『047:ジャックナイフ』 ………………… |
*『008:パチンコ』『069:片足』の続編です。そちらを先にお読み下さい。 パキンと音を立ててシャープペンシルの芯が折れた。今日で三度目だ。篝 皐月(かがり さつき)は、らしくもなく、イライラとした仕草でカチカチと新しい芯を押し出した。 そもそも、皐月はさほど筆圧が強いわけではない。その上、滅多なことで動揺したりもしない。こんなことは珍しいが、自分でも理由ははっきりと分かっていた。 今日で五日目。たったの五日間。 恒例の寮でのふざけたゲームで皐月が寮長の弓 正和(ゆみ まさかず)に勝利したのは先日のことだ。負けたほうが二十四時間、勝ったほうの『奴隷』になる、という実に馬鹿馬鹿しい内容のゲームだったが、皐月は、弓に、奴隷になる代わりに一つの『条件』を出した。卒業するまで、否、『一生』それを守れ、と。 弓は相変わらず、感情の読めない飄々とした態度でそれを承諾した。そしてそれを見事に実行している。だから、こうして、皐月は五日間全く弓の顔を見ずに済んでいるのだ。 「俺の視界に入ってくるな。俺から避けるのは面倒だから、お前が俺を避けろ」 皐月が弓に出した条件はそれだった。 犬猿の仲だと言われ、顔を合わせれば毒舌の応酬を繰り広げている皐月と弓だが、以前からこんな風に仲が悪かったわけではない。むしろ一番仲の良い親友だったと言って良い。だが、その関係が見事なほど粉々に壊れてしまったのは二人が中学三年生の秋のことだった。 その時のことを皐月は今でも鮮明に覚えている。その時の弓の言葉も、一言一句違えないほどはっきりと記憶していた。『言葉』というものは、時として、どんな肉体的暴力よりも人の心を効果的に傷つけるのだということを皐月が知ったのはその時だ。その時から、口を開けば嘘しか吐けなくなってしまった。 皐月の胸のずっと奥、深く深く刻み込まれた傷は未だに癒えるということがない。ジクジクと化膿し、もはや施す手立てがないほどに醜い痕になってそこに残っている。 ハッハ、という荒い息遣いの合間に、 「篝先輩、篝先輩」 と、どこか切羽詰った呼び声が漏れる。皐月はそれをどこか白けた気持ちで聞いていた。 自分の体を好き勝手させてやっている、この目の前の男が次に言い出すことを皐月は予想してゲンナリした気分になった。体は快感を感じている。射精が近いのも分かっていたけれど、それでも、鬱陶しさが勝る。 「好きです、好きなんです!」 案の定、達した直後に男は熱のこもった声でそんな風に告白してきた。だが、その熱が皐月に移る事はありえない。ただ、冷めた瞳で男を見返し、 「お前、ウザイ」 と短い言葉を返した。 言葉は刃物だ。鋭利なジャックナイフのように、人の心を容易く傷つける。 「最初から体だけって約束だっただろ? セックスも悪くないからヤらしてやってたけど…もうオシマイ。面倒くさいのは嫌いなんだ」 ニッコリと綺麗な笑顔を浮かべて皐月が言ってやれば、男は顔面を蒼白にして言葉を失った。 性格は決して悪くなかった。むしろ、性格が良すぎたのが難点だったというべきか。これまで体の良い、所謂セフレだった葛掛(くずかけ)との関係を清算して、相手を新しく探している最中に言い寄ってきた後輩だったから、つい、うっかり、良く考えもせずに受け入れてしまったのだ。 言葉もなく自分を見つめる後輩を無視して、皐月はさっさと制服を身につける。そして、なんの躊躇も憐憫も見せることなく、 「じゃあな。サヨウナラ」 と言い捨てると視聴覚準備室を後にした。部屋を出た瞬間に、窓から差し込む夏の名残の日差しが目の裏を焼く。クラリとした眩暈を一瞬だけ感じ、何度か瞬きを繰り返して一歩を踏み出すと、物陰に隠れていた小さな影がゆらりと傾いだ。 「……あの…授業で使った資料を返しに来たんですけど…」 と、言い訳じみた言葉を漏らすのは、恐らく、つい先ほどまでの自分の情事を盗み聞いてしまったせいだろう。