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『096:溺れる魚』 ……………………


※『鬼ごっこ』シリーズです。


 すいすいと目の前の赤い金魚が鮮やかに泳ぎまわっている。水色の硝子でできた、大きな金魚鉢の中で。金魚は、草が生まれて初めて行ったお祭りで掬ったものだった。
 もう、一年以上も前の出来事だ。正直、草は、金魚というものが、これほど長生きするとは思わなかった。掬ったときは、草の親指の先ほどしかなかった金魚は、今、草の人差し指ほどの体長に育っている。ひらひらと尾びれを揺らしながら泳ぐその姿は、どこかゆったりとして、草はぼんやりとそれを眺めるのが好きだった。
 もう、秋口とはいえ多少残暑の残る季節だ。昼間は割合に暑い日もある。水の中は、さぞ気持ちいいだろうと、少しだけ草はその小さな赤い魚を羨ましく思った。
 草は、この田舎に来るまで水遊びすらしたことがなかった。だから、当然、泳げるはずも無い。いわゆる『かなづち』だ。泳ぐというのは一体、どういう気持ちなのだろうかと、想像するけれど、いつも途中で失敗してしまう。
 そういえば、こんなにも上手に泳いでいる魚は、溺れたりしないのだろうかと、とりとめのない、子供のようなことを考えた。
 不意に、むせ返るような甘ったるい花の香りがして、草は、ふと顔を上げる。いつの間にか風向きが変わったのだろう。部屋の中に運ばれてくる空気に、金木犀の香りが混じっているようだった。
 嗚呼、秋なのだと季節の変わり目を草は知る。まだ、夏が終わっていないようでも、時間は確実に流れているのだ。誰にも等しく、平等に。
 それは、草にとっても例外ではない。小鳥遊は、とかく草を子ども扱いするけれど、草は、満で十八の歳になった。十八と言えば、世間的には完全に成人している。もっとも、草はあちこちが欠陥だらけで、幾つになっても完全に成人することなど不可能だろうが。
「こちらにいたんですか」
と、後ろで声がする。小鳥遊だ。草は振り向きもせずに、ただ、ぞんざいに、
「うん。金魚を見てた」
と答えた。そんな草を咎めるように、気を引こうとするように、するりと後ろから手を回される。背中を預ける形で抱きしめられても、草は到底、抗う気持ちになどなれなかった。自分を抱きしめているのは、誰よりも好きな小鳥遊なのだから。なぜ、拒絶しなくてはならないというのか。
「草さま?」
 耳元のすぐ近くで声がする。草は反射のようにふるりと体を震わせて、尋ねられるよりも先に、
「小鳥遊、触って」
と言った。どうして、だとか、なぜだとか、疑問に思うことはもう止めた。小鳥遊をずるいだとか、卑怯だとか思うことも。草に答えが与えられないのは、その必要がないと、小鳥遊が考えているからだ。それならば、ただ、欲しいものを強請るだけで良い。懇願すれば、簡単に与えられるそれを。

