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『058:風切羽』 ………………

 ※『070:ベネチアングラス』の続編です。先にそちらをお読み下さい。


 カチンと金属の動く音がする。家の鍵を開ける音だ。翠はこの音に敏感だ。さして読みたいわけでもなかったのだが、居心地の悪さを誤魔化すために開いていた本をパタンと閉じてソファから立ち上がると、スルリと重さを感じさせない軽い仕草で、玄関へと駆け出した。
 ガチャンとドアの閉まる音がして、辿りついたその場所ではいつもと同じように、康哉が靴を脱いでいた。このフラットは、あくまで現地様式で、玄関で靴を脱ぐような造りにはなっていない。それでも、部屋の中で靴を履くという生活スタイルに翠がどうしても慣れなかったために、わざわざ康哉が内装を変えさせた。だから、日本にいたときと同じく、玄関では靴を脱ぐ。
「康哉さん、お帰りなさい」
 翠が嬉しそうに笑って言えば、康哉は目を細め、穏やかな笑顔で、
「ただいま帰りました、翠さん。何か変わったことはありませんでしたか?」
 と答えてくれた。翠は差し出されたコートを受け取ると、玄関の脇に備え付けてあるクローゼットに、皺にならないように綺麗に仕舞った。何だか、康哉の奥さんか何かになったようで、翠は未だに、この一連の行為が照れくさいような嬉しいような、何ともいえない気持ちになる。
「あの…ええと…」
 とリビングに向かう康哉の後ろを歩きながら、翠は何と言ったものかと言い淀む。確信は無いけれど、多分、それ、を言ったなら康哉が機嫌を損ねるような、そんな気がしたからだ。翠が懸命に言葉を選んでいるうちに、康哉はとうとうリビングにたどり着き、そして、恐らく予想していなかっただろう『再会』をする羽目になった。
「……よう。お帰り」
 と、まるで家主でもあるかのように床に転がり、経済新聞(当然英字だ)を読んでいた男を見た途端、康哉は翠の予想通りの表情になった。
「……なぜ、ここに?」
 尋ねる言葉は辛うじて丁寧な範疇に入るが、その声音は硬い。その硬さにつられるように、翠は思わず身を硬くした。

 康哉に攫われるように米国に渡り既に半年。危惧していた病気も完治し、今は、再発に注意すれば良いだけのところまで回復した。けれども、翠は今現在、何もしていない。学校にも通っていないし、仕事もしていない。せめて家のことだけでもしようと思うのだが、翠が家事をすることを康哉はあまり快く思っていないらしいので、それも、積極的にはできない。まさに、康哉におんぶに抱っこの状態だった。
 康哉は、こちらで新しく企業を興こし毎日外で働いている。翠に詳しいことを教えてはくれないが、どうも特許に関するコンサルタントの仕事をしているらしい。どの位、儲かっているのか翠は全く知らないけれど、ただ、自分が贅沢に甘やかされていることだけは分かった。
 時折、連れ出されて買い与えられるものは服だろうが、鞄だろうが、靴だろうが、そのどれもが高価なものばかりだし、家には週に三回、家政婦が来て全ての家事をやっていく。頻繁に連れて行かれるレストランやカフェやバーは、どこも高級そうな場所ばかりで、翠はすっかり舌が肥えてしまった。こんな贅沢をして大丈夫なのかと心配した翠に、康哉は笑って、
「翠さんに、苦労なんてさせるはずがありませんよ」
 とあっさり答えた。
 けれども、翠はいつだって心苦しい気持ちになる。これだけのものを与えられているのに、自分は何一つ、康哉の役に立っていないのだ。だから、自然と翠は康哉に対して引け目を感じ、康哉の機嫌には酷く過敏になっている。この時もそうだった。

 康哉を怒らせたくは無い。けれども、目の前の男を追い返すことは出来なかった。それもそのはずだ。半年振りに会った、大好きな兄なのだから。
「蒼さん。病院のほうは大丈夫なんですか? こんな場所にまで遊びにいらして」
