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『055:砂礫王国』 - 1 ……………



  *『008:パチンコ』『069:片足』『047:ジャックナイフ』の続編です。そちらを先にお読み下さい。




 入学して間もない頃、柄の悪い上級生に襲われかけた崎谷唯人(さきやゆいと)を助けたのは、他でもない、三年前の篝皐月(かがりさつき)に面影が似ていたからだ。ただそれだけ。皐月にできなかったことを崎谷に施して、少しでも自分の気を晴らそうとしている。守って、保護して、大切にしたつもりになって、崎谷にキスをする度に、これは皐月ではないのだと気が付く。自分でも実に不毛な馬鹿馬鹿しいことをしているのだと、弓正和(ゆみまさかず)には自覚があった。
 崎谷は、男にしては些か線が細く、どちらかといえば中性的な綺麗さがあった。だが、弱々しいだとか女々しいだとかいう印象は全く無い。むしろ、芯の部分が決して折れない、そんな凛とした強さを持ち合わせているような少年だった。かつての皐月がそうだったように。
 弓は、もう、大分前から、それこそ、皐月と初めて出会った中学一年生の頃から皐月を好きだったけれど、その感情を打ち明けることが出来なかったのは、皐月のそんな芯の強さを知っていたからだった。同性だからだとか、拒絶されることが怖いから、だとかそんな表面上の薄っぺらい理由ではない。自分が気持ちを打ち明けることによって、バランスの取れた二人の関係が崩れたり、皐月の芯の部分が揺らぐのが嫌だったのだ。
 けれども、いつの頃からだろうか、自分と同じ類の感情を皐月が抱いているのではないかと思い始めた。強い確信ではなく、けれども、ゆっくりとした穏やかな予感を胸に、弓は皐月を、更には二人の関係を大切に育てていたつもりだった。そして、皐月も同じ事を考えているのだと信じて疑っていなかった。
 それが裏切られたのは中学三年生の秋のことだ。
 あの日の皐月の顔を弓は鮮明に覚えている。八つ裂きにしても足りないほど憎んでいる教師にのしかかられて、苦しそうに、けれども淫蕩な表情を浮かべて喘いでいた。
 なぜ、皐月に覆いかぶさっているのが自分ではないのか。真っ先に浮かんだのは疑問で、次いで、生まれて今まで感じたことの無いほどの憤りが湧き上がって来た。怒りで頭の中が真っ白になる、ということを弓はその時、生まれて初めて経験した。何に、どちらにそれをぶつければ良いのか分からず、気がつけば口汚く皐月を罵っていた。

 日吉という名のその教師が、どうにも癇に障る、嫌な視線で自分を見つめていたことに弓は比較的早くから気がついていた。弓を小馬鹿にするような、嘲笑うような、優越感に満ちた嫌な視線。だが、その理由が分からなかった。だから、真直ぐにその理由を尋ねた。そもそも、弓は、生来が真直ぐで、何に対しても物怖じをせず、怖いものも無い、プライドも高い、言ってみれば王様気質の性格だったのだ。
 日吉は、そんな弓をただ生意気な生徒だとしか思わなかったのだろうか。弓の父親が、その私立中学の理事を勤めていたことを知らなかったのだろうか。今となっては、そんなことは些細なことだ。ともかく、日吉は嘯いたのだ。
 皐月は日吉が好きなのだと。皐月の方から誘惑してきて、体の関係も持っているのだと。
 弓はそれを聞いて鼻でせせら笑った。そんな事があるはずはない。あの凛とした皐月が自分から誘惑するなど考えられないと。すると日吉は、やはり、あの嫌な、どこか優越感に浸ったような視線を弓に向けて、それならば自分の目で確認すれば良いと言ったのだ。皐月は、大層、淫乱な少年だから、もしかしたら他の男でも良いのかもしれないねと。
 そこまで言われても、弓は皐月を信じていた。そんなことはあり得ないと思っていた。だから、尚更、その場面を見た瞬間、怒りが抑え切れなかったのだ。

 今ならば分かる。自分が決して言ってはならない言葉を吐いてしまったのだと。そして、してはならないことをしてしまったのだと。

 可哀想に、皐月は顔を真っ青にして、それでも微かに唇を動かして何かを伝えようとしていた。その唇が、何と動いていたのか弓は今でも思い出せない。ただ、何も言わず、踵を返した瞬間、視界の端に映った皐月の顔が絶望に歪んでいた。それだけが胸の奥、しこりのようにこびりついて離れない。

