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『055:砂礫王国』 - 2 ……………


 茜色に染まる空をぼんやりと眺めながら、弓は、ただ、取り留めの無いことを考えていた。思い出すのは、出会った頃のまっさらな皐月の笑顔ばかりだ。
 一体、何が悪かったのか弓にはさっぱり分からない。自分が皐月を好きだと思えば思うほど、近づこうとすれば近づこうとするほど、皐月は弓を傷つけようとする。弓を傷つけるために、自分自身を傷つけようとする。泥沼の悪循環。もう、諦めなくてはならないのだろうかと、らしくもなく、弓は深々と沈鬱な溜息を漏らした。
 ベンチに腰掛け、両手で自分の顔を覆ったまま俯いていると、ふと、カサリと落ち葉を踏み分ける音が聞こえてきて、弓は、はっと顔を上げた。
 そこには、綺麗な微笑を浮かべた皐月が立っていた。先程の、人を嘲笑うような笑顔とは違う。穏やかな、澄んだ笑顔だったけれど、なぜか、弓にはそれが悲しい表情にしか見えなかった。
「話って何?」
 まるで、三年前に戻ったかのような、屈託の無い口調で皐月は尋ねてくる。弓は、その悲しい笑顔をじっと見上げながら、小さな溜息を一つだけ零した。
「皐月」
 と、穏やかな声でその名を呼び、弓はそっと皐月の手を握った。その瞬間、皐月の体が過剰なほどビクリと震えるのが分かった。
「もう、やめるから」
 と、はっきりとした口調で弓が言うと、皐月は、え? と、不思議そうに首を傾げて見せた。その表情は、やはり、どこかあどけなくて、弓は湧き上がる愛しさを抑える事が出来なかった。
「もう、俺は、お前を好きでいることをやめるから」
 だから、もう、これ以上、自分を傷つけることはやめてくれと弓が訴えようとした瞬間に、皐月は弾かれたように声を立てて笑い出した。狂ったように笑い続ける皐月を弓が呆然と見つめていると、不意に皐月はピタリと笑うのを止め、憎悪に満ちた目で弓を睨みつけた。
「弓。お前はいつもそうだ。いつも、そうやって俺を切り捨てて逃げていくんだな」
 違う。そうではない。ただ、皐月を守りたいのだと、大切にしたいからなのだとは伝えることが出来なかった。弓を睨みつけている皐月の目から、止めどもなく涙が溢れていたから。
「良いさ、何度でも俺を刺して殺していけば良い。でも、俺は許さない。絶対に、お前を許さないから」
 呪詛のように皐月は呟くと、踵を返す。振り返ることなく去っていく、その白いシャツの背中に、掛ける言葉も見つからず、弓はただ黙って皐月を見送った。
 どうして、自分のする事は、自分の与える言葉はいつだって皐月を傷つけてしまうのだろうか。何をどうしていいのか弓には分からなかった。泣きたいのは弓だ。だが、弓には泣く権利など無い。ただ、ひたすら痛む胸を抱えて耐えることしか出来ない。
「馬鹿な奴だな」
 と、後から不意に声がして、弓が少しばかり驚いて振り返ると、つい先刻まで皐月と交わっていた数学教師が苦笑いを浮かべながら煙草をふかしていた。
「何で、皐月があんなことをしているか分からないのか?」
 と、教師に尋ねられ、弓は胸の痛みを全て怒りに転化した。そして、その怒りを教師に向ける。射殺しそうな憎しみに満ちた視線で教師を睨みつけても、教師は、やっぱり苦笑いを浮かべただけだった。動じないその態度が気に入らない。弓は子供じみた対抗心から、あからさまな威嚇をやめ、腐ったようにフンと鼻を鳴らした。
「…俺への当て付けだろう」
 当て付けで、皐月は、ただ、ひたすら自分を傷つけている。弓はそう信じきっていたが、教師は呆れたように首を横に振った。
「そう思っているんだったら、お前は、あと何度でも皐月を傷つけて殺すだろうよ」
 そう言い切った教師の顔には、もう苦笑いは浮かんでいなかった。先程までの飄々とした態度が嘘のように、ただ、責めるようにじっと弓を見据えている。その目の中に答えを探そうと、弓は教師の顔をじっと見つめたが、やはり、分からなかった。
 当て付けでなければ何だというのだ。
「皐月がお前に言いたい言葉はたったの一言だ。でも、それが口に出せないからあんなことを繰り返している。皐月が口に出せないのなら、弓。お前が察してやらなけりゃ、お前らはずっとこのままだ」
 謎解きのような言葉だけを残して、教師はそれ以上のことを言うつもりはないようだった。
「俺は親切じゃないからな。皐月が来れば、アイツの目がどこを向いてようが何度だって抱くさ。それがイヤなら、自分でどうにかしろよ」
 最後にそれだけ言い捨てて、教師はその場所を去っていった。
 弓は自分の苛立ちをぶつけるかのように地面をガツっと蹴りつける。踵が石畳にぶつかり酷く痛んだが、そんなことはどうでも良かった。
 誰も彼もが自分を責める。一体、どうしろと言うのか。弓にとって一番大事なのは皐月のことだ。自分が近づくことで皐月を傷つけてしまうなら離れてしまうしか無いと弓は思うのに。
 どうすれば、この複雑に絡まった糸が解けるのか。
 幾ら考えても、答えは出なかった。













