『031:ベンディングマシーン』 …………… |
*変態寮シリーズそのG あ、と思ったときには目が合っていた。ヤバイ、マズイ、逃げようと思って振り返った時には後襟を掴まれてグイと引っ張られていた。 「白井、いいトコに来たな。ちょっと付き合えよ」 「や、でも俺、これから用事が…」 などと、白井瑞樹は一応、無駄な抵抗など試みてみる。 「ああ? まさか、先輩の言うことが聞けないなんて言わないよな?」 そう言う御影藤也の顔は笑っているが、目は決して笑っていない。 『元・副寮長には近づくな』 先月辺りから暗黙の了解のように寮内で囁かれていた警告だったのに。何の因果だと瑞樹は天を仰ぐ。 「コーヒーでもおごってやる」 そう言って、御影は半ば強引に瑞樹を談話室内の自動販売機の前まで引きずっていった。妙な時間帯だったせいか、室内には他の人間は見当たらない。 円滑な人付き合いにおいて、適度な金払いが必要なのは大学生とて例外ではない。例外ではないが、いかんせん、寮生は貧乏人の集まり。コーヒー一杯とて馬鹿には出来ない。殊、仕送り前のこの時期なら尚更だ。時に実にいじましい取引の条件として、その缶一本が、紙コップ一杯が絶大なる効果を発揮することもある。だがしかし。 瑞樹は瞬時に、その理路整然とした論理的思考回路で計算する。コーヒー一杯で御影に拘束されることと、脱兎の如く逃げて事無きを得ることを天秤にかけてそれはあっという間に後者に傾いた。けれども、御影の方が何枚も上手だった。 「お前、逃げてみろ。逃げたら夕食時の食堂で犯してやる」 にっこり笑ってそう言われてしまえば逃げるわけには行かない。他の寮生ならともかく、御影はやるといったらやる人間なのだと、1年以上の寮生活を経て、瑞樹は悟っていた。 「…分かりました。代わりにブルーマウンテンにしてくださいね」 自動販売機のコーヒーながら、一番高いものをやけくそのように注文したが、御影は別段、腐った風も無く、あっさりとそれを買って寄こした。 「二週間だっけ?」 「? 何の話っスか?」 談話室の椅子に腰掛け、唐突に切り出された会話に瑞樹は首を傾げる。御影は、なぜか自嘲めいた笑みを浮かべて、 「アイツも報われないよなあ」 と零した。それでようやく瑞樹はピンと来る。 「ああ、はあ、まあ………梓の事っスか?」 「そ。連絡無くなってから二週間だろ? 心配にならない?」 「あーでも、ちゃんと戻ってくるとは言ってたし」 「つーか、白井、お前ってアイツの家の事情、どの程度知ってンの?」 「どの程度って…」 それこそ、御影がどこまで把握しているのか図りかねて、瑞樹は答えを躊躇する。ウロウロと視線を泳がせ、最後に御影の顔にそれを合わせると、思いの外、真面目な表情をしていることに気がついた。何とは無しに緊張していた肩から、ふっと力が抜ける。 「……けっこうヤバイ家の妾腹だってことは知ってますケド。でもって、ちょっと前にオヤジさんが死んで、家の中がバタバタしてるらしいって」 恐らく、そこまでは御影も知っているのだろうと踏んで瑞樹が答えれば、案の定、御影は微塵も驚いたそぶりなど見せず、 「ふーん」 とコーヒーを啜りながら相槌を打った。そしてそれを最後まで飲み干し、グシャリと紙コップを握りつぶして無造作に放り投げる。離れた場所にあるゴミ箱の中に、それは綺麗にパサリと落ちた。 「なあ、白井。ちょっと抱いて良い?」 「……………………………………………………はあ! ?」 「拒否権無し」 そう言って、御影はおもむろに瑞樹に覆いかぶさると、男にしては大分細いその体をギュッと抱きしめた。数秒ほどそうしてから、御影は唐突に瑞樹の体を離す。 「ああっくそっ! やっぱり違う! お前の方が肉付き良いわ。もうちょっと、こう、細くて小さいんだよなあ…」 「…それって、もしかして三和先輩のこと言ってます?」 「そう。駄目だ…禁断症状出てるわ」 そう言って大袈裟なため息をついた御影に、瑞樹は大きく目を見開いた。この寮で生活するようになって一年余り。こんな御影を見るのは初めてだった。この態度が演技なのか、それとも本気なのか図りかねて瑞樹は戸惑う。どちらかと言えば、御影はタイプ的に瑞樹と同じサイドの人間だと思っていたからだ。 三和がまだ、この寮にいた時に、二人がなし崩しのように付き合っていたことを瑞樹も知っている。かなり、他人の色恋沙汰には疎い瑞樹でさえ知っているほどそれは寮内に知れ渡っていた事実だったけれど、イマイチ、どこまで御影が本気なのかは誰もが図りかねているようだった。 三和が卒業してすでに四ヶ月近くが経過しているし、つまり、それだけの期間、所謂、遠距離恋愛というものをしているらしかったが、正直、瑞樹はそう遠くないうちに自然消滅するような関係なのではないかと想像していた。 三和が、ではない。三和は独占欲だとか、執着だとか、そもそも恋愛に関してのめりこむタイプには見えなかったが、けれども、誠実を絵に描いたような人間だ。一度付き合い始めれば、きっと三和のほうから裏切ることは無いだろう。 