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『021:はさみ』 …………………

*『078:鬼ごっこ』『084:鼻緒』『065:冬の雀』の続編です。そちらを先にお読みください。



 目を細めずにはいられないほどの強い日差しの差し込む縁側で、ただぼんやりと草は緑の生い茂る庭を眺めていた。蝉時雨。姦しいほどのその音を聞きながら、思考はあちらこちらへと、取りとめもなく移ろい行く。考えたくないことから逃避しているからなのかもしれない、と、どこか頭の一部は冷静になっているのが自分でもおかしかった。
 じりじりと照りつける太陽が、草の白い手足を容赦なく焼き付ける。草は日焼けしない体質で、長い時間、日光に当たると、それこそ肌が真っ赤になって火ぶくれのようになってしまうから、小鳥遊にはあまり日に当たるなと注意されていた。けれども、それを敢えて破るかのように、草はその身を日に晒す。全身真っ赤になって、熱でも出せば、小鳥遊は否応無しに草の看病をしなくてはならなくなるだろう。それが唾棄したいほど嫌で仕方がないのに、もう一人の草は、そうしてしまえば小鳥遊は自分から離れないのだと誘惑する。
 小鳥遊とこの田舎に越してきて一年以上が経過したが、思えば、草の心の裡は、そんなことばかりを繰り返しているような気がした。
 今年の始めに大病をした草だったが、その後は自分でも驚くくらい調子が良かった。一時は大分落ち込んだ体重も殆ど元に戻ったし、身長だって僅かだけれど伸びたのだ。もっとも、小鳥遊とはあまりに身長差がありすぎて少しばかり背が伸びたところで、何がどう変わるというわけでもなかったが。
 このまま体重も増えて、体調が安定すれば旅行にだって行けますよ、と小鳥遊が嬉しそうに言ってくれたのは三日ほど前の話だ。草の体調が良くなることが純粋に嬉しいのか、それとも、健康になった草から解放されるのが嬉しいのか、草には判断がつかない。だから、グジグジと、いつまでもこんな風に考え続けているのだ。
「草さま?」
 と、咎めるような口調で小鳥遊が名前を呼ぶのが聞こえたが、草は敢えてそれを無視した。親に叱られたい子供が、態と悪いことをするのと同じ、幼稚な行動だとは気が付かないまま、草は縁側で裸足の白い足をブラブラと揺らした。日向になり、日陰になりして陰影を変化させるその足を、小鳥遊が剣呑な眼差しで見つめていたことを草は知らない。
「草さま。日に当たりすぎるのは良くないと言ったはずですが」
 少しばかり険しい口調で言われて、草は微かに肩を竦める。
「別に平気だ」
 と小生意気に答える草を小鳥遊はどう思ったのだろう。小さな溜息が一つあった後、スッと脇の下に手を入れられて、子供を抱きかかえるように造作もなくそのまま後に連れて行かれてしまった。日陰になっている畳の上に、そっと置かれる。その直ぐ横には、熟れて食べごろの水蜜桃が甘い匂いを放っていた。
「冷えていて美味しいですよ。召し上がってください」
 と言われても、草はそれに手をつけることが出来ず、ただ、ぼんやりとその薄桃色の果肉を見つめていた。傍目にも上等のそれだと分かる。それはそうだろう。持ってきた人間が上等の部類に入る人だったのだから。もっと言えば、草の事を溺愛している兄だったのだから、恐らく、街で一番上等な店の、一番高いそれを選んだに違いない。それは別段、問題が無い。問題なのは、彼の持ってきた水蜜桃ではなく、彼の持ってきた話だった。
「小鳥遊、お前には感謝しても感謝しきれない。あんなに元気そうな草を見れるとは思っていなかった」
 と兄は涙ぐんでいたようだった。盗み聞きなど行儀の悪いことはしたくなかったが、どうしても嫌な予感がして、草は耳をそばだてていた。昨日の話だ。
「けれども、どうだろう。お前を犠牲にし続けるわけにもいかないと思うんだ。お前はまだ若いし、将来もある。普通に結婚して、幸せな家庭を作る権利を私達に奪うことは出来ない」
 そう言って兄が差し出した釣り書きが、覗き見た視界の端に移って、草はその先を聞けずに逃げ出してしまったのだ。だから、小鳥遊がそれにどう答えたのか、草は知らない。

