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『050:葡萄の葉』 …………………

*『078:鬼ごっこ』『084:鼻緒』『065:冬の雀』『021:はさみ』の続編です。そちらを先にお読みください。




「まだまだ、青いね。葡萄狩りなんて、当分無理だ」
 と、少し残念そうに、その青い房を見上げながら傍らの、どこかあどけなさの残る少年は呟いた。夏の盛りとはいえ、早朝ならばそれなりに涼しく、散歩をする程度ならば苦痛は無い。けれども、もとが病弱で喘息を持っている少年だから、当然、無理など出来ない。
 少年の体調が、かなり改善の兆しを見せ始めたと、この早朝の散歩を始めたのは、ここ一週間ほどの事だった。散歩と言っても、住んでいる小さな(とはいえ、普通の民家に比べれば中庸といえるし二人で住むには広すぎる位だろう。ただ、少年の実家に比べれば随分と小さい、ということだ)屋敷から、ほんの数百メートル離れた場所にある果樹園まで来ているだけなのだが。それでも、こんな風に元気に出歩けることが嬉しいらしい。
 小鳥遊の心配をよそに、彼の主である少年、草はさして体調を崩すこともなく、毎日軽快にその行き来を楽しんでいる。果樹園の中はどうなっているのだろうと草が興味深そうに外から眺めているので、小鳥遊が気を回して、その地主に中に入れてもらえないだろうかと申し出たのが昨日。田舎の気さくなその地主は、ご自由にどうぞと、今朝の入園を許可してくれた。
 桃と葡萄と梨が中心で林檎も多少作っているんですよ、桃がもうすぐ終わり、これからは葡萄が盛りなんですと教えてもらったので、葡萄園の方に来ては見たが、やはり、少し時期が早すぎたようだった。葡萄狩りもさせてくれるというその場所は、今はしんと静まり返って、気の早い蝉の声しか聞こえない。
「季節になったら、また来れば良いですよ?」
 と小鳥遊がその華奢な肩に手を置いて窘めると、草は一瞬だけ、体をびくりと揺らし、それから、不安げな表情で小鳥遊を見上げた。ほんのりと頬を赤く染めて素直にこくりと頷く。そのどれもが意識しての事ではない。けれども、小鳥遊は苦々しい気持ちになった。まるで、手練手管に長けた娼婦に、誘惑されているような、そんな気分。忌々しい気持ちになるのは、余りに身勝手だ。草に罪は無い。何の罪も無いことを一番分かっているのは小鳥遊自身だ。一番、ふさわしい言葉は何かといえば『自業自得』だ。
 何もかもを自分の思う通りに転がしてきたはずだった。源氏を気取り、紫の上を育てているつもりにでもなっていた。掌の上で操っていたつもりが、気が付けば、どうしようもないくらい、自分の方が振り回されている。時に、理性で衝動や激情を抑えきれないほど。
 小鳥遊は草を様々な意味で深く愛しているし慈しみ、大切にも思っている。けれども、所詮、小鳥遊にとって、草は自分の所有物で支配下にあるという侮りがどこかにあった。もちろん、力ずくで自分の思った通りにしようだとか、そんな乱暴な意味ではない。ただ、草は小鳥遊にとっては『子供』だったのだ。こちらが下手に出たり、懇願すれば草が結局は小鳥遊の思った通りに動くことを小鳥遊は知っている。知っていたし、今まではそうしてきた。自分が下位に立ったように見せて、主導権を握ってきた。けれども、小鳥遊は重大なことを失念していたのだ。
 子供はいつか、大人になるのだということを。