 あの時、皐月は何を言おうとしていたのだろうか。












 氷の女王様と皐月がその高校で呼ばれ始めたのは、入学して間もない頃からだった。綺麗な容貌だけでなく、その纏う空気が奇妙に大人びて、その上、艶めいている。そして、口を開けば、その言葉はどこか攻撃的で容赦ない。滅多に笑わず、笑っても、その笑顔はやはりどこか冷たく見えて、同じ年頃の少年達にとってはどこか近寄りがたいものを感じさせたのだろう。だが、お高くとまっていると反感をもたれたり、嫌われたりという事が殆どなく、むしろ、高嶺の花と遠巻きに視線を送る人間の方が大半だった。それは、皐月に傲慢なところや高飛車なところが無かったせいだろう。ただ、人と一緒にいるのが煩わしい。皐月の冷たさは、そこに起因するのだと誰の目にも明らかだった。
 しかも皐月は成績も良く、それだけに収まらない頭の良さがあった。判断力にも優れている。人をまとめるのも上手く、頼まれれば面倒臭そうな顔をしながらも、最後まできちんとやりとげる責任感もあったから、弓とはまた違った方向でのカリスマとして、誰もが一目置いているようだった。
 皮肉な話だ。生徒会の仕事は逃げたものの、結局、こうして寮長と副寮長として定期的に顔を突き合わせて一緒に仕事をすることになっている。しかも、王様と女王様だなどと渾名されて、寮生の全幅の信頼まで得ているとは。
 自分が王様だとしたら、この場所は砂の城だ。波が来たなら簡単に攫われて崩れ去る。そしてきっと弓一人だけが取り残されるのだろう。現に、今、自分の隣はぽっかりと空いたままなのだから。








