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『048:熱帯魚』B ………………
 夏休みも半分が終了し、暑い最中の登校日、比呂はHRが終わったあとに生徒会室へ向かった。夏休み中は、特に生徒会の仕事はない。だが、そろそろ文化祭の支度に取り掛からなくてはならないはずで、召集が掛かっていたのだ。ドアをノックして比呂が生徒会室の中に入ると、そこには祐だけが来ていた。他の面子は見当たらず、珍しく、比呂は祐と二人きりになってしまう。
「お茶飲む?」
と祐に尋ねられ、何とはなしに後ろめたい気分を抱えたまま比呂は黙って頷く。祐は一見普段と何ら変わりがないようにも見えたが、比呂には何だかピリピリとしているように見えてしまった。
「お前、夏休みだってのに全然焼けてないね。相変わらず真っ白。どこも行ってないワケ?」
 冷たい麦茶を入れながら、祐は何気ない調子で比呂に話を振る。比呂は、何と答えていいかわからずうろたえ、口をつぐんでしまった。
 夏休み中は、恭司と半同棲状態でセックスばかりしていましたと、一体誰が説明などできるのだろうか。黙り込んだ比呂をどう思ったのか、祐はチラリと意味深な視線を比呂に送った。それは恭司と関係を持つまでは、決して向けられたことのない類の視線で比呂はますます動揺してしまう。言葉ではなく、視線で暗に責められている様な気になって落ち着かなかった。
 恭司は大雑把で奔放な性格だから、比呂との関係を隠そうとはしない。だから、生徒会の殆どの面子は二人の関係を知っている。もちろん、祐も十分に承知しているようだった。だが、その件について比呂が祐から直接何かを言われたことはない。
 祐は恭司が好みのタイプだと言っていた。恭司も承知したように、それは知っていると返事していたはずだ。もしかしたら、二人は付き合っていたのかもしれない。そうなら、比呂が二人の仲に横槍を入れたことになる。祐が比呂に良い感情を抱いていないのは容易に予測がついて、比呂は酷く怯えていた。尊敬し憧れていた人に嫌われて疎まれる。そんな事になったらどうしようかと汗をかきはじめたグラスを所在無く弄り回していると、比呂の真正面に祐は腰を下ろして比呂を真っ直ぐに見詰めた。
「…あのさあ。前から聞きたかったんだけど」
 そう前置きをしながら、祐は決して視線を比呂から逸らさない。何かを探るような、どこか酷薄にも見える鋭い視線を向けられて比呂は嫌な予感を覚える。案の定、祐の口から出た質問は、
「比呂、お前、本当に恭司のこと本気で好きなワケ?」
というものだった。比呂はとっさに答えることができず、言葉に詰まってしまう。しばしの沈黙があり、祐は比呂の返事を待っていたが、痺れを切らしたらしく、
「どうなんだよ? 答えろって」
と苛々したように返事を急かしてきた。比呂は震える手の平と唇を必死に誤魔化しながら、口を開く。
「す、好きです」
「本気で?」
「ほ、本当に倉持先輩が好きです」
 答えた声は震えてはいなかっただろうか。完全に動揺していた比呂には自分で判断することはできなかった。
 それは、まるで踏み絵にも似た質問。色んなものを欺瞞で塗り隠して、祐にも恭司にも、そして自分にも嘘をつく。その時になって、比呂は唐突に自分の引き起こした状況に猛烈な後悔を抱いた。一体、自分は何をしているのだろうと足元が見えなくなる。不意に、目の前の清廉潔癖な人に全てを告白して懺悔してしまい衝動に駆られた。だが、比呂が衝動のまま口を開こうとするよりも、祐が、
「ふうん。じゃ、別に良いんだけど」
と話を切り上げてしまう方が先だった。その直後に恭司が他の面子と一緒に部屋にやってくる。全員が集まった所でミーティングが始まり、結局その話はそれで終わりになってしまった。
 だが、全てが終わり、当たり前のように恭司が比呂の手を引いて帰ろうとした時に、祐は恭司に声を掛ける。
「仲が良いのも結構だけど、たまには俺にも付き合えよ」
 笑いながら祐は言ったが、その表情はどこか翳って寂しそうにも見えた。恭司はそれを聞いて苦笑いを零す。
「あー。悪ィ。今度ナ」
「ったく。薄情なヤツ」
 交わされた言葉は短かったが、しっくりとはまる会話だと比呂は思った。もともと、この二人は親友と呼ばれていていつも一緒につるんでいるくらい仲が良かったのだ。休みのときも一緒に遊んでいたらしいが、最近は恭司は必ず比呂との時間を優先しているので、二人が一緒に遊んだという話を殆ど聞かなくなった。
 邪魔をしているのだと、ぼんやりと比呂は思った。それでも、比呂と恭司が本当の恋人同士だったならこんな風に後ろめたい気持ちにならなかったのかもしれない。だが、比呂と恭司はそうではないのだ。比呂は最初から今の今まで嘘をつき続けているのだし、恭司はどういうつもりか知らないが、恐らく単に比呂が物珍しくて新しい玩具に夢中になっているのだろう。
 恭司の広い背中を見詰めながら、後ろを付いていくうちに比呂はどうしようもなく苦しい気持ちになってしまった。どんどん気持ちが塞ぎこんでいき、どうしたらいいのかわからない。いっそ、正直に恭司に全てを明かしてしまおうかとも思ったが、恭司が怒って祐に比呂のことを悪く言うのが怖かった。祐に嫌われることだけを恐れている卑怯で、臆病な自分にますます嫌気が差して気分が悪くなる。
「…比呂? どうした?」
 気が付けば、人影の少ない裏道で恭司が心配そうな顔で自分を見下ろしてきていた。
「え? 何もないけど何で?」
 答えた声が震えていて、しかもポツリと地面に雫が落ちたことで比呂は自分が泣いていたということに気が付く。だが、恭司は涙のわけを比呂に尋ねなかった。小さな溜息を一つ落とすと、比呂の頭をやんわりと優しく抱きしめる。それから、子供にするようによしよしと比呂の頭をなで、背中をトントンと叩いた。
 その仕草があまりに優しくて、比呂はますます泣きたくなる。優しくなんてして欲しくない。自分は優しくしてもらえるような人間じゃないのに、と思いながらも、その大きくて暖かい手を振りほどくことはできなかった。
 いつもは恭司の子ども扱いを嫌っている比呂だったが、その時だけは広い胸に抱かれることに酷く安心し、心地の良さを否定することはできなかった。そして、その日、恭司はただ黙って比呂を抱きしめていただけでセックスをしなかった。