 それ以来、皐月のメチャクチャな生活はピタリと止まった。誘われれば誰とでも寝るだなどという不愉快極まりない噂もいつのまにか立ち消えていた。授業もきちんと出席しているし、全く、元の状態に戻ったかのように表面上は見えた。だが、それが表面上だけのことだと弓には嫌でも分かっていた。
 皐月は、とにかく、弓をいないものとして振舞っていた。もともと、犬猿の仲だと言われるような関係だったが、それでも、皐月は一度として、弓を無視したことなどなかったのだと、改めて気が付かされた。弓のことが目に入らないかのように、最初から存在しないかのように不自然に振舞う皐月を、けれども、誰も気に留めたりはしなかった。不仲が更に深まっただけだと思っている。ただ、葛掛と崎谷だけが、時折、何か言いたげな顔で皐月と弓を見比べていたけれど、結局、二人が弓に話しかけてくることは無かった。
 副寮長としての仕事も、皐月は普段通りにこなしていたけれど、たった一つ、消灯の点呼だけは、かなりの頻度でサボっていた。そして、朝まで帰ってこない。どこに消えているのかを知っているのは弓だけだった。
 学生寮に隣接している教師用の宿舎。そこに、そっと忍び込む皐月を弓は消灯の点呼の合間に、何度も見かけた。その度に、苛立ちと、嫉妬と、逃がしきれない胸の痛みに苦しめられたけれど。一度として、弓が皐月を止めることは無かった。

 そんなことを一ヶ月ほど繰り返した頃だった。

 ぼんやりと気が無い素振りで窓の外を眺めていると、不意に、
「弓。受験生が余所見とはいい度胸だな」
 と教壇から咎められた。顔を上げれば、見たくも無い顔が嫌でも目に入ってくる。
「罰だ。これを解いてみろ」
 と、副担任の数学教師に言われ、弓は億劫そうな表情を隠しもせずズカズカと教壇まで歩き、チョークを手に取った。板書されている問題は、酷く難解そうで、有名国立大の二次試験に出題されていた問題と類似した問題だった。だが、弓には造作も無い。サラサラと流れるように解答を導き出すと、当てこすりのようにパンパンと手に付いたチョークを払った。教師は、当てが外れたような、それでいて予想通りだったような、面白くなさそうな表情で、
「正解だ。戻ってよし」
 と言った。弓がそれに従って席に戻ろうとした瞬間、小さな声で、
「放課後準備室に来い」
 と付け加えて。別段、おかしなことではない。授業中、問題のある行動をした生徒を呼び出しただけ。それなにに、弓は、沸々と沸きあがってくる嫌な感じを払拭することが出来なかった。教師の意図することが読めない。探るように、授業の間、ずっと教師を睨みつけていたが。
 結局、最後まで、彼と視線が合う事は一度も無かった。










 ゆったりとした歩調で、数学準備室に向かいながら、弓は窓から見える景色を眺めていた。中庭の銀杏の木が鮮やかな黄色に染まり、時折、ハラハラと軽やかに落ちていく。感じる肌寒さは、秋というより、冬のそれに近いと思った。
 皐月は、今、どうしているのだろうか。もう、寮に戻ったのだろうか。それとも、弓の目の届かぬところで、別の男と寝ているのか。
 ふと気が付けば、皐月のことしか考えていない自分に自嘲の笑みを漏らす。忘れなくてはならないと思うのに、忘れることなど出来ないとも思う。自分が救われたいのではない。ただ、皐月だけでも救ってやりたかったが、その方法が弓にはさっぱり分からなかった。こんな苦しみを、まだ知らなかった頃は、皐月の何もかもを知っているような錯覚に陥っていたけれど。今は、皐月を笑わせる方法すら弓には分からない。
 それでも、たった一つだけ、どうしても知りたいことがあった。
 あの日、あの場所で、皐月が弓に伝えようとしていた言葉。教師が言っていた『皐月が口に出せない一言』が、きっと、その言葉なのだろう。

