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『078:鬼ごっこ』 ………………………………


 昼間の暑さが嘘のように、ひんやりとした空気が縁側から入り込んでくる。サヤサヤと音を立てているのは、緑萌えなす楓の木だ。耳に心地のいい水音は、近くの湧き水から池に引いた水路から聞こえてくるのだろう。流れる水が熱を奪い、清涼な空気を生み出している。
 広さにすれば然程ではない、だがしかし贅沢を尽くしたその庭を草(そう)はのんびりと眺めている。
「まだ寝てなかったんですか?」
 背後から聞こえた低い、それでいて深みを感じさせる穏やかな声に、草はその薄い肩を微かに揺らし、それからプイとあさっての方向に顔を向けた。その子供じみた態度に、小鳥遊(たかなし)は苦笑を漏らしたようだったが、草はそれでも振り向かない。意地のように、ただじっと庭先を見つめた。
 小鳥遊は、静かに草の隣に腰を下ろす。
「嗚呼、良い月ですね」
 と言われて、つられるように見上げれば見事な満月がぽっかりと夏の夜に浮いていた。あまりに光が強くて、辺りが藍色に染まっているようだ。その景色の美しさに、草は無意識にほうっとため息を漏らす。夏は夜、とは随分と昔から言われていることだけれど、本当にその通りだ。
「寒くはありませんか?」
 労りを込めた声で問われ、その体温をすぐ隣に感じて草はドキンと胸を高鳴らせる。だが、それを表に出すわけには行かなかった。
「別に。涼しくて気持ちいい」
 ぶっきらぼうに答えると、小鳥遊はその整った男らしい顔を僅かに歪めて、
「生風は体によくありませんよ。喉は痛くありませんか?」
 と窘めるように問うた。
「痛くない。お前はおせっかいが過ぎる。自分の体は自分が一番分かっている」
 心配そうな顔も、労りの言葉も、その何もかもが偽者だと思っているので、草はその優しさに素直に寄りかかることが出来ない。『義理』だとか『恩義』だとか、草の一番嫌いな言葉が頭を駆け巡るのはこんな時だ。小鳥遊は、別段、草個人を心配しているわけではないのだ。清岡(きよおか)の息子だから。ただそれだけで草の傍らにいる。有り余る才能を腐らせて、こんな片田舎で役立たずの坊ちゃんの子守をさせられているのだ。
 誰に言われなくとも、そんなことは草自身が一番良く分かっている。
「そうはおっしゃられても。先日、私が止めるのも聞かずに水遊びをなさって熱を出されたのはどなたですか?」
 からかうような口調で尋ねられ、草は、その白い頬にカッと朱を走らせた。
「あれは! …あれは、水遊びのせいじゃない。も……もともと体調が悪かったから……」
 それならば、尚更水遊びなどしないほうが賢明だったのでは、とは小鳥遊は言わない。ただ、優しく苦笑を浮かべるだけだ。
「それは失礼しました。それより。水蜜桃を頂いたのですがお食べになりませんか?」
 スッと盆に盛られたいくつかの薄桃色の実に、チラリと草は目を落とし、誘われるようにその一つを手に取った。チクチクとした微かな感触が手を刺激する。鼻に近づければ、なんとも言えない甘ったるい良い匂いがした。
「お食べになるならお切りしますが」
 小鳥遊に言われて草は首を横に振る。反抗したい。我侭を言いたい。意地悪をしたい。
 ただ、子供じみた衝動のまま草はその実の皮を直接手で剥いた。程よく熟していたのだろう。それは難なくズルリと剥がれる。甘い匂いに誘われるようにパクリとそのまま実に歯を立てると、タラリと果汁が滴り、草の細くて白い腕を濡らした。パタパタと、白を基調とした浴衣にも桃の汁が落ちる。それを見て、小鳥遊は眉を寄せて、顔を顰めた。
「桃の汁は落ちませんのに」
 しかも、草の着ている浴衣は絹紅梅の高級なものだ。けれども、草にとっては高級な浴衣よりも、小鳥遊の顔をそんな風に歪ませることの方がずっと価値がある。
「別に。また、新しいのを買えば良い。……金ならいくらでもあるだろう?」
 そんな風な蓮っ葉な口を利き、多分、醜いだろうと自分でも思う笑いを浮かべてみせる。案の定、小鳥遊は眉間の皺を深め、草を窘めるようにじっと見つめた。これ以上は言ってはいけないことなのだと分かっていても、草の衝動は止まらない。