 結局、あの雷の夜の出来事の理由を、小鳥遊は決して話さなかった。それどころか、話題の端にすら上らせない。上らせないくせに、それと似たようなことをされた事が、三度ほどあった。その三度とも、同じように、何の理由も小鳥遊はくれなかった。
 何も教えてくれない癖に、草の体に何度も触れる。そこに、何か、重大な意味があるのではないかと思わせるような触れ方で。
 白いシャツの釦が一つずつ外される。それを黙って眺めながら、浴衣にすれば良かったと、草はぼんやり考えた。その方が、きっと触りやすいし、小鳥遊も面倒がないだろうとも。
「あ」
と、短い吐息のような声が漏れる。小鳥遊の指が、草の乳首に触れて、そのまま指先で緩く抓みあげられたからだ。どうして、そんなになってしまうのかと思うほど、その場所は敏感だ。背中から繋がる脳髄に、直結しているのでは無いかと思うほど。
 敏感になっている皮膚の感覚は、五感の全てまで鋭くするのかと思う。目を閉じれば、耳がほんの些細な音まで拾い上げる。遠く聞こえる鳥の声は、あれは、鳶だろうか。鼻は小鳥遊の匂いから、むせ返るような金木犀の匂いまで感じ取る。気持ちが悪くなるほどの、甘い花の匂いだ。
 前立ての釦まで外されて、下肢に小鳥遊の手が入り込んできた途端、条件反射のように草の体は前に逃げる。そのせいで、体が金魚鉢を乗せた机にぶつかり、かたんと音を立てた。草は、はっとして目を開く。けれども、金魚鉢の水面がゆらゆらと揺れているだけで、金魚は、さして気にもせず、相変わらずのんびりと泳いでいるようだった。
 簡単に、浅ましく快楽を拾い上げる体。それを、小鳥遊はどう思っているのだろうか。この行為の最中に、小鳥遊は余計なことを言わない。普段も、口数が多いわけではないけれど、でも、草が退屈しない程度には色々な話をしてくれる。それと比べれば、格段に無口だった。
 草は、あまり、性的なことに対して知識が深くない。けれども、これが一方的な行為だということ位は理解できた。一方的であり、決して双方向ではないのだと。
「あ……はぁっ……あ、あ」
 くちゅくちゅという耳障りな音が鼓膜を刺激する。自分の出している、ともすれば、女のような甲高い喘ぎ声が草は嫌いだ。他の音が聞こえればよいのに。せめて、あの時のように強い雨音か、でなければ雷の音でも構わない。
 けれども、窓の外に見える空は憎らしいくらいの秋晴れだ。日も高い。明るい何もかもが丸見えの部屋で、草は後ろから抱きかかえられて、性器を弄り回されている。その羞恥。消え入りたい、と自分を恥じ入りながら、けれども、体は慎ましい草の心を簡単に裏切ってしまう。
「い……や……たかな……しっ……! や……」
 心は、浅ましい自分を嫌悪して、やめてと言うのに、体はもっとと言う。小鳥遊は、大抵、草の口よりも、体の言い分を信用しているようで、それが途中で止められることは、今まで、一度も無かった。
 せめて、理由があれば良いのに。草が、逃げ込める何かの理由が。例えば、それが、草にとって一番都合の良い理由なら、きっと、草はこんなに苦しくなったりしないのだ。でも、そんな理由は与えられるはずがない。でなければ、この行為がこんなに一方通行であるわけが無いのだ。
 限界が近づいてきている。机の縁にしがみついて、草は歯を食いしばる。顔を隠すように、机の上に額をつけて、くぐもった喘ぎをもらした。
「んっ……うぅっ……んんぅっ!」
 どんなに押さえようと思っても、射精する瞬間はびくびくと腰が何度も跳ねる。それが、途方も無くいやらしいようで草は泣きたくなった。実際、眦は微かに涙で濡れていた。
「……いやらしくて、ごめんなさいっ」
 消え入るような小さな声で、草は搾り出すように謝罪する。こんなにも浅ましくていやらしい自分を嫌わないでくれと、言葉に出さずに胸の奥で必死に懇願した。
 小鳥遊は何も言わない。何も言わず、なぜか、草の体を無理に自分に向けさせると、貪るような激しい口付けを草に与えた。呼吸が奪われて、意識が朦朧とする。視界の片隅には、場違いに、赤い金魚が優雅に泳いでいた。否。場違いなのは草の存在そのものだ。