 皐月は、あの時、何を言いたかったのか。

 静まり返った特別棟を、ただ一人、ゆっくりと歩く。たどり着いた数学講義室の中を横切り、準備室のドアにたどり着く前に、ふと、悲鳴のような声が漏れ聞こえて来たことに弓は耳聡く気が付いた。準備室のドアは、完全に閉まっていなかった。だから、余計に音が漏れてくるのだ。
「止めて! 嫌だ! ! こんなの嫌だって! !」
 悲痛な声にハッとする。聞き間違いようの無い皐月の声に、弓の足はピタリと止まった。
「別に良いだろう」
 と、酷く冷たい教師の声が続いて、皐月は言葉にならない悲鳴のような声を上げた。その段になっても、弓の足は動かなかった。動いて良いのかどうなのか、分からなかったのだ。
「今更、何、ぶってるんだよ。いつも抱いてやってるんだから、これくらいさせろ」
 と、嘲笑うような教師の声が聞こえる。
「止めッ…! ! ヒィッ! ヤァッ! !」
 と、どう考えても苦痛しか感じていないような皐月の声に、弓はじとりと嫌な汗が滲むのを感じた。眩暈がする。動悸がどんどん早くなっていき、体の中でグルグルと渦巻いている衝動をどうにか押し殺そうとするけれど、どうしても上手くいかない。
「嫌だ! イヤッ! ! たすっ…助けて! 弓! 弓!」
 と、名前を呼ばれた瞬間に、何もかもが吹き飛んで分からなくなってしまった。
 ただ、勢いに任せて準備室の中に飛び込み、目に入った光景に眼球の裏が真っ赤に染まった気がした。
 皐月は目隠しをされて、手足を不自然な形に縛られて、趣味の悪い玩具を突っ込まれたまま床に転がされていた。
「イヤ、イヤだ…弓、弓、助けて。助けて」
 と、皐月は朦朧としたように何度も『助けて』と繰り返す。その時になって、弓はようやく気が付いたのだ。気が付いて、衝動のまま、目の前に立っている教師を殴り飛ばしていた。そして、教師が殴られた勢いで机にぶつかり、床にくず折れたのに目もくれず、皐月に駆け寄ると、そっと、その拘束を解く。玩具を抜き取り、手と足を解き、最後に目隠しを解いてやると、皐月は泣き腫らした目で弓の顔を見上げた。
「弓、弓、助けて、助けて」
 と、解放され、弓に抱きしめられても尚、皐月は魘されたように同じ言葉を繰り返す。その時になって、ようやく、弓は自分の愚かな過ちに気が付いた。
 皐月がずっと言いたくて言えなかった言葉はこれだったのだと。
 弓への当て付けなどではない。ただ、皐月は、言葉にならぬSOSを弓に発し続けていただけ。駆け抜ける、猛烈な後悔と、自分に対する憤り。なぜ、こんなにも傷つき、怯えていた皐月に気がつかなかったのか。表面上の虚勢に騙されたのは、自分の怠惰以外の何物でもない。
 折れよとばかりに、弓は皐月の体をきつくきつく抱きしめた。苦しいだろうに、皐月は押し返そうともせず、それどころか、弓の体に縋りつくように抱きついた。
 溺れた子供が、必死に助けを求めて、ただ、無我夢中で誰かにしがみつくかのような仕草。もう、二度と、こんな風に皐月を怯えさせ、傷つけたりしないと弓は自分に誓った。
「ゴメン。ゴメンな、皐月。こんなに遅くなって」
 きつく皐月の体を抱きしめたまま、弓は、懺悔するように呟いた。
「イヤだ! ゆるっ……許さない! ずっと、ずっと待ってたのに! ! さんッ…三年も、ずっと!」
 泣きじゃくりながら喚く皐月を、弓は、力を緩め、ただひたすら優しく抱きしめる。皐月が許さなかったのは、弓の失言だったのではない。必死に助けを求めていた皐月に背を向け、逃げ続けていたことだったのだ。
