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『009:かみなり』 ………………………………

*『078:鬼ごっこ』『084:鼻緒』『065:冬の雀』『021:はさみ』『050:葡萄の葉』の続編です。そちらを先にお読みください。



 耳を劈くような、大きな轟音に草はびくりと体を震わせた。盆も過ぎ、そろそろ秋の気配が濃厚になり始める、そんな時節だ。夏の宵。薄暗い部屋の灯りなどよりも、はるかに眩しい瞬きが、時折部屋にまで差し込む。
「盆雷ですね」
と、卓を挟んだ向かいで小鳥遊は硝子戸の向うに目をやりながら呟いた。卓の上には、麦茶の入った硝子の器が二つ並んでおいてある。緑色の小振りなその器は、薄っすらと汗をかいていた。雨が差し込むといけないからと、硝子戸を締め切っているせいで、部屋の中は常より湿度が高い。けれども、もともと体が弱く運動することもままならない草は代謝が悪く、さして汗もかいていなかった。
「盆雷?」
 草は聞き慣れない言葉に首をかしげ、小鳥遊を見やる。
「ええ、この時期になると時々、こんな風に激しく雷が鳴るんです。それを盆雷と言うんですよ。これが過ぎると、大抵涼しくなって、夏が終わるという感じなんですが」
「ふうん」
 小鳥遊が目を向けている方に、草も視線を移しながら相槌を打った。短い間隔で、稲妻が明るく走り、そして轟音が鳴り響く。酷く近くに落ちているようで、少しだけ怖かった。
 別段、草は雷を怖がる子供ではないが、それでも、この家に落ちてしまったら、だとか、この庭の一番素晴らしい松の木に落ちてしまったら、と不安にはなる。そんな草の気持ちを読んだかのように、小鳥遊はすっと立ち上がると、卓の脇を移動して草のすぐ横に来た。卓に乗せた肘が触れそうなほど、近い。その距離に、草はいつものごとく、心臓を跳ね上げる。
 特に、最近の小鳥遊の距離のとり方に、草はずっと戸惑い続けている。草の兄が小鳥遊に見合いの話を持ってきて、それを勧めた草に、小鳥遊は見合いなどしないと断言した。そして、なぜか、草に口付けたのだ。あれ以来、小鳥遊は今までに無いほど、草との距離を縮めようとする。あの口付けの意味すら未だに草は見つけられないというのに。
「ど、どうして、そんなに近くに来るの?」
 ほんのり耳を薄紅に染めて、草は困ったように尋ねる。
「雷が怖いからですよ?」
と、どこかからかうような表情で小鳥遊は答えた。草は意味を取り違え、拗ねた表情ですぐ隣の小鳥遊を睨み上げた。
「子供じゃあるまいし、雷が怖いわけ無いだろう?」
 咎めるように草が文句を言うと、小鳥遊はくつくつとさも楽しそうに笑い、
「違いますよ。私が、雷を怖がっているんです」
と少しもそうは見えない表情で答えた。また、自分を子ども扱いして、馬鹿にしているのかと草は腹を立てる。憎まれ口の一つも叩こうかと小鳥遊の目をじっと見つめ、すぐに、はっとしたように口をつぐんだ。そして、そのまま、慌てたように視線を逸らす。小鳥遊は笑っていたけれど、でも、その目は笑っていないことに気がついたからだ。
 最近の小鳥遊は、よく、こんな目をする。草が注意深く見なければ気がつかないほど、微かな、けれどもはっきりとした色を、その瞳に乗せている。それを何と呼ぶか分からない。分からないけれども、その視線を向けられると草は逃げ出したい気持ちで一杯になってしまうのだ。何が、と言うわけではないが怖い。なぜ、小鳥遊を怖いだなどと思うのだろうか。小鳥遊は、変わらず、草には優しいし、主治医としてだけれど尽くしてくれているというのに。だから、それは、理由の無い、本能的な怖さに近かった。
 この時もそうだった。けれども、まさか、不自然に席を立ち、別の部屋に行くわけにもいかない。本心ではそうしたかったけれど、なぜだか、それが許されないような奇妙な濃密な空気がそこにはあった。
 不意に稲妻が走り、庭の池から、灯篭から、枯山水の隅々までを明るく照らし出す。一瞬の陰影。そのすぐ後に雷鳴。かなり、雷が近づいているようだった。草は、じわじわと湧き上がってくる落ち着かなさを、雷のせいにした。落ち着かないのは雷が近いせい。空気が重苦しいのは、湿度が高いせい。たとえ、そこに、どろどろとした密度の高い甘いものが混じっていたとしても。
