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『084:鼻緒』……………………

 *『078:鬼ごっこ』の続編です。そちらを先にお読みください。




 ブツンと音がして、酷く華奢な体が勢い良く前に傾ぐ。手にしていた水風船が地面に落ち、パシャリと音を立てて割れた。もう片方の手にあった綿菓子も同じ運命をたどり、すっかり砂まみれになった。
 だが、その『事故』は小鳥遊(たかなし)にとっては予想範囲内だった。そもそも、少し前から大分、草(そう)の歩き方はおかしかったのだ。履きなれない下駄で散々歩き回って足を痛めたらしい。だが、小鳥遊がそう尋ねても草は意地を張って、どこもおかしくないと言い張り続けた。
 おかしな歩き方をしたせいで、きっと不自然な力が掛かってしまったのだろう。それとも、そもそも、不良品の下駄だったのかもしれないが、とにかくその鼻緒はブツリと切れてしまったのだ。
 だが、草はそのまま惨めたらしく地面に転がったりはしなかった。小鳥遊が、その腕で草の体を抱きかかえたからだ。
 あまりに軽い、と小鳥遊は思った。この田舎に越してきて大分草の体調は改善されたし、体重だって増えたはずだが、それにしてもやはり軽かった。十七の少年の体重にしては軽すぎるのだ。だが、そのどこか儚げな華奢な感じが小鳥遊は気に入っていた。
 草は、生まれつき体が病弱で喘息も持っていて、発育も悪い。外見だけで言うのならば多分、十三、四に見えるだろう。それを草自身が酷く恥じていることを小鳥遊は知っていた。
「怪我はありませんか?」
 何事も無かったかのように尋ねれば、腕の中の小さな体は慌てたように体を捩る。けれども離れることを許さず、小鳥遊がじっと草を抱きしめていると、どこか泣きそうな震える声が微かに聞こえた。
「離せよ…」
「でも、鼻緒が切れてしまいましたよ? そのままじゃ歩けないでしょう?」
 刺激しないように穏やかに小鳥遊は返したつもりだったけれど、その繊細で過敏で神経質な心にはやはり触ってしまったらしい。そもそも、草は小鳥遊が何をしようと、何を言おうと過剰に反応する。それが可愛らしくもあり、憐れでもあり、そして何より小鳥遊の中の『雄』の部分を刺激する。
 過剰に意識することは誘っているのと等しいだなどと、きっとこの少年は想像すらできないのだろう。
 自分では隠しているつもりらしいが、草が小鳥遊の一挙手一投足に耳をそばだて、神経を尖らせているのは、余りに明白だ。
「裸足で歩くから平気だ」
 そんな風に意地っ張りを言う癖に、その顔はどこか不安げで、その淀みの無い綺麗な瞳はユラユラと揺れている。参道の灯篭に灯されている仄かな光を反射するその薄茶の瞳はまるで何かの宝石のようだった。
「足を怪我してしまいますよ」
「怪我くらいじゃ死なない」
 子供の憎まれ口のようなあどけない口調。それすらも小鳥遊には愛しいものなのだ。そもそも、草がどれほど生意気なことを言おうと、小鳥遊が腹を立てたことなど一度も無い。目に入れても痛くないほど可愛がっているネコに爪を立てられたから、噛み付かれたから、といって一体、誰がそのネコを憎いと思うのだろうか。



 近所の神社で行われると言う夏季大祭を見てみたいと、我侭を言い出したのは当然草からだった。本当は人ごみには連れて行きたくは無い。草は人酔いしやすい性質(たち)だし、転んで怪我などしてしまっては大変だ。第一、浴衣に身を包んだ草を人目に晒すのが小鳥遊は何よりも不快だったのだ。
 草自身は、その少年期からどうしても脱し切れない外見を厭っているが、客観的に見て、草はかなり綺麗な少年だった。しかも、見る人間に愛らしさと保護欲を感じさせる類の空気を持っている。だからこそ、その両親、祖父母、兄姉に至るまで草を溺愛して過保護に育ててしまったのだが、草自身にその自覚は無い。自分が弱くて、頼りなくて、お荷物だから皆が自分を構うのだと思っている。
 そんな綺麗な草を小鳥遊は不特定多数の人間に見せたくは無かった。だが、それと草の嬉しそうな笑顔を天秤に掛けて、結局は外出を許可してしまったのだ。もちろん、自分が付き添うと言う条件付きで。
 小鳥遊が期待していた通りに、草はとにかくはしゃぎまくった。普段は意地を張って、滅多に笑顔など見せてくれないけれど、今夜ばかりは例外のようだった。見慣れない夜店の金魚に、風船釣りに、綿菓子に、雛に、目をキラキラと輝かせながら小鳥遊の手を引いた。常には無い光景だ。
 ふと、小鳥遊は草がほとんど祭りになど行ったことがないと寂しそうに漏らしたことを思い出した。草の家族が彼の体を案じるあまり、外出を禁じていたのだろう。だが、祭りに行ったことのない子供だったのだと思えば、小鳥遊はますます愛しさが募った。少しくらいの無茶は許してやりたい。そう考えて祭りに出かけたのだが、実際はこの体たらくだ。