「ああ、良いよ、許さなくて良い、ずっと許さなくて良い」
 だから、もう、自分を傷つけたりしなくて良いのだと、皐月の涙を唇で拭いながら弓は答えた。ずっと、傍にいて、ずっと守るからと。
 それを聞いた瞬間、皐月は、尚更、涙が止まらなくなったらしく、しゃくりあげながら弓にしがみついた。
「弓、弓、抱いて、すぐ抱いて、もう嫌だッ…もうっ…弓以外の奴とセックスなんかしたくないッ……」
 本当は、きっと、ずっと、皐月はそう思っていたのだろうと気が付いて、弓の胸は掻き毟られたように痛んだけれど。自分の痛みに構っている場合ではないと知っていた。
 だから、皐月にそっと口付ける。顔中にキスを落として、涙を舐め取り、最後に唇にキスを落としたところで、
「お前ら、俺の目の前でそれ以上してみろ。退学させるぞ」
 と、呆れ果てたような声が後から聞こえ、ようやく、室内に第三者がいることに気が付いた。
 いつの間に立ち上がっていたのか、弓に殴られた頬をさすりながら、教師はフンと鼻で笑って、抱き合う二人を見下ろしていた。その目に、冷酷さなど見当たらない。呆れたような表情には、少しだけ優しそうな色が滲んでいた。だから、弓は、もう一度、彼を殴りつけることが出来なかったのだ。
 彼が皐月にしたことは許せない。許せないけれども、また、皐月に『助けて』という言葉を言わせたのも彼なのだ。もしかしたら、何もかもを分かっていて、こんな茶番を演じたのだろうか。恐らくそうなのだろうと弓は思ったが、素直に感謝する気にはなれなかった。どちらかというと、悔しさの方が先にたつ。
 彼も彼で、別段、弓に感謝して欲しいなどとは露ほども思っていなかったのだろう。
「続きは寮にでも戻ってしろ。それから、皐月。もう二度とここには来るなよ」
 と、横柄なふざけた口調で言う。弓は微かに眉を挙げ、肩を竦めただけで何も言わなかった。皐月は、戸惑ったような表情で教師を見上げている。そんな虚勢も何も無い、無防備な素の表情を自分以外に見せる皐月に、弓はチリチリと嫉妬を燃やしたが、敢えてそれを表には出さず、さりげない仕草で、皐月の体に服を羽織らせた。他はともかく、皐月の体をこれ以上晒すのは我慢なら無かった。だが、そんな弓の男心に皐月は全く気がついていないようだった。
「先生…もしかして、わざと……」
 と、立ち上がりながら教師を見つめる。一瞬だけ、教師は労わるような優しい眼差しを皐月に向けたが。
 それだけだった。
「うるせえ。幾ら綺麗でも、俺はお前みたいな面倒な奴はお断りなんだ。手間ばっかりかけさせやがって」
 と、ブツブツと文句を言いながら、教師はクルリと背を向けて乱暴に椅子に腰掛ける。それ以上の会話を拒んでいる空気がありありと見えて、弓はさっさと部屋を出て行こうとした。だが、皐月は足を止め、じっと教師の背を見つめている。そこには恋愛とは別の、思慕のようなものが浮かんでいて、詮無いことだと思いながらも、弓はやはり嫉妬した。
 皐月は暫くそのまま、彼の背をじっと見つめ、だがしかし、何かを思い切ったように首を微かに横に振る。
「先生。ゴメン。今までありがとう。もう、先生の所には来ないから」
 と、らしくもない、どこか子供っぽい口調で皐月が言うので弓はやはり面白くなかったが、咎めることはせず、ただ、甘やかすように皐月の服を調え、そのまま手を引いて部屋を後にした。







