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『048:熱帯魚』F ………………
 文化祭まで、残すところあと一週間。校内はいよいよ戦場の様相を呈してきた。寝不足と疲労で生徒会の面子も次第にハイテンションになってきている。些細なことで大袈裟に笑ったり小さな諍いを起こしたりと奇妙な雰囲気にはなっていたが、取り合えず準備は順調に進んでいる方なのだろう。大きな問題は発生していない。
 そんな中で、まるでそこだけ低気圧でも発生しているかのようにどんよりしているのが比呂と恭司だった。正直、お祭り気分が盛り上がりつつある時期に、そんなシケた顔をされるのは非常に迷惑だと周囲の人間は思っているのだが、二人とも仕事だけは確実にこなしているので文句を言ってみようもない。
 結局、我慢しきれずに貧乏くじを引くことになったのは生徒会の長である祐だった。

「比呂、ちょっといい?」
 放課後の隙間の時間。たまたま、生徒会室の中に比呂と祐の二人が取り残されている時に祐は比呂に話しかけた。はい、と返事をしながら比呂は祐の前の席に腰を下ろす。てっきり仕事の話だと思っていたが、祐の口から出て来た言葉は、
「あのさ。そろそろ恭司と仲直りしない?」
という全く関係のない話題だった。比呂は、何と答えていいのかわからずに俯き黙り込んでしまう。その反応をどう捉えたのか、祐は苦笑いしながら更に続けた。
「恭司のアホが何しでかしたんだかわかんないけど、もう、比呂許してやらない?」
 そう言われて、比呂は困惑したように顔を上げた。許すも許さないもない。怒っているのは恭司の方で、許してほしいのは比呂の方なのだ。けれども、やはりそれをどう説明していいかわからずに比呂はただ力なく頭を横に振っただけだった。祐は困ったように更に苦笑を深める。
「俺、あんまり他人の痴話喧嘩に首突っ込むの好きじゃないんだけど。あのさ、喧嘩の理由、聞いてもいいかな?」
 少しだけ優しい表情と口調で尋ねられて、比呂はすっかり弱くなっている心を刺激されてしまった。目の前の人は、苦笑している顔でもやっぱり清廉潔癖で比呂が憧れていた人そのままだった。衝動的に、比呂は祐に全てを懺悔したい気持ちになって、じっと祐の顔を見上げ、訥々と今までのことを正直に話し始めた。
 生徒会に入り、祐に憧れていたこと。偶然、祐と恭司の会話を聞いて酷く傷ついてしまったこと。二人の仲を邪魔してやろうと思い、恭司に嘘の告白をしたこと。
 祐の巧みな誘導尋問に引っ掛かり、最初は体だけの関係だったのに、唐突に恭司がセックスをやめたことや、次第に優しくされることが苦しくなってきたことまで馬鹿正直に話したら、祐は間違って酢でも飲み込んでしまったかのような奇妙な顔をした。その表情を見て、比呂は以前抱いていた疑惑を思い出す。不安になって、
「…もしかして、泉谷先輩、怒ってますか?」
と尋ねると、祐は珍しく呆けたような顔をして、
「え? 何で?」
と尋ね返した。
「だって…もしかして、泉谷先輩と倉持先輩、付き合ってたんじゃ…」
 比呂がそう問えば、祐は目を見開いて絶句した後、急に大声を上げて笑い始めた。
「比呂…勘弁してくれ。ありえない、絶対、ありえねーって! つーか、それ聞いたら恭司、気絶するワ」
 ゲラゲラと腹を抱えながら、祐はそんな事を言う。
「だって! だって、泉谷先輩、俺みたいなのは好きじゃないって。倉持先輩みたいなのが好きだって言ってたじゃないですか!」
 笑われたことが恥ずかしくて、顔を赤くしながら比呂が一生懸命訴えると祐は目尻の涙を拭いながら、
「あー! 言った言った!」
と肯定した。ほら、やっぱり、と比呂は思ったが、それに続いた言葉は全く予想もしないとんでもないものだった。
「や、それは体型とか顔の話だって。俺は、比呂みたいな華奢で綺麗なタイプはどっちかってーと苦手なんだよ。ガタイの良い、男っぽいタイプをヒーヒー言わせンのが好きなの。そもそも、俺も恭司もバリバリのタチだから、付き合うなんて無理。ぜってー無理」
 まだ笑い足りないのか、腹を抱えたまま祐は言う。比呂は、祐のそんな崩れた態度や表情を見るのが初めてで、しかもそれ以上に祐の言った言葉があまりに衝撃的で思わず黙り込んでしまった。本当にこれがあの祐だろうかと黙ったままマジマジと見詰めたが、祐はやはり笑い続けているだけだった。
 今まで抱いていた祐のイメージがガラガラと音を立てて比呂の中で壊れていく。そういえば恭司のことも最初は先入観と偏見で誤解していたのだと思い当たり、『清廉潔癖』などという言葉のあてはまる人ではなかったのかもしれないと、少しばかり認識を改めた。だが、憧れていたその姿が壊れたからといって、比呂ががっかりしたり傷ついたりすることはなかった。祐に対する好意が失われたりもしない。その事が比呂自身にも少しだけ意外だった。
「あ、そうそう。それはタイプの話だからな。後輩としては俺は比呂のことカワイイと思ってるし、同じ生徒会の役員として信頼もしてる」
