novelsトップへ 『053:壊れた時計』Aへ

『005:釣りをする人』 ………………………………

 ※『053:壊れた時計』の続編です。そちらを先にお読みください。



 まだ、随分と早い時間のはずなのに空が突き抜けるように青い。真夏の空だ。水平線の向こうには微かに張り出してきた入道雲も見えた。その景色だけで、何となく気持ちが浮き立つような気がして、杉本啓(すぎもとけい)は無意識に足を止め、ふっと薄い笑みを漏らした。
 何だか、小さな子供の頃に戻ったような気がする。遠足の日の朝、確かこんな気持ちになったなと穏やかな波を立てる海をじっと見つめていると、
「啓。早く来い」
 と前方から声を掛けられた。名前を呼ばれるようになって早一ヶ月近くが経つが、未だに啓は慣れることが出来ない。呼ばれるたびに、ドキンと胸が高鳴って、まるで少女漫画の中に出てくる女の子のような顔をしているのではないかと不安になる。自分らしくない。実に自分らしくないとは思うのだが、制御できないのだから仕方が無い。
 ふと、視線を前に戻すと、どこかからかうような、それでいて優しさが滲み出ている笑顔を浮かべ、柴田郡司(しばたぐんじ)が立ち止まって啓を待っていた。その手には長い竿が握られている。服装は、普段のスーツ姿に比べ格段にラフで、前髪もセットしていないので実際の年齢よりも若く見える。それが新鮮で、それにすら啓は緊張してしまう。自分のことを馬鹿みたいだと思いながらも、どこか高揚する気持ちを啓は抑え切れなかった。
「この辺でいいだろ」
 そう言って柴田は簡易の椅子を取り出すと啓のために設置してくれた。それから手にしていた竿の短いほうを渡される。
「初心者はサビキが向いてるからな。とりあえず、これで釣ってみろ」
 ざっくばらんな説明とともに柴田は啓を促した。
「でも、意外でした」
 椅子に座り、説明されたとおりに餌を仕掛けて釣り糸を海に放り込んでから、啓はポツリと漏らす。
「何がだ?」
「…柴田課長に、こんな趣味があったなんて」
「もう、俺はお前の課長じゃないぞ?」
「…柴田『さん』に、こんな趣味があったなんて」
 柴田の目には明らかにからかいの色が浮かんでいる。自分を動揺させて楽しんでいるのが嫌でも分かるから、啓はやけくそのように強い口調でそう言い直したが、柴田はやはり楽しそうに笑って、
「色気の無い呼び方だな、いつになったら名前で呼んでくれるやら」
 と、啓をいじめた。

 自分たちがこういう関係になった経緯を、啓は決して悪いものだとは思っていないけれど、少しばかり据わりが悪く感じてしまうのも事実だ。そもそも、五年間もセフレとして、職場の上司として付き合ってきたのだ。それを今日から恋人として振舞いなさいと言われても、そうできるほど啓は器用ではない。柴田もまた、啓に、そんな器用さを求めてなどいないだろう。そうではなく、恐らく、柴田は『浮かれている』のではないかと啓はこっそりと思っている。そんな柴田さえ啓には新鮮で、いつでも困惑と浮き立つような気持ちがないまぜになったような気持ちにさせられている。

「前の会社でも釣りサークルに入っていて、社長と一緒に釣りに行った事もあったんだがな」
「ええ? そうなんですか?」
「ああ。まあ、どっちかって言うと幹部のジジイ連中ばっかりのサークルだったからなあ。若い奴らは知らないみたいだったけど」
 若い連中、などと柴田は言うが、実際、柴田と啓は五つしか年が離れていない。だが、器の大きさや、仕事の才能を考えると、それ以上に年上のような気がしてしまう。いつかは、肩を並べて隣に立つことができるのだろうかと啓は考えて、それから、今は休暇なのだからと、その考えを振り払った。
「柴田…さんと釣りってのが……アウトドアってのがイマイチ結びつかない」
「そうか? じゃあ、どんな趣味なら良いんだよ?」
「うーん…こう、休日にはブランデー片手に洋書とか読んでそうなイメージだった」
 啓が素直に以前抱いていたイメージを告げたら、柴田は声を上げて笑い転げた。
「どんな奴だよ」
「だから、そういうイメージだったんです。大体、そういう男を演じてたのは柴田さんじゃないですか」
 笑われたことが少し恥ずかしくて、啓は微かに頬を染めて、ムスッとした表情で反論した。
「まあなあ。そうでもしなきゃ、お前が鬱陶しがると思ってたからな」
 柴田は独り言のように呟くと、不意に目を細め、優しそうな眼差しで啓をじっと見つめる。そんな視線を向けられると、啓はいつでもいてもたってもいられない気持ちになってしまうのだ。反則だ、詐欺師だ、インチキだ、と訳のわからない罵声を頭の中で喚きながら、それでも、平静を装ってじっと竿の先を睨みつける。