 口調はとても慇懃だが、その内容はあまり礼儀正しいとは言えない。むしろ、お前は門客だとでも言わんばかりだ。だから、翠は酷くハラハラしていたのだが、蒼はさして気にも留めていないようだった。
「仕事で来たんだよ。心臓疾患のオペに関する研修があってな。ついでに可愛い弟の顔を見に来たってわけだ」
 別段、蒼の口調は咎めるそれではない。飄々としている。けれども、康哉は何か思うところがあるのか、面白くなさそうに眉を微かに顰めた。
「あ…あの…蒼兄さん、康哉さんは仕事で疲れてると思うし、蒼兄さんも明日から研修なんだから、そろそろホテルに戻ったら?」
 翠が慌てたようにそう言うと、蒼は大袈裟に肩を竦め、悲しそうな表情を作ってみせた。
「翠。お前、冷たすぎないか? 久しぶりに会った兄と、少しでも長くいたいとは思わないのか?」
「…お、思うよ? 思うけど…でも、この家は…康哉さんの家だし…僕は、ただの居候だし…」
 困ったように綺麗な形の眉をハの字にして翠が答えると、康哉はピクリと眉を動かし、更に面白くなさそうな顔をした。だが、翠はそれに気がつかない。
「ああ? そんな訳は無いだろう? 親父が毎月、これでもか、と生活費を送金してるって聞いたがな」
「え?」
 そんな話は聞いたことが無いと翠は驚いて康哉の顔を見上げる。康哉は無表情のまま翠を見つめ、肯定も否定もしなかった。だから、翠は戸惑う。半ば、駆け落ちのように康哉について、こんな遠くの国まで来てしまったのだ。一番仲の良かった蒼にだけは、翠の口からこの国での住所を教えていたが、父親に詳しい事情が伝わっているとは思っていなかった。
「何だよ。翠、知らなかったのか?」
 今まで飄々とした表情をしていた蒼は、一変して険しい顔になった。そして、睨みつけるように康哉に視線をやる。
「…康哉。お前、翠の無知に付け込んで、無体な事をしているんじゃないだろうな?」
 低い、脅しつけるような声で蒼は言ったが、今度は康哉の方がケロリとした顔で、
「だったら、どうしますか?」
 と問い返した。蒼は、威嚇するように康哉に向かって唸り、それから、不意にクルリと翠の方を振り返った。
「翠。俺と一緒に日本に帰って来い」
 命令口調で言われた言葉に、翠は即答とも言うべき速さで、
「嫌だ。康哉さんと一緒にいる」
 と答えた。蒼の肩がガクリと落ちる。対照的に康哉は、どこか人の悪い表情でくつくつと抑えるように笑った。
「蒼さん、そろそろお帰りになったらいかがですか? 新婚家庭の邪魔をするのは無粋ですよ」
 わざとらしい優しげな声音は、康哉の得意技だ。翠はこの声に何度も騙されて、いろいろな事をさせられてきた。それこそ、次の日の朝、思い出すだけで恥ずかしくてベッドから出て来れなくなるようなことまで。
 どこか、悪魔のような所が康哉にはあるのだと、こちらに来て、二人きりで生活するようになってから、翠は嫌というほど思い知らされた。それでも、翠が康哉を嫌ったり、憎んだりすることはあり得ない。むしろ、その悪どい部分にまで、毒に犯されるように溺れている。
「…はあ。親父が知ったら、泣くぞ、翠。俺が良いように誤魔化してるから丸く収まっているようなものの」
 ブツブツと渋い口調で蒼が呟いた言葉に、敏い翠は大よその所を悟る。なるほど、兄は翠が康哉といることを反対しているわけではないのだ。否、反対していたのかもしれないが、ある程度、諦めたのだろう。あれほど強い感情で康哉を求めていた翠を、一番近くで見て、知っていたのは蒼だったのだから。
「……蒼兄さん……色々、ありがとう」
 翠が目元を潤ませて、はにかんだような微笑を浮かべると、蒼は苦笑を漏らし、グシャグシャと翠の綺麗なサラサラの髪を無造作にかき混ぜた。それから、すいっと立ち上がる。
「それじゃ、一旦、俺はホテルに戻る。ここにいると、どっかの誰かに殺されそうだからな。また、明日も来るさ」