その綺麗な顔が微かに紅潮しているのが見て取れた。 皐月はそれを、ただ、客観的に美しいな、と思う。造作の素晴らしさではなく、中から滲み出る『何か』なのだろう、とも。そして、それは自分がとうの昔に喪失してしまった類のものなのだ。 不意にそれが憎らしくなる。衝動のまま、皐月は口の端を微かに上げた。きっと、誰が見ても醜い、酷薄な笑みに見える笑顔だったろう。 「崎谷(さきや)」 その名を呼べば、小さな顔がふっと上がり、まっすぐな眼差しが皐月の顔を見つめた。 「葛掛とうまく行ってる?」 その名を出せば、皐月よりもいくらか小さな体は、目に見えてビクリと反応した。だが返事はない。困ったように皐月を見返すだけ。 「アイツ、セックス上手いだろ? 今度、また借りてもイイ?」 半ば恫喝するような猫なで声で皐月が言うと、崎谷は微かに顔を歪め唇をキュッとかみ締めた。 ザクリと手応えがする。心なんて目に見えないものが傷ついた瞬間が、なぜ分かるのだろうと不思議に思いながらも皐月は崎谷の顔をじっと見つめ返した。意図した通りに崎谷を傷つけたというのに、思ったほどの爽快感はない。むしろ、罪悪感と後悔が胸を苛む。 因果応報という言葉がある。 他人になした仇(あだ)は、いつかは自分に返ってくると言う。 ならば、逆説的に、自分が受けた傷を他人に与えても良いのだと自分に言い聞かせて、皐月は散々に人を傷つけてきた。だが、一向に爽快感は訪れない。むしろ、その傷は深まるような気がするのだ。 ふ、と小さな苦笑をもらして皐月は手を伸ばす。自分よりも幾分華奢な体をギュッと抱きしめ、 「悪い。八つ当たり。アイツは崎谷にベタ惚れだからそんなことしないよ」 と小さな声で囁いた。なぜ、この少年だけは憎みきれないのだろうかと皐月は不思議に思う。こんなに優しい声を掛けてしまうのは葛掛と、崎谷に対してだけだ。 「…篝先輩。大丈夫ですか? 弓先輩が心配してました…葛掛も…」 崎谷から零れた言葉に皐月は疑問の答えを知る。 二人の姿は、どこか自分たちに似通っている。三年前の自分たちに重なるのだ。もしも、あんな風に行き違わなければこうなっていたかもしれない、という姿に。 馬鹿馬鹿しい自己憐憫だと、皐月は自嘲の笑みを浮かべる。 「心配? 何を心配するの? 俺は何もないけど?」 それだけを言い捨てると、皐月は崎谷の顔も見ずに踵を返して歩き始めた。 何もない。そう、何もないのだ。ただ五日間、弓に避けられ、無視されているだけで。しかも、そう仕向けたのは自分なのに。 それで揺らいでいては笑い話にもならない。 ジリジリと窓の外から蝉の声が聞こえてくる。もう夏も終わりに差し掛かっているというのに、姦しいことこの上ない。それでも、このまま、夏が終わらなければ良いのに、と皐月は詮無いことを考えた。 もう少しで秋がくる。 皐月が弓と決裂したのも三年前の秋だった。 好きだとかなんだとか、そんな甘ったるい感情はだいぶ昔に忘れてしまった。皐月がただ強く希求しているのは弓を傷つけることだけ。 自分が傷つけられたのと同じだけ深く、同じだけ痛く、傷つけば良いと思う。 弓は校内の『王様』だなんて呼ばれ、不遜な態度を決して崩さず、それなのに校内の生徒から、教師からさえ一目置かれている。何事にも動じることはなく、飄々とした態度で誰に対しても接しているが、皐月に対しては少しばかり違う。そこに微かな苛立ちと、戸惑いを滲ませている。だが、それは皐月にしかわからないほど微妙なものだから、きっと誰も気がついてはいないだろう。 どうすれば弓を傷つけられるのか、皐月はずっと考えてきたけれど未だに有効な手立てが思いつかない。そもそも、弓が傷ついた時の表情など想像すらできないのだ。 「皐月。お前、変だぞ?」 「何が?」 「妙に攻撃的」 タバコをふかしながら、数学教師が苦笑いをこぼす。端正な顔が少しばかり崩れて、至極、人好きのする表情になるのを皐月は無感動に見上げていた。 