novelsトップへ 壊れた時計@へ 『005:釣りをする人』へ

『053:壊れた時計』A ………………

 同窓名簿で調べた住所は、啓の知っている住所と代わりが無かった。高校時代、何度も遊びに行った家だ。見覚えのある道を、懐かしさと新鮮さと両方を感じながら辿る。全く変わらないような店舗もあれば、見知らぬビルが建っている通りもあった。
 なんという事は無い、程々の中堅都市。都会過ぎず、田舎過ぎず。その中途半端さが過ごしやすいと地元に残るものもいれば、こんな田舎は嫌だと出て行く人間もいる。結果的に啓は出て行った人間になってしまったが、最初からそのつもりだったわけではない。基に会うことが怖くて、実に消極的な理由から東京で就職したに過ぎなかった。だが、結果的にはそれが幸いしたと思っている。自分のような特殊な性癖をもった人間は、むしろ都会のほうが生きやすい。
 決して軽いとはいえない足取りで基の家までの道を辿り、すぐそこに雑貨屋兼住居になっている家が見えるところまで行き着いて、啓の足はぴたりと止まってしまった。
 たまたま近くまで来たから。懐かしくて。顔が見たかったから。
 気軽にそう言って店に顔を出す予定だったのだが、唐突に訪問しに来た啓に、基がどんな反応を示すのかを想像するとどうしても一歩が踏み出せない。少し離れた場所からじっとその雑貨屋を見つめている啓を、時折、通り過ぎる人が胡乱げな眼差しで見たりした。けれども、やはり、啓の足が動くことは無かった。

