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『070:ベネチアングラス』 - 1 ……

 それは翠(すい)が十歳の時のことだ。他の家族には絶対に他言無用だと、父親に連れて行かれた小さな、寂しい印象を受ける寺でのことだった。
 酷く雪が降っていた。風はなかったから、吹雪ではなかった。ただ、とにかく、一面、視界が真っ白になってしまうほどの根雪がしんしんと降り続いていたのだ。
 寒さよりも、何よりも、翠はその白さが恐ろしかった。このまま、どこかに取り込まれてしまうのではないかという白銀。その中に、淡々とお経の声が響き渡り、延々と続いている。お経の間は決して蝋燭を消してはいけないのだ、消えてしまうと死者が極楽浄土に行けず迷ってしまうからね、と、そこにいる人に教えてもらって、けれども、いつか、その火も雪に紛れてしまうのではないかと、それも怖かった。
 その人は、一人、その中で背筋を真直ぐに伸ばして立っていた。翠は、その時、初めて男の人が泣くところを見た。男の人、というよりは少年と言ったほうが良かったのかもしれない。けれども、詰襟の真っ黒な学生服をきっちりと着込んだ背の高いその学生は、まだ小学生だった翠には、大人に見えた。
 彼は、ただ、ひたすら無言で涙を流していた。その瞳に浮かんでいたのは、怒りと憎悪だ。その瞳で、彼は翠の父親を見つめ続けていた。だが、父は気がつかない。普段は決して誰にも見せないような、どこか疲れきった老人のような顔で焼香をしていた。
 彼の表情に浮かんでいるのは明らかに負の感情で、しかもその顔は涙に濡れている。むしろ、醜くて当然だったはずなのに。翠の目には、なぜだか、それが、とても美しく尊いもののように映ったのだ。
 余りに印象的で鮮烈なその姿は、幼い翠の脳裏にはっきりと焼きついた。
 今なら分かる。あの瞬間に、翠は『恋』と言う物を知ったのだ。生まれて初めて、翠は恋に落ちたのだ。それが、どんなに不幸な形なのかということも知らずに。
 けれども、今、例え時間を巻き戻すことができたとしても、翠はやはり恋に落ちるだろう。不幸だと知っていても、何度でも、何度でも。
 それで良いのだと、翠は思う。
 愛されたかったのではない。ただ、ひたすらに、翠は愛したかっただけなのだから。


 手のひらの中のカプセルを転がしながら、翠は微笑む。
 幸福、というものを形にしたのなら、きっとこのカプセルの形になるのだろう。だから、翠は、今日もそれをポトリと落とす。綺麗な青色の瓶の中に。