 いつだって穏やかな笑みを浮かべ、優しく自分を労わってくれる。体の弱い草を気遣い、体調を崩せば心配して、親身に看病してくれた。けれども、そんなものは本当の小鳥遊ではない。本物ではないのだ。
 それが悔しい。悲しい。どうしようもなく切ない。こんな子供の子守は嫌だと、さっさと都会の病院に戻ってくれたほうがまだましな気がするけれど、でも、きっと、本当にそんな風に小鳥遊がいなくなってしまったら、草は傷ついて死んでしまうだろう。
 それでも、小鳥遊の優しい顔が癇に障って仕方が無いのだ。小鳥遊が気を悪くするようなことを必死で探しては、一生懸命それを実行する。実に馬鹿馬鹿しくて不毛な行動だ。
「それに…お前だって、本当は金が目当てなんだろう? 本当は、本当は、こんなガキのお守りにうんざりしているくせにっ」
 小鳥遊に限って金が目当てだなどあり得ない。実に清廉潔癖で高潔な心を持っているのだと、他でもない草自身が一番良く分かっている。そんな小鳥遊だからこそ。
「さ……さっさと出て行っても良いんだ。そんな、義務とか、恩義とか、そんなもので傍にいられたって迷惑なんだからっ……かっ金が欲しいなら、通帳でも印鑑でも持って出ていけ!」
 そんな小鳥遊だからこそ、草は好きになったのに。
 本当は、こんな田舎で、我侭な金持ちの坊ちゃんの主治医として燻っているような人間ではないのだ。ただ、たまたま。たまたま生まれた境遇が恵まれていなかっただけで。たまたま、その才能を見出したのが草の父親だっただけで。そして、小鳥遊が大学まで進学し、そして医者になるまでの間面倒を見てくれたのが、草の家、清岡だっただけで。
 金だろうが地位だろうが、きっとその腕一つで小鳥遊は手にすることが出来るはずなのだ。けれども、その真直ぐで誠実な性格がそれを許さないのだろう。病弱で体が弱く、何の役にも立たない、邪魔にしかならない清岡の末っ子を結局こうして引き受けることになってしまった。
 それが申し訳なくて、情けなくて、草はいつも悲しくなる。その上、草は小鳥遊が好きなのだ。小鳥遊は同性の大人の男だというのに。



 分かりました、出て行きます、と小鳥遊が言い出すのを恐れて、草は体を縮込ませる。ギュッと手に力を入れると、柔らかな桃の実がグシャリと潰れ、草の手は汁でベタベタに汚れた。そこかしこに、桃の甘い香りが充満する。酷く緊張して怯えている草とは裏腹に、その香りはどこか非現実的で、ゆったりとした空気を醸し出しているようだった。
「腕が汚れてしまいましたね」
 どこか恍けたような、暢気な声で言われて草は思わず、え、と顔を上げてしまう。すると、驚くほど近くに小鳥遊の顔があって、草の心拍数は倍に跳ね上がった。
 小鳥遊は不思議な笑みを浮かべて草を見下ろしている。たまに、そう、ごくたまに、小鳥遊はこんな表情を草に向ける。草をドキドキとさせ、落ち着かない、そわそわした気持ちにさせる笑顔。
「甘い匂いがする」
 小鳥遊はそっと草の腕を取ると、やんわりと自分の口まで持っていく。そしてそのまま、草の白くて細い腕をベロリと舐めた。その感触に草は鳥肌を立てる。不快や嫌悪からではない。明らかに性的な反応だったが、未成熟な草にはそれを自覚することが出来なかった。ただ、ただ、早まる動悸に戸惑うばかり。
 小鳥遊は肘の内側から手首まで、腕についた桃の果汁を全て舐め取ろうとでもいうかのように、舌を這わせた。草の真っ白な腕と小鳥遊の真っ赤な舌。その色のコントラストに草は一瞬目を奪われ、その一瞬後には激しく動揺してその腕を取り返そうとした。だが、やんわりと掴まれているだけの腕はなぜだか、びくともしない。
 何がどうとは説明できないけれど、酷く恥ずかしくて居た堪れないような気持ちになって、草は泣きたかった。
「はな…離せよっ」
 自分でも気がつかないうちに半べそをかいて、草は震える声で言ったけれど小鳥遊は耳を貸さない。手首を過ぎた舌は、今度は草の手のひらを通って、指の一本一本をしゃぶり始め、草は本格的に恐慌を来した。