「それでは、以上で寮会議を終了します」
 2年の寮代表の葛掛が淡々と議事の終了を告げる。会議に出席していた階段当番の寮生たちが、口々にお疲れ様でしたと言いながら退席していくのを、弓はただ無感情に眺めていた。
 弓の隣の空席を、気にしているような人間は、もう誰もいないように見える。皐月が会議をすっぽかすのは三度目なので、慣れてしまったのかもしれない。
「弓先輩。チェックお願いしていいですか?」
 と控えめに声を掛けられ、弓はふっと視線をそちらに移した。どこか戸惑いがちな視線で見上げてくる崎谷と目が合う。弓を心配するような不安げな表情が綺麗で、思わず手が出そうになったが、部屋の後のほうで葛掛が睨みつけているのに気がついて、苦笑を零すにとどめた。差し出された議事録を開き、今日の議事を目で追う。その途中で、
「あの……篝先輩、どうしたんですか? 最近、ずっと会議、欠席してますけど…具合でも悪いんですか?」
 と尋ねられた。崎谷の声はやはり戸惑いがちで、困っているようにも聞こえるのに、その表情は凛として、むしろ欺瞞を許さない真直ぐさがそこにある。目を逸らすことなく、弓は崎谷の顔をじっと見返し、本当のことを答えるか、嘘をつくか暫しの間、考え込んだ。崎谷を騙すことなど容易いことだ。だが。
「どうして、篝先輩を放っておくんですか?」
 と、咎めるような叱責するような強い口調で葛掛が崎谷の後ろから声を掛けてきた。恐らく、校内でも、ここまで弓に強い態度に出ることができるのは葛掛と皐月くらいだろうと弓は苦笑を漏らす。
「何のことだよ?」
 自嘲の笑みを浮かべて問い返せば、葛掛はあからさまにむっとした表情になり、眉間に皺を寄せた。自分が馬鹿にされて笑われたのだと思ったのかもしれない。だが、そんなつもりは毛頭無かった。弓が馬鹿にして笑ったのは、あくまで自分のことだ。何も出来ない、怠惰で、脆弱な自分のこと。
「噂になり始めてますよ」
 と、不機嫌な顔を隠さずに葛掛が続けるのを、やはり弓は苦笑でかわした。そういえば、以前、葛掛と皐月がつきあっているという噂が流れていた時期があったな、と思い出す。間違いなく、この態度のでかい男は皐月と寝たのだろうと思ったら、そのまま拳で殴りつけてやろうかと、らしくない衝動に駆られた。だが、葛掛を殴る権利も、皐月を責める権利も、とうの昔に弓は失っているのだ。
「何が?」
 あくまでも冷静な声で弓が問えば、葛掛は眉間の皺をさらに深くした。
「篝先輩、誘われれば誰とでも寝るって。授業もさぼりがちだし、メチャクチャだって聞いた」
 だから、どうしろというのか。自分には皐月を動かすような影響力は無いのだ。なぜ、それが皆分からないのだろうかと、弓はうんざりしたような気持ちになった。
 皐月がメチャクチャな生活をしているのだと弓も知っている。分からないはずがない。そもそも、皐月は弓へのあてつけで、そんな自虐的な行動を続けているのだから。わざと、弓の目に、耳に入るように、だらしなく男とセックスを繰り返している。それに幾ら腹を立てても、傷ついても、弓は皐月を止める権利を持っていないのだ。むしろ、それを甘んじて受けなくてはならないのではないか、とさえ思う。
 皐月は、弓をただひたすら傷つけたいのだ。それが皐月の復讐なのだとしたら、やはり、弓には、ただ黙って指をくわえて見ているしかできないように思うのだ。
 けれども、傷つけるのならば自分だけにして欲しい。皐月自身まで傷つけるようなことだけはして欲しくない。ナイフで刺されようと、殴られようと、汚い言葉で罵倒されようとも構わない。それなのに。
 弓自身を一番傷つけるには、皐月を傷つければいいのだと皐月は知ってしまったのだ。どういう皮肉だ、と思う。ぐちゃぐちゃに絡まり、解けない糸のようだ。いっそ、自分が皐月の前から消えてしまえば良いのだろうか。だが、それも出来ない相談だ。皐月から離れることなど、弓には出来そうもない。
 いみじくも、皐月が言った言葉と全く同じ。
 弓は皐月が好きなのだ。今でも一番好きなのだ。
「…弓先輩。篝先輩と一度、きちんと話をしてください」
 しっかりとした口調で、崎谷が横から口を出す。じっと自分を見上げてくる表情は、真直ぐで、やはり、三年前の皐月と重なった。
 あの日の言葉を取り返せれば、あるいは、やり直すことが出来るのだろうか。
 弓には分からなかった。王様だなどと呼ばれて、皆から一目置かれていても、所詮は、こんな弱い人間でしか無いのに。
「弓先輩。本当は、篝先輩が好きなんですよね?」
 なぜ、皐月と似た顔に追い詰められなくてはならないのだろうか。
「俺、はな。だが、向こうは毒虫の如く嫌っているだろうさ」
 投げやりに答えてやれば、崎谷は、まるで自分が痛いかのような表情になった。
「そんなことない。そんなことないです」
 独り言のように、俯いて呟く崎谷をそれ以上、見ていられずに弓は踵を返す。その背に葛掛が何か言っていたようだったが。
 それを意識から遮断して、弓は部屋を後にした。













 消灯間近の小ホールには、殆ど人影が見えない。食堂から一番遠いホールだから、利用する寮生が殆どいないのだ。灯りも節電の為に抑えられているので、薄暗い。だが、人の表情を確認できる程度には十分に明るいのだ。だから、弓は見間違えたり出来ない。自動販売機の陰に隠れ、抱き合っている二人の影を。
 湿った音が漏れ聞こえてくるほど、深く舌を絡ませあって、そのままセックスに突入しない方がおかしいような濃厚なキスをしているその片方の男の顔を、弓は知らなかった。もしかしたら一年かもしれない。ダンっと大きな音を立てて、自動販売機を殴った弓に気がついて、青褪めた顔をしていたからきっと間違いないだろう。だが、もう片方の男は、微塵も顔色など変えなかった。むしろ、鬱陶しそうに弓をチラリと一瞥しただけ。
「消灯時間だ。さっさと部屋に戻れ」
 不機嫌も露に、威嚇するように弓が命令すれば、一年の男は慌てたように相手から体を離し、逃げるように立ち去ってしまった。だが、もう一人は自動販売機に体を凭れさせ、面白がるような笑みを弓に向けたまま動こうとはしない。
「皐月。聞こえなかったか? 部屋に戻れ」
 地を這うような声で弓が言っても、皐月は微かに鼻を鳴らして笑っただけだった。
「無粋な奴だな。邪魔するなよ? せっかくイイとこだったのに」
 クスクスと、ともすれば無邪気にさえ見える笑いを浮かべて皐月はそんなことを言う。けれども、その陰に潜む暗さを弓は無視することが出来なかった。
 皐月をこんな風にしてしまいたかった訳ではない。いつだって、皐月が大切で、守りたかった。それなのに、自分が一番皐月を傷つけている。それが苦しくて仕方が無かった。
「…皐月。話をしよう」
 このままでいいはずが無いのだ。弓を幾ら傷つけてもいいから、せめて、皐月自身を傷つけることだけは止めさせなくては。
「話? 何の?」
「どうすれば、お前の気が済むのか。それを教えろ」
 真正面から皐月を見据え、弓がそう問えば、皐月は意味の分からない質問をされた子供のように、あどけない、不思議そうな表情で首を傾げた。
「弓の言ってること、良く分からないけど…ああ、でも良いよ。ちゃんと話をしようか。今日は遅いから明日な。明日。明日の放課後、数学準備室に来いよ。部屋借りておくから」
 何が楽しいのか、皐月はクスクスと楽しそうに笑いながらそんなことを言った。良いことを思いついた悪戯な子供のような表情だ。だが、その無邪気さに、弓は不安を掻き立てられた。それでも、ようやく自分と向かい合った皐月の機嫌を損ねたくなくて、弓は黙って頷く。
 明日。明日の放課後、きちんと話をしよう。土下座して謝っても良い。もう、これ以上、自分を傷つけることはやめてくれと、懇願しようと思いながら。











