『070:ベネチアングラス』 - 3 …… |
「どうも、おかしいんです。私の直感でしかないので、気のせいだと言ってしまえばそれまでなんですが。他の重役達も、そういうこともあるだろうと、厄年なんじゃないかと決して糾弾しようとはしませんでしたし。確かに、吉永さんはこれまでの功績がありますからね。役職は秘書ということになっていますが、実際は重役と同等の権限を持っていて、今まで幾つもの大きな取引を成功させてきているのは私も承知しているんですが」 と、会社の古株で、翠が小さな頃から比較的親しくしてくれていた間宮という専務が教えてくれたのだ。 「社長も一度や二度の失敗は誰にでもあると、それほど酷く叱責はされませんでしたが。でも、私にはどうしても吉永さんらしくないミスだとしか思えない。…穿った見方をするなら、故意に、その、入札を失敗させたのではないかと」 人を疑うことを良しとしない、実に温和で周りからも信頼されている専務だからこそ、翠は確信したのだ。だから、聞いた。 「間宮さん、これから年末に向けて、大きな取引はありますか?」 すると、間宮少しだけ黙り込み、らしくも無く、困ったような渋い顔を見せた。 「…ええ、今年一番大きな、省庁の新庁舎建築の入札が。これが取れないと、かなり厳しいんです。今年二番目と三番目の高額入札を吉永さんが失敗されて…正直、今年度の黒字は不可能だと思います。もし、万が一、この入札が失敗したら……株式売却も考えなくてはならないと思います」 「もしかして、それを担当してるのが康哉さんですか?」 「そうです。どうしても、先の二つの失敗を取り戻したいから、自分にやらせてくれ、と。吉永さん、重役達に土下座までされたんです。でも、だから私はむしろ、それが不自然に見えて…吉永さんは、本来、賭けに出るような仕事はしない人なんです。強引なこともなさいませんし。むしろ手堅く、慎重に取引を進めるタイプで。それが、あそこまで今回の入札に拘ると言うのが、どうしても気になって。下手をすれば社運に関わる取引ですから」 人を疑うなんて、汚いことですね、翠さんには聞かせたくない話です、と間宮は苦笑していたけれど。翠には分かってしまった。 それほど憎いのか、と思う。何年もの間、嫌悪する相手に頭を下げ、膝を折ってまでしたかったことはこれなのか、と。 別に翠は会社自体に執着していたわけではない。それでも、父が、兄が一生懸命に働いて支えている会社だから、傾いたりして欲しくは無い。会社が危なくなれば、働いている沢山の社員、その家族にまで影響が及ぶだろう。 それならば、翠一人分の命だけの方が、価値としては軽いと思う。 そもそも、会社と人間の命を同じ天秤に乗せる事自体が無意味なことだとは、だがしかし、追い詰められている翠には気がつけなかった。 康哉の渡米まで、残されている時間はわずか一ヶ月足らずだ。 最近は立ちくらみとだるさがひどい。一週間に一度は検査に来いと蒼にいわれたけれど、先週すっぽかしたから、そろそろ怒鳴りこんで来るかもしれない。青い瓶のカプセルは未だに増える一方だ。坂上の前で飲んでいるのはただの栄養剤で、本当の薬は、変わらずここに入れているから当然だ。 翠に残された時間は短いけれど、それでも、まだ出来ることも、しなくてはならないこともある。 普段は決して我侭を言わない末息子の最後のお願いを、それが最後とは知らず、きっと父親は聞いてくれるだろう。本当は、優しい人なのだ。ただ、少し不器用で愛情の表し方を知らないだけで。もしかしたら、康哉の愛する人を、父もまた本気で愛していたのかもしれない。だが、今更考えても詮無いことだ。 康哉の道を塞いだ翠を、康哉は憎むかもしれない。