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『052:真昼の月』 ……………………


※『鬼ごっこ』シリーズです。


 どうして、こんなことになってしまったのかと、小鳥遊は頭を抱えた。衝動に負けて、とうとう、草に触れてしまったのは、盆も終わりの雷の夜だった。全ての咎は自分にあるのだと、もちろん、小鳥遊は自覚している。
 けれども。次の日の朝、どこか不安げに、怯えたような表情で草に見上げられて、小鳥遊は後ろめたさから、何の説明も弁明もしなかったのだ。今思えば、それが、間違いの始まりだった。
 殊更、いつもと同じ態度を心がけて、優しく接したつもりだった。けれども、そこから、少しずつ、草の違和感は大きくなっていった。
 いくら草を溺愛していても、執着して独占欲に駆られていても、どこかしらに小鳥遊には余裕のようなものがあった。それは、『草は子供だ』という侮りがあったからに他ならない。草は子供らしく、真っ直ぐで、素直な心のきれいな子供だった。だから、その感情の起伏が手に取るように分かった。だが、それが、今は分からない。明らかな大きな満月が、不意に雲に隠れてしまったかのように、小鳥遊には良く見えなくなってしまった。
 最初の変化は、草が自分の事を『私』と言うようになったことだ。それから、すぐに、草は身の回りの事を自分でしたがるようになった。最初は不慣れで、上手に出来なかったけれども、それでも、小鳥遊が手を出すことを厭い、気が付けば、今まで小鳥遊の手を煩わせていたことの半分ほどは、自分でするようになってしまったのだ。
 それから、一人の時間を持ちたがるようになった。ある日の朝、散歩に誘いに寝室に訪れたら、既に寝床はもぬけの殻で、小鳥遊は酷く慌てて草を探し回った。その時は、すぐに草は見つかった。いつも、散歩に行く果樹園で、たわわに実った林檎の実をのんびりと眺めていた。その横顔は、小鳥遊が今まで一度も見たことの無い、大人びた清廉な青年のようだった。
 草は小鳥遊に気が付くと、ふ、と静かに笑った。あまりに美しい笑顔で、小鳥遊は一瞬言葉を失ってしまった程だった。こんな青年を、小鳥遊は知らない。美しい。けれども、儚くて、捕まえなければすぐにでも、秋の高い薄青の空に溶けてしまいそうだった。小鳥遊は、奇妙な不安と焦燥感に囚われて、草の腕を些か乱暴に掴み、草陰に引きずり込むと、いつものように触れて良いかと尋ね、草が困ったように頷くのを確認してから、草の体を弄り回して射精させた。青空の下で、こんなにも淫らな行為に草を引きずり込んでいる。その罪悪感と良心の呵責は途方も無く大きい。けれども、小鳥遊は自分の衝動を抑え切れなかった。
 草は決して小鳥遊を拒絶しない。行為に戸惑い、怯え、羞恥を感じながら、それと同時に淫らな娼婦のように敏感に反応を返す。そして、小鳥遊の手を汚してしまった後、必ず、小さな声で、
「いやらしくて、ごめんなさい」
と謝罪する。その表情は小鳥遊の理性の鎖を簡単に断ち切ってしまう。快感の余韻のどこか残る紅潮した頬で、その白い首筋も、背中も、胸元も薄紅色に染めて、そして恥じ入る初心な処女のように眦を微かに涙で濡らすのだ。
 小鳥遊は何度、そのまま草の体を蹂躙して貫いてしまいたいと思ったか分からない。けれども、そんなことをしたら、決して丈夫ではない草の体はどうにかなってしまうだろう。だから、自分の体に杭を打つような苦しみで、その衝動を押し殺す。
 草の事が分からないように、小鳥遊は自分の事まで分からなくなりつつあった。このどす黒い感情は、一体、何なのか、何処から来るのか、そして、どうすればそれを抑えつける事が出来るのか分からない。分からないまま、小鳥遊は逃げるように、真夜中に屋敷を抜け出した。草が深く寝入っているのを確認してから、気配を殺すように、そっと。

