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『028:菜の花』 ……………………


※『鬼ごっこ』シリーズです。


 結局、草は一週間寝込む羽目になった。別に、体に傷が付いたわけではないので、本当は最初の三日ほどで大分良くなったのだけれど、気持ちが追いつかずに、いつまでも微熱とだるさが続いたのだ。
 その間、ずっと、小鳥遊は言葉少なに草に尽くしていた。その表情は酷く憔悴していた。まるで、死んでしまいたいと思っているような、そんな顔だった。多分、後悔しているのだろうと、草は気の毒に思う。気の毒に思うけれど、草は幸福だった。これで、もう、何も思い残すことも無く、小鳥遊を解放してやれると、どこか安堵の気持ちがあった。
 それでも、一週間も床を上げる気にならなかったのは、やはり未練があったからなのかもしれない。それくらいは、許されても良いだろうと、草は、その間、素直に小鳥遊に甘え続けた。
 草が床に臥せっている間は、小鳥遊から、あの嫌な匂いがしない。小鳥遊は上手く隠しているつもりだったのかもしれないが、草は、きちんと最初の時から気が付いていたのだ。最初のあの日、ふ、と慣れぬ匂いで草は目を覚ました。けれども、すぐ傍らに、小鳥遊の気配があったから、寝たふりで目を閉じていた。小鳥遊は、草を起こさぬように、優しく、そっと触れるだけの口付けを落とした。その時に、はっきりと気が付いた。
 小鳥遊からは、微かに女しかつけぬ香と白粉の匂いがした。
 何かの思い違いだと、草は何度も思い込もうとした。けれども、それも長くは続かなかった。小鳥遊が夜、屋敷を抜け出すのは決まって草に触れた後だ。それに気が付いたとき、草は絶望的な気持ちに陥った。
 小鳥遊が草に触れた理由を求めたとき、小鳥遊は言ったのだ。草の気持ちをずっと知っていたのだと。つまり、草が小鳥遊を好きだから、小鳥遊は草に触れていたに過ぎない。そこには、何の意味も無い。食事や湯浴みの世話や、病のときの看病と何ら変わらないのだ。
 夜抜け出し、女の所へ行く事は、それを裏付けることにしか他ならない。だから、草はそれを咎めることができなかった。ただ、出来ることといえば、一睡もせず、小鳥遊が帰ってくるのをじっと寝床の中で待つことだけ。
 小鳥遊は帰ってくると、草が起きているなどとは思っていなかったのだろう。毎回、そっと、触れるだけの口付けを草に落とした。その時に小鳥遊から漂ってくる女の匂いに、草は何度吐きたくなったか分からない。飛び起きて、頭を掻き毟り、悲鳴を上げて小鳥遊を罵りたかった。けれども、草にはその権利が無い。これ以上、小鳥遊を縛り付けることはあまりに罪だと草にも分かっていた。
 頭では理解できても、感情がそれを許さない。草は、それが怖かった。いつか、きっと、堪えきれずに口に出してしまうだろう。口に出すくらいならば、まだましだ。もし、小鳥遊が出て行くことに我慢が出来ず、小鳥遊の足を切り落としてしまったら。
草は、自分の内側に、醜い鬼がいるようで、本当に怖かったのだ。
 だから、もう、これ以上、汚れて醜くなってしまう前に、小鳥遊から離れなくてはならないと思った。一刻も早く、小鳥遊を解放してやら無くては。
 草は、強迫観念に囚われたように、とにかく、自立しようと試みた。自立して、少しでも一人前の大人にならなくては、と。
 今まで小鳥遊の手を煩わせていたことも、出来うる限り自分でするように心がけた。いちいち、下らないことで体調を崩して寝込むことが無いように、そして体力をつけるようにと、食事も無理やり取るようにした。お陰で、以前に比べれば随分と健康になったのだ。もう、小鳥遊の手など要らないと、意地を張り、自分に言い聞かせた。
 けれども、唯一、小鳥遊に触れられることだけは拒否できない。小鳥遊を求めることを抑えられない。その浅ましさに、自分自身が心底嫌になった。
 小鳥遊に触れられることは、草にとっては幸福なことだった。その充足感は何ものにも代えがたい。触れられれば触れられるほど、もっとと、貪欲に心が求める。そんな自分を嫌悪して、草はいつでも、小鳥遊に触れられた後は謝罪の言葉を口にした。
 自分のいやらしさも浅ましさも自覚している。それなのに、日に日に草の心は何か醜いものに犯されていくようだった。小鳥遊が自分以外の人間に触れることが、どうしても嫌だった。何処にも行くなと横暴に命令したくなる。けれども、草が命令したならば、本心はどうあれ小鳥遊はきっとその通りにすることを知っていたから、尚更、それを言うことは出来なかった。
 小鳥遊が、そっと真夜中に屋敷を抜け出すたびに、草は気が狂いそうになった。もう、何もかもが限界だったのだ。小鳥遊に、この醜い心を全てぶちまけてしまう前に、別れることを草が決心したのは、晩秋の下弦の月の浮かんでいる夜だった。
 小鳥遊は、いつものように草に触れ、そしてその夜に屋敷を抜け出した。きっと、どこぞで女を抱いてきたのだろう。草は、寝巻き代わりの浴衣のまま、縁側の雨戸も硝子戸も全て開け放ち、ただ、じっと小鳥遊を待ち続けた。
 小鳥遊は、やっぱり、いつもと同じく、香と白粉の匂いをさせて帰ってきた。それで、草は、とうとう、堪えきれなくなってしまったのだ。堰を切ったように小鳥遊に醜い嫉妬と怒りをぶつけた。そして、拙い挑発を仕掛けて、多分、恐らく、小鳥遊の怒りを買ったのだろう。小鳥遊は、随分と乱暴に、ぞんざいに、けれども草が望んだように草を抱いた。明らかにそれは苦痛の勝る行為で、その後に、草は臥せってしまったのだけれど。確かに、草は幸福だったのだ。