憎むかもしれないと考えて、翠は自嘲気味に微笑んだ。そもそも、最初から愛されていない。最初から憎まれていた。ただ、その憎悪が深まるだけ。 愛されたいと思ったわけではない。ただ、ひたすら、無心のまま愛し続けたかっただけだ。それでも。 人を愛することは、酷く苦しい、と翠は思う。 康哉が、しばらく来られないと言った言葉は、一週間足らずで破られることになった。その日は休日だったから翠は広い家に、たった一人で、何をするでもなく、ただ日がな一日ぼんやりとしていた。正直に言えば、体がだるく、とても何かをする気にならなかったのだ。食欲も失せていた。 らしくもなく、乱暴に玄関の戸を開ける音が聞こえ、さらに、乱暴な足音が続いた。それを聞きながら、翠はリビングのソファに体を沈めていた。そして、そっと薄い微笑を浮かべる。今にも消えてしまいそうな果敢ない笑みだった。 らしくない。仮面がはがれていますよ、と教えてやろうか、などと意地悪な気持ちになる。案の定、康哉は今まで見せたことの無いような苛ついた表情でリビングに入ってきた。そして、翠の姿を認めると、さすがに、すっとその苛つきを押し隠し、困ったような表情で翠を見つめた。 この顔は良く知っている。翠をあしらって、言いくるめる時の『大人』の顔だ。でも、今日は、今日だけはあしらわれるわけには行かなかった。 「どうしたんですか? 康哉さん。そんなに血相を変えて」 対照的に、実に落ち着いた穏やかな声で翠が尋ねると、微かに康哉は眉を寄せる。だが、本当に微かだったので、翠でなければ分からなかっただろう。 「翠さんには分かっていらっしゃるのでは無いですか?」 「そうですね」 ふ、と柔らかい笑みを浮かべて翠は康哉と対峙した。そして、軽く首を傾げてみせる。どうせ騙すなら、最後の最後まで完璧に騙して欲しいと思う。 「翠さんらしくないですね、あんな我侭をおっしゃるなんて」 そうだろう。普段だったら、絶対に言わないような我侭だ。 「でも、寂しかったんです」 康哉がいないのが寂しいと、最近体調も悪いから不安だと。翠は父親に訴えたのだ。今、康哉が抱えている仕事は誰かが代われないのかと聞いたら、一番上の兄が代わってくれると言ったから、せめて、体調が良くなるまで康哉にはずっと傍にいてもらいたいとも翠は頼んだ。 何も知らない父も、兄も、体調を悪くしていると言う翠を酷く心配して、すぐに手配をしてくれたのだ。だから、康哉はこうして翠に怒鳴り込みにきたのだろう。もっとも、康哉が本当に翠に怒鳴ることなどありえないけれど。要するに、懐柔しに来たことに代わりはない。 「翠さん。体調が悪いのは、私もとても心配です。けれども…私も、お父様の会社で遊んでいるわけではないのです」 「それは知っています。康哉さんがどんなに重要なポストにいるかも。でも、寂しいんです。一緒にいたい。一緒にいたいんです」 もっと淡々と言うつもりだった言葉は、どこか悲痛な響きを含んでいた。必死に言い募るような、懇願するような声音。こんなことでは、最後まで康哉を騙しきることなどできない。そもそも、翠の精神状態は慣れない事続きで限界に達する寸前だったのだ。 色々な人を騙している。嘘をついている。しかも、自分が大好きで愛している人たちばかりを、だ。そして、今まで生きてきて唯一恋をした相手からは、欠片ほどの愛情ももらえない。ただ、利用されて騙されて、捨てられようとしている。それでも、翠はその相手に最後まで心を尽くそうと決めたのだ。 「翠さん…今、私は、とても大事な仕事を抱えているのです。年明けにはそれも終わりますから……そしたら、その後は……ずっと一緒にいますよ?」 温和な笑顔を浮かべて、平気で嘘をつく康哉が悲しかった。