 からかうような口調で蒼が言ったので、翠は漸く康哉がどこか不機嫌になっていることに気がついた。面白くなさそうな表情で、そっぽを向いている。こんな康哉を、以前に一度だけ翠は見た事がある。フラットの大家の息子である青年に、翠がしきりに声を掛けられ、名前だの、年齢だの、趣味だの、好きな食べ物だの、果ては恋人はいるのかまで根掘り葉掘り聞かれた時の事だ。あの時も、後から翠は大変だったのだ。ただ、康哉の悋気を鎮めるために、訳も分からず『ゴメンナサイ』と『許してください』を朝まで言わされ続けた。それを思い出し、翠は頬を赤く染める。困ったように俯くと、蒼は不思議そうに翠を見下ろした。
「どうした? 翠?」
「な、何でもないよ? あの…蒼兄さん、明日も待ってるね」
 動揺するあまり、咄嗟に言ってしまった言葉だった。だが、それが更に康哉を煽る事になってしまったのだとは、全く気がついていない翠だった。







「必要なら、使いますか?」
 夕食後のお茶を飲んでいる時に、唐突に康哉から差し出されたのは一冊の通帳だった。名義は翠の名前になっていて、中を開けば毎月、一定の額が振り込まれていた。それも、決して少ない額ではない。同じ明細が続くその通帳には、一度として下ろされた記載は無かった。
「一円も使ったことは無いです。いずれ、のしをつけて突き返すつもりだったのですが。翠さんが必要だというのであればお渡ししますよ」
 穏やかな口調で康哉は言う。表情も微笑を浮かべていて一見穏和に見えるが、それでも目が笑っていないことを翠は敏感に察知した。
「…あの…でも…別に…お金には困っていないし。必要なものは全て、康哉さんが用意してくれるので、使う予定もないのでいりません」
 康哉がなぜ機嫌を損ねているのか分からずに、上目遣いに翠が答えると、康哉は自嘲的な笑みを浮かべた。
「必要になるかもしれませんよ? 私から逃げて日本に帰りたくなった時とか」
 どこか苦々しい口調で康哉は吐き捨てるように言う。その真意が分からずに、翠は不安げな表情で康哉を見つめ返した。翠が、康哉から逃げたくなる日など来るはずが無い。翠は今だって、どうしようもないくらい康哉が好きなのだし、こんな遠い国まで付いて来た今では、康哉以外に頼る人間だっていない。もし、翠が康哉から離れる日が来るとしたら、それは康哉から、いらない、邪魔だから出て行けと言われて捨てられた時だ。
「こ…康哉さんは、僕が邪魔になりましたか? だから、だから、そんな事を言うんですか?」
 泣きたい気持ちで翠がそう尋ねると、康哉は珍しく、ポカンとした表情を翠に向けた。
「…翠さん。それは、本気で言ってるんですよね? 嫌味ではなく?」
 呆れたような声で尋ねられたが、翠は本気で、何が康哉を呆れさせたのかさっぱり分からなかった。だが、康哉に捨てられることを恐れているのは真実なので、コクリと頷く。
「僕は、康哉さんが好きです。とても好きだから、康哉さんが僕を邪魔だと思うまでは、傍にいさせてください」
 震える小さな声で翠は懇願するように言った。こんなことを言ったなら、逆に鬱陶しがられるのかもしれない。翠は康哉の反応が怖くて俯いてしまった。すると、小さな溜息の音がする。その音にさえ過敏に反応して、翠がその華奢な肩をビクリと震わせると、思いの外、優しげな声で、
「翠さん」
 と、名前を呼ばれた。恐る恐る顔を上げれば、どこか困ったように苦笑いしている康哉の顔が目に入る。
「翠さんは、私にとって天使のような人ですが、でも、時々、本当は悪魔なのではないかと思う事がありますよ」
「ぼ…僕がですか? どうして?」
 なぜ康哉がそんなことを言うのか分からずに、翠は首を傾げる。だが、康哉は翠の疑問に答えてはくれなかった。
「さあ。どうしてでしょうね?」
 と、からかうように笑っただけで、そのまま翠の顎をそっと取り軽いキスをその唇に落とした。
 さすがに、翠の病気が完治するまでは、決して康哉は無茶なことはしなかったけれど、キスは何度もした。病気が治ってからは、それ以上の行為だってもう数え切れないほどしたのに。未だに、翠はこんな風に康哉に見つめられてキスされるだけで、腰に力が入らなくなってしまう。まだ日本にいた頃だって、キスもセックスもしたけれど、康哉が以前翠に言った言葉通り、相当に手加減して、そして本性を巧みに隠していたのだろう。
