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『048:熱帯魚』G ………………
 何度も来た事のあるはずの家の前で、比呂は何分もの間ただ立ち尽くしていた。インターフォンを鳴らそうとしては手を上げ、躊躇して下ろすという馬鹿馬鹿しいことを何度も繰り返しながら。
 すでに夕暮れを過ぎた通りは薄暗く、時折帰宅途中のサラリーマンが不思議そうに比呂を見ながら通り過ぎていく。それを遣り過ごしながら、比呂は最後に大きな溜息を一つ吐くと、くるりと踵を返してその場を立ち去ろうとした。
 しかし。
「…比呂?」
 後ろから、戸惑いがちに声を掛けられて比呂はギクリと体を強張らせた。聞き覚えのある自分の名を呼ぶ声。振り返るべきか、そのまま走り去るべきか逡巡しているうちに、すぐに足音が近づいてきて、
「こんなトコで、何やってんだよ」
と、不機嫌そうな声を掛けられてしまった。比呂はノロノロと振り返る。けれども、その顔を見上げることはできずに、恭司の胸の辺りをぼんやりと見詰めた。
「あの…は、話があって」
「…話? 何の?」
 顔が見えないその声は、どこか冷たく聞こえて比呂はスッと背中を冷たいものが滑り落ちるのを感じた。拒絶されている、と思うと喉が詰まって言葉が出ない。何を言えばいいのかわからずに、ただ、その場に俯いて立ち尽くしていると、頭の上で大きな溜息の音が聞こえた。
「…入れよ。こんな場所に突っ立ってても仕方ない」
 呆れたように言われて、比呂は声も出せず、ただ頷いただけだった。
 恭司の家の中に通されて、以前、いつものように見ていた水槽の隣のソファに座らせられる。けれども、恭司はその隣に座ることをせず、お茶でも出すつもりなのか台所に引っ込んでしまった。比呂は、その事に少しだけホッとして顔を上げる。大きな水槽をじっと見詰めれば、やはり色とりどりの綺麗な魚達が優雅に泳いでいた。比呂の好きな瑠璃色の魚も。この場所でこの魚達を見ているのが好きだった。数ヶ月前はこの場所に来るのは不本意なことだと思っていたハズで、魚を見に来ているだけだと自分に言い聞かせていた。その癖、この場所に来なくなる日が来るとは思っていなかったのだ。
 なんて傲慢だったのだろうかと比呂は酷く後悔する。今の恭司の気持ちはわからないが、もし祐の言葉が本当だったとすれば、比呂は恭司のコトを酷く傷つけたはずなのだ。
「冷たいお茶しかないけど」
 いつの間にかリビングに戻ってきた恭司に、グラスを差し出される。その行為に違和感を感じて、比呂は、そういえば以前はお茶など出してもらう暇もなく、ただセックスだけをしていたからだと思い当たった。それが何だか滑稽で、比呂は自嘲的な笑みを浮かべた。
「…何笑ってんの?」
「…お茶なんか出してもらうの、初めてじゃないかと思って」
 比呂がそう答えると、恭司はバツが悪そうに少しだけ顔を顰めた。
「…悪かったな」
 ぶっきらぼうに謝られて、比呂は大きく首を横に振る。自分が思っているより、この目の前の、一つだけ年上の先輩は不器用なのではないかと思った。もっとも、自分も大概内向的で人付き合いに対しては不器用だったが。
「で? 話って?」
 促す言葉はやはりどこかぶっきらぼうで、比呂は恭司が怒っているのかと思わず顔を上げる。けれども、目に入った恭司の顔は決して怒っているのでもなければ冷たいものでもなかった。どこか戸惑ったような、それでいて、傷ついて疲れたような表情だった。
 らしくない。全く恭司らしくない顔だと比呂は思った。ズキズキと胸の奥が痛む。無意識に制服の白いシャツの胸の辺りをグシャリと掴んで比呂は口を開く。喉はカラカラで、動悸が無意識に早くなっていた。
「俺、先輩に伝えたかったこと、ちゃんと伝えてなかった」
 一生懸命喉から絞り出した声は、緊張の為か酷く震えて掠れていた。本当は恭司の目を見つめたまま言わなくてはならないと思っているのに、どうしても顔を上げていられずに、俯きながら、
「俺、俺、先輩のことスキだって。ちゃんと言わなくちゃダメだと思って」
と小さな呟きのような告白を搾り出す。言い終わった時には、余りに動悸が激しくて、ドクドクと血液の流れる音が直に耳に聞こえるような気がした。
