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『048:熱帯魚』D ………………
 ブクブクと音を立てて、空気と水が循環している。水槽の中、ヒラヒラと綺麗な蝶が舞うように泳ぐ熱帯魚たちを比呂はぼんやりと眺めていた。裸のままで、後ろから恭司に抱かれているが今日は何となくその体温が離れ難くて、あえて自分から立ち上がろうとしない。以前なら、ベタつく体が我慢できなくてすぐにバスルームに逃げ込んでいただろうに。
 一体、瑠璃スズメダイが何匹になったのか数えようとさっきから何度も挑戦しているのに、魚達はじっとしていなくて、ヒラヒラと逃げ回るので数え損ねてばかりいる。
「また、熱帯魚見てンのか? 好きだな」
 と、何度も聞きなれた言葉が耳の後ろをくすぐる。そのすぐ後に比呂の髪の毛をサラサラと梳くゴツゴツとした大きな手。それがくすぐったくて思わず体を竦めるとクスリと笑う気配がした。
「カワイイなー。比呂、スキだよ」
 甘ったるく耳元で囁かれた言葉に、比呂は今度はギクリと体を竦ませた。単なる、社交辞令。形式的なピロートーク。そう思おうとしても上手く行かない。急に落ち着きをなくした比呂の体に異変を感じて恭司はふと比呂から離れて上体を起こした。とたんに背中に触れてくる冷えた空気。ヒヤリとした感覚が、そのまま比呂の心情を表しているようだった。
「…センパイ、それ冗談だよね?」
 不安げに振り返り、恭司の顔を見上げれば、恭司は訝しげに眉を顰めていた。
「比呂?」
「スキとか、そういうコト言わないでよ」
 俯きがちに比呂が訴えれば、恭司はますます眉間の皺を深めた。その顔には不信の色が浮かび始める。
「何で? スキだからスキだって言ってるんだろ? それのどこが悪いンだよ?」
「何? ナニ、ソレ。どうして、どうしてそんな事言うんだよ?」
 比呂は慌てて顔を上げて言い募る。忘れかけていたはずの痛みが、急速に比呂の胸に戻ってきた。ズキズキと血が流れているのかと思うほど痛み始める心臓に比呂は息が止まってしまいそうだった。
「スキだなんて、何でそんな事言うんだよ。今まで、一度だってそんなこと言わなかったのに!」
 責めるように訴えると、恭司は驚いたように目を見開き、バツが悪そうな表情で前髪をかきあげる。
「そう…だったか? 悪かったな。俺は比呂が好きだよ」
 比呂が言いたい言葉をどう勘違いしたのか、恭司は照れたように改めて比呂に好きだと告げた。低く甘く響くバリトン。それを聞いた途端に比呂の頭の中でパシンと何かが弾けたような気がした。そんなのは、嘘だ、と思った。思いたかった。今までも、言葉でなく態度で散々好意を受け取ってきたはずだった。だが、実際に言葉で告げられたわけではない、というのが比呂の唯一の免罪符になっていたのに。
 もう、このままではいられないのだと比呂は混乱した頭で考える。好きだなんて言われたら、もうそばにいられない。黙り込み、顔を真っ青にした比呂にさすがにおかしいと思ったのだろう。恭司は険しい表情で比呂の両腕を掴み、比呂の顔を覗き込む。
「どうしたんだよ? 急に。比呂も俺のこと、スキなんだろ?」
 オレノコト、スキナンダロウ?
 以前、祐に聞かれたときには嘘がつけたのに、恭司にはどうしてもできなくて比呂は思わず口を噤み黙り込んでしまう。最初に恭司に近づいた時の目的が急に鮮明に思い出されて目の前が真っ暗になるかと思った。
 息が苦しくて、胸が潰れそうになる。どうして、あんなことを思いついてしまったのかと、以前の自分を殺したくなるほど強烈な後悔が襲い掛かってきた。
 本当のことを言わなくてはならないのだと思う。けれども、言えない。言ったら、目の前の人にどう思われるか。想像しただけで比呂は恐ろしくなってしまった。
「比呂?」
 不信をあらわにした声に答えを促されて、比呂の混乱はピークに達してしまう。わだかまり、こんがらがってしまった感情の縺れを何とか説明しようと口を開いたが、見たこともない不安そうな表情で自分を見下ろしてくる恭司と目があった途端、比呂の頭の中は真っ白になってしまった。
「好きじゃない」
 比呂の口から反射的に出てきた言葉はそれだった。
 まず、嘘をついていたことを謝らなくてはならない。最初は嘘をついていました、ゴメンナサイ、と謝って。それから誤解を解かなくてはならない、と切羽詰った頭で考えたが一体何が『誤解』なのかまでは考えが至っていなかった。
「せ、先輩のこと好きじゃない。最初、泉谷先輩と倉持先輩が仲良いのが気に入らなくて、邪魔しようと思って嘘ついた」
 焦れば焦るほど、なぜか比呂の声は平坦になり冷たく聞こえるような口調になってしまう。比呂の言葉を聞いて恭司はどう思ったのか、黙り込んだままピクリとも動かなかった。だが。
「…俺のこと、スキだって言ったのは、嘘だったのか?」
 暫くして頭の上で、酷く冷たい声が聞こえる。比呂はその冷たさにヒヤリとしながら、それでも謝らなければならないと必死で口を開いた。
「ゴメンナサイ」
 比呂の独り言のような謝罪が、静かな部屋の中にポツリと落ちる。シンと静まり返ったその場所で、熱帯魚の水槽から聞こえる空気と水の音だけが響き渡っていた。そのまま重苦しい空気が落ちて、どれくらいが経った頃だろうか。
「…帰れよ」
 酷く冷めた声が聞こえて、比呂は、え、と顔を上げてしまう。そして、そこにある恭司の表情を見て、思わず息を飲み込んでしまった。
 いつも自信に満ち溢れていて、声をたてて明るく笑っているようなイメージが恭司にはあった。行動力とバイタリティがあって太陽みたいな人だと言っていた人間もいた。鷹揚で少しお調子者に見えるときもあるけれど、基本的には優しくて一緒にいるとなぜだか安心してしまう、そんな人だと比呂自身も思っていたはずだったのに。
 その時の恭司は、見たこともないほど酷く傷ついて疲れ切ったような顔をしていた。そんな顔をさせてしまったのが自分だと思ったら、比呂の胸は切られるような鋭い痛みを感じる。
「センパ…」
「帰れって言ってるだろ。邪魔だから」
 だが、比呂に何かを言いつくろう暇は与えられなかった。はっきりと拒絶を表す冷たい言葉を投げられて比呂の頭は真っ白になって、今度こそ何も考えられなくなってしまった。

 その後は、どうやって恭司の家を出て自分の家まで戻ってきたのか覚えていない。ただ、家に帰り自分の部屋に入った頃には比呂の頬は涙でびっしょりと濡れていた。



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