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『035:髪の長い女』 ………………………………

 *変態寮シリーズそのF



 義兄の三倉邦正が、薫にどうだろうかと紹介する女性はただの一つの例外も無く、髪が長くストレートで、決して派手でなく、料理と裁縫が得意で、どちらかと言えば古風といったような、結婚するならこういうタイプと男が言いそうなステレオタイプの女だった。
 はっきり言って、薫とは正反対の人種だ。多分、連れて来た女の十中八九が処女だろう。女性優位と言われて久しいこのご時世、それでも未だに男は結婚相手には処女性を求める傾向にあるというが、薫にしてみれば馬鹿馬鹿しいことこの上ない。
 もしかして、嫌がらせなのだろうかと時折思ったりもする。大学に入学する少し前、勢い余って迫ったら断固として拒絶されてしまった。それまでは酷く仲の良い義兄弟だったはずで、血が繋がっていないのに本当の兄弟のようねと、母も、義父もいつも微笑ましそうに自分達を眺めていたのに。
 腹いせのように、あるいはあてつけのように手首を切った薫を邦正は叱りつけ、だがしかし、兄としてのスタンスは決して崩さなかった。普段は酷く甘やかし、薫が道をあまりに踏み外しそうになった時にだけ厳しく叱る。基本的には邦正は何も変わっていない。どちらかと言えば薫のほうが邦正を避けているのだ。だが、それでも、時折薫を呼びつけては結婚相手にこの女性はどうだろうかと尋ねて来る。その癖、酷く優しい表情で笑いかけながら、
「薫が気に入らないなら、邪魔していいから。薫が嫌だと思う女とは絶対に結婚しない」
 などと言うのだ。だから、薫は素直に邪魔をする。平気で、あんな女俺よりもブサイクだと暴言を吐く。そうすると、邦正はニコニコ笑ったまま、
「それは確かだな。でも、薫より可愛い女を見つけるのは至難の業だなあ」
 などとのんきな口調でほざくのだ。はっきりいって、その神経構造が薫には理解できない。だが、邦正を慕う気持ちは消せないので、平気で邦正の結婚の邪魔をする。そうすると、邦正は怒りもせず、それどころか嬉しそうに、
「じゃあ、結婚はやめるよ」
 といつもいつもあっさりと結婚をやめてしまうのだ。



 薫の母が最初の夫、つまり薫の実の父親と死別したのは薫が五つの時だった。酷く悲しくてワンワンと泣いていた記憶はあるが、二十歳を過ぎて思い出せる父の姿は極めて断片的で、おぼろげだ。人の記憶と言うものはそういう性質のものなのだからしかたが無い。父の死後、薫の母は、女手一つで薫を13歳になるまで育て上げた。仕事が忙しい分、多少留守がちの母だったが、それでも自分の為に働いてくれていることを薫は十二分に理解していたので、決して非行に走ることも無く、どちらかといえば真っ直ぐで、優等生に分類される少年に育っていた。それが均衡を崩してしまったのは薫が14歳の夏、母が、付き合っている男性なのだと連れて来た男のせいだった。母よりも10歳も若い、薫にしてみれば父というより、兄というような年齢の男だった。
 母に再婚したいのかと尋ねれば、らしくもなく少女めいたはにかみ顔で「できれば結婚したい」と言うので、薫も賛成した。だがしかし、当時から随分と可愛らしい容貌をしていた薫に魔がさしたのか、あるいははじめからそういう嗜好を持ち合わせていたのか。その男が薫に手を出したせいで訪れかけていた幸福な家庭は、あっさりと崩れ去った。
 当時、なかなか珍しく真面目な生活をしていた(母が必死に働いているのを見ているのでのんきに遊び呆ける気持ちにならなかったからだが)薫には、それは青天の霹靂だった。お前が誘ったんだと罵られて強姦され、薫はその時、初めてキスもセックスも経験した。最悪の初体験だったと今でも思う。
 けれども、もっと最悪なのは、その現場を母親に目撃されたことだった。
 母は、烈火のごとく激怒し、怒りのあまり余程錯乱していたのだろう。フライパンで男を激しく殴打して家を追い出した。そして、泣き続けながら薫に謝り続けた。あんなろくでもない男を連れて来た自分が悪かった、許してくれ、と。