 ごくごく自然な態度で、小鳥遊の手が卓上の器に伸ばされる。褐色の液体を一口、喉に流し込むと、小鳥遊は再び器を元の位置に戻した。そして、そのまま、手を卓の上に置く。その手が同じように卓上にあった草の手に、微かに触れた。触れた瞬間に、さっと退ければ良かったものを、草は自然な態度を心がける余り、時機を失う。触れ合ったままの手が、奇妙に体温を伝え合い、尚更、草の胸中を落ち着かなくさせた。
 小鳥遊の手は大きい。指が長く形は綺麗だけれども、節ばった男の手だった。そして、いつでも、ひんやりとして気持ちが良い。草はいやと言うほど、その事を知っていた。
 何度も何度も、診察されたり、あるいは世話を焼かれて、その度に、草は自分の体のどこかしらに、その手で触れられた。その感触を草はぼんやりと思い出す。
 庭先で、また、稲妻が走り、そしてその直後に鋭い雷鳴。
「触れてもいいですか?」
と、他愛ない世間話のような口調で小鳥遊は問うた。草は、雷と、思い出した小鳥遊の手の感触に意識を奪われていて、きちんと聞いていなかった。無意識のまま、触れ合った小鳥遊の手だけをぼんやりと見つめていた。だから、迂闊にも、
「うん」
と、許可を与えてしまったのだ。
 小鳥遊の『触れる』は広義だ。何処に触れるとか、何で触れるとか、具体的に言わない。その言葉の含む範疇の広さを草は理解していない。理解していないのに、否といえない。小鳥遊に触れられることの心地良さを知っているからだ。それ以前に、草は小鳥遊が好きだから。小鳥遊が自分に懇願することを、拒絶したりできるはずがない。
 小鳥遊が草に触れても良いかと尋ねることは、別に、これが初めてではなかった。あの日の口付け以来、何度か懇願されたことがある。それは、縁側でぼんやりと庭を眺めながら夕涼みをしていた時だとか、暑い昼下がりに小鳥遊がどこからか手に入れてきた水蜜桃を食べていた時だとか、様々だった。けれども、そのどれの時にも、こんな濃密な空気が漂っていたことは無い。漂っていたとしても、それは開け放たれた窓から、硝子戸から、霧散して分からなくなっていた。
 今は、その空気が逃げる隙間が無い。締め切られた部屋と、秘め事を紛らせてしまう暗闇がすぐ隣にある。そして、全ての音を掻き消してしまう雷鳴。
 色事になど全く免疫の無い草が、そのことに気が付く由もなかった。当然、それが、どんな危うさを孕んでいるかなど想像さえ出来ないだろう。ただ分かるのは。
 一際明るい稲妻で部屋が一瞬昼間のように照らし出される。草がびくりと体を震わせて外に視線をやるのと、小鳥遊の手が思いもよらぬ強さで草の手を握り締めたのは同時だった。その直後にすさまじい轟音。じじじと、夏の虫が火に飛び込んだような音が聞こえて、部屋の灯りが唐突に途絶えた。
「な…何?」
 不意に訪れた闇に怯える草とは対照的に、小鳥遊は、ややもすれば不自然と思える悠長な、ゆったりとした口調で、
「ああ、停電ですね。雷が落ちたのでしょう」
と告げた。そして、そのまま草の体を自分の胸のうちに抱きこんでしまう。暗闇に目の慣れない草は、小さな赤子のように易々とそこに閉じ込められてしまった。草の体は条件反射のように竦み上がる。その反応の理由が草には理解できない。
 小鳥遊の体がすぐそこにある。草よりも若干低い体温と、草とは違う体の匂い。それだけで、草の心臓は早鐘のように打ち、頭の天辺から爪先まで訳の分からない痺れが走り、体中の力が抜けてしまう。それなのに、相反するように、草は不安に怯え、本能的な恐怖にすくみ上がるのだ。
 その二つの反応が同時に起こるから、尚更草は混乱して、訳が分からなくなる。
「草さま」
と、すぐ耳元で声がする。いつもは穏やかで、飄々とした小鳥遊らしからぬ、どこか詰まったような声だった。けれども、草が気になるのはもっと別の事だ。小鳥遊の口と、草の耳が近すぎる。小鳥遊の吐き出す言葉や息に耳元が擽られて、それが草は気になって気になって仕方が無かった。嫌だ、やめてと小鳥遊を突き飛ばしたくなる。小鳥遊が好きなのに。抱きしめてもらえることは、距離がこんなにも近いことは嬉しいことのはずなのに。どうして、そんな些細なことが気になって仕方が無いのかと思うほど、草の耳元の皮膚は酷く鋭敏になっていた。
「草さま」