 急かされるように、その日最後の授業を終え、特別棟の数学準備室へと弓は向かった。皐月は最後の授業をサボっていたから、先に来て待っているのかもしれない。そんな暢気なことを考えながら、数学講義室のドアをガラリと開けた。数学準備室は、更に、その奥にある。逸るあまり、弓には冷静な判断が欠落していた。そもそも、その数学準備室には弓のクラスの副担任の男教師がいつもいるはずなのに。
 弓は、その場所で皐月が、たった一人待っていると信じて疑っていなかったのだ。けれども、次の瞬間、自分のお目出度さを呪った。
 皐月はその部屋に確かにいた。いたが、一人ではなかった。
「アアッ! イイッ! もっと、もっと奥まで突いて!」
 と、甘ったるい嬌声が準備室のドア越しに聞こえた。ご丁寧に、ギシギシとソファが軋む音まで付いて。
「ヤァッ! センセッ! イクッ! アアンッ!」
 扉の取っ手に手を掛けたまま、一歩も動くことが出来なくなってしまった弓の耳には、聞きたくも無い情事の声がはっきりと聞こえてきた。喘ぎ声の主は聞き間違いようもなく皐月だった。奇妙なフラッシュバックが弓を襲う。似たようなシーンに遭遇したのはいつだったか。三年も前の話のはずなのに。
 まるで、弓は、それを昨日のことのように鮮明に思い出していた。あの時、弓はどうしたのか。まさかと思いながら、それを信じたくないと思いながらドアを開けたのだ。そう、たった今のように。
 ガチャリと音を立てて開いたドアの向こう。
 教師が嘲笑うように自分を振り返ったのを今でも覚えている。だが、今回は違った。振り返った数学教師は、皐月に覆いかぶさったまま、酷く驚いたような表情をしていた。
 そして。
 あの時、顔を真っ青にして、それでも何かを伝えようとしていた皐月は。
 怒りと後悔と、やりきれない痛みとで表情を失くしている弓を見て、ケラケラと笑った。下半身は教師と繋がったまま、それこそ、楽しそうに、声を立てて笑ったのだ。
「今、取り込み中。もうちょっと待てよ。終わったら話とやらを聞いてやるからさ」
 人を馬鹿にしきった口調でそう言った皐月をこれ以上、見ていることが出来なくて弓はくるりと背を向ける。だが、その瞬間に微かに視界の端に入ってきた皐月の表情が、三年前のそれと重なったように見えて、弓は混乱した。何かを訴えたそうな、それでいて、絶望したような傷ついた表情。
 そんなはずはない。そもそも、皐月は弓を傷つけるためにこんな場面を自分に見せ付けたのだから。そして、その意図通り、弓は酷く傷ついているのだから。
 とにかく、その場所にはそれ以上、いられないと思った。それ以上、いたならば、また同じように皐月を罵ってしまうだろう。それだけは、してはいけないのだとドアを乱暴に背で閉めた。ドアが閉じる瞬間に、小さな、悲鳴のような声が聞こえたような気がしたけれど。
 空耳だと自分に言い聞かせて、弓は逃げるように、その場所を立ち去った。







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