 この瓶が一杯になる頃に。


 翠の恋は、きっと昇華されるだろう。


















「ただいま」
 と、翠が行儀良く口にして玄関に入ると、
「お帰りなさい」
 と、穏やかな声で返事が返ってきた。使用人の吉永康哉(よしながこうや)の声だ。康哉の声が聞こえてくるということは、今日は既に家政婦は帰ったということだ。
 康哉は、父親の会社の秘書の仕事もしているのだけれど、週の半分はこうして家にいて、翠の面倒を見たり、家庭教師代わりをしたりもする。使用人というよりは家族に近いような、そんな存在だ。翠の父親も、康哉のことは特別に信用している。仕事に、家の中のことに、全幅の信頼を置いて頼っているようだった。
「康哉さん、今日は早いですね」
 と、翠は嬉しさを隠しもせずにニッコリと笑いながら靴を脱ぐ。康哉は、そんな翠の綺麗な笑顔を眩しいものでも見るかのように目を細めて見つめ、それから柔らかく微笑んだ。
「ええ、会社の方の仕事が、切りがよかったので。そうそう、坂上さんが、手作りのプリンを置いていって下さいましたよ? 翠さんの好物ですよね?」
 坂上とは、もう、この家に十年近く通っている家政婦のことだ。
 翠は康哉の言葉に苦笑いを零す。
「僕、もう高校生なんだけどなあ。坂上さんの中では小学生のままみたい」
 翠の言葉に、康哉はやはり穏やかな微笑を浮かべただけで、敢えて何も言わなかった。康哉の中でも、翠は小学生のままだと、そう言いたいのだろうか。ほんの少し意地悪な気持ちになるのは、こんな時だ。
「康哉さんも、僕がプリンの好きな子供だと思っているんですか?」
 背の高い康哉のすぐ近くに立ち、上目遣いに見上げる。こんな時の翠には意地も矜持も無い。ただ、必死だ。どうやって康哉の関心を引くか。それしか考えられない。
「そんなことはありませんよ」
 だが、康哉は決して揺らがない。揺らがないことに気がついたのはいつ頃からだろう。もう、大分前からだ。
 翠の周りの人間は、誰しも翠の顔が綺麗だという。女の子よりも綺麗だ、好きだと男の人に告白されたことも一度や二度ではない。翠自身は、自分の顔が綺麗だなんて思わない。ただ、酷く母親に似ていて、男らしくなく、線が細いだけの神経質な顔でしかない。けれど、翠は利用できるものは何でも利用する。幾らでも媚を売る。そんなものは少しも大したことではない。
 キュッと康哉のシャツの袖口を掴んで、強請るように潤んだ瞳で見つめれば、康哉は一瞬、苦笑いを浮かべ、それから翠の望んだとおりに柔らかなキスを一つくれた。
「そんなことは、ありませんよ。翠さんが子供ではないことを一番知っているのは私ですから」
 と、からかうように、大人の余裕で康哉は言う。どうしたって、翠には康哉を崩すことは出来ない。出来るはずが無い。
「康哉さん、僕、したい」
 飾らない素のままの気持ちを、翠はただぶつけた。ピクリと、微かに康哉の眉が一瞬だけ動くのは動揺からではないのだと翠はもう知っている。それは、動揺、などではない。嫌悪なのだ。それでも構わない、と翠は思う。この浅ましさが、さらに康哉の嫌悪を誘うのだろう。
「夕食もまだですが?」
 やんわりと、断りを入れてくる康哉に翠はしがみつく。ただ、必死に振り払われないようにとしがみつく。
 康哉が翠を振り払うわけが無い。振り払えない理由を知っていても、翠は、しがみつかずにはいられないのだ。
「イヤ。したい。今、したい。康哉さん、してください」
 懇願するような自分の声が翠は嫌いだ。嫌いだけれど仕方が無い。何度でも、できうる限り康哉に抱いて欲しい、康哉と繋がりたい。
 翠の必死さに、結局は康哉は折れるしかない。仕方がありませんねと、困ったような表情を浮かべたまま、それでも、酷く丁寧に翠を抱き上げて寝室へと運んでくれた。


 康哉がこの家に来たのは、翠が中学に上がったばかりの春のことだった。桜が満開の季節で、庭に植えられている樹齢百年近いという立派な一本桜の下に康哉は佇んでいた。
「翠さま、初めまして」
 と笑った顔には穏やかさしか存在しなかった。康哉の顔は随分と秀麗で、冷たい印象を受けてもおかしくないのに、翠が感じたのは柔らかさと穏やかさだけだった。鋭いものや激しいものとはまるで無縁のような、そんな笑顔だった。少し考えれば、その不自然さに簡単に気がついただろうに、翠は嬉しさの方が先にたって、結局、それには気がつけなかったのだ。それに、翠は、まだ、その時は子供だった。
 だから、そのまま、それが『吉永康哉』という人間だと翠は自分の中で定義付けてしまったのだ。さぞかし、そんな翠が滑稽だったことだろう、と今では思う。
 とにかく、翠が康哉に夢中になるのに、そう時間は掛からなかった。
 翠の家は部屋の数だけは多く、広さと豪華さでいうなら、近所のどの家にも負けなかったが、余り人のいない寂しい家だった。翠の家族は兄が三人と、父だけだ。母は、翠が小さい頃に病気で死んでしまった。兄達とは年が一回り以上も離れていて、翠が物心ついたころには、皆、家を出てしまっていた。父親は仕事が忙しくて、大抵不在だった。だから、翠は幾ら周りからお金持ちだと羨ましがられても、幸せな子供ではなかった。寂しがりの、可哀想な子供だったのだ。
 そんな所に、康哉は父親の秘書としてやって来たのだ。半分は会社の仕事、半分は翠の面倒を見るためだった。
 翠の父親は、大会社の社長らしく、いつだって忙しくしていて留守がちだったが、それでも、翠を愛していないわけではなかった。年が行ってからの末っ子、しかも、最愛の母親と一番似ている。そんな翠をむしろ目に入れても痛くないとでも言うほど溺愛していた。だから、きっと、信頼していた康哉を家に寄越したのだろう。恐らく、翠に寂しい思いをさせないようにと言い含めて。
 康哉はとにかく優しかった。翠のことを常に気に掛けて、翠の事を一番に考えて、翠をとても大切にしているように見えた。だから、翠が康哉に夢中になってしまうのも仕方が無かっただろう。
 思春期に入り、それが恋だと翠が気がつくまでに、そう時間は掛からなかった。