年明けには、康哉は海の向こうだ。翠と一緒にいるはずが無い。 嘘つき、嘘つきと、心の中で翠は悲鳴を上げる。自分が康哉にとって、ちっぽけな石ほどの価値もないと思い知らされて、翠は泣いてしまいそうだった。 「イヤです、今、一緒にいたい。一緒にいたいんです」 そうでなければ、もう、このまま康哉と会うことは出来なくなってしまうのだから。 頑なに、否、と言い続ける翠に、とうとう、康哉は苛々としたように舌打ちをした。今まで、そんな態度を翠に見せた事はなかったのに。 「翠さん、いい加減にしてください。私の知っている翠さんは、そんなに我侭で愚かな人ではありませんでしたよ?」 そして、キツイ口調でそんなことを言う。それだけ、康哉も切羽詰っているのだろうと思ったけれど、それでもあからさまな拒絶は翠の心を深く傷つけた。 「僕の知ってる康哉さんも、本当は穏やかで優しい人なんかじゃありませんでした」 何かが堰を切ったように溢れ出した瞬間だった。いけない、これ以上は言ってはいけないと危険信号が頭の片隅では点滅しているのに、それでも翠は堪え切れなかった。 康哉が好きだった。好きで、好きで、もうどうにかなるくらい。 「本当は僕のことを憎んでいることも、馬鹿にしていることも知っていました。それでも、僕は、康哉さんが好きだから、康哉さんだけが好きだから」 言葉と一緒に涙まで溢れ出す。もう、自分の意思では何もコントロール出来そうになかった。感情が嵐のように翠の中で暴れ回り、うねり狂っている。何もかもをもみくちゃにしようとしている。 「だから、憎しみだけで生きて欲しくなかった。憎しみで誰かを傷つけたりして欲しくなかった。父が憎いのは分かります。でも、きっと、父は僕が死んだら悲しむから。心の底から悲しむと思うから。だから、もう、それで復讐なんて、馬鹿げたことはやめてください」 ボロボロと溢れ出す言葉と涙に、翠は絶望していた。これでは何もかもが台無しではないかと思う。何のために。何のために、今まで努力してきたと言うのか。 「…何の話です?」 それでも、康哉は訝しげに眉間に皺を寄せ、未だにその本性を表そうとしない。それが無性に歯痒かった。 「私には分かりかねますが、翠さんは、少々混乱されているようですね?」 誤魔化すような、穏やかで優しい笑顔などもういらなかった。愛情がもらえないと言うのなら、せめて、憎悪を向けられたほうが報われる。 そもそも。 そもそも、翠が恋に落ちたのは、穏やかで優しい康哉などではなかったのだから。あの雪の日、冷たく激しい感情を迸らせて、凛と立っていたあの少年だったのだから。 「谷内田裕子さんという人を知っています」 最後の切り札として、翠がその名を出せば、康哉ははっきりと分かるほど、眉をピクリと震わせた。 「康哉さんと、結婚の約束をしていたそうですね。裕子さんのお腹には子供もいたのに、でも、裕子さんは亡くなってしまった。康哉さんは知らないかもしれないけれど、僕は裕子さんのお葬式に出ていたんです。そして、貴方が父をどんな目で見ていたか知っていた」 翠が嗚咽を漏らしながら、それを伝えると、康哉は不意にその表情から笑みを消し去った。そして、酷く冷たい視線を翠に向けた。愛情どころか、何の温かみのある感情も感じられない、凍えた視線。今まで、翠が見たことの無い康哉の表情だった。 「……なるほど。これは一本取られました。私はどうやら貴方を侮っていたようですね。聡明ではありますが、まだまだ子供だと思っていたのに」 康哉は冷めた表情のまま一歩、また一歩、翠に近づくと、乱暴な仕草でグイ、と翠の顎を掴み上げた。 「嗚呼、お坊ちゃんは子供なんかじゃありませんでしたね? 