 実際、『恋人』と呼ばれる関係になる前の五年間、柴田は実にドライで、クールな男を演じていた。啓に対して執着など見せたことが無い。だが、啓がそう言えば、柴田は腐ったような表情で、無理にそういう態度を取っていたのだと言った。本当は、いつだって同じ部屋で朝までいたかったし、休日だって一日中一緒に過ごしたかったのだと。
 そして、それを取り戻そうかとするように柴田はとにかく、この一ヶ月、啓と一緒に過ごしている。いずれは一緒に暮らしたいと言われて、戸惑いながらも啓は微かに頷いた。
「引いてるぞ」
 その時の事を思い出して、ぼーっとしていたのだろう。不意に横から声を掛けられて啓はハッと顔を上げた。
「あっ? えっ?」
 釣り糸がクイックイッと引っ張られているのに気がつき、啓は慌ててリールを回す。引き上げてみれば、少し小ぶりの魚が二匹、見事に針を銜えていた。
「…釣れた」
 初めて釣り上げた魚に感動して、啓がじっとビチビチと跳ねている魚を見つめていると、何がおかしかったのか柴田は声を立てて嬉しそうに笑った。
「鯵だな。そう大きくは無いが食べれるだろう。家に帰ったら叩きにしてやる」
 それを聞いて啓もつられたように笑った。
 柴田の料理の腕が玄人はだしだと知ったのもここ一ヶ月のことだ。聞けば、柴田の実家は小さな飲み屋で、父親が料理人だという話だった。小さな頃から父親の見よう見まねで、遊び半分で包丁を持っているうちに、気がつけば魚を丸々一匹さばけるようにまでなったらしい。
 本当の柴田を知っていく上で、やはり変わらなかった印象は、こういう所だった。現実的で浮ついていない。口先だけのことを決して言わず、平凡な日々の生活に幸福を見出そうとする。柴田のこういうところが酷く好ましい、と啓は思っていた。恐らく、柴田がこういう人間でなければ、啓はけっして最初の一歩を踏み出そうとはしなかっただろう。
 柴田にも何度か指摘されたことがあるが、啓はとても臆病なところがある。傷つくことを恐れて、人と深く関わることをずっと避けていた。それは今でも変わらない。けれども、なぜか柴田の横は安心できる。信頼しても良いのだと思えるのが不思議だった。

 慣れた手つきで釣り針から魚を外し、バケツに放り込む柴田の左手に光るものを見つけ、啓は、また、予想外に胸を跳ね上がらせる。カモフラージュにしていたという左手の薬指の指輪を、柴田は一度あっさりと捨て、そして、ある日突然、新しいものを買ってきた。それも同じものを二つ。
 当然のようにその一つを渡されて、戸惑いながらも啓はそれを受け取った。だが、未だにそれを身につけることが出来ない。柴田を信用しきっていないのではなく、ただ、自分の置かれた状況にすぐに慣れることが出来ないからだ。
 そんな啓を柴田は理解しているのだろう。決して啓を急かすことなく、ただ、じっと穏やかな態度で待ち続けてくれていた。
 無意識のうちに、ただ、じっと柴田の指に光る指輪を見つめていたのだろう。柴田は微かな苦笑を漏らし、
「そんなに見るくらいなら、お前もすればいいだろう」
 と言った。言いながら、いつの間にか引いていた自分の竿のリールを回し針を引き上げる。その先には、啓とは比較にならないほど大きな魚が4〜5匹掛かっていて、啓は呆気に取られた。同じ場所で同じ条件で釣っているはずなのに。
 だが、柴田はそれをさっと検分すると、その中の何匹かを再び海に逃してしまった。
「せっかく釣ったのに…なんで逃がすんですか?」
「うん? 食っても美味くない魚なんだ。海釣りの醍醐味は釣った魚を食べることだからな」
「へえ…そんなもんなんですか?」
 と啓が顔を上げれば、悪戯を思いついた子供のような表情を浮かべている柴田の視線とぶつかった。こんな表情も、ここ最近知った顔だ。こんな顔をしているときの柴田はあまりよろしくない。大抵、啓が困ってオロオロするか、顔を赤くするようなことを言う。
「そんなもんだ。まあ、俺は気が短いほうじゃないし待つのには慣れてるがな。釣った魚は、最後には骨まで綺麗に平らげる主義だ」
 だから、と柴田は啓が驚く暇も無いほど素早い仕草で啓を抱き寄せるとその唇に触れるだけのキスを一つ落として見せた。早朝の海辺、人影はまばらだといっても、同じように海釣りを楽しんでいる人たちがちらほらと見える。まさか、見られてはいないだろうかと啓は焦ったが、柴田はどこ吹く風だ。
「ちゃんと覚悟しとくように」
 そして、そんなことを言う。
「覚悟?」
 一体何の覚悟だろうかと啓が首を傾げると柴田は声を立てて磊落に笑った。そして、トンと啓の胸元の辺りを人差し指で突く。
「俺の釣った魚」
 そうからかうように柴田が言った言葉を啓はしばし考えて、意味が分かった瞬間に、案の定、真っ赤になった。



novelsトップへ 『053:壊れた時計』Aへ