 薫は決して早熟ではなかったし、その時点で好きな人がいたわけでもない。正直、初恋すらまだだったのかもしれない。だから、別にこんなことは何とも無いのだと母を許した。そもそも、母に落ち度があった訳ではないのだとすら思っていた。
 その後、母はまた仕事に没頭し、薫も別段、とりたててその事を大きく引き摺ることも無く(ただ、時折、悪夢にうなされたりはしたが)、2年が経過した。そして、入学した高校で薫は初恋に落ちた。だが、その相手が非常に問題だったのだ。薫が好きになった相手は新任の社会科の教師、それも男だったのだ。
 薫は自分の性癖に暫く悩みはしたが、それでもそれが自分なのだから仕方が無いとネガティブにはならなかった。正直に気持ちを認めて、真面目でまっすぐな性格そのままに、その教師に告白してしまったのだ。もちろん、受け入れてもらえるなどとは思っていなかったし、気持ち悪がられるかもしれないとは薄々と予想はしていた。けれども、それで疎まれても後悔はしないと思えるだけの芯の強さを薫は持っていた。だがしかし、幸か不幸か、その社会科教師は決して薫を疎みも気持ち悪がりもしなかった。気持ちは嬉しいと薫に答えたその教師は、最初はストレートだと言っていたはずだったのだが、薫の一途さにほだされたのか、それとも、最初の男同様に魔がさしたのか、いつしか二人は密かに肉体関係を結ぶまでになってしまったのだ。
 ままごとのような恋人関係を結んでいた数ヶ月間、薫は確かに幸せだったといえたが、けれども、それは長くは続かなかった。なぜか、そう言うことには妙に鼻が利くようになっていた薫の母が二人の関係に気がついてしまったのだ。
 母親は、その時も酷く錯乱して二人の仲を決して認めようとはしなかった。その時、母が薫の方を責めたとしたならば、薫は決して諦めずに二人の仲を継続させようとしただろう。しかし、母は決して薫を責めなかった。薫ではなく教師の方を責め立てたのだ。社会的な地位から見れば、教師であるその男が責められるのはいたしかたなかったのかもしれないが、薫は自分からせまったという自覚があったし、それ以前にその教師をとても好きだったので、必死に庇おうとした。だが、それが逆に母の逆鱗に触れてしまったらしい。学校に、あるいは警察に通報する。出るべきところに出ても良い、と母に言われてしまえば、薫は泣く泣く諦めるしかなかった。
 高校もすぐに転校させられ、それ以降、一度もその教師とは会っていない。
 母は、泣きながら薫に謝った。本当はお前は普通の子のはずだ。最初に、あのロクデナシの男に強姦されてしまったからおかしくなってしまった、私が悪いのだと、訴える母に薫は言葉を失ってしまった。
 もともと、小さな頃から父親がいないせいで、年上の男性に憧れる傾向が無かったとは言わない。だが、しかし、自分が同性愛という嗜好に走ってしまったのは決して強姦されたからではなく、生まれた時からそういう資質を持っていたからなのだと薫は思っていた。自分が恋愛対象として男性しか見れないという性質も、薫を成しているファクターの一つであり、アイデンティティの一端を担っているのだと薫は認識していたのに、母はそれを完全に否定したのだ。そして、薫が普通でない方向に向ったのは家庭が普通でないからなのだと一人で結論付け、そして一人で再婚を決めてしまった。再婚相手は薫を強姦した男とは正反対の、実に誠実で、地味で、堅実な中年の男性だった。直感的に、薫はその男性は母の好きなタイプの男ではないのだと思った。しかし、父親として、家庭人としてはかなり理想的だと思ったのだろう。母は、薫の為にそういう男を選んだのだ。そして、その男の連れ子が三倉邦正だった。
 その頃には、薫ははっきりと自分の性癖を認識していたので、義父にも、義兄にも薫はあっさりとカミングアウトした。義父はあからさまな嫌悪を見せたりはしなかったが、戸惑っているようで、腫れ物を触るかのような態度を薫には取った。だが、義兄はあっさりと
「あ、そうなんだ」