「先生のことだけど、今まで、あんなこと、一度だってしたこと無かったんだ」
 と、寮に帰る道すがら、皐月は教師を庇うようなことを言った。一度大泣きして、大分気持ちが落ち着いたのか、随分と穏やかな口調だった。弓と話すときには必ず張り巡らしていた、あのピリピリと尖った空気も今は全く無い。
 もう、一秒でも離したくなくて、皐月の腰を抱き寄せても、皐月は拒絶しなかった。むしろ、どこか安心したかのような表情で弓に体を寄せる。無意識に甘えているような微かな媚態に、弓は愛しさが募るのを止められなかった。
「もう、ダメなんだと思ってた」
 と、ポツリと皐月は心底安堵したような声で漏らした。
「やっぱり、弓は俺のことを見捨てて出て行ってしまったし、もう好きじゃないって言うから。もう、どうしようもないんだと思ってた」
 あの日、皐月を取り戻すこともせず背を向けた弓に、皐月はどれだけ傷ついたのだろう。溺れて、助けてと必死に叫んでいる人を見殺しにしたようなものなのだから。気が付かなかっただとか、不安と自信の無さに目がくらんでいただなどという言い訳が通用するはずも無い。
「そう言えば、もう、皐月が自分を傷つけるのをやめるのかと勘違いしてた」
 素直に弓は自分の過ちを告げる。皐月はふ、と弓の顔を見上げ、果敢ない笑顔を浮かべ、
「ああ。やめてたよ。もう、そんなことしても、弓は助けに来てくれないんだと思ったから、あれから、誰とも寝てなかった」
「………先生とも?」
 油断すると今にも暴走しそうな嫉妬を、何とか押し殺しながら弓は問う。あの日以来、何度も夜に教師の部屋に向かう皐月を見かけたことを思い出した。
「寝てないよ。夜、一人になると、苦しくてどうにかなりそうだったから、先生のトコに行ってたけど。あの日以来、誰とも寝てない」
 真直ぐに弓を見つめ、そう言い切る凛とした皐月の瞳に嘘は無かった。その言葉に、弓は少しだけ気持ちを落ち着かせる。
「それなのに、急に放課後呼び出すから…変だとは思ってたけど」
 まさか、あんなことされるとは思わなかったと皐月は、大分落ち着いた顔で苦笑した。
「あんなこと、日吉以外にされたこと、無かったから」
 と、小さな声で皐月が呟いた時、その手が微かに震えていることに弓は気が付いた。皐月は、もう、ずっと長い事、怯えて、助けを求めていたのだと改めて思い知らされて、弓は過去の自分を殴りつけてやりたい気持ちになった。
「皐月、ゴメン。ゴメンな」
 と、哀願するように弓は言葉を搾り出す。皐月はピタリと歩みを止めて、真正面から弓の顔を真直ぐに見つめた。
「許さない。一生、許さないよ」
 と答える皐月の目には、けれども、憎悪も、怒りも浮かんではいない。そこにあるのは、何かを求め、手に入れようとする懸命さだけだった。
「一生許さないから。弓は、一生を掛けて俺に償わなくちゃならない」
 すなわち、死ぬまで傍にいて欲しいといういじらしい願いの裏返しに、弓は、衝動を抑える事が出来なかった。攫うように皐月の体を強く抱きしめる。
「分かった。一生掛けて償う」
 まるでプロポーズのようだと頭の片隅でおかしく思いながら、弓は、半ば抱きかかえるようにして皐月を自分の部屋に連れて行った。
 部屋に入り、ドアを閉め、鍵を掛けるなり、皐月を強く抱きしめてキスをする。すぐに舌を差し入れて、皐月の口腔内を貪るように舐めまわした。余裕など少しも無い。それは皐月も同じようで、堪えきれぬ鼻に掛かったような甘い声を漏らしながら、応えるように自分の舌を弓のそれに絡ませてきた。
 あまりに深いキスで、溢れる唾液が顎を伝ったけれど、それを拭う暇も無く、皐月をベッドに押し倒す。寮の安いパイプベッドが二人分の重みにギシギシと軋んだ音を立てたが、それにも構わなかった。
「弓……っ……抱いて、すぐ抱いて、もうっ…弓以外の奴とセックスなんかしたくないッ」
 先刻と、同じ言葉を必死に吐き出して、皐月は弓を潤んだ瞳で見上げてくる。言われなくても、止まることなど出来ないと、弓は皐月の服を毟り取るように脱がせ、その体にむしゃぶりついた。
「皐月、皐月、好きだ」
 うわ言のように囁きながら、皐月の体のありとあらゆる場所にキスを落としていく。皐月はその度に、過敏に体を震わせ、仕舞いには感極まったようにすすり泣き始めた。
「俺も、俺もっ……好きっ…弓が、弓が……ッ……好き、好き」
 子供のようにしゃくりあげながら何度も繰り返す皐月が、可愛くて、愛しくて、弓は仕方が無かった。これは、自分だけのものなのだと思う。本当はそうだったのに、自分の愚かさから、決して短くは無い時間の間、手放してしまっていたのだ。もう、決して、そんなことは出来ないと、皐月の体に初めて触れて、弓は思い知らされた。
 もう、二度と、手放したり、他の誰かに皐月を触らせたり出来ない。
「アッ、アッ、もっ、もう、俺を置いて行かないで……ッ! !」
 深く繋がりながら、もう、これ以上近づけないというほど体を寄せても、皐月は尚、離さないでと懇願するように、喘ぎの合間に訴える。自分が皐月に与えた傷の深さが、そこには窺い知れて、弓の胸はナイフで刺されたように鋭く痛んだ。
「行かない。絶対に離さない」
 と、皐月の耳元で、言い聞かせるように囁けば、皐月は目尻から涙をパラパラと落としながら、何度も、うん、うんと子供のように頷いた。
「弓ッ…アアッ! 好き…ッ! 好き! ! アッ…アッ…好き!」
 壊れた蓄音機のように、ただ、その言葉を繰り返す皐月が切なくて仕方が無かった。皐月よりも、弓のほうこそが、もっと、ずっと好きなのだと伝えたいけれど、言葉でなど、到底伝えきれないような気もした。
「皐月、皐月、好きだ、愛してる」
 と、結局は、代わり映えのしない言葉でしか言い表せない。何度、言葉で伝えても、何度繋がっても、枯渇は全く潤わないようだった。三年分が、たった一日で取り戻せるはずが無いのだから、当然だと思う。それでも構わなかった。これから、ずっと、皐月の言葉通り、一生傍にいるのだから。