と、もう一度名前を呼ばれて、草はむずがる子供のように、声も無く、ただ嫌々と首を微かに横に振った。窓の外では、また、光の瞬き。一瞬だけ照らし出された小鳥遊の表情は、今まで、一度も草が見たことの無い顔をしていた。こんな小鳥遊を、草は知らない。
「私は今、多分、おかしくなっているので」
 そう言う小鳥遊の声も、いつもとは完全に違っていた。
「本当に嫌だったら、嫌だと叫んでください。泣いて叫んでください。そうでないと」
 そうでないと、多分、止まりませんと良く分からないことを言って小鳥遊はいくらか強引な態度で草の体を畳の上に押し倒した。か細い、悲鳴のような草の声は、ちょうど鳴り響いた雷鳴にかき消される。
 乱暴な仕草で押し倒されたはずなのに、けれども、草の体の何処も痛むことなど決して無かった。草を抱きこんだ腕が、衝撃を全て吸収して草の頭やら体やらを庇ってくれたからだ。だから、草は油断する。少しだけ安心して体を預けてしまう。やっぱり、自分の体を思いやり、気に掛けてくれるいつもの小鳥遊と何も変わらない、と。だが、それも一瞬だった。
 払いのけられた浴衣の裾と、両の膝に置かれたひんやりとした手の感触に、草は大げさなほど体を震わせた。反射のように、触れられたその膝を立てて逃げようとする。けれども、それは全く逆の効果をもたらしてしまった。容易く割られる膝。その間に他人が入り込むことの無防備さと心許無さを、草は知らなかった。意思に反して竦み上がる体と、本能的に逃げようと閉じられた足。けれども、それは入り込んだ体を挟み込むことになっただけで、ますます草を窮地に追いやった。
「た…たか…なしっ!」
 悲鳴のような声で名前を読んでも、返事は返ってこなかった。返ってきたのは無言の口付けだ。それも、今までされたことのある、触れるだけの、優しいそれとはまるで違う。
「…んっ…んぅ…ふっ…」
 入り込んできた舌に、声も呼吸さえも吸い取られてしまう気がした。これは何、と、ただ、ただ、草は混乱する。膝の裏から内腿を撫で上げられた感触があった。走った寒気は、嫌悪だったのか、それとも快感だったのか草には分からない。
「んんっ!」
 叫んだはずの悲鳴は小鳥遊の口に全て吸い取られてしまう。ただ、ひたすら、怖い怖い怖い、と頭の中で叫び続けたけれど、小鳥遊はそれには気が付いてくれない。
 叫べば良いのだ。泣いて嫌だと叫べば良い。そうすれば小鳥遊はやめると、さっき言ったのだから。けれども草は叫ぶことが出来なかった。出来たのは、ただ、恐怖を逸らすために、畳の上に爪を立てることだけ。ぎり、と畳の傷んだ感触が指先にあった。爪の間に、い草の欠片が入り込んだ感触。けれども、その音は掻き消された。雷の音にではない。雨の音にだ。
 先ほどまでは然程強くなかった筈の雨脚が、いつの間にか滝のような強雨になっていたことに、その時、草は気が付いた。雨が強い。けれども、その分、雷は遠くなってしまったようだった。
 裾と同じに乱された襟元に、草が気が付いたのは鎖骨の辺りをざらりと舐められたからだった。ひっと草は悲鳴を上げる。この距離なのだから、小鳥遊に聞こえないはずが無い。それなのに、小鳥遊は動きを止めない。次第に下がっていく頭は、暗闇の中、簡単に草の小さな乳首を探り当ててしまった。
「ああっ!」
 無意識の喘ぎ声が漏れて、腰が畳から反射のように浮き上がる。浮き上がって、小鳥遊の体とぶつかった。何が何だか分からないまま、草はひたすら畳に爪を立て続けた。叫べばいいのだ。嫌だと叫べば良いだけ。なぜ、そんな簡単なことが出来ないのかと草は混乱する。怖くて逃げたい草と、これは一体何なのか見定めようとする草と、二人の自分がいた。
「嫌ですか? 不快ですか?」
 たった一度だけ、小鳥遊は確認するように尋ねた。嫌だ、と怖がる草は訴える。それなのに、草の口から零れた答えは、
「い…嫌じゃな……」
という、まるで自分の声ではないような、不安げなか細い声だった。小鳥遊は、それ以上は何も言わなかった。裾除けまで完全にはだけて、きわどい所を彷徨っていた手は、いともあっさり、草の秘所を探り当てる。
「ひっ…あっ…な…にっ…?」
 草の常識では、そこは他人になど触れさせる場所ではない。そもそも、不浄の場所なのだから、小鳥遊に、好きな人になど晒したくもないのに。