 と言っただけで、後は、本当の兄のように薫に接した。その頃、薫は母と冷戦の真っ最中だったので、必然的に義兄の存在は家庭内での薫の拠り所になっていた。
 母は、とにかく薫の性癖を頭から否定し続けていた。最初の男に強姦されたせいで、家庭が母子家庭で不完全だったせいでおかしくなっているだけで、これからはまっとうに戻ってくれるのだろうと、いつでも薫に言い募った。その度に、薫は、これは持って生まれた性質であって、家庭環境だとか、過去の事故のせいで起きたことではないのだと説得しようと試みたが、一度として母がまともに取り合ってくれたことなど無かった。
 殊更、薫は母に理解を得ようと、男を家に連れてきたり、家人がいようと家の中で男とセックスしたりした。完全に、目的と手段が入れ替わっていた時期だった。母に理解してもらうことが目的で、その手段として男とセックスしてみせる。だから、相手の選び方はかなりいい加減で、誠実な付き合いなどとは程遠い生活を送っていた。だが、そうすればそうするほど、母はさらに態度を硬化させる。あからさまに、薫の性癖を黙殺し、なかったことのように振舞われて、薫はかなり疲弊していた。そこから逃げるように更に男とのセックスに走る。そうすれば、さらに母は能面のような表情で薫を見るようになった。絵に描いたような悪循環。
 それを断ち切ってくれたのは他でもない、義兄の邦正だった。もう見ていられない。薫がゲイなのも、仮にセックスが好きだとして、そう言う性癖も決して否定はしない。止めない。だが、自分を大事にしていない薫を見ているのは我慢が出来ない。そう言って邦正は薫の頬をたたき、落ち着いた穏やかな口調で、だが決して押し付けがましくなど無い態度で薫に言って聞かせた。
 自分でも、望まぬことをし続けて無理をしていたのをどこかで分かっていたのだろう。薫は泣きながら、邦正の言葉に頷き、もうこんなことはしないと約束をしたのだ。そして、邦正のアドバイスにしたがって、大学に入ったならば母親と少し距離を置いてみる為に、家を出ることにした。せっかくならば、ということで志望大学は、義兄が助手をしている大学を選んだ。
 それから、大学に受かるまでの期間、薫は至極真面目な学生だったといえる。男遊びもピタリとやめていた。



「薫とは絶対にセックスしない」
 いつのまにか、義兄には家族に対しての情ではない感情を抱いていた。いつからなのかは覚えていないが、多分、頬を叩かれて諭された時からのような気がする。なぜか、薫は断られる寸前まで、邦正は自分を受け入れてくれると信じて、疑いもしていなかった。なぜ、そんな風に思い込めたのか今考えれば不思議だ。
 そもそも、邦正は完全なるストレートだったのだから。『セックスできない』ではなく『セックスしない』と言う言い回しを選んでくれたのは、邦正なりの優しさだったのかもしれないが、薫には拒絶されたという事実だけが全てで、唯一の拠り所を失ってしまったのだという絶望にしか目が行かなかった。だから、もうどうでも良いやと投げやりに遊び呆けていたら、ゴチンと頭を殴られて、入ったばかりの寮に連れ戻された。薬が入って苦しかった自分を、誰かがメチャクチャに抱いて、気がついたら朝になっていた。隣には裸で寮長だという男が寝ていて、傍らには副寮長だという男がニヤニヤと笑いながら立っていた。
「三倉薫。お前、寮外の男とセックスするの禁止な。お前用の寮則。破ったら退寮させるから」
 副寮長はニヤニヤ笑いながらそう言って、
 『寮則:寮外の男とセックスしない。』
 と、妙な達筆で(しかも墨書だ)書かれた張り紙を部屋に張られてしまった。なぜか、それに逆らうことが出来ずに、未だに薫はその自分専用の寮則を馬鹿正直に守っている。
 しかも最近はその相手もごくごく限られた人間になってしまっていた。


「アッ! アンッ! ダメッ! 大杉センパッ…! イク! イっちゃう! ! アアッ!」