 ようやく笑いが収まったのか、祐は優しい笑顔に戻り、そんな風に言葉を付け足した。それから、比呂にその先の話を促す。比呂は、戸惑いがちに話を続けた。恭司に自分がついた嘘を告白したら恭司が怒ってしまったこと、それ以来、自分に対する態度が変わってしまったこと。そして、今になって自分が恭司を好きになってしまったこと。本当はそこまで自分の感情を吐露するつもりはなかったのだが、祐は誘導尋問があまりに上手く、比呂は言わなくてもいいことまで全て話す羽目になった。嘘を告白する前に比呂から誘ってセックスしただなどということまで。
 最後まで話が終わると祐は両手で顔の下半分を覆いながら、大きな溜息を一つ零す。
「いやはや、ナンつーか。…あのさ、一個だけ確認してイイ?」
「はい」
「比呂ってもしかして、誰かと付き合うの恭司が初めてだった?」
 どこかで聞いたことのある質問だな、と思いながら比呂は素直に「はい」と頷く。
「じゃあさ、もしかして、セックスしたのも恭司が初めてとかいう?」
 それも聞いたことのある質問だなと、既視感を感じながらやはり比呂は「はい」と頷いた。するとなぜか祐は
「マジか〜…つーか、それ詐欺だろうがよ」
と盛大な溜息をつきながら比呂にはよくわからない言葉を吐き出した。脱力するように頭を抱え込みながら、
「その顔で天然ってありえねー、絶対ありえねーって」
と更に続ける。祐が何を言いたいのか比呂には全く分からず、キョトンとした顔で祐を見ていると、やっぱり祐は独り言のように、
「普通、その顔だったらオトコ振り回して楽しむ小悪魔系だと思って当然だろ」
とわからないことを言った。それから、不意に襟を正すように体を起こし、比呂に向き直る。
「もしかして、もしかしなくても、比呂、スキだって言った日に恭司にヤられちゃったとかいう?」
 いきなり際どい質問をされて比呂は頬を微かに赤く染める。からかわれているのかと思い、一瞬返事を躊躇したが、ことのほか祐は真面目な顔をしていたので小さく頷いてみせる。
「結構、恭司強引だったりした?」
「…ちょっとだけ。…怖かったけど、嘘ついてるってバレたら困るって思って」
 顔を赤くしたまま俯いて比呂が答えると、祐は盛大に溜息をついた。
「うわー。そりゃ恭司大チョンボだって。サイアク」
 大袈裟に頭を抱え込んで祐は呟く。それからおもむろに顔を上げてじっと比呂の目を見つめた。
「あのさ、別に恭司の味方するワケじゃないんだけどな」
「はい?」
「結構前から恭司のヤツ比呂に惚れてたんだけど」
「え?」
 思いもよらぬことを言われて比呂は俯いていた顔を思わず上げてしまった。そんな比呂の心底驚いたような表情を見て、やはり祐は複雑そうに苦笑する。
「うわー比呂、お前マジで天然だわ。あんだけあからさまにチョッカイかけられてたのに気がついてないってある意味すげー。天然記念物並み。いや、俺つい最近まで比呂って恭司振り回して楽しんで、わざとそっけない態度とってるんだと思ってたんだけど。単に気がついてなかっただけなんか。いや、外見で人を判断しちゃいけませんって教訓になるワ」
 笑ったまま祐はそう独り言のように零すと、比呂の頭をクシャリと撫でる。
「ま、それは良いとして」
 祐は、両肘を机の上について顎の下で手を組みながら、優しげな笑顔を比呂に向けると、
「比呂は、今でも恭司のこと好きなんだろ?」
とあっさりとした口調で尋ねた。比呂は、戸惑いがちに頷き、それから何となく祐の顔を見ていられなくて俯いてしまう。
「じゃあ、ちゃんと恭司と話してこいよ」
「でも…倉持先輩、怒って俺のこと避けてる」
「じゃ、このままでいいのか?」
「良くなんかない…けど」
 けれども、どうしてみようもない、と比呂は思った。恭司に拒絶されるのは怖い。以前の恭司の感情はともかくとして、今は、もう、比呂を憎んで嫌っているかもしれない。それを知るのは本当に怖かった。
「あー、何か、初恋に思い悩んでる中学生の相手してるみたいだなあ」
 そんな比呂の煩悶をどう捉えたのか。祐は苦笑いしながらそんな事を言った。それから、カサリと一枚のメモ用紙を取ってくると、そこにサラサラと何かを書き連ね、それを四つに畳んで比呂に差し出した。
「何ですか?」
「ん? とりあえず、恭司ンちに行ってきな。会長命令。異議は認めないよ。で、本格的にこじれたら、恭司にこのメモ見せろよ」
「何のメモ?」
「ヒミツ。比呂は見ちゃダメな。ま、騙されたと思って行ってこいよ。ダイジョウブだって。何かあっても、それ魔法のメモだからさ。万事解決」
 ケラケラと軽く笑いながら祐は席を立ち、さっさと自分の机に戻ってしまった。それから、すぐに自分の仕事に戻ってしまう。こうなってしまうと、一介の役員である比呂にはどうにもできない。仕事を邪魔することもできずに比呂は大きな溜息を一つ吐く。じっとメモを見詰めたまましばらくグズグズしていたが、腹を括るしかないと覚悟を決めて立ち上がり、部屋を後にしたのだった。



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