれるとは思わなかったが、代表など決して務めるつもりはなかった。
 代表にふさわしいのはヒイラギだ。
 僕は、頑なにそう信じていた。



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