 本当の康哉は中毒になる、麻薬のような人間だと翠は思う。キスしただけで、翠は、もう、何が何だか分からなくなって、そのままドロドロと水飴みたいに甘ったるく体が溶けてしまうのではないかと思うのだ。
「翠さん。私の事が好きですか?」
 蠱惑的な瞳で見つめられて、翠は操り人形のようにコクンと頷く。
「好き…康哉さんが好きです」
「では、キスの時は舌を出してください」
 ごくごく優しげな口調で言われて、翠は馬鹿正直に舌を差し出した。濡れた舌が外気に触れてひんやりと感じる。唾液が零れそうになったけれど、翠は康哉の舌に絡め取られるまま、キスを続けた。
「んっ…んぁ…」
 後頭部を支える大きな手は決して強引ではない。むしろ、穏やか過ぎるほど優しい仕草で翠の髪をやんわりとかき混ぜている。そんな場所に性感帯が果たしてあるのだろうかと疑問だが、それでも優しく髪を撫でられる、それだけで翠は簡単に康哉に堕ちて、どうにでもしてくれと叫びたくなるのだ。
 電気も落としていない、明るいリビングで一枚ずつ、むしろもどかしいほどゆっくりと服を剥がされる。キスは続けたままだから、翠の顎から首筋までは既にどちらのだか分からない唾液でぐっしょりだ。
「翠さん。お尻をこちらに向けて私の上に来てください」
 と、やはり自然な優しい口調で言われて翠は羞恥に全身を赤く染めた。何度かしたことのある行為だし、もう、散々、康哉にはどうしようもない痴態だって見せてきた。体の隅々まで晒してきたから、翠の体で康哉が知らない部分などあり得ない。それでも、羞恥心は別だ。どうしてもかなぐり捨てることが出来ない。顔を赤くしたまま従うことを躊躇して、泣き出しそうな表情で翠は康哉を見上げる。助けを求めるような、あるいは許しを請うような仕草だったが、康哉はこれ以上無いと言うほど優しい綺麗な笑顔を浮かべて、
「翠さん。私が好きですか?」
 と、先程と同じ質問を繰り返した。翠は馬鹿の一つ覚えのように何度も首を縦に振る。
「好き…好きです…康哉さんが好き…」
「でしたら、私の言うことをきいて頂けますね?」
 言質を取ったとでも言わんばかりに、やんわりと命令されれば翠に逆らう術は無い。ただ、無防備に好きだということを伝えるために従順になるしか。
 羞恥から目尻に涙を溜め、顔を赤くしたまま、おずおずと翠は体を動かし、促すようにソファに体を倒した康哉の頭を跨いだ。翠は何も身につけていないのだから、きっと何もかもが丸見えだ。それを考えると恥ずかしくて逃げ出したくなってしまうから、なるべく自分のことを頭の片隅に追いやって、康哉のズボンの前立てを寛げ、まだ何の反応も見せていないソレをそっと取り出した。
 康哉は翠が一方的にする奉仕を嫌う。だから、翠は回数的にはそれをしたことは多くは無いのだ。多分、あまり上手くないのだろうけれど、それでも康哉が翠のせいで気持ちよくなってくれるのだと思えば、懸命に手だの口だのを使った。康哉が自分にしてくれる事を思い出して、同じように真似てみる。自分のものよりも随分大きくて、色も違って、客観的に見たらグロテスクな形をしているのかもしれないそれを、けれども翠は一度も不快に感じたことは無い。康哉の体の一部なのだと思えば、口の奥まで入れることさえ何の抵抗も無かった。けれども、いくら頑張っても、翠の努力はいつだって続かないのだ。康哉に預けている下肢を、良いように弄り回され始めると、どうしても翠はそちらに気を取られてしまうから。
 グチャっと粘着質な音がする。性器と、それからいつも康哉を受け入れている場所に湿った感触があった。中に入り込んできたのは多分、康哉の指だ。もう、翠はすっかりその形を覚えてしまった。覚え込まされて、反射的にあさましく反応するように翠の体は変えられてしまった。だから、大袈裟なほど、ビクンと腰が跳ねてしまうのは翠の意思ではない。その入り口がひくついて、あっさりと二本目の指を銜え込んでしまうほどすぐに解れてしまうのも翠の意思ではないのだ。