「楽しめないセックスは好きじゃないって、最初に言ったよな?」 皐月の白い背中を悪戯な指が時折掠める。その微妙な刺激に体を震わせて、皐月は冷め遣らぬ熱のこもったため息をこぼした。 「俺に飽きた?」 皮肉な笑みを浮かべて皐月が問えば、教師はふと小さなため息を煙とともに吐き出した。 「そういうことじゃ無いって分かってンだろ? 別にお前が誰に惚れてよーが、何考えてよーが勝手だけどな。ヤってる最中に他の奴のこと考えてるってのはマナー違反だろ?」 咎めるでない、むしろ、どこか慰めるような優しい口調で指摘されて皐月は軽く下唇を噛んだ。 『教師』という人間は皐月には鬼門だ。今まで、何人もの男と投げやりに寝てきた皐月だが、教師を相手にしたのは一番最初と、それからこの男だけだった。 「…他の奴の事なんか…考えてない…」 らしくない、小さな声で頼りなさそうに答える皐月の髪を教師はクシャリとかき混ぜた。その手は酷く優しい。そんな情は鬱陶しいはずなのに、なぜか、この男だけは許してしまう。そのせいなのか、他の男とはいつだって、そう長く続かないのに、この男とだけはなぜか断続的に続いていた。 「…上手に嘘もつけないほど参ってる?」 苦笑混じりの言葉に皐月は体を捩り、その優しげな視線から逃げた。 「自分がどんな顔してるか自覚してるか?」 「…してる。みっともない醜い顔」 ぶっきらぼうに皐月が答えると、なぜか教師はかみ殺したような笑いをこぼし、皐月の旋毛のあたりに一つ、軽いキスを落とした。 「バーカ。違うよ。思わず本気になっちまいそうな可愛い顔」 からかうような声で、予想もしていなかった答えを返されて皐月は思わず反射的に振り返ってしまう。目に入った教師の表情は、思いのほか真剣味を帯びていて、皐月はとっさに何も言葉が出てこなくなってしまった。 「俺はミイラ取りになるつもりは無いからな。お前が、いつもの顔をできるようになるまでは、もう寝ない」 淡々とした口調で告げると教師は皐月の体の上に白いシャツを落とす。 「さっさと着て、出て行けよ」 あっさりと告げられた別れの言葉に皐月は取り残された子供のように途方に暮れ、ぼんやりと窓の外を見上げた。 染まる橙色の空はどこか物悲しい。夏の終わりを告げているようだ。 夏ではない。夏ではない何かが終わろうとしているようで、皐月は不安でならなかった。 「篝先輩」 ふと呼び止められたのは消灯間近な、人気の少ないホールでの事だった。食堂からも、談話室からも一番遠いこのホールには、ほとんど寮生は来ない。来るとしたら、皐月のように、人と会いたくない人間だろう。 古びたソファに腰を下ろしたまま、皐月は顔を上げる。そこには見なれた顔があった。ついこの間まで何度もセックスしていた後輩の男だった。酷い言葉で皐月が切り捨てて以来、近づいてくる事は無かったのに。 どこか悲壮な表情で男は皐月に近づいてくる。 「俺、篝先輩が好きです…好きなんです」 大きな声ではない。むしろ独り言のように内側に篭る感情のように男は呟いた。その言葉の内容よりも、どこか常軌を逸しているような追い詰められた表情のほうが気になって、皐月は訝しげに眉を顰める。薄暗いホールの電灯の光を反射して、何かがキラリと光った。男の手の中で光る、それ。 その研ぎ澄まされた鋭利な刃先を、皐月は何の恐怖も無く、ただ無感情にじっと見つめた。 「どうして…どうして俺じゃ駄目なんですか?」 誰に問うでない、やはり独り言のような言葉。近づいてくるナイフの刃先は、やはり皐月に何の感情の揺らぎも与えなかった。 どうして駄目なのか。皐月のほうが聞きたかった。どうして他の男ではだめなのか。弓でなければ。 「本当に、本当に先輩が好きなんです」 その言葉に嘘は無い。きっと、本当に皐月のことが好きなのだろう。 …………以前、皐月が、弓を思っていたように。 けれども、皐月の中には何の感情も沸いてこないのだ。同情も、嫌悪も、好意も、罪悪感も、恐怖さえ。 