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『070:ベネチアングラス』 - 4 ……



 シンと静まり返っている。どうしてこんなに静かで物音がしないのだろうと、翠はぼんやり考えた。腕に微かな違和感があって、時折、カサリ、カサリと何か軽いもの同士が擦れるような音だけが聞こえた。この音は知っている。翠が、青い瓶に薬を落とす時の音だ。
 あの瓶が一杯になる頃には、何かが終わっているのだと思っていた。翠の恋も、昇華されるのだと。報われるのではない。昇華、されるのだ。形も無く空気になって、消えて霧散する。その通りになったけれど、こんな形を望んでいたのではなかった。
 ふっと目を開ける。
 一番最初に視界に入ってきたのは、窓と、その外でしんしんと降り続いている雪の景色だった。
 雪が降ったのだ。神様が、一つくらいは望みを叶えてくれたのかと思って、翠はただひたすらに窓の外を見つめ続けた。消毒液の匂いが鼻をつく。傍らに点滴をぶら下げたスタンドが目に入った。そこから、ポタリ、ポタリと雫がゆっくりと落ちていくのを所在無さげに翠は見つめ続けた。
「目が覚めましたか?」
 と、穏やかな優しい声が聞こえてきて、自分を上から覗き込んでいる、康哉の笑顔が目に入った。なんの変化も見られない、いつもと同じ笑顔だったから、翠は一瞬錯覚した。
 あれは、夢だったのではないだろうか、と。
「ストレス性の急性胃炎だそうです。一ヶ月ほどで完治すると蒼さんが言ってましたよ」
 嘘のような完璧な顔で康哉は笑い、
「胃炎のほうは、完治するそうです、『胃炎のほうは』ね」
 と、少しばかり棘のある声で言った。それから、翠の目の前に、青い綺麗な硝子の瓶を掲げ、ふざけるようにそれをユラユラと揺らして見せた。
 カサカサと中身が軽い音を立てる。瓶の八分目まで詰まっているカプセルが擦れあって立てている音だ。
「翠さんの部屋で見つけました。蒼さんがね、怒り狂ってましたよ」
「…でしょうね」
「私も、同じなんですが」
 やはり、どこか、上機嫌にも見える笑顔を浮かべたまま康哉は言うので、翠は最初、何を言われたのか理解できなかった。だが、不意に気づく。康哉の目が決して笑っていないことに。
 むしろ、怒りのような、憎悪のような激しい感情がそこには満ちていた。その理由が翠には分からない。それでもやはり、そんな康哉の激しさに恐怖を覚えながら、翠はそれ以上に惹かれてしまうのだ。あまりに自分が憐れだと思う。
「…僕が死んだら、きっと父さんは悲しむと思うんです。康哉さんが、一番愛していた人を奪われた時と同じように、苦しんで、悲しんで、辛い思いをすると。だから、それだけで終わらせてください。会社のことは……諦めてもらえませんか」
 康哉の顔を見ることが出来ず、ただ、点滴の雫を見つめ続けたまま、翠は淡々と言った。
「会社のことは諦めて、貴方だけで終わらせる、ね」
 康哉は、そんな翠を射殺してしまいそうな強い視線で見つめ続けながら、ふ、と軽く息を零した。
「むしろ貴方の事を諦めて、会社だけで終わらせてやろう、という私の温情だったんですが」
 どこか自嘲的な苦笑を含ませて、康哉は独り言のように呟いた。それから、翠の横たわっているベッドの傍らにある椅子にゆっくりと腰を下ろす。そうすると、余計に康哉との距離が近づいて、こんな状況なのに、翠はドキリとする自分を抑え切れなかった。救われない。本当に救われない、と思う。
「最初は、まあ、適当に誑かして、散々弄んでゴミみたいにポイと捨ててやろうかと思っていたんです。貴方が傷つけば、貴方の父親も多少は後悔するだろうし、そうすれば私も溜飲を下げられるだろうと。けれども、段々と気がついてしまったんですよ」
 じっと翠を見つめてくる康哉の視線は、とても不思議なものだった。今までのような、優しい、穏やかなものではない。仮面を取り去ったその瞳には、康哉の本質である気性の激しさが窺い知れるのに、けれども、それは憎悪とも違うように見えた。そうではなく、むしろ、激しい熱のようなものを感じさせる視線。それは、翠が初めて知る康哉だった。
 冷たい激しさも、偽りの穏やかさも知っている。だが、熱を感じさせる激しさを康哉は、今まで一度も見せたことなど無かった。だから、翠は酷く戸惑う。
「気がつく?」
 戸惑ったまま、頼りない不安げな表情で翠は康哉を見上げた。すると、康哉は、やはり、今まで見たことの無いような不思議な、困ったような苦笑いを浮かべた。
「ええ。翠さんが言っていたことは概ね事実なんですが。少し間違いもあります」
「間違い…」
「私と裕子は確かに籍を入れる約束をしてはいましたが、結婚の約束などしていませんでしたよ」
「…あの…入籍と、結婚と……同じではないんですか?」
「同じではないんですよ。そもそも、本来は私と裕子は同じ籍に入っていて然るべきだったのですが。些か複雑な事情がありましてね」
「…良く、分からないんですが」
 康哉の言わんとしていることが分からず、翠はベッドに横たわったまま、不思議そうな表情で康哉を見上げた。その瞳には一切の曇りが無い。澄み切って、何の穢れも見当たらなかった。康哉は、ふっと表情を緩めると、翠の青白い頬を優しく撫で、それから、親指でカサついた下唇をなぞった。その仕草が、奇妙に性的なものに思えて、翠は微かに頬を赤く染める。そんな反応を返してしまう自分が恥ずかしく、惨めだった。だが、康哉は気にした風も無く、言葉を続けた。