 それは比呂が恭司と関係を持って以来、初めてのことだった。



■ ■ ■



 水族館へ行こう、と恭司は唐突に言い出した。
 セックスをしなかった次の日のことだ。ワケがわからず戸惑っている比呂に無理矢理出かける準備をさせて、半ば連行するように恭司は比呂を連れ出した。電車を幾つか乗り継いで連れて行かれた先は、海岸沿いに建っている臨海公園だった。水族館と広い公園が併設されている施設で、比呂が来たことのない場所だった。恭司は、迷わずに比呂の手を引いて真っ先に水族館の建物に向かった。建物の入り口は全面ガラス張りで、ガラス越し、その向こう側にはすぐ海が見える。夏休み中のその場所はそれなりに込み合ってはいたが、身動きが取れないほどではなく、比呂はそれなりに楽しめた。
 水族館自体比呂は好きだったが、高校生にもなって一人で来る場所でもないと思っていたし、人付き合いが苦手だったので、友人を誘って来るという事もできなかった。久しぶりに来た水族館で、比呂は少しばかり浮かれていたのかもしれない。
 薄暗い館内を人ごみに紛れるように、手を繋いで二人で歩く。青く浮き上がる水槽と、魚の姿を見ていると昨日あれほど落ち込んだ気分が大分浮上したような気がした。アルミ箔を貼り付けたようなブリキみたいな魚だとか、じっとしていてピクリとも動かない深海魚。少しグロテスクな姿をしている熱帯の淡水魚や普段食べているような見慣れた魚。その一つ一つに茶々を入れながら見ていると、まるで仲の良い友人同士になったかのような錯覚に陥って、比呂は不思議な感じがした。
 熱帯魚のコーナーに来たら、やはり恭司は一つ一つ詳しく説明してくれて、次はこの魚が欲しいのだと小さな子供のように屈託無く笑った。比呂は恭司のこんな笑顔を見るのは久しぶりだとようやくその時になって気が付く。二人きりで部屋に閉じこもり、セックスばかりをしている時の恭司はどこか余裕がなく追い詰められているような翳りのある笑顔しか比呂には見せていなかったのだ。
 嗚呼、そういえばこの人はもともとこういう笑い方をする人だったと比呂は今更のように思い出す。行動力とバイタリティに溢れていて太陽みたいな人だと誰かが言っていた。その時は、ただのお祭り好きのお調子者じゃないか、としか比呂は思わなかったけれど。
 館内を隅から隅まで歩き回った後で、恭司は人気の少ない回遊魚の水槽の前に陣取る。水槽の前にある幅広な絨毯敷きの階段に二人並んで腰を降ろし、何となく黙ったままグルグルと馬鹿みたいに回り続けているマグロを見詰めていた。
 昼の客と夜の客が入れ替わる時間帯なのか、入場した時よりも人影はまばらで、その場所には比呂と恭司の二人しかいなかった。
「比呂、知ってる? コイツら、泳ぐの止めると死ぬって」
「知ってるよ。寝てるときでも泳いでるんだろ? 鰓から空気取り入れなきゃダメなんだって」
 沈黙の気まずさを誤魔化す為に恭司は話を振ったのだろうが、会話はやはりそこで止まり再び沈黙が訪れた。薄暗いその場所で、水槽の青さだけが際立っている。この青を見ていると何だか落ち着く、と比呂はぼんやりそれを見つめ続けた。
「あのさ」
 暫くして、やはり恭司は比呂に話しかけてきた。だが、らしくもなく戸惑ったような表情をしている。一体何だろうかと、比呂は恭司の横顔を見上げたが、恭司は比呂の方を向こうとはしなかった。ひたすら水槽を見詰めたまま、