自分は、どこか壊れているのだろう、と皐月は思った。ゆっくりと立ち上がって男の前に近寄る。その時になって、男はようやく少しばかり正気を取り戻したようだった。動揺したように、その瞳が揺れている。だが、皐月は構わなかった。 「俺を殺したいの? それとも、腹いせに刺したい?」 淡々とした口調で尋ねながら、皐月は男のナイフを持つ腕を掴んで、グッと自分のほうに近づけた。 すぐそこにナイフの刃先がある。 怖くは無い。怖くは無かった。 物理的な傷など怖くない。怖いのは、見えないものを傷つける見えない刃だ。そして、その刃を自分に向けることができるのは弓だけなのだ。だから皐月は怖くない。 「か…篝先輩」 「良いよ。刺せば? それでお前の気が済むなら」 そのまま、自分の体を切りつけようと皐月がその腕をさらに引き寄せる。男は慌てたようにそれを止めようともがき、もみ合ったせいで刃先が皐月の頬を掠めた。 鋭い痛みが走り、何かが頬を伝う。 「あ…あ…すみ…すみません…俺、そんなつもりじゃ……」 顔を真っ青にして、自分に触れようとした男の手を皐月はパシンと叩き落す。頬を親指で拭うと、その指先に軽く赤い色がついた。だが、大した傷ではない。 皐月は小さなため息を一つこぼし、男の顔をまっすぐ見上げると、 「お前が謝ることじゃない……悪かったな。犬にでも噛まれたと思って、俺のことは忘れろよ」 と極力優しい口調になるようにと心がけて、そう言った。そしてそのまま踵を返す。 人気の少ない長い廊下を歩き、角を曲がったところで腕を強く掴まれた。そして、そのまま暗がりに引きずられる。 何度も男となんてセックスした。あれから3年も経っている。それでも、フラッシュバックのように、皐月は恐怖に震え上がった。 言葉で好きだと伝えたことなど無かった。それでも、皐月は弓が好きだったし、弓が自分を同じ意味で好いていることも、なんとなく、雰囲気や言葉の端々で気がついていた。 何かのきっかけさえあれば、きっと、どこか危うい儚い甘さを含んだ、恋人同士のような関係になるのだと疑いもせずに信じていた。 その時は、嘘をつくことも知らなかったし、ただ、皐月はまっさらでそして真っ直ぐだった。 『初めて』は強姦だった。こんな風に、学校の中で暗がりに連れ込まれ無理やり犯された。その後は、ただひたすら『脅迫』だった。 弓にこの事を言われたくなかったら言うことを聞け、と言われれば皐月には従うより他に、方法は無かった。中学を卒業するまでだとその教師が嘯いたのも、皐月がその蹂躙に甘んじた理由だった。 表面上は何も無いように装い、弓には屈託の無い笑みを向けて見せる。そして影ではその教師の慰み者になっていた。皐月の心は疲弊して擦り切れ、もう、ずっと限界だったのだ。だから、正直、その『現場』を弓に見られたときは絶望よりも安堵のほうが強かった。 もう、自分を偽らなくても良いのだ、弓に隠し事をしなくて済むのだと思った。きっと、心の片隅で弓を信じていたのだろう。こんな風に汚されてしまった自分を、弓は見捨てたりしないと。 けれども、弓が皐月に投げかけた言葉は皐月が期待していた言葉とは正反対だった。 「裏切り者! 男好きの淫乱! 薄汚い雌犬!」 そう蔑んで、弓はその教師から皐月を取り戻すこともせずに去ってしまった。その時に皐月は何かを失い、そして、何かが壊れた。 「皐月」 押し殺したような声は、決して三年前のあの教師の声ではない。聞きなれた、耳障りの良い低音だった。だが、なぜ、今呼ばれるのか分からない。もう一週間以上もその声を聞いていなかったのに。 「……皐月」 再び呼ばれる名前は、どこか甘さを含んで優しげだった。まるで恋人に呼びかけるかのようなその声に、皐月は軽い酩酊感を覚えた。けれども、薄暗闇の中、自分を拘束して見下ろしてくる瞳はやはり何の感情も伺わせない。それが皐月の逆鱗に触れた。 「ンだよ…話し掛けてくるなって言っただろ!?」 