「ヤダッ! イヤッ! 離してっ! 離してってば! !」
 必死に腕をブンブンと振り回そうとしても、やはり腕は解放されない。草は顔といわず、その華奢な白い首筋までを真っ赤にして、目に涙を溜めて小鳥遊の顔をじっと見つめた。けれども小鳥遊は草の顔を見ない。見ずに、ただ草の手を舐めしゃぶっている。
「ヒッ…ヤァッ!」
 しまいに指の股を舐められる段になって、草は可哀想なほど体をびくんと震わせて、とうとう泣き始めてしまう。
「も…やだ…やめて…や…」
 途切れ途切れに草が懇願すると、ようやく小鳥遊は草の手を解放し、ぬけぬけと、
「これで綺麗になりましたよ?」
 などと言った。その笑顔に草は絶句する。何かの嫌がらせなのだろうかと思うけれど、別に草は痛い思いをさせられたわけでもなければ、辛い思いをさせられたわけでもない。ただ、なぜだかとても恥ずかしかっただけだ。
「こんなに甘いと、桃が甘いのか、それとも草さまの手が甘いのか分かりませんね」
 小鳥遊は綺麗で蠢惑的な笑顔を浮かべて言った。そんな小鳥遊をそれ以上見ていることが出来ず、それ以上に、このまま近くにいたら何を叫びだしてしまうか分からなくて草は勢い良く立ち上がる。
「そ、そ、そんなの知らない! 俺はもう寝るから!」
 それだけを何とか叫んで踵を返し、逃げるように縁側を後にした。













 走り去る華奢な背中を見送りながら、小鳥遊は楽しげにくつくつと笑う。
 追えば逃げる、逃げれば追う。まるで子供の鬼ごっこだ。
 だが、それすらも楽しく感じるのだから相当に末期なのだろう。自覚はある。だから、あんな荒唐無稽なとんでもないことを草の父親に申し出たのだ。だが、それを承知する父親というのもどうなのだろう。
 おそらく、一人前に食い扶持を稼いで、まともに結婚して、家族を養うことは無理だろう弱い体。それを一生面倒見ると小鳥遊は言い切った。その代わりに、代償として草自身を寄こせと。
 目に入れても痛くないほど溺愛していた末息子を、それでも清岡の両親はくれると言った。聡い人たちであるから、小鳥遊の気持ちも、草の気持ちも、きっと知っていたのだろう。
 小鳥遊は、別段、医者という職業にこだわっていたわけではない。ただ、草が生まれつき病弱で、体が弱かったからその職業を選択しただけだ。けれども、純粋で、疑うことを知らないまっさらな草には、そんなことは想像もできないらしい。それが小鳥遊にはおかしくて仕方が無い。
 全身で、小鳥遊が好きだと訴えてくるくせに、こんな風に小鳥遊が距離をつめ、性的なニュアンスを匂わせると脱兎のごとく逃げていく。それを追いかけるのが途方も無く楽しい。こんな楽しいことがあるなど、草に出会うまで知らなかった。
 いずれにしても、あのまっさらで綺麗な心も、華奢で触れれば壊れそうな綺麗な体も自分だけのものなのだと小鳥遊は思っている。
 だから、あの愛らしい兎に誠心誠意尽くして、とにかく少しでも体を健康にしてもらおうと努力しているのだ。幸いなことに、田舎に越してきて転地療養をした甲斐があったのか、草の体調はかなり改善されてきた。空気も水も良いから喘息も出ない。食欲もあるようで、僅かではあるが体重も増えたようだ。
「でも、まだ、ちょっと入れるのは無理だよなあ」
 ニヤニヤと人の悪い、他の人間から見ればどう贔屓目に見てもスケベ面にしか見えない笑みを浮かべて、小鳥遊はそんな独り言を漏らす。
「もうちょっと体重を増やして、体力つけてもらわないと」
 まさか、草は想像だにしていないだろう。自分に跪かんばかりに尽くしている優しい医者が、ただ、自分を美味しく頂くために肥え太らせようとしている狼だなどとは。
 そうすぐには健康になどなるはずがない。それでも、小鳥遊はそれまでの手間が面倒だとも、鬱陶しいとも思わなかった。むしろ楽しい過程だと思う。
 それまでは。
「鬼ごっこでも楽しんでいましょうか。坊ちゃん」
 草が齧りかけの桃に口をつけ、小鳥遊は楽しげに笑った。



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