 こんな風に熟れた淫乱な体にしてしまったのは当の康哉だと言うのに、翠はいつだって不安になる。自分でも嫌になるほど康哉を貪欲に求める翠に、いつか、康哉は嫌気がさしてしまうのではないかと。こんないやらしい翠を軽蔑して汚らしく思ったりしないかと。
「ンッ…ンゥッ…アッ! アアッ!」
 グジュグジュと音を立てて、奥のほうの一番弱い場所を康哉の指に何度も擦られ、翠はとうとう口を離してしまう。とても、続けてなどいられなかった。ただソファに爪を立ててしがみつき、達ってしまわないようにするのが精一杯だ。それでも、断続的に波が来る。頭が真っ白になりかかって、翠は無意識に腰をユラユラと揺らした。もっと深く、康哉の指を飲み込もうとするかのように。
「翠さん。お口がお留守ですよ?」
 咎めるというよりは、むしろからかうような楽しげな声で康哉に言われ翠は必死に首を横に振った。
「や…ダ…メ…ですっ! イキタイ! …達かせてくだ…さッ…」
 涙混じりに翠は懇願するが、康哉は優しげな声で、
「翠さん、私の事が好きなら少し我慢してください。一緒に達った方が気持ち良いですよ」
 と、答え、翠の根元を強く握って塞き止めてしまった。翠は、もう堪えきれずに涙をポロポロ零して、
「イヤ、できな…っ…康哉さんっ! ゆる…許してくださッ…!」
 と形振り構わずに解放を乞うたが、やはり康哉は優しげに笑っただけだった。
「ダメですよ? 先に達くとつらいのは翠さんですから」
 そう言いながら康哉は翠の華奢な体を容易く持ち上げる。それから翠の足を大きく開かせると、自分の腿の上に抱え上げ、すっかり柔らかくなったその場所に、無遠慮に押し入った。翠は自分の体重で、そのまま康哉を一気に最奥に招く羽目になる。
「アッ! …ッ! アアアアッ!」
 衝撃をやり過ごせず、翠は背中をしならせて、二度三度、痙攣するように体を震わせて射精してしまった。


 翠の薄くて白い胸に、自身の吐き出した白濁が飛び、汚れる。けれども、そんな卑猥な光景でさえ、康哉には汚いものとは到底思えなかった。むしろ、汚しても汚しても、けっして汚せない焦燥のようなものを感じてしまう。だから、康哉は尚更、翠を追い詰めるように激しい行為を求めてしまうのだ。
「…翠さん、堪え性がありませんね」
 意地悪を言うように耳元で囁けば、翠は心底申し訳ないと思っているのか、啜り泣き、
「ゴメ…ゴメンナサ…康哉さ…ん…お願いだから、嫌いにならないでくださ…」
 そんなことを言うのだ。
 だから、始末に終えない。八つも年下の子供に、制御不能なほど心を掻き乱され、振り回される。それが忌々しくて、康哉は八つ当たりのように翠の体を乱暴に下から突き上げ始めた。
「ヒッ! ヒィッ! アアアッ! アアンッ!」
 突き上げるリズムで上がる嬌声は、ひどく甘ったるい。甘すぎて、康哉の神経をおかしくしてしまうくらい。
「翠さん、気持ち良いですか?」
 決して余裕など無いのに、年長者の矜持だけで康哉は自分を取り繕い、からかうような口調で問う。翠は、もう、半分訳が分かっていないのだろう。ただひたすらに首を縦に振り、
「イイッ! いい…ですっ! 康哉さん! 気持ちイイッ! 好きッ! 好き…です!」
 とふいごのように繰り返した。体を揺するたびに翠の綺麗でまっさらな髪がパサパサと跳ねる。目尻から涙が散って、それを見た途端、康哉は自分の欲望を抑え切れずに翠をソファに無理矢理押さえつけると、上から押しつぶさんばかりに自分を突き入れた。
「ヒアッ! …ッ! …ッ! 壊れ…ッ…壊れてしまいま…ッ…!」
 華奢な体には負担だろうと分かっていても、康哉は自分を止められない。いっそ、壊れてしまえば名実ともに自分だけのものになるのだろうか、と、どこか狂気じみた衝動を感じながら、翠を揺さぶり続けた。