「姉、なんです。裕子は。正真正銘、血の繋がった、ね。誤解なさってるようですが、裕子のお腹の中にいた子供も、当然、私の子ではありませんよ。…生まれていたら、翠さんの、弟か妹になっていたでしょうね」
 思いも寄らぬ事実を告げられ、翠は驚きのあまり目を見開いた。康哉はそれが余程楽しいのか、クツクツと声を押し殺して笑う。悪戯を成功させた子供のような、らしからぬ笑顔だった。
「ある日、突然、見知らぬ男が押しかけてきて、裕子に大金を置いていったんです。『親が誰かも分からぬ乞食が、金目当てだろう。遊んで暮らせるだけの金をやるから、二度と汚らしい真似をするな』と、罵ってね。嗚呼、貴方の父親が命じたのでは無いですよ。親族の方が勝手にしたことだったんです。私も途中で気がついたのですが、むしろ、社長は裕子を本当に愛していたようですね。それで、まあ、裕子は死んでしまったのですが。事故だったのか、それとも自殺だったのか…未だにそこだけは私にも分からないんです。けれども、あの男が裕子を愛さなければ、裕子は死ぬことなど無かった。憎しみを簡単に消すことも出来なかったので、どこかにぶつけなければ気が済まなかった。まあ、もっとも…今にして思えば、かなり早い段階でミイラ取りがミイラになっていたので、いずれにしても、復讐などと言う大仰なことが実現するわけも無かったんですがね」
 そう言いながら、康哉は翠の瞼を撫で、髪を梳き、また頬を辿って、くすぐるように耳に触れた。だから、翠は康哉の手のほうに余りに気を取られすぎて、康哉の言葉の半分くらいは理解できていなかった。主に、康哉の、自分に向ける感情の部分については。
「翠さんには薄っすらと勘付かれてしまっていたようですが。私は決して穏やかな人間ではないんです。相当に気性の激しい性質です。だからこそ、貴方には距離を置いて接していた。…むしろ、それが私なりの思いやりと愛情のつもりだったんですが」
 そこまで言って、康哉は傍らの小卓の上に置いておいた青い瓶を今一度持ち上げ、ベルを鳴らすように振って見せた。
「恩を仇で返されるとは思いませんでした」
 そう言いながら翠にピタリと照準を合わせた視線は、確かに激しいそれだった。翠があの冬の日、初めて見た康哉とかなり近い。近いが、微妙な何かが決定的に違っていた。
「翠さん。私は、自分の気性の激しさを知っています。私が本気で誰かを愛したとしたら、骨をしゃぶりつくすまで貪らねば気がすまないだろうということも知っています。私に取っては、愛情も憎悪も紙一重なんです。それでも、まだ、貴方は、会社のことは諦めて、ご自分だけで終わらせて欲しいと言えますか?」
 真直ぐに見つめてくる、その激しい視線を、翠は目を逸らすことなく真正面から受け止めた。胸の奥からこみ上げてくるのは、紛うことなき歓喜だった。例え、憎しみでも構わない。その瞳で見つめて欲しいと、翠はもう、ずっと長い事、あの冬の日から願い続けてきたのだから。
「言えます。僕は、康哉さんが好きです。それに」
 翠は一旦言葉を切り、そっと目を閉じる。
「僕が好きになったのは、裕子さんのお葬式の時に、静かに泣きながら怒っていた康哉さんなのだから」
 静かな声で翠が最後まで言うと、あっと思う間もなく翠は体を掬い上げられ、酷く乱暴な仕草で唇を塞がれた。驚きに悲鳴を上げかけて、微かに開いた口腔内に入り込んできた舌は、決して礼儀正しいとも、穏やかだとも言えない。むしろ無遠慮で、傍若無人で、翠のペースなど微塵も考えていなかった。
 今まで、一度だって、こんなキスはされたことが無かった。激しい嵐の最中に、無造作にぽおんと放り投げられるような、舵の取れなくなるような、そんな行為に翠は怯える。だが、その怯えさえ許さない、というように、執拗に舌を絡め取られ、強く吸い上げられ、翠はそのまま失神してしまいそうだった。だが、その直前に翠の唇は解放された。
「言ったでしょう。これまでの、あんな穏やかでつまらない行為はセックスでも何でもなかったのだと。私が本気で抱いたら、翠さんは三日で壊れてしまうでしょうね。それでも、構わないと言えますか?」
「言え…言えます…」
 息の上がったまま、それでも翠は、必死に、健気に答えた。
「翠さん。これが最後の質問です。引き返すなら今しかありません」
 康哉はそう前置きすると、静かな口調で、
「死という形で奪われるのも、略奪という形で奪われるのも、貴方の父親に取っては同じでしょうね。それでも、家族を悲しませても、私の共犯者になると、本当に言えますか?」
 と翠に問うた。翠は逡巡することなく、
「言えます」
 と答え、康哉は、
「貴方は、本当に愚かな子供ですね」
 と返したが、その顔は心底満足したように笑っていた。
「ならば、きちんと病気を治してください。話はそれからです」
 翠は、逆らうことなく素直に頷き、そっと目を閉じる。
 瞼の裏には、窓の外の雪が鮮やかに焼きついていた。
 それは、あの日の雪と同じ雪だ。

 康哉は、折れよとばかりに強く強く、翠の華奢な体を一度だけ抱きしめると、そっとベッドに横たえた。
「翠さん。貴方は、もう、私のものですよ?」
 深い声で囁かれ、翠は目を閉じたままうっとりと笑って、
「はい」
 と答えた。




 もう、二度と、翠にはあの青い瓶は必要無い。




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