 けれども、恭司からの返事は何もない。胸元を握り締めている比呂の手は傍目から見ても震えているのがわかるほどだったが、恭司は気がついていないようだった。
 数十秒か、数分か。幾らかの沈黙の時間があったが比呂にはそれが一時間にも感じた。
「…それを、俺が信じると思ってる?」
 それが、本当に自分に向けられた声なのかと思うほど冷たい声を掛けられて比呂ははっと顔を上げた。自分を見下ろしてくる恭司の顔は完全に表情をなくしていて、感情の読めない冷たい顔になっていた。比呂は言葉を失って、思わず息を飲み込んでしまう。
「同じ口で、俺のことなんて好きじゃないって言ったのは比呂だろ?」
 淡々とした口調で事実だけを語られて、比呂は返す言葉もなかった。頭の中が真っ白になって、ただバカみたいに呆けて恭司の顔を見上げる。だが、無意識にその冷たい視線から逃れようと身じろぎした時にカサリと制服のズボンのポケットで音がして、不意に比呂は祐のことを思い出した。正確には、祐の『言葉』を。
 比呂は恭司の事が好きなんだろうと尋ねられて、確かに自分は頷いた。その気持ちだけは決して嘘偽りのないモノだったハズだ。嫌われたり拒絶されるのは仕方がない。けれども、自分の本当の気持ちをわかってもらえないのだけはイヤだと比呂は思った。
「…それは。最初好きだって言った時は本当に嘘ついてたから。でも、途中から本当に先輩のこと好きになって、でも、最初に嘘ついていたのがずっとどっかに引っ掛かってた。ちゃんと、嘘ついてたこと謝らなくちゃならないと思ってそう言った。でも。でも、今は本当に先輩のこと好きなんだよ。本当なんだよ」
 比呂が懸命に言い募ると、恭司は能面のようだった無表情を少しだけ崩して眉を顰める。どこか苦しいのを我慢しているような表情に、比呂はいたたまれなくなってしまった。
「…比呂は、祐が好きだったんじゃないのか」
 恭司に重苦しい声で尋ねられて比呂は必死に首を横に振る。祐には確かに憧れていたし、淡い好意を抱いていた。けれども、それは決して、今、恭司に抱いているような感情とは違うものだと比呂にはわかる。遥かに曖昧で、強さなど全くない感情だったのだ。
「違う。確かに泉谷先輩には憧れてたけど、倉持先輩に対する気持ちとは全然違う。違うんだよ」
 何とか自分の気持ちを伝えようと比呂は言葉を紡ぐが、上手に表現することができなかった。それもそのはずで、比呂は、今まで誰に対してもこんな感情を抱いたことがなかったのだ。
 恭司は比呂の顔をしばらくじっと見詰めていたが、小さく息を吐き出すと、抑揚のない声で
「…脱げよ」
と言った。比呂は何を言われたかわからずに、え? と呆けた顔をする。恭司はそれに苛々したように、
「脱げって言ったんだよ。俺のこと好きなら、ちゃんと態度で表せよ。でなければ俺のこと好きだなんて信じられない」
と冷たく告げた。数秒の空白の後、言葉の意味を理解して比呂は青くなる。サアッと血の気が失せたような気がした。いつか聞いたのと同じ言葉。けれども、初めて言われた時のような熱を恭司から感じ取ることはできなかった。どんなに言葉を尽くしても恭司には通じないのだろうかと、比呂は目の前が暗くなったような気がした。どうしていいのかわからずに、ただ呆然とする比呂に恭司は追い討ちをかける。
「できないのか? やっぱり、嘘なんだ?」
 嘲笑のような笑いを投げられて、比呂は真っ白な頭のままソロリと手を上げる。恭司の言葉に従わなくては、と思いながらシャツのボタンに手を伸ばしたが、指先は笑えるほど震えていた。それでも、後に引くことはできずにノロノロと一つずつボタンを外し始める。恭司は無表情のまま、それをじっと見詰めていた。
 頭の天辺から足の指の先まで、すっかり凍えて冷え切ってしまったかのように、感情も感覚も半ば麻痺したような状態で比呂が全ての衣服を脱ぎ終わると、恭司は今度は、
「その格好のまま、口でしろよ。得意だろ?」
と、バカにするように告げる。比呂は頭を殴りつけられたようなショックを感じたが、それでも、何か言い返したりする気にはならなかった。どうすれば恭司に自分の気持ちをわかってもらえるのか。とにかく、恭司の言うとおりにすればいいのか。それしか考えられずに、恭司の前にひざまずく。震えの止まらない手で恭司のズボンのジッパーを下ろして中からソレを取り出すと素直に口にした。