 明るい日向。秋晴れの高い空。むせ返るような甘い金木犀の香り。のんびりとたゆたう可愛らしい金魚。その中に溶け込めない自分は、いつの間にか、どこかすっかり変わって、汚れてしまったような気がした。
 後悔するのが嫌ならば、最初から、小鳥遊に触れさせなければ良い。触れてよいかと聞かれた時に、嫌だと答えれば良いのだ。今では、小鳥遊に尋ねられる前から、草が先に言う。触って、と。なぜなら、草は知ってしまったからだ。好きな人に触れられる快感と、幸福感を。それは、何ものにも代えがたい。だから、草は止められない。縋りつくように、まるで麻薬に犯された中毒患者のように、小鳥遊に触れてくれと願うのだ。
 こんな風に、抱きしめられて、深く口付けられただけで、草は気持ちが良い。頭がぼうっとして、世界と自分の境界線が分からなくなる。伸ばした手が、微かに金魚鉢に触れて、硝子のひんやりとした感触が伝わった。赤い背びれがゆらゆらと揺れている。
 ゆらゆら、ゆらゆら。
 まるで自分が、生温い水の中にいる金魚にでもなったような錯覚がした。けれども、草は泳げない魚だ。狭い硝子の器から逃げられずに、溺れている間抜けな魚。その息苦しさに耐え切れず、草は小鳥遊の唇が離れたときに、つい、うっかりと言ってしまったのだ。胸から溢れて、零れてしまった言葉。
「俺は小鳥遊が好きだよ?」
 大好きな小鳥遊に触れてもらうことは、幸福なことだ。嬉しいことのはずなのに。それでも、やっぱり、何かが辛いようで、草は堅く目を閉じ、少しだけ鼻にかかった声で告白してしまった。あれほど、告げることが怖いと思っていたはずの事実は、実際に口に出してしまえば、酷く軽いことのようにさえ思える。きっと、小鳥遊もそう感じたのだろう。返ってきたのは、一瞬の沈黙と、何の感情の起伏も感じさせない、
「……知っていました。ありがとうございます。私も、草さまが好きです」
と言う、穏やかな声だった。後半の、取って付けたようなおべんちゃらは、草には何の意味も無い。意味があるのは、小鳥遊がそれを知っていた、という事実だけ。それを聞いた途端、草は呆然とした。そして、今まで理由の分からなかった小鳥遊のあれこれが、全て理解できた気がした。
 目を閉じているから小鳥遊の顔は見えないけれど、きっと、なんの揺らぎもない、いつもと同じ表情なのだろう。そんな顔は見たくない。本当は好きなはずの、優しい穏やかな笑顔を、そんな風に思う日が来るなど想像すらしていなかった。
「そう……なんだ、知ってたの。だからなんだ」
 そうなのか、ただ、それだけの事だったのかと草は絶望にも似た思いで俯いた。一体、そこに何の意味を見出そうとしていたのか。あまりに愚かな自分に笑いさえ零れてくる。
 そして、小鳥遊が憐れになった。欠陥だらけの愚かな坊ちゃんの世話役など引き受けたばかりに、こんなことになって、不幸なこと極まりない。
 自分を抱きしめる大人の腕から、草は、そっと体を離した。目に入ってくるのは、明るい日差しに照らされた畳の目ばかり。そこに、ぽつりと雫が落ちる。落ちたのは三つだけ。それ以上は、落とさなかった。
 外から、鳶の声が聞こえる。そして、甘い、金木犀の香り。生まれて初めて、草は、意識して口の端を上げた。それを『作り笑い』と言うのだと知らないまま。

「それも、お世話の一つなんだ」
と、独り言のように小さく呟いた言葉は、小鳥遊には届いていないようだった。

 そっと顔を上げれば、小鳥遊は少しだけ困ったような顔をして、草の服を整えようと手を伸ばしてきた。草は、それをやんわりと叩き落す。そして、にっこりと笑った。なるべく、綺麗に見えれば良い、と思いながら。
「大丈夫。これくらい、自分で出来るから。小鳥遊。もう、そんなに『私』を甘やかさなくて良いよ」



 小鳥遊の目を見つめ、笑ったまま草が言ったなら、なぜか、小鳥遊は眉を顰め、おかしな顔をした。






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