 草と小鳥遊が暮らしている里は、確かに田舎だけれど、すぐ近くに湯治場があった。半ば観光客相手の温泉もある。だから、そういう目的を満足させるには、事欠かなかった。
 賑やかな温泉街を抜けると、少し寂れた薄暗い店が軒を連ねている。安っぽい印象の粗末な遊郭街だった。相手など誰でも良いと適当に見繕って、思いやることなど無く一方的に劣情を吐き出した。吐き出した後に、自分の下で乱れている女の目元が、草に似ていることに気が付いて、反吐が出るかと思うほど、小鳥遊は自分を嫌悪した。
 どうにもならない。どうしていいか分からない苦しさ。自己嫌悪に塗れながら、けれども、草を蹂躙して壊してしまうよりはましなのだと自分に言い聞かせた。そんな事を、何夜か繰り返した。
 そうこうしている内に、草はますます心の中に壁を作ってしまったようだった。決して、あからさまに反抗的な態度をとったりはしない。むしろ、そうだったならば、小鳥遊は安心しただろう。分かりやすい感情的な態度だと。そうではなく、草は笑うのだ。小鳥遊を見ると、柔らかに、大人びた綺麗な表情で。それを見るたびに、小鳥遊は不安に駆られ、草を自分の腕の中に閉じ込めたい衝動を抑えきれず、草に触れる。けれども、寸でのところで草を犯してしまうことを押しとどめる。そして、吐き出せなかった劣情を、遊郭で紛らわせた。明らかな悪循環だった。

「ごちそうさまでした。美味しかった」
 優雅な仕草で箸を置き、行儀良く両手を合わせて草は挨拶した。小鳥遊は、ぼんやりと全て空になった食器を眺める。草は、最近、きちんと食事を取るようになった。いつからなのか良く覚えていないが、子供のような好き嫌いも決して言わなくなった。
「…最近、きちんと最後まで食べてくださいますね」
 他愛ない口調で小鳥遊が呟くと、草は何か楽しいことでも思いついたかのように首を傾げ悪戯な笑みを浮かべた。
「うん。私はとても丈夫になったと思うよ? 今年は、一度しか大きな風邪もひいていないし」
 そして、すっと体を移動して小鳥遊の下から上目遣いで見つめてくる。その瞳には、どこか意地悪な色が浮かんでいる。けれども、だからこそ挑発的で艶めいて見えた。これも、ここ最近、草が見せるようになった大人びた表情だ。小鳥遊は動揺に、眉を顰める。
「このままだと、小鳥遊はいらなくなるかもしれないね?」
 そして、草の口から続いた言葉に肝を冷やした。どこまで本気で言っているのかが小鳥遊には量れない。何も答えられずに、小鳥遊が黙って見下ろしていると、草は不意にくしゃりと顔を歪め、不機嫌そうな、けれども泣きそうにも見える表情になった。そうして、何かから逃げるように、顔を背ける。
「…前から気になっていたけど。小鳥遊。お前、時々、香と白粉の匂いがするよ。湯浴みでもしてちゃんと落としたら。私は…その匂いは大嫌いだ」
 思いの外、強い口調で草は告げると、そのまま食卓を立ち、部屋を出て行く。
「一人で散歩に行くから、付いてくるな」
 背中を向けたまま、小鳥遊を振り返りもせずに草は言い捨てた。その華奢な背中を為す術も無く小鳥遊は見送る。
 気が付かれているとは思わなかった。草は子供で、何も知らないはずだとたかを括っていた。けれども、本当は小鳥遊にも分かっていたのだ。草は子供ではない。大人でもないかもしれないけれど、それでも、もう、子供ではないのだ。いつまでも、目を塞ぎ、鳥籠の中に閉じ込めておける筈もない。まるで自分は、自らの策に溺れてしまった愚かな策士のようだと、小鳥遊は自嘲の笑みを漏らした。