 いつかは、離れていた三年間を取り戻せる日も来るだろうと、弓はきつく皐月の体を抱きしめた。


















 寮の食堂に向かう途中、何人もの寮生が顔を赤くして、逃げるように走り去っていくのとすれ違い、崎谷は訝しげに首を傾げた。
「何だ、あれ?」
 と、隣に並んで歩く葛掛に問いかけるが、葛掛も、何が何だかさっぱりわからないと言った表情で
「さあ?」
 と、肩をすくめるだけだった。
 食堂に辿りつき、トレイを受け取って空いている席に座ると、目の前に、偶然、崎谷と同室の藤代が座っていた。藤代は、苦虫を噛み潰したような渋い表情をしている。
「何かあったの?」
 と崎谷が不思議そうに尋ねると、藤代は、
「アレ」
 と、顎をしゃくって向こうのテーブルを指し示した。言われた方向に視線を移し、目に入ってきた光景に崎谷も、葛掛も絶句した。
 そこだけ、まるで違う空間のように、異様なオーラが漂っていた。言うなればショッキングピンクの空気。そのピンクの空気に当てられたかのように、周囲の人間が、一人、また一人と逃げるように顔を赤くして席を立つのが、これまた憐れだ。
「アレ…って。弓先輩と篝先輩……だよな?」
 と、崎谷が呆気に取られたように尋ねると、
「お前が乱視じゃなくて、俺も乱視じゃないとするならそうだろうな」
 と藤代は苦々しい口調で答えた。藤代は普段、とても冷静な男で、こんな風に渋い顔をするのは非常に珍しい。だが、藤代がそうなってしまうのも仕方が無いだろう。
 弓と皐月が二人並んで食事をしている。それだけでも珍しい光景なのだが、問題はそこではない。二人の親密度だ。
 ピッタリと体を寄せ合い、一口何かを食べてはじっと見つめあう。でなければ、手を握り合う。そして、また一口食べては、弓が皐月の頬をくすぐるように撫で、皐月がはにかみ笑う。また一口食べて、今度はチュッチュと周りの視線など省みずにバードキスを繰り返した。
「……つーか、あのまま、放っておくと、ここでヤり始めそうな空気じゃね?」
 葛掛が呆れ果てたようにそう言えば、藤代は深々と溜息をついた。
「そうだろう、葛掛もそう思うだろう」
「ってか…ねえ、誰か、止めたほうが良いんじゃ……」
 ピンクのオーラに当てられた崎谷が、微かに頬を染め、困ったように藤代と葛掛を交互に見遣ったが。
「…誰が止められンだよ。『王様』と『女王様』だぜ?」
 と、葛掛は匙を投げたように答え、藤代はやはり、深々と溜息をついた。
「俺、今月、風紀当番なんだけどさ」
「どうにもなんねーだろ」
「だよな」
 諦めたように藤代と葛掛は言い。

 とんでもなく公害な、始末に終えない恋人同士が誕生してしまったのだと、崎谷はようやく悟ったのだった。





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