「比呂、俺の前に誰かと付き合ったことある?」
と尋ねてくる。なぜ、今になってそんな事を聞くのだろうと訝しく思いながらも比呂は首を横に振った。
「…じゃあ、セックスするの、俺が初めてだった?」
 少しだけ声を潜めて、恭司は今度はそんな事を聞いてきた。夕方間近の水族館。子供や親子連れも多いこんな健全な場所で、何の話を始めたのかと比呂は呆れたが、周りに誰もいないことを確認するとコクンと小さく頷いた。そもそも、自分がキスやセックスに全く不慣れだったことなど、経験値の高い恭司には丸わかりだったろうにと不思議に思う。
「…キスすンのもセックスすンのも先輩が初めてだったけど…」
 聞こえるか聞こえないかの小さな声でボソボソと比呂が呟くと恭司は神妙な顔で水槽を睨みつけていたが、やがて小さく息を吐き出して、
「そうか」
と返事をしたきり、口をつぐんでしまった。
 チラリと比呂がその横顔を盗み見れば、恭司は酷く真剣な表情をしている。いつか見た事のある表情だと比呂は思った。少し考えて、それが自分が恭司に好きだと嘘の告白をしたときと同じ表情だと思い当たる。だが、恭司が何を考えているのかは思い至ることはなかった。

 そして、その日以来、恭司は全く比呂とセックスをしなくなってしまったのだった。

 セックスをしなくなったからといって、恭司と比呂が疎遠になるということは全くなかった。ただ、これまでの不健全な付き合い方が嘘だったかのように、ガラリと方向性が転換しただけだった。
 恭司は二日と空けず比呂を遊びに誘い、あちこちの水族館や熱帯魚を扱っている大きなペットショップに連れて行った。お陰で、夏休みの後半で、比呂は関東圏の水族館をほぼ制覇してしまった。水族館だけでなく、映画を見に行ったり幾つかのテーマパークにも二人で行ったりした。
 比呂は恭司のことを軽薄でお調子者だと思い込んでいたが、二人でいる時は殊の外鷹揚で行動力があり、人を楽しませることに骨身を惜しまない人間だったのだと比呂は今更のように気が付いた。そもそも生徒会の副会長に選ばれるほどの人望を得ている人間なのだから、よくよく考えれば軽薄でお調子者なだけのはずはなかった。
 先入観と偏見で見ていたときにはわからなかったことが色々見えてくるにつれて、比呂はもう恭司が嫌いだとか苦手だとか思えなくなっていた。自分を子ども扱いして、馬鹿にしているのだと思っていた態度もどうやら勘違いだったらしいと気が付き始めた。恭司はとにかく比呂には甘いだけなのだ。どうしてそこまで甘やかすのかと思うほど優しい。ネコ可愛がりするかのように比呂を可愛がり、比呂の気持ちを大事にしてくれていることが薄っすらと伝わってきて、比呂はどんどん追い詰められていった。
 セックスの時の恭司が余りに酷かったから、どうしようもないロクデナシだと思い込んでいたが、今はそのセックスも強要されることはない。
 自分に向けられている惜しみない好意の様なものを感じ取れば感じ取るほど、比呂は良心の呵責に苛まれた。こんなに良くしてくれる人間を自分は騙しているのだ。
 恭司に優しくされればされるほど、比呂は苦しくなっていく。夏休みが終わる頃には、恭司と一緒にいるだけで息苦しさを感じてしまうほどになっていた。



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