『048:熱帯魚』E ……………… |
9月も終わりに差し掛かると、校内は次第に活気付き始める。文化祭を10月末に控え、様々な準備が始まるからだ。そして生徒会は一年で一番忙しい時期を迎える。生徒会主催のイベントの手配はもとより、クラスや部活ごとの催しの監視や使用する教室の管理に始まり、生徒と教師の折衝の仲介、他校との渉外など目まぐるしいほど働きまわることになる。自分の時間を殆ど取ることができず、授業の予習復習やアルバイト、プライベートなコトもままならず生徒会に属していることをつくづく恨むのがこの時期なのだが、比呂は逆に忙しいことを幸いに感じていた。 あまりに忙しくて、やることが沢山あれば余計なことを考えなくて済むからだ。そうでなければ、毎日、毎日、持て余した時間をメソメソと女々しく泣いて過ごしていただろう。 あの日以来、恭司の態度は180度変わってしまった。もちろん、比呂を無視したり嫌味を言ったり、そんな大人気ないことをする男ではなかった。ただ、比呂に対してひどく素っ気なく、無関心になってしまっただけだ。会話は必要最低限しかしない。それも生徒会の仕事に関する事務的な連絡だけだ。当然、恭司に誘われて一緒に遊びに行くこともなければ、恭司の家に訪れることも一切なくなっていた。 急によそよそしく、赤の他人のように振舞うようになった二人に周囲は不信を抱き始め、生徒会のメンバーの一人がどうしたのかと尋ねていたが 「別に、何もない」 と恭司は素っ気なく返事をしただけだった。一度だけ、祐が心配そうな顔で比呂に、 「恭司と別れたのか?」 と聞いてきたので、 「別に最初から、別れるとかそんな関係じゃありませんでしたから」 と答えたら、祐は複雑そうな表情で比呂を見ていたが、それ以上は何も言ってこなかった。 こうなったのは当然の結果だと比呂は思っていた。自分のついていた嘘をきちんと告白して、謝罪できて、以前と同じ状態に戻っただけなのだ。そうなることを自分は望んでいたはずなのに、ふと、空いた時間に恭司のことを思い出して塞ぎ込んでしまう自分をコントロールすることができなかった。 気を抜けば思い出すのは恭司のことばかりだった。恭司が言った言葉、恭司がしてくれたこと、恭司の笑顔、そして嵐みたいに自分を攫ってしまう恭司の熱。思い出すたびに比呂の胸は刺すように痛んで、自然と食欲も減退してしまう。忙しさも相まって比呂はいつの間にか大分痩せてしまっていた。 そうこうしている内に、10月も半ばに差し掛かる。生徒会の忙しさも本格的になってきて、一番忙しい仕事を担当している役員などは、何日も学校に泊り込むような状態だった。幸い、比呂は最下級生だったのでそこまでではなかったが、それでも忙しいことには変わりなかった。土日にも学校に顔を出す週が続いていたが、なぜか、その週の日曜日はポカリと穴が開いたように仕事から無罪放免された。本来はできる仕事が幾つかあったはずだったのだが、祐に半強制的に休めと言われてしまったのだ。 顔色も悪く、すっかり痩せてしまった比呂を心配してのことだったのだろう。だが、暇な時間が空くと比呂はすぐに恭司のことを考えてしまうので、本当は休みたくなどなかった。始めのうちは仕事をすると強固に言い張ったのだが、 「無理して倒れられる方が迷惑なんだよ」 と恭司に冷たく言われてしまったので、それ以上反論することができなかったのだ。 久しぶりのゆっくりとした日曜日。秋晴れの気持ちのいい日のはずだったが、比呂の気持ちは少しも浮上することはなかった。部屋に閉じこもっていてもますます気分が沈んでいくだけなので、比呂はあてもなく、フラフラと家を出る。 無意識のうちに電車を乗り継いで、比呂がやってきたのは恭司と初めて来た臨海公園の中の水族館だった。家族連れでそれなりに混雑しているその場所に、比呂はたった一人で入場する。目的などなくフラフラと館内を歩いて回ってみても、思い出すのは恭司と来た時のことばかりだった。 熱帯魚のコーナーに来ると、無意識に比呂の足は止まってしまう。綺麗な色とりどりの魚達。その中の瑠璃色の小さな魚を見つけた途端、比呂の涙腺は壊れてしまったかのようにボロボロと涙が零れ始めた。こんな場所で、みっともない、と思っていても流れ続けるそれを止めることはできない。胡乱気な眼差しを比呂に向けて、何人かの人が近くを通り過ぎていったが、比呂は構うことなく水槽に張り付いたまま泣き続けていた。 苦しくて悲しくて、胸が痛かった。 いっそ、この瑠璃色の魚になってしまえないだろうかと、以前も何度か考えた馬鹿な夢想が頭に浮かぶ。だが、その願望の根底は以前とは全く違っていた。 この小さな熱帯魚になって、恭司の家の水槽に住み着いてしまいたい。そうすれば、誰にも気付かれずにずっと恭司を見ていられるから。 その時になって、比呂は自分がとっくに恭司を好きになっていることに気が付いた。今更そんな事に気が付くなんて、本当に馬鹿だと思う。気が付いても、ますます苦しくなるだけなのに。 比呂と別れて、恭司に新しく彼女ができたとかできないとか。真しやかに囁かれている噂を比呂は何度か聞いた。それを聞いた時に、息が止まるかと思うくらい胸が痛んだのは、比呂が恭司を好きだったからなのだ。 今更気が付いても仕方がない。嘘をついて恭司を騙し、傷つけてしまったのは他の誰でもない、比呂本人なのだから。きっと、二度と許してなどもらえない。二度と、あの優しい笑顔を向けてもらえることはないのだろうと思ったら、ますます泣けてしまって困った。 小さな子供が無邪気に笑いながら比呂の後ろを走りすぎていく。他愛のない平和な光景を遠い気持ちで眺めながら、比呂はいつまでもその場所に立ち尽くしていた。 |