 啓の頭を過ぎるのは、あの日の基の青褪めた顔と、驚愕に見開かれた目と、困惑に震えていた唇だけだった。

 春になれば、都会と地元。離れ離れになってしまうのだ。自分から離れることを選択したくせに、その時の啓の胸は寂しさと感傷でいっぱいだった。最後に一度くらい、と思い、放課後の教室でうたたねをしていた基に軽く口付けたのだ。今にしてみれば実に他愛の無い、邪気の無い純情な悪戯だったと思う。
 けれども、その時の啓には一大事だったのだ。何事にも神経質に、そして過敏になってしまう繊細な年頃だった。あまりに無防備で傷つきやすい。唐突に目を開いた基に気の利いた冗談を言って誤魔化すことが出来ないほど。
 思い出すたび、恥ずかしさにいたたまれなくなるような拙い初恋。けれども、そこには確かにひたむきな純粋さがあったはずだ。もう、長いことそんな気持ちを忘れてしまっていたと、啓の胸は鈍い痛みを訴える。もう一度、あんな風にひたむきな純粋さで誰かを好きになることが出来るだろうか。そう考えて、ふと浮かんだ顔はなぜか柴田の顔だった。なぜ、ここで、彼のことを思い出すのか、と啓はうろたえる。
 つい先日、難無く造園施工の資格試験に受かった啓に、柴田は優しい目をむけて、よくやったと労ってくれた。それから、
「あとは、ガラクタ処分して来い」
 と、やはり意味深な言葉を掛けて薄い笑みを浮かべていた。
 そんな事を思い出しながら、そうして立ち尽くしていると、不意に店から小さな子供と、それよりも少し大きい子供と、エプロンを掛けた男が一人出てきた。楽しげに、笑いながら手を繋いでいるところを見ると、恐らく親子なのだろう。
 啓は、はっとして、それから自分でもおかしくなってしまうほどドキンと胸を高鳴らせた。親子らしき三人連れは、手を繋いで啓の方に歩いてくる。少しずつはっきりとしてくるその父親らしき男の顔は、見間違うはずも無い。10年の年を経て、完全な成人の男にはなっていたが、その面影はまったく変わっていなかった。
「……基」
 思わず名前をつぶやいた啓に、男はふと顔を上げ、驚いた表情をした。それから、啓が思いもしなかった満面の笑みを浮かべて見せた。
「啓! !」
 そう呼びながら手を振る姿は、10年前と全く変わらない。啓は自分が10年前に舞い戻ってしまったかのような錯覚に一瞬だけ陥った。
「とーちゃん、何?」
 けれども、傍らの小さいほうの子供が言葉を発したせいで、すぐにはっと我に返った。
「あー、いやー、お前じゃなくてだな。このオジサンも啓って名前なんだよ」
 基は苦笑いを浮かべながらバツが悪そうに頭をボリボリと掻いてみせる。それがおかしくて、啓は思わず噴出してしまった。
「おまえ、オジサンはないだろう。まだ27だぜ? 俺がオジサンならお前もオジサンだっつーの」
 自然と口を突いて出た軽口は、やはり10年前と少しも変わりない。
「とーちゃん。この人、もしかしてとーちゃんの親友だったケイ?」
 今度は大きいほうの子供がそう言うと、基はやはりバツが悪そうに苦笑いを浮かべた。
「や、まあそうなんだけど。お前ら、ちょっと家に帰ってろよ」
「えーー! ! マンガ買ってくれるつってたじゃん!」
「後で買ってやるから! !」
 基が強引に子供二人の背を押すと、二人はブーブーと文句を言いながらも雑貨屋の中へと戻っていった。その後姿を見守る基の目は穏やかで優しげだ。良い父親なのだろうと、啓はなんのわだかまりも無く思った。あるのは、微笑ましいという暖かな感情だけだ。そのことが啓を酷く安心させて、同時に嬉しくもあった。
 基が結婚をして、すでに父親になっていることは少し前に知ったばかりだった。だから覚悟はしていたが、、実際それを目の当たりにしたとき、自分がどんな風に感じてしまうのか啓はずっと不安だったのだ。
「子育ても大変そうだなあ」
 作ったわけではなく、明るい声で啓がそう言えば、基は目を細めて、
「まあなあ。可愛いけどな」
 と答える。
「いつ結婚したんだよ?」
「5年前。専門学校卒業して2年後だったかな」
 それを聞いても啓の胸は決して痛むことは無かった。湧き上がってくるのは暖かな懐かしさだけだ。胸を切るような切なさは啓を苛むことは無い。今まで会いに来なかったことを、激しく後悔してしまうほどに。
「啓は? 結婚はまだか?」
 さりげなく尋ねられた質問に、啓は躊躇無く首を横に振る。
「いや。してない。てか、俺、ゲイだし。一生結婚はしないだろ」
 あっさりと口にした言葉に、基は、微かな戸惑いも見せずに、
「ああ、そうか」
 と相槌を打ってのけた。それが妙におかしくて、けれども嬉しくて啓はくつくつと笑ってしまった。つられるように基も喉の奥で楽しそうに笑う。そして、啓はその時に唐突に気がついたのだ。
 啓の恋はとうの昔に終わっていたことに。後生大事に抱えていたものは、やはり壊れて止まったままの時計でしかなかったのだと。
 だが、それと同時に、基と啓が親友であると言う事実は、今までもずっと細く続いていたことなのだとも気がついた。それが証拠に、啓を見つめる基の目は何も変わってなどいなかった。嗚呼、そうだ、こんな基だからこそ、自分は惹かれたのだと啓は思った。
「元気そうで良かった。会えて嬉しいよ」
 衒いも無く告白する基に、啓も素直に頷くことが出来た。
 基に会ったのならば、何を話そうかとずっと悩んでいたのが馬鹿馬鹿しかった。何を話す必要も無かったのだ。基の中で啓の存在は、きっと親友のままなのだろう。もしかしたら、下の子の名前は漢字も啓と同じなのかもしれないと思ったが、敢えてそれは聞かなかった。
「でも、急にどうしたんだよ?」
「うん? いや、何となく基の顔が見たくなった」
 詳しいことは何も語らず、ただ啓がそう答えれば基は
「そうか」
 とあっさり納得したようだった。けれども、一呼吸おいて、改まったようにじっと啓の目を見つめてくる。
「…辛い事でもあったか」
 そして、そんな風に啓のことを心配した。それが、やはり嬉しくて、啓は思わず笑みを浮かべてしまう。腹のそこから自然に湧き上がってきた穏やかな笑みだった。
「別に無い。今度、新しい会社に移るんだ。仕事はやりがいがあるし、充実している」
 基は、その答えに安心したように息をついたが、不意に真剣な表情で、
「啓…お前、今、幸せなのか?」
 と尋ねてきた。
 啓は少し考えて、
「ああ、多分」
 と答える。基は表情をゆるめて、
「そうか」
 と嬉しそうに、優しそうに笑った。それだけだった。それ以上、語ることは無い。言葉になどしなくとも、伝わるものが有り余るほどあった。
「今度、ゆっくり遊びに来るよ」
「おう。今度、カミさんにも紹介する」
「ありがとう」
 そう言ってあっさりと啓は踵を返し、短い再会を終わらせたが何の物足りなさも、寂しさも感じてはいなかった。基の言葉の通りだ。会いたくなったのならば、こうして会いにくれば良いだけの事だ。自分と基は親友なのだから。
 啓の胸のうちには、なんとも表現しようの無い爽快感と暖かさが満ちていた。来たときとは正反対の軽い気持ちで啓は来た道を戻る。



 いつでも心の片隅に残っていたしこりは、綺麗に溶けてなくなった。
 もう一度。
 もう一度、真剣に誰かを好きになってみたいと、帰りの車窓に映る景色を眺めながら啓は無意識に微笑んだ。
 柴田との不毛な関係も清算して、新しい恋を見つけよう。そう決心してはいたけれど。