 翠が初めて康哉とセックスしたのは翠が中学三年生の冬のことだ。酷く沢山、雪が降っていたことを今でも覚えている。どんなに穏やかで柔らかい雰囲気を醸し出していても、やはり、康哉の本質は冬の凍てつく、シンと体の心まで冷たくなってしまう、その冷えた激しさのような気がする。如何に巧みに、康哉自身がそれを隠しても、本質、というのは滲み出てしまうのだ。だが、康哉はその本質を翠には決して審らかにしない。それに深く安堵しつつも、微かな落胆と、そして拭うことのできない絶望を感じるのはいつものことだ。きっと、康哉に何を見せられたとしても、翠の恋が終わることはありえない。恋とはそういう性質のものだと翠は幼い、けれども無心な心で思う。
 とにかく、翠は、もう、ずっと長い事、康哉が好きで、その気持ちを抑える事が出来ずに無我夢中で康哉に告白した。絶対に報われることなど無いと思っていたのに、だがしかし、康哉はあっさりと翠に応え、やっぱり、あっさりと翠を抱いたのだ。
 さすがに初めてだったから、体は辛かったけれど、翠はとても幸せだった。もう、このまま死んでしまっても良いと思えるほど、幸せだったのだ。
 それは今でも変わらない。
 康哉に抱かれれば、このまま死んでもいいと思えるほど幸せだ。ただ、そこに、刺すような痛みがあるだけで。



「あっ…んっ・・・んっ…こ、康哉さ…」
 後から抱かれて、巧みな指で性器を愛撫され、翠は目を潤ませて悦んでいる。快感を感じていることを翠は隠したりしない。隠すことに、何の意味もないからだ。
「翠さん、気持ちが良いですか?」
 と聞いてくる声はからかうようで、そこに優しさと愛情が在るのだと勘違いしそうになるけれど、そうではないことを翠はもう知っている。
「良い…ですっ…気持ち…いっ…あんっ…」
「そのようですね。もうベタベタですよ?」
 愛情など欠片もありはしない。康哉はただ翠を馬鹿にして、嘲笑っているだけ。愚かな子供、と。
「あっ…ごめっ…御免なさいっ」
 だから、反射的に翠は謝ってしまうのだ。すると、康哉はいつだって不思議そうな顔をする。
「どうして謝るんですか? 気持ちよくなって欲しくてしているんですから」
 と微笑んでくれるけれど。そこには何の熱も無い。ただ、一方的に翠に快感を与えようとする冷静さがあるだけだ。
 康哉が決して自分を求めているわけではないのだと一番思い知らされるのがセックスしている時だというのは、何て皮肉だろうと翠は思う。体は気持ちが良い。心だって幸福なはずだ。それなのに、浅ましく、貪欲な醜い心がそれ以上を求めてしまう。
「や…まだ、いきたくない…お願い。康哉さん、入れて、入れてください」
 自分だけが昂ぶらされるのが耐えられず、結局、また翠は懇願する。翠が懇願した時に、一瞬だけ康哉の顔に浮かぶ苦々しさを翠は決して見逃さない。
 苦い顔にもなるだろう。誰が好き好んで男の排泄器官に突っ込みたいと思うというのだ。しかも、こんなにも浅ましく愚かな自分に。
 案の定、
「まだ一日しか経っていませんよ? 体に負担が掛かります」
 と、康哉は思いやりの形を装ってそれを避けようとする。
「いや、お願いです、入れて、入れてください」
 壊れた蓄音機のように、啜り泣きを漏らしながら翠は懇願する。すると、康哉は分からないくらいの小さな溜息を一つ吐いて、それから、そっと翠の秘所に指を伸ばした。
 翠が康哉を受け入れられるように準備するその仕草は、酷く丁寧で、壊れ物を扱うようだけれど、本当は康哉がそれを厭っていることを翠は知っている。
 好きでない相手、もっと言えば嫌悪している相手でも勃たせることが出来るものなんだろうかと、翠はいつも純粋な疑問を抱く。翠は康哉としかセックスをした事がない。つまり好きな人としかしたことがないから分からないのだ。だから、そこに微かな希望の光を見出そうとするけれど、いつだって失敗する。
 翠にあれだけ完璧に嘘の笑顔と情愛を与えることが出来る『大人』なのだから。ただの生理現象をコントロールすることなどわけないのだろう。
 それでも良い。そんなものにでも翠は縋りつく。愛されたいと思ったわけではないのだ。そうではない。ただ、ひたすらに愛していたいだけ。
「あっ! あっ! …いいっ! …こうや…さっ…いいっ! 気持ちいっ! …うれし…っ…」
 ようやく入り込んできた熱に、翠ははしたなく喘ぎ声を上げる。気持ちが良いのも、嬉しいのも嘘じゃない。嘘じゃないのだ。
 でも。
 胸が切り裂かれるように痛い。
 眦から零れる涙は何の涙だろう。生理的な快感による涙なのか、悲しみの涙なのか。
 翠には分からなかった。




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