『070:ベネチアングラス』 - 2 …… |
「最近、どうも熱っぽくありませんか」 気だるくベッドに横たわる翠のサラサラの黒髪を梳きながら康哉は心配げにそんなことを言った。そうかもしれない。最近は、常にだるさを感じる。 「うん。風邪気味なのかもしれない。最近、予習復習が大変で、寝不足だし」 「…そうですか? 一度、病院にいかれたほうが…」 「康哉さん、過保護ですよ? ただの風邪なのに」 翠は朗らかに笑って、上体をそっと起こす。そして、甘えるように康哉の首に腕を回して抱きついた。裸の翠とは対照的に、康哉はすでにきちんと服を着込んでいて、そこには何の綻びも隙も見出すことが出来ない。けれども、その完璧さが時として、不自然さを印象付けるのだ。 始まりは、一本のビデオだった。高校の入学式の様子を、翠のクラスメイトの親がビデオで撮影していて、翠はそれをたまたま見せてもらったのだ。 「けれども。気になります」 抱きつく翠の白くて細い体をそっと抱き返しながら、康哉はその男らしい、形の良い眉を微かに寄せてみせる。そんな表情でさえ様になって、格好良いなあと、翠は能天気なことだけを考えた。どうせなら、明るくて、楽しいことだけで良い。最後の最後まで、明るくて楽しいことだけをその心の中に詰めこんで行こうと思う。 「大丈夫なのに。康哉さんは心配性ですね」 クスクスと笑いながら、誘うように翠の方から康哉にキスをする。康哉はそれを決して拒絶したりしないけれど、誘われて二度目になだれ込むことが決して無いのもまた事実だった。 誰も彼もが希望に満ち溢れ、明るい笑顔で校門を潜っている姿がそこには映っていた。同伴しているどの親も、子供と同じ表情をしている。いや、むしろ、親の方が嬉しそうな誇らしい顔をしている家も少なくは無い。 普段は忙しくて、殆ど翠との時間が取れない父親も、その日だけは無理にスケジュールを空けて、翠の入学式に来てくれて翠は幸せの絶頂にいた。大好きな康哉とは相思相愛になれたのだと思い込んでいたし、希望の高校にも入学できた。父親が入学式に来てくれて、その運転手として同伴していた康哉も翠の晴れ姿を眩しそうな目で優しく見守ってくれていたのだ。一体、暗いものが忍び込む隙など、どこにあったというのだろう。 「お兄様に一度、診て貰うよう手配しておきましょう」 康哉の言う『お兄様』というのは翠の二番目の兄、蒼(そう)のことだ。一族の中で一番の変り種で、唯一、父親の仕事を継ぐことを厭って家を飛び出し、医者になった。翠が、兄の中で一番好いていて、仲が良いのもこの兄だった。嗚呼、それならば大丈夫かと翠は心の中だけで安堵の溜息を吐く。 「それで康哉さんが安心するなら、そうします」 と、虚しい気持ちで微笑む。康哉が安心などするものか。むしろ、そのまま風邪でもこじらせて死んでしまったほうが、きっと康哉は喜ぶのだろうけれど。 「嗚呼、それから」 スッと康哉は翠から体を離して、何気なく言った。ごく自然な仕草で、だからこそ、翠はその違和感に気がついたのだけれど。 康哉は気がついているのだろうか。康哉が後ろめたい時、翠に嘘を吐く時、無意識に、翠から体を離すということを。 「実はこれから、年末に向けて仕事が立て込んでいまして。暫く、こちらには来れなくなるんです」 「……そうですか」 嗚呼、いよいよ捨てられるのだなと思いながら翠はそっと目を閉じた。目的を果たしてしまえば、きっと翠など用無しだ。眦から静かに涙が零れ落ちたけれど。 決して翠に視線を向けない康哉が、それに気がつくことは無かった。 最初、翠は見間違いかとも思ったのだ。画面の片隅。偶然にも一緒に映っていた翠と、翠の父親と。少し離れた場所でそれを見守っている康哉と。 見守っている? とんでもない。 あれは、見守っているなどという穏やかで優しい視線ではなかった。むしろ、視線で殺せるものならば殺してしまいたいとでも言わんばかりの鋭い冷たい視線。 それが、ビデオに残ってしまうなどと夢にも思わず、油断していたのだろう。唯一のらしからぬ康哉の失態。 桜の下で出会った、温和で柔らかい康哉はそこにはいなかった。ビデオの片隅に、間違い探しのように映っていた康哉は、あの冬の日、翠の脳裏に焼きついた、憎悪と怒りを迸らせていた冷たい鮮烈な印象の彼とピタリと重なる。だが、その違和感と疑問をそのまま放って置けるほど、翠は、その時、既に子供でも馬鹿でもなかったのだ。そして、幸か不幸か、真実を突き止めるだけの手段を翠は知っていたし、その手段を行使できるだけの環境にあったのだ。 父親にそれを悟られないようにするのは多少骨が折れたけれど、伝手は幾らでもあった。だから、その事実は簡単に翠に知れてしまった。 慎ましく暮らしていた身寄りの無い、青年と女性。