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『065:冬の雀』 …………………

*『078:鬼ごっこ』『084:鼻緒』の続編です。そちらを先にお読みください。



 パチパチと火の爆ぜる音がする。開け放たれた襖の隣の部屋の囲炉裏から聞こえる音だった。それ以外の音は聞こえないほど、部屋の中は静まり返っている。
 清岡草は、ぼんやりと天井の木目を眺めながら、その音を聞いていた。硝子戸を隔てた向こう側は別世界のような白銀の雪景色だ。珍しく、朝から晴れ渡っているせいで、目を眇めてしまうほど照り返しの光が強い。部屋にもその光が差し込み、室内は明るすぎるほどだった。
「…目が覚めましたか?」
 と、穏やかな声が上から降ってくる。未だ、微熱の残るぼんやりとした頭で、草は声の主を布団の中から見上げた。主治医の小鳥遊の、端正な顔がそこにはある。疲労の色を濃く刷いて、切れ長の目の下には薄っすらと隈が浮かんでいた。恐らく寝不足なのだろう。それを思ったら、草の胸は自己嫌悪で塞がってしまった。
 また、この人に面倒をかけてしまったのだ。なんて厄介な体なのだろうかと思う。
「具合は如何ですか?」
 と、尋ねられ、
「もう大丈夫」
 と、強がりな答えを返そうとした。だが、声は掠れ、しかも途中で思い切り咳き込んでしまった。ゼイゼイと胸がなる。この音が草は大嫌いだった。喘息を起こしたり、体調を崩すとこんな風に故障した機械のような音を立てる自分の体。生まれた時から欠陥品なのだと突きつけられるようで、とても、辛い。
「無理はいけません。蜂蜜湯を用意したのですが飲めますか?」
 痩身に見えて、意外に力強い小鳥遊の腕は易々と草の体を抱き起こし、猫舌の草に丁度良い温かさだと感じられる蜂蜜湯がその口に当てられた。とろりと入り込む甘い液体が、いが付いた喉を流れ落ち、痛みを緩和してくれる。久しぶりに感じた甘さに、草は夢中になってそれを飲み続けた。熱にうなされている間も、何か口にしなくてはいけないと、摩り下ろした林檎だとか、一体どこから手に入れてきたのか、季節外れの水蜜桃だとか、細かく砕いた甘い寒天だとかを口に入れられたような気がするが、舌が麻痺していたせいで味など少しも感じなかったのだ。
 蜂蜜湯を最後まで飲み干し、満足したように深く息を吐き出した草に小鳥遊は酷く安心したような笑みを浮かべた。
 そっと、その大きく節ばった男の手が草の額に押し当てられる。ひんやりとしたその感触が気持ち良くて、草は無意識にそっと目を伏せた。だから、あどけない無防備なその表情に小鳥遊が困ったように苦笑いを零したことを草は知らない。
「熱は大分下がったようですね。粥を作ったのですが。食べられそうですか?」
 心底心配した口調で問われ、意地を張るような気力も体力も無かった草は、素直にこくりと頷いてみせる。
「それではお持ちしますね」
 と言われ、再び、床に横たえられた。壊れ物を扱うような、酷く丁寧な仕草が、今だけは嬉しい。例え、それが『医者としての義務』から来ているものだとしても。
 横たわったまま、ぼんやりと窓の外の雪景色を眺める。光を反射する眩しい雪の上、冬の雀がチュンチュンと可愛らしい声で鳴きながら遊びまわっていた。寒くは無いのだろうか。部屋の中は汗ばむほど暖かく保たれているので、いまいち草には寒さの実感が沸かない。だが、きっと吐き出す息は白く、きりりと身が引き締まって緊張するほど寒いのだろうなと思った。
 これほど積もった雪を見るのが草は初めてだった。この田舎に小鳥遊と二人、転地療養のために越してくるまで、雪そのものでさえ殆ど見たことが無かったのだ。だから、小鳥遊が止めるのも聞かず、ただ我侭に雪の中で遊びまわった。そして、風邪を引き、高熱を出し、三日も寝込んでしまった。どうしようもない。本当にどうしようもないなと草は深いため息をついた。あんな小さな雀でさえ、元気に雪の上を遊びまわっていると言うのに。
 病み上がりで、心細くなっている弱い心がそうさせたのか、悲しくも無いのに、なぜだか一筋、涙が草の眦から零れ落ちた。
「どこか具合が悪いのですか?」
 一体、いつ戻ったのか、盆を持った小鳥遊が酷く心配そうな表情で草を見下ろしていた。意地も虚勢も張ることができずに、ただ、ただ、申し訳なく思って草が
「御免なさい。迷惑かけて」
 と素直に謝ると、小鳥遊はふわりと優しげな笑みを浮かべて、そっと布団の脇に盆を下ろした。そして、草の頭の両脇に手をつくと、上から覆いかぶさるように顔を近づけてくる。すぐそこにある端正な顔を直視できず、こんな時だというのに思わず胸を高鳴らせて草はぎゅっと目を硬く閉じた。その拍子に、やはり、一粒、涙が眦から零れ落ちる。だが、それが枕に落ちる前に、小鳥遊はそれを自分の舌で舐め取った。
 母猫が子猫の体を舐めるような、慈しみに満ちた仕草で小鳥遊は草の涙を舌で拭う。草は顔を真っ赤に染めたが、それは、決して風邪の熱のせいではなかった。閉じた瞼がひくひくとまるで何かの生き物のように敏感に震える。その上を、暖かい舌が舐めて通り、草は悲鳴を上げてしまうかと思った。
「草様が謝ることではありませんよ。むしろ私が責められるべきでしょうに」
 と、小鳥遊が話しかけてこなければ、きっと実際、草は悲鳴を上げて訳も分からず衝動のまま泣き喚いていただろう。