 小鳥遊が草と初めて出会ったのは、草が五歳、小鳥遊が十五歳のときだった。清岡の跡取り、つまり草の父親に小鳥遊が気に入られ、身寄りの無い苦学生だった小鳥遊を援助してやる、と言う話が決まったのがきっかけだった。
 草は清岡家の末っ子で、小さな頃から大層体が弱く、小鳥遊と知り合った頃は、殆ど外に出たことが無かった。けれども、悲壮感や暗さの無い、無邪気な明るい、そして綺麗な子供だった。
「草。お前に、新しい兄が出来たぞ」
 と面白半分に小鳥遊を紹介した清岡の言葉を真に受けて、草は嬉しそうに笑った。
「本当? 新しい兄様は僕と遊んでくれるの? 沢山、家にいてくれる?」
 と大きな瞳をくるくるとさせて、草は簡単に、無防備に小鳥遊に懐いてしまった。草は清岡の歳が行ってからの子供で、一番年齢の近い姉でさえ、十四も歳が離れていた。皆、仕事を持ち、独立していたから、草を溺愛してはいたけれど、いつも一緒にいてくれるというわけにはいかない。きっと、草は幼いながらに寂しかったのだろう。
「草さま、私の事は小鳥遊と呼んで下さい」
 と困ったように頼んだ小鳥遊に草は不思議そうに首を傾げ、
「たかなし? …たかなし。分かった」
 とにっこり笑った。その笑顔を、小鳥遊は今でも鮮明に覚えている。一目で小鳥遊を虜にしてしまった、天使のような無邪気な綺麗な笑顔だった。けれども、その直後に草はけほけほと咳き込み、可哀想なくらい顔を青ざめて、寝込んでしまった。
 いつもの事なんですよ、最近ずっと体調が悪くて、と、当時の草の主治医は小鳥遊に教えてくれたけれど。そのせいで、小鳥遊にとって草は少しでも力を入れれば、ぱきりと折れてしまう、繊細な硝子細工のような儚い不安定な存在だとも刷り込まれてしまった。
 少しして、草の体調が戻った頃に、小鳥遊は草に花を持っていったことがある。春先の事だ。花屋で買った高価な花などではない。外に出られないという草に、少しは季節を感じられるだろうと気まぐれに手折っただけの、路傍の菜の花たった一輪だった。
 小鳥遊自身は、たいしたことの無いものだと思って、ほんの気休めにと差し出しただけだった。けれども、草は酷く喜んで、はしゃいで、
「嬉しい、たかなし、ありがとう、ありがとう。これは、春の花だね」
 と草こそが、春に綻ぶ花のように笑ったのだ。
 小鳥遊は、この時、生まれて初めて『愛しい』という言葉の意味を知った。そして、その時から、小鳥遊は草に深い愛情を注ぎ始めたのだ。けれど、もちろん、草がまだ小さい頃はそれは慈しみであり、父性愛のようなものだった。それが、いつの間にかそれだけに収まらなくなっていたのだと気が付いたのは、聡い小鳥遊にしては遅い時期のことだった。
 小鳥遊は清岡の家に書生として居候しながら学校に通っていた。勉強以外の時間は、なるべく草の為に割き、上げ膳据え膳から湯浴み着替え家での家庭教師に至るまで、出来ることは何でもやった。だから、草の世界の大半は小鳥遊が意識していなかったにしろ、結果的には小鳥遊だけで占められていた。その異常さに、小鳥遊は最初気が付いていなかった。
 いくら小鳥遊が草の世話を焼きたがっても、医者の範疇には踏み込めない。だから、医学の道をごく当たり前に選んだ。その時でさえ、気が付いていなかった。
 当時の主治医が草を診察している時間に、苛立ちやもどかしさを感じている自分をその時は、まだ、小鳥遊は自覚していなかったし、年頃の若者らしく、それなりに、普通に外で女と遊んだりもしていた。
 自覚は唐突に訪れた。いつものように、草が喘息を患って、ぜいぜいと苦しげな呼吸を繰り返している、そんな時だった。意識が朦朧としているのだろう。主治医に胸元を診察されながら、草は、苦しい、苦しいとうなされていた。こういう時には、悲しいかな、小鳥遊に出来ることはない。部屋の片隅で、診察の邪魔にならぬよう、ただそれをじっと見ていただけだった。余程苦しかったのだろう。草は、助けを求めるように目の前の医者に手を伸ばしたのだ。医者は草を安心させるためにその手を、優しく握ってやった。
 その時、小鳥遊の内側に湧き上がった感情は、酷く剣呑なものだった。嫉妬と憎悪に近い。人のものに勝手に触るなと、小鳥遊は当たり前のように思ってしまったのだ。いつもは、小鳥遊、小鳥遊と自分に一番懐いている草が、自分以外の人間に縋るのも許せなかった。それで、小鳥遊ははっとしたのだ。気が付いてしまえば、自分の行動の何もかもに、納得がいった。
 小鳥遊が好んで付き合った女性は、その誰もが、細身でどちらかと言えば中性的な雰囲気の人ばかりだった。髪や目の色は真っ黒よりも、幾らか明るい方が好みで、顔の造りは童顔の方が良かった。それは、つまり、草に似ている人間だということだ。
 仕舞いには、女性と交わりながら、草の姿が頭に浮かんでくるようになり、小鳥遊は腹を括った。