「草さま? どうかなさいましたか? 冷えてますので、どうぞ召し上がってください」
 促す小鳥遊の顔はいつもと同じ、優しく、穏やかで何も変わらない。だから、尚のこと、草は泣きたくなってしまった。
 兄の話はもっともなのだ。そんなことは誰よりも草が一番分かっている。小鳥遊が草の犠牲になっていることなど。
 けれども、何も言ってやれない自分が情けなかった。気の抜けた気分で、ただ、ぼんやりと水蜜桃を見つめ続ける。仄かな甘い香り。食べずにそのまま大事に取っておきたいような、そんな匂いだった。
「草さま?」
 訝しげに声を掛けてくる小鳥遊をノロノロと見上げ、どうにかこうにか笑顔を作る。どこか引き攣っていたかもしれないけれど、それでも笑わなくてはならないと草は思った。
「兄さんが、持ってきたの?」
 なるべく他愛の無い口調を装って尋ねたつもりだったけれど、声は微かに震えていた。小鳥遊はますます訝しげに眉間に皺を寄せる。
「ええ、そうですが……」
「…小鳥遊の代わりに、三島医師(せんせい)はどうだろうかって兄さんに言われた」
 淡々とした口調で草は告げた。三島は小鳥遊が医者の資格を取る前に、草の主治医だった老医師だ。今は、田舎に引っ込んで隠居している。
「三島医師なら俺の体のことも良く知っているし優しいし…その、小鳥遊が心配しなくても大丈夫だと思う」
 たどたどしい子供のような口調で、草は言葉を何とか繋ぐ。小鳥遊の顔を真直ぐに見ては言えなかったから、視線はずっと盆の上の桃に落としたままだった。だから、草は気がつかなかった。小鳥遊がどんな表情をしていたのか。
「だから、小鳥遊はお見合いして、結婚するのが良いよ」
 声はどうしようもなく震えていたけれど、泣いてしまわなかっただけでも褒めて欲しい。膝の上でぎゅっと握り締めた手も震えている。鼻の奥がつんとして、何だか駄目だと草は思った。
 大きな溜息が頭の上で一つ。それから予期せぬ手が草の髪をさらりと撫でた。表面を何度か撫でる様に動き、それから、今度は中まで指を入れて、梳く様に動き、途中で髪の一房を掴むかのように止まった。ただそれだけの事だ。それだけの事なのに、草の体は大袈裟なほどビクリと跳ね上がり、心拍数も跳ね上がる。それは、もう、条件反射のようなものでどうしようもない。どんな些細な触れ合いだろうと、他愛の無い接触だろうと、小鳥遊に触れられただけで、草はどうしようもなくなってしまうのだ。
「髪が伸びましたね」
 今までの草の話をまるで無視するかのような、あさってのことを小鳥遊は返した。その意図が読めずに草は思わず顔を上げる。真正面から合わさった視線の先には、思いの外強い光を湛えている小鳥遊の瞳があった。どこか、怒っているようにさえ見えるのは草の気のせいなのだろうか。
「切って差し上げましょう」
 と、慇懃無礼に小鳥遊は告げると、鋏を取りに立ち上がってしまった。