 どんなに誤魔化しても草は小鳥遊が好きで、小鳥遊に触れられるのは、例えそれが医者としての勤めでも嬉しくて仕方が無いのだから。
「粥を冷ましている間に、診察をしましょう」
 と言われて、胸元をはだけさせられる。部屋の中は十分に暖められていたが、それでも、直に体を空気に晒せば、肌寒さを感じた。
 聴診器を当てている小鳥遊の手が、微かに胸の尖りを掠め、ただでさえ熱で肌が過敏になっている草は、びくりと体を震わせた。そんな自分の反応が、酷くいやらしいもののように思えて、草は羞恥に体を染める。だが、小鳥遊は微かに笑いを押し殺しただけで、それについては何も言ったりはしなかった。羞恥を誤魔化すように、ただひたすら、草は硝子の向こうの景色を睨みつけるように見つめる。真っ白な白銀の世界。眩しいほどの照り返し。その上を遊びまわる冬の雀。庭の一角には色鮮やかな真っ赤な椿が咲いていた。
 同じ花が、草の寝ている部屋の床の間にも生けてある。その幾つかは咲き誇ったまま床に散らばっていた。
 同じ散るでも、床の上よりもやはり、雪の上の方がその朱が映えて美しい。そう思いながら、草が再び雪景色に視線を移すと、
「今度は背中を見ますから、うつ伏せてもらえますか?」
 と小鳥遊に言われた。だるい体を起こし、言われた通りにうつぶせになりながら、それでも顔だけを横に向けて庭先を見ていると、
「白いですね」
 と、独り言のような声が背中に落ちてきた。
「そりゃそうだよ。雪だもの。雪は白いと決まっている」
 何を改まってそんなことをいうのだろうかと草が内心首を傾げながらそう答えると、小鳥遊は一瞬黙り込み、それから、楽しそうにくつくつと笑い出した。何か自分はおかしなことを言ったのだろうかといぶかしみながらも、草は庭先の雪の上の椿に見とれる。
「小鳥遊も見たら。雪の上に落ちた椿が紅くて綺麗だ」
 あどけない、子供のような口調で草が言うと、小鳥遊は、
「ええ。こんなに白いと、確かに紅い花を散らしたくなるのが人情と言うものでしょうね」
 と、良く分からないことを言って、草の背中を触れるか触れないかの微妙な仕草でさらりと撫でた。そのすぐ後に、暖かい濡れた感触が落ちてくる。それが、小鳥遊の舌なのだと気がついた途端、草は酷くうろたえた。
「……た……小鳥遊……?」
 ふるりと体を震わせて草はその名を呼んだが、返事は無かった。
 奇妙な、濃密な空気が不意に室内に充満しているような気がして、草はどうしていいのか分からず、ただ、ただ、不安げに何度もその名を呼んだ。
「小鳥遊? 小鳥遊ったら?」
 暫しの沈黙の後、溜息のように深々と息を吐き出す音が聞こえ、それから、背中に冷たい聴診器の感触があった。だが、やはり、言葉は無い。
 小鳥遊が草を無視するなど、殆どといっていいほどあり得ないのに、一体、どうしてしまったというのか。自分の何かが、小鳥遊の怒りに触れてしまったのだと草は思い込んだ。熱にうなされている間、苦しくて仕方がないとき、目を開けば、いつでも隣には小鳥遊がいた。助けを求めるように手を伸ばせば、必ず小鳥遊がその手を握り返してくれた。それは、つまり、三日三晩、小鳥遊が草に付っきりで、ほとんど不眠不休だったことを示しているのだと、その時になって草は思い当たった。それで小鳥遊は腹を立ててしまったのかもしれない。だが、草がそんな風に寝込んでしまうのは今に始まったことではない。
「小鳥遊?」
 自分の一体、何が小鳥遊の機嫌を損ねたのか分からず、主従が逆転したかのような不安な気持ちでもう一度だけ草がその名を呼ぶと、
「大分良くなったようですね。肺炎の心配は無さそうで安心しました」
 と、奇妙に事務的な淡々とした声だけが落ちてきた。
 草の体を抱き起こし、衣服を整えるその仕草は変わらず丁寧で優しいけれど、不意に壁一枚隔てたような小鳥遊の空気に草は泣きたくなる。実際、涙が浮かんできて、ぐすりと子供のように鼻を鳴らしてしまった。それに気がついた小鳥遊は困ったように苦笑いを零す。
「すみません。どうも修行が足りないようです」
 と謝られて、草はきょとんと小鳥遊の顔を見上げた。何を謝られたのか草にはさっぱり分からない。けれども、小鳥遊は、もうすでにいつもの小鳥遊で、優しい笑顔を草に向けたまま、れんげをそっと握らせる。
「きちんと食べてくださいね」
 と言われ、良く分からないまま草は粥に手をつけた。塩加減の丁度良い、美味しい粥だった。
「せっかくここまで来たのに、また痩せてしまいましたね」
 と、心配すると言うよりは、むしろ落胆に近い声で、小鳥遊は独り言を呟く。
「また一からやりなおしですか」
 という言葉を耳ざとく草は盗み聞いて首を傾げた。
「また一からって、何が?」
 と草が尋ねれば、
「いいえ、こちらの話ですよ」
 と小鳥遊はあっさりと答え、胡散臭いとさえ思えるほど完璧な笑顔を浮かべて見せた。草は、思わず、その笑顔に見蕩れてしまう。
「私が食べさせて差し上げましょうか?」
 と、からかうように言われて、ようやく草ははっと我に返り、顔を赤くして首を激しく横に振った。







 庭先では、椿の横、冬の雀が暢気に雪の上で戯れていた。




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