「や…きたな…汚いっ! そんな所…触ったら…だ、だめっ!」
 悲鳴のように草は訴えたけれど、小鳥遊は聞きもしない。ただ、押し殺したような声で、
「何を馬鹿な。草さまの体で汚い場所なんてありません」
と答えただけだった。
「嘘、嘘」
と、半ばしゃくりあげて泣きながら草は体を捩ったけれど、小鳥遊に上から体重を掛けられて、畳に押し付けられただけだった。
 草の知っている性的なことといえば、数えるほどにしかしたことのない拙い自慰だけだった。そもそも、草は色んな意味で発育不良だったし、それは、性的なことに関しても同じだった。その上、家族や小鳥遊が過ぎるほど過保護に、純粋培養で囲ってきたせいで、知識そのものも薄い。だから、小鳥遊の施す手淫は、草にとって未知の脅威だった。
 それが快感だと認識できずに、鋭い感覚にびくびくと体を震わせる。未成熟な性器をその節ばった手で握りこまれて弄り回され、その間中、首筋やら耳元やら胸元やらに唇を落とされ、舐められ、甘噛みされた。
 草は混乱して、けれども鋭いそれらの刺激から逃げることも叶わず、ただ、悲鳴のような喘ぎ声を何度も何度も上げる。
「たかっ…小鳥遊っ! やっ! …怖いっ! …あっ! ああっ! 小鳥遊っ!」
 良く分からない酷いことをされている。小鳥遊から逃げなくてはと思うのに、けれども、結局、草が縋り付き、助けを求め、頼る相手は小鳥遊しかいないのだ。その矛盾が、さらに草を追い立てる。
「たかっ…たかなっ…んっ、んぅ!」
 何度も何度もその名前を呼ぶので、何か差し支えたのだろうか。小鳥遊は常に無い激しさで、草の唇を塞いだ。呼吸が苦しい。とっくに動悸はあまり芳しくないほど激しくなっているし、絶対に、体調を崩すだろうと、ほんの欠片だけ残っていた理性で草は思った。
「んんんっ!」
 逐情した瞬間の喘ぎ声まで、小鳥遊の唇に盗まれて、草は急速に疲労感に襲われる。何か考えなければいけないはずだ。例えば、たった今、行われたことの意味や小鳥遊の意図について。けれども、とても、意識を保っていられそうに無かった。下へ下へと落ちていくような錯覚。結局、草はそれ以上、何かを考えることが出来ずに、半ば気を失うように眠りに付いた。眠りに落ちる瞬間の耳が、おぼろげに音を拾い上げる。もう、雷の音は聞こえない。激しい雨だけが、いつまでも降り続いている。暗闇はまだ暗闇のようだ。
 結局、朝まで、停電が復旧することは無かった。


 唐突に、ぱちりと草は目を覚ました。一番最初に目に入ったのは、見慣れた天井の木の目だった。部屋の中は、差し込む朝日で随分と明るい。一体、いつの間に雨が上がったのだろう。昨晩は、洪水になってしまうかと思うくらいの強い雨が降っていたというのに。
 草が何かを思い出すよりも、
「草さま、おはようございます。体調はいかがですか?」
と、小鳥遊に声をかけられるほうが先だった。小鳥遊の優しげな笑顔は、いつもと全く同じだった。いつもと変わらぬ態度と口調。だから、草は一瞬混乱する。昨晩の出来事は夢か幻だったのだろうか、と。けれども体の芯の部分に残るだるさが、あれは夢などではないと伝えている。草は横たわったまま、じっと小鳥遊の顔を見つめ、
「小鳥遊…昨日」
と言ったきり、黙り込んでしまった。その先を何と繋げていいのか分からない。けれども、そんな草の戸惑いを無視するかのように、小鳥遊は、
「朝食は食べられますか? もう、今朝は遅いですし、昨日の豪雨の後ですから、散歩は諦めた方が良いですね」
と言った。そこには、いつもとなんら変わらぬ態度を崩すつもりは無いという、頑なな意思が覗いている。だから、草は結局、それ以上、何かを言うことは出来なかった。ただ、途方にくれた子供のように、俯き、小さな声で、
「そうだね」
と相槌を打った。泣いてはいけない。なぜだか、そう思い込んで、だが、堪えきれずに、草は一度だけぐすりと鼻を鳴らした。けれども、小鳥遊は何も言わなかった。本当に気が付かなかったのか、気が付かない振りをしたのかは分からない。
 だから、仕方なく、草は笑った。顔を上げて、小鳥遊に笑って見せたなら、なぜだか、小鳥遊は、奇妙な顔をした。




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