「お加減は、いかがですか?」
 遠慮がちに尋ねてくる声に、我知らず、草は薄っすらと微笑んだ。
「もう、大分良いよ。床を上げてもう三日だし、小鳥遊のせいではないのだから、気にしないで」
 凪いだ穏やかな声で言ったというのに、小鳥遊は草からすっと目を逸らしてしまう。そのことに、草の胸は切り裂かれるように痛んだが、泣いたりせずに、やはり薄っすらと微笑んだだけだった。
 硝子戸の向こうに見える空は、既に冬のそれだ。じきに、初雪が降るだろう。その前に。
「雪が降る前に、家に帰らなくてはね。大して荷物がある訳ではないけれど、積もってしまうと、街へと降りる道が閉ざされてしまうかもしれない」
 ぼんやりと枯葉の舞い散る庭を眺めながら草が独り言のように漏らすと、小鳥遊は大げさなほど体を揺らし、どこか青褪めて見える顔で、草を見つめた。
「草さま…何の話ですか?」
「うん? だから、私が家に帰る話だけど。もう忘れたの? でも、小鳥遊は一緒に来なくても良いよ。小鳥遊なら、きっと、何処に行っても立派な医者になれるだろうし、もし、伝手が欲しいというなら、私から両親に頼んでおくから……今まで、こんな場所に縛り付けていてごめんなさい。本当に、ありがとう」
 鼻の奥がつんとしたけれど、最後くらいは笑っていようと、草は努めて明るい表情を作った。だのに、小鳥遊は、その顔をますます青くしたようだった。
「…草さまは、どうしても、私を捨てるとおっしゃるのですか」
 低い、どこか思いつめたような声で小鳥遊は草に尋ねる。なぜ、小鳥遊がそんなに暗い表情をしているのか、草にはさっぱり分からなかった。そもそも、捨てるなどと言う言葉はおかしい。
「捨てる? とんでもない。捨てるんじゃなくて解放してやるんだ」
 優しく微笑みかけて、草が告げたなら、小鳥遊は不意に眉間に皺を寄せ、何かが痛いような顔をした。
「…何を馬鹿な…草さま。お願いですから、私にこれ以上、犬畜生なことをさせないで下さい。私を捨てて、家に帰るなどと、無慈悲なことを言わないで下さい」
「…小鳥遊? 何を言っているの? 小鳥遊は、やっと、厄介な子供の世話から解放されるんだよ? 喜ぶべきことではないの?」
 草は小鳥遊の態度が理解できずに首を傾げる。戸惑ったように小鳥遊の顔を見上げた途端、不意に、足首を掴まれて、草はぎくりと体を竦ませた。思い出したのは十日以上も前の情交だ。だが、小鳥遊は、それ以上、乱暴なことをしなかった。ただ、草の足首を掴んだまま、
「どうしても私を捨てて家に帰ると言うならば、私は、草さまの足首を切り落としてしまうでしょう」
と、酷く物騒なことを言った。けれども、その表情は酷く苦しげで、見ている草の方まで辛くなってくる。
「……小鳥遊?」
「…無理に辱めたことを怒っているのなら幾らでも、謝罪します。ですから、私をお傍に置いて下さい」
 跪き、草の足に口付けんばかりに身を低くする小鳥遊に、草は困惑する。こんな心底困りきったような小鳥遊を見るのは初めてのことだった。
「は…辱められただなんて思っていないよ? だって、あれは私が望んだことなのだし」
「ならば、なぜ、そのようなことをおっしゃるのですか?」