男を誑かして尻を振るのが上手な『大人』でした」 嘲るように言われて、翠は心臓が止まるかと思った。『お坊ちゃん』などと、揶揄を含んだ呼ばれ方は一度もされたことが無い。本性を晒した康哉が、翠は心底怖かった。怖いのに、惹かれる。どうしたって、惹かれてしまう。 「……お願いですから、もう、これ以上、復讐なんてやめてください。康哉さんの気が済むなら、僕は何でもします」 言いながら、翠は、それが何の効力も持たぬ取引だと知っていた。案の定、康哉はその提案を鼻で笑い飛ばした。 「なるほど。翠さんは、何でも知っていたわけですね。知っていて、私の邪魔をして、お父様とお兄様とご自分の会社を守ったわけだ。素晴らしい。実に素晴らしい家族愛と自己犠牲ですね」 康哉はニコニコと笑いながら、淡々と言ったけれど、翠には康哉が怒り狂っているのだと、なぜだか分かった。だが、その怒りの焦点が、微妙にずれているようで、チラリと違和感を感じる。しかし、それについて考える暇は与えられなかった。 「いつからですか? いつから気がついていらっしゃったんです?」 蛇に睨まれた蛙のように、翠は康哉から目が離せなかった。その瞳の奥に迸る、冷たい激しい炎のようなものに取り込まれる。いっそ、このまま、その炎で焼き尽くしてくれたら、途方も無く幸福だろうにと、翠は場違いに、それに見蕩れた。 「…今年の春…高校の入学式の少し後くらいから…」 偽ることなど出来ずに正直に翠が答えると、康哉は少しだけ驚いたような顔を見せた。けれども、すぐに、クツクツと声を押し殺して笑い出す。 「それはそれは。全く気がつきませんでした。それで? 健気にも、貴方は家族と会社を守るために、その身を差し出し続けたワケだ」 「違います!」 それは違う。それだけは違うのだ。だから翠は必死に訴えた。けれども、康哉は決して翠に取り合おうとはしなかった。 「まあ、どうでも良いですが。お互い様ですしね。随分と愉快でしたよ? 少し優しくしただけで、子犬のように私を信頼しきって、特別扱いしてやれば簡単に落ちて、足を開いて下さいましたし」 康哉の言葉は凶器だった。グサグサと翠の心を切り刻む。愛されてなどいないと知っていた。知っていたけれど、康哉本人の口からそれを語られるのは、余りに辛い。ほんの微かな希望の欠片さえ打ち砕かれて、翠は、ただただ、すすり泣く様に体を震わせた。 「あ…愛されていただなんて思ってなかった。憎まれていることも知ってました。でも、でも、僕は康哉さんが好きだった…好きだったから、嘘でも抱かれたかった。抱かれたかったんです」 疎まれても、嫌悪されても、それでも、その気持ちだけは伝わって欲しいと、縋るように翠は言ったけれど。康哉は、微かに顔を歪めて、 「愚かな子供ですね。あんなものはセックスでもなんでもなかった」 と、簡単に翠を切り捨てた。 同時に、プツン、と何かが切れた音を聞いた。張り詰めていた神経だったのか、それとも、翠が浅ましく、心の片隅で信じていた微かな、細い希望の糸だったのかは分からないけれど。 「好きなんです。康哉さんが好きなんです。ただ、それだけ」 小さな悲鳴のような声で、それでも翠はひたすらに愛を語った。康哉に向かって言ったのではない。ただ、何も無い空虚な宙に独り言を零したようなものだ。 頭がぼやけて、胸の奥から堪えきれない不快感が押し寄せる。呼吸が苦しい。大きく息を吸い込んだ瞬間に、からからに乾いた喉が張り付いて、翠の喉はカポリと奇妙な音を立てた。 自分が嘔吐したのだとは、翠は気がつけなかった。意識が白濁していたからだ。だから、その吐き出したものが、綺麗な紅だったことを翠は知らない。 それは、真冬の雪の上、ポトリとあっさり落ちた椿の花のようだった。 |