 それと同時に、なぜだか、酷く、柴田に会いたいと啓は思っていた。



 ***



「杉本。輪島工業の図面出来上がったか?」
「はい。出来上がってます」
 啓は自分の席を立ち上がり、指示された図面を柴田に差し出した。遅くまで残業していたせいで、フロアには柴田と啓の二人しか残っていない。
 二人分の辞表は、既に会社に受理されていた。同じ業種で旗揚げする柴田に会社はあまり良い顔をしなかったが、特に騒ぎ立てるつもりも無いらしい。ただ、最後まで残務処理をしていくようにときつく言い含めていたせいで、こんな退職間際まで残業に追われている。
 けれども、啓は然程疲労もストレスも感じていなかった。あの日、基に再会して以来、随分と心が軽くなったせいか仕事も調子が良い。充実感も感じる。ただ、一つだけ、柴田に言い出せずわだかまっている決心を除けば。
「…問題ないな。これはこのまま上に上げておくから、もう上がりでいいぞ」
「柴田課長は?」
「俺も上がる。…この後は都合が悪いか?」
 いつものように、さらりと誘われて啓は少しばかり躊躇した。何と断っていいか分からなかったからだ。けれども、いつかははっきりと告げなくてはならないのだ。
 啓は意を決して首を横に振る。
「俺は、もう、柴田課長とは寝ません」
 落ち着いた、はっきりとした口調で啓が告げると、柴田は意外そうに目を見開き、それから器用に片眉だけを上げて笑って見せた。
「なぜ? 飽きたか?」
「いいえ。そうではなくて…壊れた時計をきちんと捨ててきたので…もう少し、本気で誰かを好きになってみようかと」
 抽象的な言葉で啓が答えると、柴田は何か思い当たるところがあったのだろう、その言葉自体には何の疑問も投げかけることなく、
「なるほど」
 とあっさりとした相槌を打った。それから、ニヤリと人の悪そうな、それでいて男の色気に満ち溢れた笑みを浮かべた。啓が初めて柴田の本性を知った時と同じ笑顔。
「それなら、相手は俺にしろ」
 そして、そんな事を言う。啓は、最初、何を言われているのか分からずにポカンとしてしまった。だが、言葉の意味を理解すると、自分がからかわれているのだと、ムッとした。牽制するように軽く柴田の顔をにらみ上げてみたが、少しも堪えた風が無い。その図々しさに呆れながらも、一矢報いなければ気が済まず、
「良いですよ。課長が今すぐ離婚してくれて、俺と結婚してくれるなら」
 と切り返す。そこで、柴田が参った、俺が悪かったと笑う算段だった。
 確かに、啓の予想通り柴田は笑った。笑ったが、参ったとは言わなかった。俺が悪かったとも言わなかった。代わりに、いともたやすく、
「分かった」
 と答えて、啓が見ているすぐそばで左手の薬指の指輪を外すと、カランと不燃物用のダストボックスに放り投げてしまった。唐突な柴田の行動に啓は呆気に取られる。ポカンと間抜けにも口を開いている啓を見つめながら柴田は声を立てて笑った。まるで、悪戯に成功した少年のような笑顔で。
 それは初めて見る柴田の顔で、啓はますます呆然とする。作らない、素のままの柴田の顔はどこか子供じみていて、それでいて温かみを感じさせた。それが意外だった。
「もっとも、今まで一度たりとも俺は結婚なんぞしたことはないがな」
 柴田は笑いを浮かべたまま、そんな事を言う。言われた言葉がやはり理解できずに、啓は間抜けな表情を晒したまま、
「え?」
 と問い返した。何が起こっているのか展開の早さについていけない。柴田の言っている言葉が頭に上手に入ってこない。だが、そんな啓を置き去りにしたまま、尚も柴田は言い続けた。
「俺は嘘は言ってないぞ。ただの一度も『結婚している』なんて言ったことは無い」
 そう言われてみれば、確かにそうだと啓は思い当たったが、やはりすぐには事情が整理できない。結婚がカモフラージュだったのではなく、指輪がカモフラージュだったのだろうかとようやく思い至ったときには、啓は柴田に抱き竦められていた。ホテルのベッド以外で抱きしめられることなど、これが初めてだった。しかも、ここは会社のフロア内なのに。だが、混乱する啓を他所に、柴田は追い討ちの手を緩めなかった。
「で? 後は、明日区役所に行って養子縁組をしてくれば良いんだな?」
「え? ……あの? …柴田…課長?」
「お前が言ったんだろう? 責任は取れよ?」
「え? でも…あの…冗談…なんですよね?」
「いや、至って真面目だぞ」
 言葉の通り、柴田は酷く真剣な表情で啓を見つめていた。抱きしめる腕の強さは決して緩められることは無い。むしろ却って強さを増したようだった。
 嘘から出た真。そんな言葉が無意味に啓の頭を駆け巡る。
 呆然としたまま啓は柴田を見上げたが。













 柴田は、
「五年間、俺を苦しめ続けたお返しだ。お前も少しは困れ」
 と磊落に笑った。




novelsトップへ 壊れた時計@へ 『005:釣りをする人』へ