あるいは、まだ、少年と少女と呼んだほうが当てはまるような年齢だったかもしれない。ともかく、彼が、高校を卒業したら結婚する約束を二人はしていたのだと、二人の住んでいる古びたアパートの管理人は語ったらしい。だが、それは叶わなかった。酷く私的な領域だから、その心情までは調べることは出来なかったけれど、表面的な出来事だけならば、簡単に調べられた。 二人が結婚する前に彼女の方が亡くなってしまったのだ。表向きは事故だという話だったが、どうも、不透明な部分が多いのだ、とその探偵まがいの男は教えてくれた。ただ、彼女のお腹には小さな命が宿っていたらしい。それは、産まれることなく彼女とともに逝ってしまったのだけれど。 詳しいことなど分からなくとも、少しでも想像力のある人間ならすぐ分かる話だ。写真で見た、その死んでしまった彼女の顔は、どことなく翠の母親にも似ていた。 金持ち親父の気まぐれで、と、その興信所の男は呆れたように言った。その金持ち親父が、翠の父親だなどとは少しも気がつかずに。 後の推理など、小学生でも解けるほど簡単だ。簡単すぎて、翠は笑い転げてしまったほどだ。分かってしまえば、色んなことが見たくも無いのに見えてくる。 例えば、どんなに穏やかで、どんなに優しくても、翠とセックスしている時でさえ、決して康哉が熱というものを感じさせない理由だとか。 偶然、芋づる式に知ってしまった、康哉の渡米の理由だとか。 最も、渡米の件は本当に偶然知ったことで、実に巧みに康哉は隠していたのか翠の父親でさえその事実を未だに知らない。気がつくのは、きっと、過去の報いを受け後悔する時だろう。そして、その時、翠はいなくなっているに違いない。それで構わないと思う。 父は、康哉を憎むだろうか。そして憎しみの連鎖が続いてしまうのだろうか。そんな不幸なことだけは避けなくてはならないと思う。 だから、何もかもを自分のところで止めてしまわなくては。 人一人の命を贖うには、やはり人一人の命が必要なのだろう。それとも、康哉はそれ以上のことを求めるのだろうか。 翠が消えれば翠の父親は酷く悲しむだろう。そして、自分のしたことを悔いるだろう。最愛の人間を失った苦しみと悲しみを父が被れば、康哉の気持ちは癒されるのだろうか。 冬が良い、と翠は思う。そして、沢山、雪が降れば良いとも思う。 翠が消える日に、あの日と同じように雪が降ったなら。 康哉は、あの日と同じ瞳で自分の亡骸を見つめてくれるだろうか。 病院の窓から見える景色は、どこか寂しい。すっかり紅葉も終わり、葉の落ちてしまった木々がみすぼらしく立っているのに、それでも、今年は例年にない暖冬、ということで天気だけは嘘のように良く、暖かい。まるで、冬、という季節をどこかに忘れ去ってきたようだ。 今年は、雪を見ることも無いのだろうかと翠は少し残念に思う。冬生まれのせいなのか、翠はどちらかと言えば一般的に疎まれる季節であるけれども、冬が好きだった。特に雪の降る冬がいい。身を切るような寒さと、刺すように澄み切った空気。何もかもを白に覆い尽くし、良いことも悪いことも、愛情も憎しみも、そして罪さえ隠してしまう根雪。 誤魔化しと欺瞞、偽善を許さないような潔癖さがそこにはある。 だが、今のこの天気は何だろう。何かが間違っているような不自然さ。それが、チクチクと翠の心に不快感を与えてくる。 「冬はやっぱり、雪が降るべきだと思わない?」 拗ねたように言うと、大きな溜息が落ちてきた。 「翠」 と、どこか怒りを含んだような声で、名前を呼ばれる。そうだろう。この目の前の兄が怒ることは容易に想像できた。 「今すぐ入院しろ」 「いやだ」 即答した翠に、目の前の兄、蒼は眼鏡の奥の切れ長の目をかっと見開いた。 「ふざけるな。何で、血液検査の値が、こんなことになっているんだ。お前…まさかと思うが、薬を飲んでないんじゃないだろうな?」 いつもは翠には酷く甘い兄も、この時ばかりは強硬な態度を崩さなかった。そうだろう。自惚れでも無く、傲慢でもなく、翠は彼に愛されていることを知っている。父親にも、一番上の兄にも、三番目の兄にも愛されていることを知っている。だが、彼らを悲しませても、他人の、しかも自分を嫌悪している男の願望を満たしてやろうとしているのだ。愚かなことこの上ないのは、翠自身が一番良く知っていた。 「ちゃんと飲んでるよ? 体に合ってないんじゃないの?」 ふざけたように笑いながら翠が答えると、蒼は抑え切れない、といった風に翠の頬をパンと叩いた。 「お前が泣いて頼むから誰にも言わなかったし、きちんと自己管理するって言うから少しだけ猶予を与えてやったんだ。だが、そんないい加減な事をするなら、皆に告知するし、強制入院させる」 「そんなことしたら、病院の屋上から飛び降りて死んでやるから!」 