 膝の上に抱えられて下からガツガツと突き上げられて、喘ぎまくっている。大杉とは身長差も体重差も大分あるから、こんな体位をとっても大杉はびくともしない。だが、ガタイの大きさやいかつい顔の割に大杉のセックスは、どこか丁寧で優しい。だから、自然と大杉を選ぶことが多くなってしまった。それともう一つ。大杉は絶対に、薫の誘いを断らない。どんなに忙しい時も、自分がわがままだと分かっていながら薫がワザとねだるときも。
「いいぜ、一回イけよ」
 体格に見合った重低音の声が薫の耳元で囁く。
「でもッ! アッ! ダメッ! ホントにイクッ! アアッ!」
 大きな手に前を包み込まれて扱かれて、薫は持ちこたえられずにビクビクと体を震わせて射精してしまった。きっと内部も連動したように大杉を引き絞ってしまったのだろう。少し遅れて、薫の体を抱き上げている腕ごと微かに振動して、大杉もイったようだった。
 しばらく抱き合ったまま二人で息を整える。少し落ち着いた頃にようやく大杉がズルリと薫の中から出て行くと、薫の体は過敏にフルリと震えた。体の向きを変えて、今度は大杉は向かい合った状態で薫の体を抱きこむ。額に一つ、髪の毛に一つ全く性的な色合いのないキスを落として静かに目を閉じた。
 この妙に優しい態度は、初めて大杉と薫がセックスした時から全く変わっていない。変わっていないけれど、最近、薫はとみに困惑してしまう。
 とても気持ちが良くて、安心できて、居心地が良いのに、同時に酷く落ち着かず居心地が悪い。そんな何とも奇妙な複雑な心境を味あわされてしまう。その理由から薫はずっと目を逸らし続けている。
「……薫」
 一呼吸分の戸惑いを置いて、大杉が名前を呼ぶ。
「何?」
「お前、最近、兄ちゃんと会ってんの?」
「……会ってない」
 薫が答えずらそうに答えると、小さな溜息を一つ大杉は押し殺したようだった。
「…笠井センパイとは?」
「…へ? 今朝も食堂で会ったけど?」
 同じ寮内に生活しているのだから、毎日会うに決まっているのだが、大杉の聞きたかったことはそれではなかったらしい。珍しく、苦笑をその顔に刷いて、
「そうじゃなくて。笠井センパイとは最近ヤってんのかって?」
 と言い直した。薫はやはり答えずらそうに、
「…ここ一ヶ月くらいヤってない」
 と答えた。
「何で?」
「何でって…別に…理由なんか無いけど…」
 大杉はふうん、と気があるのか無いのか判らない相槌を打ち、薫を抱きしめる腕に力を込めた。
「まあ、俺は何でも良いけどな。逃げ場所でもな」
「……何の話?」
「必要とされてればそれで良いって話」
 独り言のように大杉はそう言うと、ふああとのん気な欠伸を一つこぼした。時々意味深な事を言ったりもするが、基本的には大杉は決して薫を追い詰めない。結論をせまったり、自分の気持ちや感情を押し付けたりしない。だから、酷く居心地がいい。ぬるま湯の中に逃げ込むように、ついつい大杉の隣へと滑り込んでしまう。
 薫は大杉の腕に抱かれたまま、無意識のうちに溜息を一つ吐く。
「余計なこと考えんじゃねーぞ。俺はコレで良いんだからな」
 薫の迷いや罪悪感をタイミングよく掬い上げるように、大杉はそんなことを言う。だから尚更考えられないし、チクチクと胸の片隅が痛んだりする。けれども。
「…もうちょっとだけ良いよね?」
「良いんじゃね? あの人も院行くつってるし。あと3年はいるし」
 思わずこぼした弱音に、的確な答えを返されて薫は苦笑してしまった。







「笠井ィー、なんか欲しいもんある?」
「車」
「バッカ、そうじゃねーよ。研究費、余ってんだよ。ディスプレイはこの間全部液晶に変えたしなあ」
「ラップトップでも全員分買ったらどうっスか?」
 あー、その手があったか、と三倉邦正はドサリと笠井の隣の椅子に腰を下ろした。目の下には隈が出来ているし、顎には無精髭が伸びかけている。恐らく、ここ数日間家に帰っていないのだろう。学会に提出する論文を仕上げる為に、ここ数週間、笠井も下僕としてかり出されているので、その状況は良く分かる。それまで作業していたディスプレイの電源をパチリと落として笠井は邦正に向かい合った。
「終わりそうっスか?」
「まあ、何とかな。後はweb上で提出しちまえば終わり」
「こういうとき、web提出出来る学会は楽っスね」