「アアッ! アアアンッ!」
 翠の華奢で白い背中が康哉の腕の中で綺麗にしなる。打ち落とされた鳥のように、そのままぐったりとソファに沈みこむ体を、折れよとばかりに強く抱きしめたまま、康哉は翠の中で達した。









 遠い音がする。水の流れる音と、何かの羽音。一体、何の音だろうと翠はぼんやりと目を開いた。薄暗い室内に、チカチカと光が行ったり来たりする。テレビの映像が放っている光だった。
 余計な音のしない、自然を写したドキュメンタリーの番組らしかった。何を考えているのか、思いの外真剣な表情で康哉はその番組を見つめている。翠が目覚めたことに気がついていないらしく、その横顔はどこか冷たく見えた。だが、翠は康哉のそんな顔が嫌いではない。見蕩れるように、ひっそりと眺めることを楽しむように翠は黙って、その整った横顔を見つめ続ける。初めて見た時とダブるようなその横顔。けれども、さして時間をおかずに康哉は翠が起きたことに気がついた。
 ふ、と視線を翠に落とし見つめてくる。その表情は、先刻までの激しい行為が嘘のように穏やかで凪いでいた。だから、余計に康哉とのセックスに溺れている自分が嫌になる。
「…僕は康哉さんが好きです。だから、康哉さんが僕を嫌になるまで、傍にいさせてください」
 縋るように、思わず口にしてしまった言葉に、康哉は困り果てた、というような苦笑いを浮かべた。
「翠さん。風切羽というのをご存知ですか?」
「…風切羽?」
「ええ。今、テレビで解説していました。鳥が空を飛ぶのに必要な羽だそうですよ。ペットの手乗りインコなどは、この羽を切って飛べないようにしてから人間に慣らすらしいです」
 なぜ、康哉がそんな話を突然始めたのか分からずに、翠は戸惑った表情で康哉を見上げた。だが、翠の戸惑いを他所に、康哉は話を淡々と続ける。
「翠さんが鳥なら良かったと、私は思いますよ」
「…鳥? 僕が?」
「ええ。もし翠さんが鳥だったら、私は真っ先にその羽を切るでしょうが」
 そう言いながら、康哉は優しげな笑みを浮かべ、けれどもその笑みに甘い毒を含ませて翠の顎をそっと掴んだ。落ちてきたキスは、触れるだけの軽いものだ。それなのに、翠は体中が痺れて動けなくなってしまうような気がした。
「そうすれば、翠さんは逃げたくても私から逃げられませんからね。……そういう事なんですよ。翠さんは無駄なことばかりを心配しているようですが」
 康哉の言ってくれる言葉が、翠には、やっぱりただの思いやりのようにしか思えず、不安は払拭されない。そもそも。これほど康哉に溺れている翠が、どうすれば逃げるだなどと思う必要があるというのか。翠は本気でそう思っているのだけれど。
「…康哉さん、さっきは、どうして怒っていたんですか? 僕の何かが、嫌になったのではないのですか?」
 気になっていたことを尋ねれば、康哉は困りきったような苦笑を浮かべ、翠の顔のあちこちにキスを落とした。
 額、こめかみ、鼻の頭、頬、とあちこちに降ってくるキスはやはり羽のように柔らかくて優しかった。そこには慈愛しか感じられない。翠は康哉のこの二面性にいつでも戸惑って振り回されてしまうのだ。それでも構わない、と思うほど心酔してはいるけれど。
「翠さんが、私以外の人間にあんな風に甘えた、無防備な表情を見せたので嫉妬したんです。蒼さんは、翠さんのお兄さんなのに。翠さんが思うよりも、私はずっと狭量な、臆病な男なんです。少しは分かってくださいね」
 まるで気弱な男のようにそんなことを言う康哉を、翠は、やはり熱に浮かされたように見つめた。そして、何度もコクコクと素直に頷いた。

 翠が本当に鳥だったら。
 きっと自ら進んでその羽を切り取り、康哉に差し出すだろう。
 それが、翠の幸福なのだから。
 それで良いのだ。

 だから、今、自分は幸せなのだと、康哉の背に腕を回し、翠はそっと目を閉じた。



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