「なぜって…小鳥遊が私の犠牲になっているから。小鳥遊は本当はこんな田舎で、出来損ないの世話をしているような人ではないと思う」
 言えば惨めさが湧き上がる。それでも、草は小鳥遊の顔を真っ直ぐ見つめ、きちんと告げた。そして、続けて今までの謝罪と感謝を伝えるつもりだった。けれども。
「何を馬鹿な! 私がなぜ、医者になったと思っているんですか」
 小鳥遊は呆れかえった様な顔で、草にその先を続けさせなかった。
「例えそれが医者でも、草さまが、他の誰かに頼るのが我慢ならなかったからです。医者になれば、草さまの全てを、私のものに出来るかと思ったからですよ?」
 言われた言葉は、自分の言葉かと思うくらい、草が小鳥遊に抱いていた思いと同じものだった。だから、尚更、草は、俄かにそれを信じられない。
「そんなのは嘘だ…だったら…だったら、どうして、小鳥遊は俺以外の人に触れるの!」
 思い出せば、裂かれるように胸が痛い。泣くまい、と思っていたのに、いとも容易く涙腺は緩んでしまった。小鳥遊は、らしくも無く、困りきったような表情で、草の近くに項垂れた。
「…今回の事で分かりませんでしたか?」
「…何が?」
「抱かれることは、辛かったでしょうに。一週間も、寝込まれたではありませんか。もともと、草さまは、体が丈夫ではないし、私が、衝動のまま劣情をぶつけたなら、どうなると思いますか?」
 すっかり、頭の中から抜け落ちていたことを指摘されて、草は口を噤む。反論のしようもない。それならば、さっさと三日で床を上げればよかったと、子供の論理で考えた。
「でも、でも、それでも俺は小鳥遊が他の誰かに触るのは嫌だ。凄く辛い。死にそうになる。他の誰かに触れるくらいなら、倒れたって、寝込んだって良いから、俺に触って」
 すっかり、子供じみた口調になっているとは気が付かずに、草はしゃくりあげて訴える。みっともない事この上ないと草は自分が嫌になったのに、小鳥遊はなぜか、とても嬉しそうに笑っていた。
「でしたら、もうしません。時々、体の調子の良いときに、草さまを抱かせていただけるなら」
と、小鳥遊が草の耳元で囁くので、草は顔から、耳から、真っ赤になってしまった。
「そ、それ位、いつでもすれば良い。俺、俺だって、小鳥遊に触ってもらいたいんだから」
 赤くなったまま、俯き、じっと手元を見つめて草が告白すれば小鳥遊は草をぎゅっと抱きしめた。乱暴ではない。苦しくも無い。けれども、強く。
「草さま。私は、草さまを愛しています」
 そして、耳元で睦言のようにそう告げた。草は、一瞬何を言われたのか分からずに、ぽかんと小鳥遊の顔を見上げて、それから、不意に、ぼろぼろと大粒の涙を零し始めた。
「そん、そんなの…今まで言わなかったっ!」
「ええ。言わずとも伝わっていると思い込んでいましたから。でも、よく考えたら、言わなければ伝わらないように草さまを育てたのは、私でした」
 どこか自嘲気味に笑って、小鳥遊は草に口付けを落とす。草にはその言葉の意味がさっぱり分からなかったけれど。小鳥遊は、そのまま、草が泣き止むまで、その唇で涙を拭ってくれたのだった。