「…オマエ、セックスしてくれンなら、誰でもいいんじゃないのか?」
 しばらく比呂がそれを咥えていると、頭上から侮蔑の声が聞こえて、比呂は思わずそれを口から離してしまった。よりによって、恭司にそんな事を言われるなんて。比呂の胸はギシギシ痛んで、堪えようと思っても涙腺が壊れてしまったかのように涙が溢れてきて止まらなかった。
 もう、何をしても自分の気持ちがわかってもらえないなら仕方がない。嘘を吐いていた事の代償がコレだというのなら、比呂には、もうそれ以上できる事は何もないように思えた。両腕で顔を隠すようにしゃくり上げる。色々な感情が爆発して、比呂は抑えることができずに口を開いていた。
「ほ…本当にセンパイがスキなんだよ…そ…それだけなんだよ…どうしたらセンパイは、し…信じてくれるの? 俺は今まで誰かのこと、す…好きになった事ないから、どうしたらいいかわかんない…わかんないよっ…」
 子供のようにしゃくり上げながら比呂が喚くように言うと、不意に恭司は比呂の体を掬い上げて、ぎゅっと抱きしめた。
「…泣くなよ」
 困惑したような声で言われても、自分でも比呂は涙を止めることができない。恭司の胸に抱かれたまましばらくそうして泣き続けていると、少しだけ頭が冷静になってきて、今更のように比呂は祐に貰ったメモを思い出した。こんな、どうしようもない状況であんな紙切れが一体なんの役に立つのだろうかと半信半疑だったが、比呂は藁にも縋る思いで恭司の体をそっと押し返す。盛大に鼻を啜り上げてから、裸のまま先ほど脱ぎ捨てた制服のズボンのポケットからメモを取り出すと押し付けるようにそれを恭司に渡した。
「何?」
 訝しげな顔をしながら恭司はそれを受け取る。
「泉谷センパイから」
 祐の名前を聞いて、一瞬だけ恭司は面白くなさそうな顔をしたが、カサカサと音を立ててそれを広げてさっと目を走らせた。それから、驚いたように目を見開いて、すぐに脱力したように深々と溜息を吐き出した。
「…わかってんなら、最初から言えよ…」
 比呂に言うではなく、独り言を漏らすように恭司は呟くともう一度大きな溜息を吐いて、ふと視線を比呂に移した。その目はどこか困惑したような色を浮かべている。だが、先ほどのような冷たさは残っていなかった。
「…比呂。おいで」
 不意に優しい声で呼びかけられて、比呂は戸惑う。どうしていいのかわからずにその場でオドオドと立ち尽くしていると、やんわりと手首をつかまれて引き寄せられた。
「ん。もう、意地悪しないから」
 子供をあやすような口調で言われて、比呂はそのままストンと恭司の腕の中に閉じ込められてしまう。
「イッコだけ約束するなら、比呂の言うこと信じてもいい」
「…何? 何でも約束する」
「もう、絶対に嘘吐いたりしないって約束できる?」
「できる。嘘吐いたりしない。絶対に」
 不意に態度を変えてしまった恭司に驚きながらも、比呂は一生懸命頷きながら肯定する。嘘を吐いて、あんな思いをするのはもうこりごりだった。そんな子供っぽい比呂の仕草に、恭司は苦笑いを浮かべると自分の胸に比呂を押し付けるように強く抱きしめた。
「じゃあ、もう、絶対嘘はナシな。…比呂、俺のことスキって本当?」
「本当だよ」
「祐より?」
「泉谷センパイより。ずっと」
「じゃ、誰かを好きになったのは俺が初めて?」
「うん。初めて」
 尋ねられた質問に、一つ一つ素直に比呂が答えていくと、恭司はハアと何度目になるかわからない大きな溜息を吐いた。それから、
「それじゃ、やっぱり俺が悪モンじゃねーかよ」
と、比呂にはわからない言葉をポツリと呟く。どういう意味かと比呂が尋ねても恭司は困ったような苦笑いを浮かべただけで、答えてはくれなかった。ただ、
「比呂、今日は泊まってけよ」
と言われたので素直に頷いたが、その夜恭司はセックスはしないで、比呂を優しく抱きしめて眠っただけだった。
 比呂はどうしてもメモの中身が気になって何度も恭司に尋ねたが、結局最後まで答えてくれずに、比呂の目の前でそのメモを燃やしてしまった。
 真相が闇に消えてしまい、アレは本当に魔法のメモだったのだろうかと、高校一年の男子としてはどうかと思うようなことを真剣に考えた比呂だった。



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