 付いてくるなと言われたけれど、それを破って、小鳥遊は果樹園へと続くなだらかな小径を辿った。もう、風は冷たく、冬の初めに差し掛かっているようだ。空は随分と高く、色は水と灰の中間のような季節の変わり目の色だった。そこに薄ぼんやりと下弦の月が浮かんでいる。余りに薄く、空の色に溶けてしまいそうな淡い儚い月だった。それは、ここ最近の、草の笑顔を想起させる。草の美しい大人びた笑顔は、どこかこの真昼の月に似ているようだった。捕まえなければ、このまま消えて溶けてしまう。そんなことは絶対にさせたくない。誰が何と言おうとも、あれは自分のものなのだと、この期に及んで小鳥遊は酷く利己的なことを考えた。
 草は、ここ最近の定位置となっている林檎の木の前に佇んでいた。赤く熟れた林檎の実を見上げながら、小鳥遊の気配を感じているだろうに、決してこちらを見ない。その頑なで意地っ張りな態度が、どこかしら子供じみていて、小鳥遊は少しだけ安心した。
「草さま」
と殊更意識して優しい声を出した。優しくしたい。柔らかな毛布で包み込むように、暖かく、穏やかで優しいものだけを草の周りには置いておきたい。その愛情もまた、確かに小鳥遊の中の真実だった。
 草は声をかけられても、やはり、小鳥遊の方には振り返らなかった。
「何? 付いてくるなって言った」
とぶっきらぼうに答えただけで、意地になって、まるで親の敵のように林檎の実を睨みつけている。仄かに香る林檎の甘い香りは爽やかで、肌寒い空気には似つかわしく思えた。ついこの間までは青くて、とても甘いとは思えなかった林檎の実も、こうして時期が来れば赤く熟れる。草もまた、いつかは大人になるのだということを、小鳥遊は見て見ない振りできたのだ。子供のままならば、大義名分の下、自分の腕の中に閉じ込めておける。保護と言う名を借りて、けれども、結局は自分の利己的な欲望で草を独占したいだけなのだ。草は、もしかしたら、それに気が付いたのかもしれない。だから、少しずつ、小鳥遊の手を離れようとしているのかもしれなかった。
 理屈では分かる。理屈では分かるのに感情と本能が承服しかねる。その矛盾が小鳥遊を不安定にしているのだ。
「風が冷たくなってきました。そろそろ帰りませんか?」
 労わる振りでそっと草の肩を抱き、片方の手を握り締める。握った手は晩秋の空気に晒されて、すっかり冷え切っていた。真っ白な手触りの良い小さな手だった。その細い指一本一本に舌を這わせて嘗め回したい、という欲望に駆られて、小鳥遊は我知らず溜息を一つ漏らした。ほんの少し、草に触れただけでこれだ。相当、おかしくなっているらしい。
 草は、それ以上は意地を張らず、黙って頷くと小鳥遊に手を引かれて歩き始める。ゆっくりと短い家路を辿り、家に着いた途端、小鳥遊は何も尋ねること無しに草に口付けを落とした。草は、いつもと同じく少しも抵抗することは無い。口腔内を犯すように執拗に舌を絡ませても、それは変わらなかった。小鳥遊の背中にぎゅっとしがみつく、その手が余りに頼りなく、小鳥遊は、やはりどうしようもない衝動に駆られて草に触れた。
 ほんの微かな接触にさえ草は敏感に体を震わせる。そして、堪えきれずに達したとき、小さな、消え入りそうな声で、
「いやらしくて、ごめんなさい」
と悲鳴のように謝罪した。それもいつもと同じ。そして、抑え切れない劣情を吐き出すために、小鳥遊が真夜中に屋敷を忍び出たのも同じだった。