らしくもなく、荒げた口調で皐月が弓の腕を押し返しても、やはり、弓の表情に変化は現れなかった。ただ、冷静な瞳で皐月を見下ろしている。 傷つけたい。絶対に癒える事の無いほどの傷を、この目の前の男に与えたい。衝動的に皐月は思ったが、やはり、どうすればそれが出来るのか分からなかった。それなのに。 「……一つだけ、教えろ。そしたら、お前の言う通りにする」 弓は静かな声音で皐月に語りかけた。 「……お前は、アイツが好きだったのか?」 どこか、いつもとは違う、何かを戸惑うような、遠慮するような弓の態度に皐月は訝しげに眉を顰めた。言葉の内容も、すぐには理解出来なかった。 『アイツ』というのが誰を指すのか皐月には思い当たらない。そもそも、皐月が今まで好きになった相手など、たった一人しか存在しないのだ。 「…日吉(ひよし)は、お前が、日吉を好きで……お前から誘ってきたんだって言ってた」 弓の口から紡ぎ出される言葉の意味が皐月には理解できない。何を言っているのだろうと、はっきりしない頭のまま、ただ、ぼんやりと、無防備な表情で弓を見上げた。 ヒヨシ、とは誰か。どこかで聞いたことのあるような名前だ。確か、三年ほど前までは聞いたことがあったはず。思い出したくも無い、教師の名前。 「『でも、皐月は淫乱だし、俺じゃなくても男なら誰でも良いかもしれない。嘘だと思うなら、放課後、覗きに来てごらんよ』………日吉は、あの日、俺に言ったんだ」 卒業までこの関係を我慢するなら、誰にも言わないよとその教師は嘯いた。半年。たった半年の間ならば、耐えられると皐月は思ったのだ。高校に入ってしまえば、また、新しく弓との関係を続けられると。ただ一途に、それだけを拠り所にして皐月は危うい足元を支えて立っていたのに。 腹の底から湧き上がってくる笑いを堪え切れない。 始めは静かにクツクツと、そして次第に大きくなっていく笑い声に弓は珍しく、驚いたような顔をした。 おかしくておかしくて皐月は仕方が無かった。 この男は天才だと思う。 ……そう、自分を傷つけることにかけては。 「………それで? それで、お前はそれを信じたワケだ? 俺よりも、あの変態教師の言葉を?」 笑いながら皐月は言った。もう心はずたぼろだった。弓が容赦無く振り下ろす言葉のナイフにこれ以上は無いほど皐月は傷つけられて、もう、何もかもがどうでも良かった。だから、投げやりに真実を弓に投げつける。 「教えてやるよ。俺はあの変態教師に強姦されたんだよ」 笑うのをやめ、ただ真っ直ぐに弓の顔を睨み上げて皐月は言った。微かに弓の眉間に皺が寄るのが分かって、それが心地よかった。 「それをお前にバラされたくなかったら言うことを聞けって脅されて、アイツの玩具にされたんだよ。俺はお前が好きだったからお前にだけは絶対に知られたくなかった。だから」 だから、あの男とセックスしていたんだと皐月が淡々と告げると、弓の表情は隠しようも無くはっきりと歪んだ。 皐月の中には今やはっきりとした手応えがあった。嗚呼、自分が求めていたのはこれだったのだとようやく皐月は安堵する。 今、自分は、確実に弓を傷つけている。手にしたナイフは弓の内部に明らかな傷を負わせているのだ。何だ、こんな簡単なことだったのかと皐月は拍子抜けするほどだった。 弓を傷つけるには、ただ、真実を告げれば良かっただけなのだ。そして、もっと傷つけるには。 「俺はお前が好きだった。今でも好きだよ? お前が、一番好きだ」 そう、ただ、真っ直ぐに愛を語ってやればいい。それが証拠に、弓の顔は今にも泣き出してしまいそうなほど歪んでいる。何の憐憫も感じることなく、皐月はそれが心地良い、と思った。 「俺はお前が好きだ………でも」 手に取るように分かる。見えない弓の心臓の位置が。手にしたナイフでそれを切り刻んでやれば良い。 「でも、絶対に、お前だけは許さないよ?」 にっこりと綺麗に笑って皐月は言った。 確実に、弓の心臓を突き刺した手応えがあった。 |