 ホントにな、と言いながら邦正は胸ポケットからマルボロを一本取り出して火をつけた。
「そういや、薫元気?」
「元気なんじゃないですか? っつーか、もういい加減俺に偵察させるのやめてくださいよ。気になるなら自分で会いにいけば?」
「だって、会ってくんねーんだもん。女紹介するっつー時しか」
「だからって、結婚する気もない女、次から次へと誑かすのは止めた方が良いと思いますけど? そのうち刺されますよ」
「ダイジョウブだって。手は出してないし」
 そう言う問題じゃあないだろうと、笠井は溜息を一つこぼしたが、どうせ言っても無駄なことなのだ。この目の前の男にとって、義弟より大事な人間などいやしないのだから。
「なーんかさ、デッカイ男が纏わりついてない?」
「デッカイ男? 大杉のコト?」
「名前知らねーけど。農学部の男」
「ああ、大杉っスよ。寮生の二年」
 気がないフリで答えながら笠井も煙草に火をつける。銘柄は邦正と同じマルボロだ。偶然同じのを吸っていると知られてしまって以来、煙草が切れると平気で邦正は笠井に一本寄越せと言ってくる。もっとも、時々、カートンで返して寄越したりするのだが。
 そんな邦正が、いきなり、「俺の義弟の面倒を見ろ、色々な意味で」と横暴な『命令』をしてきたのは一年ほど前の春のことだ。面倒を見なければ単位をやらないと脅された時には、さすがの笠井も開いた口が塞がらなかったが。
「まーさかミイラ取りがミイラになるとは思わなかった。お前って、もっとクールなヤツかと思ってたんだけどなー。誤算だったよなあ」
 そう言いつつも、邦正が笠井を排除しようとしないのは、それなりに認めているからなのか、それとも態の良い虫除けだと思っているからなのか。十中八九後者だろう。馬鹿馬鹿しい。
「三倉サン、結婚すんの? あの、髪の長い女と」
 嫌味をこめて笠井が尋ねれば、邦正は腐ったような表情をした。
「するわけねーだろ。俺、あー言うタイプの女一番嫌いだっつーの」
 だろーね。三倉サンのタイプって、薫を女にしたよーなヤツだしね、とは口には出さない。薮蛇になると困るからだ。代わりに別の方向から攻めてやる。
「でも、今回、薫が邪魔して来ないから、このままだと結婚する羽目になるんじゃねー?」
「…お前の仕業?」
「俺は何もしてませんって。薫の心境の変化だろ」
「その大杉ってヤツのせい?」
「さあ?」
「お前、それで良いワケ?」
 挑発するような口調に笠井は苦笑を漏らす。相変わらずエゲツナイことをする人だと呆れる。薫も大概盲目だと思う。こんな性格の悪い男のどこが一体良いと言うのか。
「俺を使って、大杉排除しようとしても無駄ですよ? 良い後輩ですから」
「使えねーヤツだな」
「知りませんよ。三倉サンも変な人だよね。さっさとヤっちゃえば良かったのに」
「バーカ。薫に取っちゃセックスなんて、朝飯よりも軽いんだよ」
「だからって、『お兄ちゃんが一番好き』なんて一生言い続けると本気で思ってるんですか?」
「うん。思ってた。思ってたんだけどなあ。計算外。最近、横一線に並べられているのを感じる」
 大して深刻そうでもない口調で、けれども顔だけは至極真面目な表情で邦正は唸る。
「自業自得?」
 やり返すように笠井が言えば、ガツンと邦正から拳が飛んできた。
「生意気言ってると院試落とすぜ?」
「どうぞ? 俺が別の研究室に寝返って一番困るの、どうせ三倉サンだし?」
 珍しく声を立てて笠井が笑うと、やっぱりガツンと後頭部を殴られた。
「あー面倒クセェ! 何つって断るかなあ」
 そんな失礼な事を言いながら邦正は席を立ち、自分の研究室へと戻っていく。その後姿を見ながら、笠井は、その義弟の事を考えた。
 今頃何をしているのか。多分、大杉でもひっぱりこんでヤっているのだろう、十中八九間違いなく。
 そう考えたら、チリッと何かが胸の片隅で火花を上げたような気がしたが。




 それを敢えて黙殺して、笠井は再びディスプレイの電源を入れた。






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