 時は穏やかに流れる。特に大病することも無く、草は冬を越えた。それは、草が十八年間生きてきて、初めてのことだった。草は丈夫になったことが嬉しかったけれど、それ以上に、小鳥遊の方が嬉しそうだった。
 もちろん、雪が降る前に家に帰ったなどと言うことも無い。変わらず、その静かな田舎の屋敷に二人で過ごしている。時折、というよりはむしろ頻繁に抱き合うこともある。もちろん、小鳥遊は決して草に無理などさせないけれど。
 もう、小鳥遊が真夜中に屋敷を抜け出すことも無い。そして、静かに春が来て、草は数えで二十歳の歳を迎えた。



「ここに来て、もう二年が経ったね」
と、草は軽やかな足取りで歩きながら、ぽつりと言う。
「もう、そんなに経ちましたか」
 未だ、線は細いし危うい印象が残っている草だ。けれども、二年前に比べれば見違えるほど健康になった。それが嬉しいと、愛しげに草を見つめながら小鳥遊は相槌を打った。
 すっかり雪も溶け、そろそろ、出かけられるだろうと散歩に出かけたときの事だ。道の傍らには春の雑草が咲いている。今日は果樹園の向こうの菜の花畑まで足を伸ばす予定だった。ちらほらと見える紋白蝶に、草はいちいち目を留めて楽しげに笑う。その無邪気な表情を見て、小鳥遊も嬉しそうに笑った。
「ああ、小鳥遊、見てごらん。なんて綺麗なんだろう」
 草が指差した先には、一面の黄色い花畑が広がっていた。春の穏やかな風に、その可愛らしい花がふわふわと揺れて、まるで、黄色い波が立っているようだ。
「綺麗だね」
と、目を細め、その黄色い波を見つめている草の横顔こそが美しいと、小鳥遊はそっとその手を握る。
「草さま。触れても良いですか?」
 いつものように、小鳥遊がお伺いを立てると、草は少しだけ頬を桃色に染め、それから不意に悪戯な顔で笑って、
「駄目」
と答えた。珍しく、草に拒絶されたことに面食らい、小鳥遊が首を傾げると、草は畑の向こうに目をやった。
「ほら、あそこ。あの向こうに菜の花畑で働いている人がいるから。だから駄目。でも」
 草は小鳥遊の手をきゅと握り返して、その前に回った。じっと小鳥遊の顔を見上げながら草は楽しそうに笑う。何とも言えぬ、清らかな色香の浮かぶ笑顔だった。
「でも、家に帰ったら、沢山、沢山、触って?」
 小鳥遊は一瞬だけ絶句し、それから苦笑いを浮かべた。
「草さま、貴方は、一体、どこでそんな事を覚えてくるのですか? 全くもって、性質(たち)の悪い」
 ぶつぶつと小言のような文句を漏らすと、草はけろりとした顔で、
「小鳥遊以外の誰が教えるっていうの?」
と逆に尋ね返した。今度こそ小鳥遊は言葉を失い、腹いせのように傍らの菜の花を一輪手折った。それを、思いついたように、どうぞと草に差し出す。すると、草は一瞬だけ黙り込み、それから、花が開くように晴れやかに笑った。
「小鳥遊。覚えている? 初めて小鳥遊に出会った頃、寝込んでいた俺に、小鳥遊が菜の花を持ってきてくれたことがあったこと」
「ええ、覚えていますよ?」
「外に出られない俺に、春の花を持ってきてくれた。あの時に、きっと、俺は小鳥遊を好きになったんだよ?」
 そう言った草の笑顔は。



 あの時と何も変わっていない、同じ綺麗な笑顔だった。





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