不意に立ち上がり、泣き叫ぶように大きな声を出した翠を蒼は、酷く驚いた顔で見上げた。それもそのはずで、穏やかで素直で品の良いこの末っ子が、こんな風に激昂した所を、今まで、ただの一度も見たことが無かったからだ。だが、蒼はすぐに自分を取り戻す。翠の言った言葉を理解して、やはりこみ上げる怒りを抑える事が出来なかった。 さっき叩いたのと反対の頬をもう一度叩く。もちろん、大事な弟を傷つけることなど出来ないから、先程と同じように相当に力を加減してはいたが。 「俺は、命を粗末にするヤツが一番許せない。許せないんだよ」 むしろ、とても凪いだ静かな声で蒼は言った。 翠にはその言葉が痛いほど良く分かる。だから、蒼は医者と言う職業を選んだのだ。殺人よりも自殺の方が罪が重い、とメチャクチャな価値観を口にすることさえある。けれども、翠にも譲れないものがあった。 誰に認められなくとも良いのだ。きっと誰もが翠を愚かだと言うだろうし、翠にだってその不毛さが良く分かっている。だが、今の翠に取って一番大事なのは自分の気持ちだけなのだ。 ただ、これが自分の愛し方なのだと思う。誰に理解されたい訳ではない。ただ、これが翠の真実なのだから仕方が無い。 「…命を粗末になんかしてないよ」 むしろ、その命を有意義に使おうとしているのだと翠は自分に言い訳をする。だが、どこかで間違っていることもきちんと自覚していた。 「…自殺するのと、病気で死ぬのとでは違うよ。…病気で死ぬのは仕方が無い…誰かのせいじゃないんだから…だから、病気で死んでも、誰かが誰かを憎んだり、恨んだりはしない」 誰に対しての言い訳なのだろうか。蒼に言うではない、ただ、自分に言い聞かせるように翠は暗い声で必死に言い募った。 誰のせいにも出来ない死ならば、そこで憎しみの連鎖は止まるのではないか、そんな子供じみた屁理屈を捏ねて、自分を納得させようとする。実際は、人の心など、そんな簡単なものでも、綺麗なものでもないとどこかで知っていながら。 「…翠。でも、お前が今しようとしているのも自殺だ。緩やかな自殺に他ならない」 諭すような静かな声で蒼は言う。翠はあふれ出す涙を止めることが出来なかった。 「…蒼兄さん、分かってる…僕が間違ってるって分かってるんだ…でも、お願い。お願いだから」 お願いだからどうしたいと言うのだ。死なせてくれとでも言いたいのか。違う。翠は死にたいわけではないのだ。本当に欲しいものが絶対に手に入らないと気がついたから、二番目に欲しいものくらいは叶えたい。すなわち、それは、康哉の幸福だ。 康哉が何某かの復讐を果たすことで、少しでも心穏やかになれるのならば、それだけでも救われると翠は思う。それ位しかしてやれない自分を惨めで憐れだとも思うけれど。 「ちゃんと、これからは薬も飲むから、だからお願い。せめて、年が明けるまで、誰にも言わないで」 康哉の秘密裏の渡米は、恐らく年明けに実行されるようだと、興信所の人は言っていたから。 見ているほうが辛くなってしまうほど、身を震わせて、ただひたすらに訴える翠に、蒼は顔を顰める。検査の結果は芳しくなかった。できればこのまま入院させてしまいたい。医者としての自分は、今すぐに縛り付けてでも入院させろと言っている。だが。 兄としての自分は、それは危険だと察知している。こんな状態の翠に無理強いをしたら、本当に、屋上から飛び降りかねない。それは、家族だからこそ分かる、翠の尋常ではない張り詰め方から容易に想像できた。 「…年が明けたらすぐに入院させるぞ。薬も、きちんと飲むように、吉永に言っておく」 「ダメ! 絶対に康哉さんに言っちゃダメ! !」 不意に錯乱したかのように激しく首を横に振り、顔を真っ青にした翠に蒼は眉を顰めた。あまりに過敏なその反応に、違和感と疑問を抱く。 「…どうしてだ」 「め、迷惑かけたくない…」 「バカ。それがアイツの仕事だろう」 仕事、仕事、と嫌な言葉が頭の中を駆け巡る。そうだ、仕事だったのだ。仕事だったから、康哉は翠を手懐ける必要があった。そして、父親のより深い信頼を得る必要があったのだ。 「そ、それに、康哉さん、今忙しいから、暫く来ないって言ってた」 必死に言い募るその表情が、いかに不自然であるか、翠は自分で気がついていない。蒼は微かに眉を上げ、だが、何事も考えていないような自然な表情で、ただ、 「じゃあ、坂上さんにお願いしておこう」 と言っただけだった。翠はほっとして思わず溜息をついてしまう。坂上ならば幾らでも誤魔化せると思った。長い間、可愛がってくれた家政婦までも平気で欺こうとしてる自分がとても嫌だったけれど。 仕方が無い。翠には、色々な意味で時間が無かったのだ。 |