 蝉の声しか聞こえない静まり返った部屋に、しゃきん、しゃきんと髪を切る音が響く。丁寧な仕草で髪の一房を小鳥遊が手に取るたびに、草の体には条件反射のように緊張が走った。
 ただ、髪を触られているだけだ。それなのに過剰な反応を返してしまう自分に草は戸惑う。恐らく、小鳥遊以外の誰に触られたとしても、こうはならないのだろう。内側から溢れてくる気持ちが抑えきれずに、きっとこんな風になってしまうのだと泣きたい気持ちになった。
 前髪を切り終わり、小鳥遊は淡々とした仕草で今度は草の後に回る。存外に伸びていた後ろ髪をまとめて持ち上げられた時に、小鳥遊の指が草の項に触れて、草は大袈裟なくらい身を竦めてしまった。
 小鳥遊の手はひんやりとしていた。いつでも、大抵、小鳥遊の手は冷たい。熱を測るときにそっと額に触れるその手が、草は気持ちよく、そして大好きだった。当然、それを小鳥遊本人に告げたことなど無いけれど。
「白いですね」
 と、草に言うでもなさそうな、独り言のような言葉を小鳥遊はポツリと零す。恐らく草の首筋の白さを指摘したのだろう。別に責められたわけでもないのに、草はどこかしら後ろめたい気持ちになって、言い訳をするように、
「だって…小鳥遊が日光に当たるなって言ったから。日焼けすれば、少しは黒くなるのに」
 と反論した。小鳥遊は草の見えない後ろで、苦笑いを零したようだったが。
「こんなに綺麗な肌を火ぶくれにさせる気ですか? ご冗談も程ほどに」
 と、呆れたように言って、そのまま掴むように草の後ろ髪をクシャリとかきあげた。空気に晒されて、首筋が少しだけひんやりとする。そのまま後ろ髪を切られるのかと草は思ったが、鋏の音は聞こえず、代わりに生温かい感触が項にあった。え、と思ったときには事態を認識するよりも先に、全身の鳥肌が立った。嫌悪からではない。それが証拠に草の背中から腰にかけて、何とも表現しようの無い痺れが走って、体の力が入らなくなった。それは明らかに性的な反応だったけれども、草の幼い頭はそれを理解できなかった。だから、先に混乱が草を一杯にしてしまう。
「んっ……アッ! ……や……な、に?」
 湿った感触が項を這い回り、草の体は反射的に逃げようとしたが、思いの外、後から強く抱きしめられていたので叶わなかった。自分が何をされていて、どういう状態なのか、混乱を極めていた草には理解できない。
「や……たか……なしっ…! ひぁっ!」
 項を伝ったそれが最後には耳の直ぐ後ろに辿りつき、痛みさえ感じるほどの強さで吸い上げられて、草は悲鳴のような甲高い声を上げてしまった。体が草の意思とは無関係に大きく跳ね上がったけれど、それも小鳥遊の強い腕で押しとどめられる。体中の力という力が抜けてしまい、きっと、草は立ち上がれといわれても、自分の力では立てなかっただろう。
「見合いなんてしませんよ」
 どこか、忌々しげな口調にさえ聞こえる声が、耳のすぐ傍でした。
「少し丈夫になったから返せだなんて冗談じゃない。絶対に返しません」
 続いた言葉は草には、さっぱり意味の分からないものだったけれど。
 不意に、スッと腕を解かれ、小鳥遊の体が草から離れる。瞬間、それが酷く寂しいことで、このままずっと抱きしめてくれれば良いのに、と草は思った。けれども、その直後に、自己嫌悪に陥る。なんと自分は浅ましいのだろうか、と。
 そんな草の心の裡を知ってか知らずか。
「草さま。私を捨てないで下さい。どうか、ずっと傍に置いてくださいね」
 と、幾分和らいだ声で小鳥遊に言われ、草は言葉を失った。論点がすり変えられている。そもそも、捨てないでくれと言いたいのは草の方の筈だ。ずっと傍にいて欲しいと願うのも。
 それは、恐らく、小鳥遊の優しさなのだろうと草は判断して、その優しさに甘えるように、コクリとだまって頷いた。
「本当ですね。約束ですよ」
 と、不必要なほど小鳥遊がしつこく確認してくるので、草は不思議に思う。おかしなことだと思いながら首を傾げつつ、それでもやはり黙って頷くと、なぜだか小鳥遊の顔がだんだんと近づいて来て、あっという間に草の唇と小鳥遊のそれとが触れ合った。






 何が起こったのか分からずに、呆然として小鳥遊の顔を見上げていると。
「約束のしるしですよ」
 と、小鳥遊はいけしゃあしゃあと言い放ち、それから、胡散臭いほど綺麗な顔で笑った。





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