 草は、小鳥遊を穏やかで優しい男だと思い込んでいるが、実際の小鳥遊はそんなに清廉潔癖な人間などでは決して無い。どちらかと言えば、自己中心的な性質だと自覚している。そうでなければ、自分の度が過ぎた草に対する愛情と、独占欲と、執着に気が付いたときに、離れる道を選ばずに、草を自分のものにして囲ってしまうことを計画したりしないだろう。
 だが、哀しいかな、草は全くそれを理解していない。優しさから、小鳥遊が草の全てを引き受けたと考えている。今までは、それで都合が良かったので、敢えて、小鳥遊はそれを訂正しなかった。草を自分の思った通りに転がすには、その方が簡単だったからだ。それだけを見ても、小鳥遊は自分が相当に自分勝手な人間だと思う。けれども、草を手放せないのだから仕方が無い。愛情に嘘はないのだ。だがしかし。

 子供はいつかは大人になるのだ。本人が、周りが、望むとも、望まなくとも。



「あちらの葡萄は、少しだけ色が付きはじめているよ。小鳥遊、見てごらんよ?」
 あどけない子供のように、はしゃぎながら上ばかりを見上げている草に、小鳥遊は優しくそうですねと相槌を打ちながら、切りすぎた後ろ髪の事を後悔していた。小鳥遊が切った草の後ろ髪だ。少し短めに切ったから、すっきりしたのは良いけれど、項がすっかり丸見えで、草の華奢な首筋が余りにも無防備に晒されている。草は、滅多に外を出歩かないから、それを小鳥遊以外が見ることは、殆どありえない。だから、嫉妬や独占欲ゆえの後悔では無いのだ。そうではない。
 目で犯そうとでも言うかのように、じっと草を見つめながら小鳥遊は苛立った。
 一体、いつの間に、この少年の手足はこんなにもほっそりと綺麗に伸びたのだろうか。いつから、こんな風に、少しだけ翳りを帯びた艶めいた表情をするようになったのだろうか。そして、いつから、こんなにも、匂い立つような小鳥遊の理性を壊してしまうような色香を漂わせるようになったのか。
 草の項は、それを如実に感じさせて、だから小鳥遊を苛立たせるのだ。振り回される。理性で衝動が抑え切れなくなる。けれども、衝動のまま草を蹂躙すれば、きっと小鳥遊は後悔するのだ。だから、なるべく怯えさせないように、慣れさせるように小鳥遊は辛うじて懇願の形を取る。
「草さま。触れても良いですか?」
 掠め取るように初めて口付けをした時から、何度も言った言葉だった。その言葉に、草が否と答えたことは一度も無い。この時も同じで、草は微かに耳を赤く染め、少しだけ困ったような表情で、結局はこくんと頷いた。
 そっと、その細い顎に手を添える。小鳥遊を見上げてくる瞳は、不安と期待に揺れていた。その瞳が、表情が、小鳥遊の理性を簡単に揺さぶる。もし、草が場末の春を鬻ぐ女だったとしたら、きっと、小鳥遊は何の躊躇も無く犯して、そしてお前が誘ったのだと罵るだろう。けれども、草は春を売る女などではない。その内側は奇跡的に汚れず、そして、無垢なままだった。そう育てたのは、他でもない、小鳥遊だ。醜いもの、汚いものからひたすら隔離し、綺麗な世界で大事に慈しんできた。それなのに、草の穢れなさが無性に腹立たしく、踏みにじりたくなるのは一体、何の矛盾なのか。

 小鳥遊にとって、草はまだまだ未熟な青い果実のようなものだった。何の虫も病気も寄せ付けず、大事に育てて、最後には自分が食べるはずの。
 今は、まだ、熟していないと思っていた青い果実は、なぜこんなにも甘い香りを漂わせているのかと不思議に思う。酸っぱくても、渋くても構わない。今すぐに、齧り付いてしまいたいと思うほど。
 けれども、小鳥遊はその衝動を全身全霊で抑えこむ。驚かさないよう、怯えさせないよう、ただ触れるだけの口付けを一つ、草の桜色の唇に落とした。そして、不自然にならぬよう体を離す。口付けたときには閉じられていた草の瞳がそっと開き、微かに熱を含んだ息を一つ、逃がすように吐き出した。草は、頬と耳を微かに赤く染め、恥らうように俯く。その白い項までもが、仄かに赤く染まっているのが見えたとき、小鳥遊の腹の奥には、どうしようもなく激しく熱い何かが込み上げてきた。拳を堅く握り締め、抑えがたいそれを、どうにか、朝の健やかな空気の中に無理やりに逃して、小鳥遊は草から目を逸らした。見上げた先には未熟な青い葡萄の房がある。
 その未熟な実を無下に手折る代わりに、小鳥遊はその傍らの葡萄の葉を一枚千切った。それで、自分の中の獰猛な衝動を完全にやり過ごした。
 けれども。


 それだけでは抑え切れなくなる日が近いと、どこかで予感していた。








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