 草の華奢な体を抱きかかえたまま自嘲の溜息を漏らすと、草の体は可哀想なほどビクリと反応した。その小さな頭の中では、今、物凄い速さで誤解が駆け巡っているのだろう。小鳥遊が、草に呆れて溜息を漏らしたのだと。
 だから、次の草の言葉など分かりすぎるほど分かっていた。
「離せってば! 一人で大丈夫だって言ったら大丈夫なんだから! は…裸足でだって歩ける!」
 手足をバタバタと振って暴れながら草は駄々をこねる子供のように喚いた。ただの我侭なお坊ちゃんの図、と言ってしまえばそれまでだが、草の瞳がどうしようもなく揺れているのを小鳥遊は決して見逃したりしない。
 意地を張っている草も、不安に揺れているどこか儚げな草も、泣きたいのを必死で我慢している草も、小鳥遊は気に入っていたが、だが、本気で悲しませたり泣かせたりするのは本意ではない。だが、このまま抱きかかえて帰ったとしても草はやっぱり一人でこっそりと自己嫌悪に落ち込むのだろう。
 それならば、と小鳥遊はそっとその体を地面に下ろす。鼻緒の切れていないほうの下駄が、カランと軽やかな音を立てた。素早く草の鼻緒の切れた方の足を検分し、鼻緒擦れがそう酷くない事を確認する。それから、
「分かりました。直せるかもしれないので見せてください」
 努めて優しい口調で小鳥遊は草に『お願い』をした。どんなに意地を張って、反抗的な態度を取っているときでも、案外と草は小鳥遊の『お願い』には弱い。口を尖らせながらも素直に聞いてくれるのだ。
 この時もそうだった。草はキュッと下唇を噛み締めながら、何も言わず、けれども鼻緒の切れた下駄を半ば蹴り投げるように脱いでそのまま素足を地面につこうとした。だが、それを許さず小鳥遊は、さっと素早くその足の下に自分の手のひらを差し入れる。そのせいで、草が小鳥遊の手を踏んだ格好になった。
「あっ! ごめんなさい!」
 咄嗟のことで意地っ張りの振りも出来なかったのだろう。酷く素直な口調で草は慌てて謝るとその足を再び上げる。そのせいでバランスを失った体はグラリと揺れた。だが、草の体が倒れる前に、小鳥遊はその腰を掴んで支えた。
「素足を地面につけて汚れたり、怪我をしてはいけませんから」
 そう言いながら小鳥遊は、何の戸惑いも見せずに地面に膝をつく。仕立ての良いズボンが汚れたが、全く気にならなかった。
「私の膝に足を乗せてください」
 あっさりと言い放った小鳥遊に、だがしかし、草は戸惑っているようだった。
「た…小鳥遊の服が……汚れるから」
 そう言いながら視線をうろうろと彷徨わせている。結局は、そんな所に素直さや育ちのよさが滲み出てしまうのだ。それさえも酷く好ましい、と小鳥遊はふっと口元を緩ませた。
「構いませんよ。草さまの御御足の方が大事ですから。鼻緒を結んで差し上げますのでどうぞ」
 はっきりとした口調で促すように小鳥遊が言えば、草は戸惑いながらも、そっとその膝に足を預けた。
 草の浴衣の裾がはらりと割れる。草の膝から少し下の足が全て露になって、小鳥遊は予期せぬ衝動に襲われた。細くて白い、まるで少女のような足だ。肉付きが悪く、踝がはっきりと浮き出ているその足首に、むしゃぶりつきたい、と言う獰猛な欲求が小鳥遊の中でグルグルと駆け巡った。
 目の前のこの子供が、実は相当に性質(たち)が悪いと思うのはこんな時だ。草本人は恐らく、全く自覚などしていないだろうし、決して意図的でなどあり得ない。それでも、不意打ちのように抗えない艶を無防備に振りまくことが度々あるのだ。

 正直に言ってしまえば小鳥遊にとって、草はとても素直で単純であるし、何を考えているのか手に取るように分かる。どうすれば機嫌を悪くするか、どうすれば落ち込むか、どうすれば機嫌が直るか、どうすれば喜ぶか、簡単に手のひらの上で転がすことが出来るのだ。それなのに、こうして、気がつけば自分の方が振り回されているような気持ちにさせられる。一回り以上も自分の方が年上であるのに。
 それが少しばかり理不尽で悔しく思う。

 だから。

 器用に鼻緒を結んで、どうにか履けるように直してやり、それを草の前に差し出す。草はぶっきらぼうに、
「ありがとう」
 と礼を言ってその下駄を履いた。
「また転ばれるといけませんから手を繋いで帰りましょう」
 小鳥遊が意趣返しにそう言えば、予想通りに草は顔を真っ赤にした。
「こ…子供じゃないんだから、そんなのは嫌だ」
 そして、反抗する。けれども、その反抗も小鳥遊には予想範囲だった。
「じゃあ、抱いていきましょうか? どちらでも、草さまの好きなように」
 からかうように小鳥遊は尋ねる。草は赤い顔のまま俯いて黙っていたけれど、そっと遠慮がちにその指の細い手を差し出した。それにようやく小鳥遊は満足して、しっかりとそれを握り締める。








 カランカランと下駄がなる。
 ゆっくりと夏の夜の道を手を繋いで帰ったが、家に辿り着くまで鼻緒がもう一度切れることは無かった。



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