 遊郭からの帰り道、小鳥遊はどうしようもない虚しさに襲われながら、真夜中の空を見上げた。昼間見たのと同じ、下弦の月がそこには浮かんでいる。それを見た途端、小鳥遊は寒さからではない震えに襲われた。
 夜空に浮かぶ月は、昼間のそれとはまるで違う。恐ろしいほど澄み切り、冴え渡り、触れれば切れるような鋭さを露呈している。その鋭さに、小鳥遊はまるで断罪されているような気持ちになった。
 空を見上げながら歩いていたので、大分屋敷に近づいてくるまで、小鳥遊は気が付かなかった。縁側の硝子戸を開け放ち、そこにじっと草が立ち尽くしていたことに。一瞬、小鳥遊は、それが幻かと思った。草を想うあまり、見てしまった幻想だと。けれども、その表情を見た途端、決してそれが幻などではないことに気が付いた。
 草は、ただ、じっと小鳥遊を見つめていた。その白い頬は、青ざめて、そして涙に濡れていた。冬が近い。晩秋の夜気は冷たいといっても過言ではなく、草の丈夫でない体には毒にしかならない。その上、草は浴衣一枚という薄着で、そこに立っていたのだ。
 そんなことをしていたら体を壊してしまうと、小鳥遊は慌てて縁側に駆け寄る。けれども、草のすぐ近くまで来て、ぴたりと足を止めた。草が、酷く静かな冷えた声で、
「小鳥遊なんて、もういらない」
と言ったからだ。小鳥遊は、最初、自分が何を言われたのか分からなかった。或いは、理解したくないと脳が拒否していたのかもしれない。いずれにしても、草は同じ言葉を繰り返した。
「小鳥遊なんて、もういらない」
と。
「もう、私の世話をする必要は無いよ。私は、家に帰ることにしたから。小鳥遊は、好きなところに行って好きなことをすれば良い。金が欲しいなら、幾らでも渡す」
 それを言われた途端、小鳥遊は高い崖の上から突き落とされたような気がした。磐石の上に作り上げた、完璧な鳥籠のはずだった。鬼ごっこになぞらえて、追い、追われることを楽しんでいるつもりになっていた時もあった。だが、それは鳥籠の中での話だ。籠の中から鳥が逃げて、羽ばたいて行くことなど想定していなかった。
「…待ってください」
 足元から震えが這い登ってくる。これ以上、自分を追い詰めないでくれと、心の中で小鳥遊は叫んだ。これ以上、追い詰められたら自分が何をしでかすか、分からない。小鳥遊は自分自身が恐ろしかった。
 けれども、草は容赦しなかった。昼間の月のような曖昧さなど欠片もない。冷たい夜空に浮かぶ、鋭い下弦の月のように。
「待つ? 何を? 待っていたのは私だけど。ずっと、ずっと、こうして待っていたけれど、一度も、小鳥遊は気が付かなかったね」
「…それは…とにかく、待ってください。草さまは約束してくれましたよね? 私を捨てないと。ずっと傍に置いてくださると」
 必死に懇願する小鳥遊に、けれども、草は慈悲など与えなかった。その瞳に浮かんでいるのは、明らかな怒りだ。こんなにも激しい感情を迸らせている草を、小鳥遊は初めて見た。
 草は美しかった。今までの子供らしさなど、どこにも残っていない。ただ、言葉を失ってしまうほどの壮絶な美しさを湛えて、小鳥遊を真っ直ぐに見つめている。
「そうだね。だったら、私の命令に従って。そうしたら、小鳥遊の言うことを聞いても良い」
 言葉だけは、平坦に、淡々と綴っている。けれども、その表情はまるで正反対だった。美しい魔物にでも魅入られたかのように、小鳥遊は草から目を離すことが出来なかった。
「私の事を抱いてくれたら、小鳥遊を捨てないよ?」
 もう、どこにも逃げる場所が無いほどに、草は小鳥遊を追い詰める。小鳥遊は、自分の中で何かの鎖が呆気なく砕ける音を聞いた。解き放ったのは草だ。ならば、草が責任を取るべきだと、全てを転嫁する。
 美しくとも、それは切っ先の鋭い下弦の月だ。触れれば切れる。それでも、小鳥遊は手を伸ばした。飛び込めば死ぬと分かっていながら、火に飛び込んでしまう虫のように。
「小鳥遊に出来るの? たった今、何処の誰だか知らない人を抱いてきた手で?」
 目を細め、どこか芝居めいた婀娜な笑みを浮かべながら、草は蓮っ葉な挑発をした。けれども、柱にもたれている手が微かに震えているのに小鳥遊は気が付いた。気が付いた途端に、何もかもが意味を失った。小鳥遊を支配しているのは、ただの衝動だ。相手を貪りつくして全て奪いたいという、激しい恋情と執着と、そして独占欲。そこには、暖かで緩やかな愛情など、少しも入り込む隙間が無い。
 常には無い、乱暴で、強引な態度で小鳥遊は草の腕を掴む。そして、そのまま引き摺るように、寝室に草を連れて行った。投げるように、布団の上に草の体を放り出す。そして、そのまま、草の上に覆いかぶさった。
 乱暴にその帯を解き、いとも容易く、浴衣を剥ぎ取る。草の驚愕も、恐れも、何もかも意味をなさない。これは自分のものなのだから、どう扱おうと構わないと、酷く傲慢で冷淡なことしか考えられなかった。
 草の体を思いやることなど少しも出来ず、ただ、自分の思うさま、あちこちを撫で回し、舌を這わせ、歯を立てた。草の体が、震えていたように思えたけれど、それさえ、小鳥遊には何の感慨も与えはしない。ただ、辛うじて、傷だけはつけまいと思いやる気持ちが残っていた。それでも、扱いは粗末なものだった。部屋の中を見回し、骨董品として置いてある行灯の横の瓶を、丁度良いとばかりに払い倒す。零れた菜種油を拭い取ると、草の体を乱暴にひっくり返し、そうして、秘所を強引に拓いた。
 指一本、滑り込ませただけで、草は悲鳴を上げる。余りに狭いその場所に、小鳥遊は眉を顰め、等閑に草の性器を愛撫した。草は啜り泣きながら、それでも、抵抗らしい抵抗をしない。なんと憐れな生贄だと思いながらも、小鳥遊は無慈悲に草の体を拓きつづけた。
 草が疲れてぐったりした頃に、小鳥遊はようやく草の中に押し入る。初めて支配した草の体の裡は、信じられないほどの悦楽を小鳥遊に与えた。狭くて熱くて絡み付いてくる。自分のものだと思っていた草を、思うさま貪ることは、小鳥遊にこれ以上は無いというほどの充足を与えた。
 ただ、自分の衝動のままに小鳥遊は草の体を揺さぶって、何度か、その中に精を放った。草は、気丈にも、小鳥遊の蹂躙に耐え、どうにか意識を保とうとしていたようだったが。
 やはり、仕舞いには落ちるように気を失ってしまった。

 嗚呼、と小鳥遊は思う。貫き、貪り、食い殺してしまったのだと、どこかおかしくなっている頭で考えた。

 だから、触れてはいけなかったのに。気を失った草を、折れよとばかりに抱きしめながら、窓から見上げた空には、やはり、冴えた下弦の月が浮かんでいた。




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