けれども御影は違う。違うように瑞樹には見えた。だから確認するように、探るように、上目遣いで御影を伺う。 「あの…ええと、それって冗談とかじゃ無いですよね?」 「何だよ? 俺が凹むとおかしいってか?」 「はい」 躊躇無く瑞樹が肯定すれば、御影は、ふっと一瞬だけ表情を失くし、それから脱力したように苦笑いを浮かべた。 「お前、速攻で肯定すんなよ」 「はあ。つか、御影先輩、三和先輩の事、どの程度、本気なんスか?」 「さあ? 梓の白井に対する本気と同じ程度じゃねーの?」 御影はあっさりとそう答えると、今度は、ニヤリと人の悪い笑みを浮かべる。油断していると、平気で嫌な場所を突いてくる。こういうところは、やっぱりいつもの御影だ、と瑞樹は思った。 「…じゃあ、三和先輩は、どの程度、御影先輩に本気なんですか?」 やり返すつもりなど無い。そもそも、下手に刺激などすれば百倍になって被害が返ってくるような相手なのだ。だから、瑞樹は全く、何の悪意も、作為も無く、素朴な疑問を口に乗せただけだった。恐らく、御影も、そんな瑞樹の本質を理解しているのだろう。 相手が瑞樹でなければ、とんでもない報復を食らわせたのだろうが、この時は気の抜けた笑いを零しただけだった。 「さあ? 白井が梓に対して持ってる情と同じ程度は本気なんじゃないの?」 どこか自虐的にも聞こえる口調で御影は応え、瑞樹は暫し黙り込んで、その言葉の真意を考えた。そもそも、御影は、瑞樹と梓の関係をどの程度、正確に把握しているのだろうか。 桜木梓が一人部屋なのを良い事に、瑞樹は梓の部屋に入り浸っている。最初は同室の三倉薫が男を部屋に引っ張り込むので、避難所として逃げ込んでいたのだが、今では、むしろ、瑞樹が隣室に行って戻ってこないから薫が男を引っ張り込む、と言うきらいが強い。 梓の部屋に入り浸って何をしているのかと言えば、大抵セックスだ。それは寮生全員が知っている。多分、自分と梓が恋人同士のように付き合っているのだと、殆どの人間はそう思っているのだろう。実際、瑞樹は梓としかセックスしたことが無いし、梓も、今は、瑞樹以外の人間とはしていないらしい。はたから見れば、つきあっているように見えるだろう。 けれども。 冷めて、苦味の増したコーヒーに口をつけながら、瑞樹はぼんやりと、自動販売機の灯りを見つめた。なぜ、そんな事を明かす気になったのか分からない。雰囲気に流されたのかもしれないけれど、それでも、なぜか瑞樹は言いたかった。 「…俺、多分、人間として欠陥品なんだと思うんスよね」 ポツリと零した言葉に、御影はふっと口元を緩め、薄い笑みを浮かべた。沈黙の落ちた談話室に、ジジジと古い蛍光灯が立てる音が奇妙に響く。 「多分、白井の定義で行くと、ミワチャンも欠陥品ってことになると思うけど?」 短い言葉から、正確に瑞樹の言いたいことを読み取り、御影は、そんな風に肯定とも否定ともつかない返事を返した。 「…御影先輩と三和先輩って付き合ってるんじゃないんですか?」 「さてね? 俺とミワチャンが付き合ってるならお前と梓も付き合ってるってことだし、付き合ってないっていうなら、お前らも付き合ってないって事だろ?」 「…三和先輩って、そういう人なんですか?」 「…多分ね。情は凄く深い人だと思うけど。『恋愛感情』って言うんだったら、多分、お前と同じ」 どこか自嘲的な笑みを浮かべて答える御影を、奇妙な生き物でも見るかのように瑞樹はじっと見つめ、それから、ゆるゆると首を横に振った。 「そんなこと無いと思います。多分…多分、三和先輩は御影先輩が考えてるより『ちゃんと御影先輩のことが好き』だと思う」 瑞樹が慎重な言葉を選んでゆっくりと告げると、御影はおどけたように肩を竦めて、 「だったら良いけどな」 と笑った。 「ま、いずれにしても無理に型にはめる必要は無いんじゃないの? 双方、全く同じ感情を抱いていなければ恋愛は成り立たないってこともないし? それに…白井だって梓の事『好き』なんだろ?」 瑞樹を追い詰める訳ではない、ただ、とてもシンプルな言葉として御影は『好き』と言った。だから、瑞樹はなんの抵抗も無くすんなりと頷く。 人の感情も、数式と同じように方程式通りに解ければいいのに、と瑞樹は無機質で、幼稚で、けれどもどこか馬鹿正直に考える。実は、瑞樹は生まれてこの方、一度も、本気で誰かに恋したことが無かった。何となく誰かを良いなと思うことはあっても、それ以上にはならない。周囲の人間が、片思いにしろ、相思相愛にしろ、恋愛に熱中しているその感覚を、瑞樹は決して理解することが出来なかった。恐らく、自分にはその部分の感情が欠損しているのでは無いかと思う。即ち『恋』という感情が。瑞樹自身がそれに気がついたのは、皮肉なことに梓と関係を持った後だった。薄々、そうではないだろうかとは高校時代辺りから感じていたけれど、決定的だと思ったのはこの一年だ。 だからと言って、それが悲しいだとか、悪いことだとか思ったことは無い。むしろ、その方が楽なのではないかとさえ思う。『寂しい』だとか『苦しい』だとか、そういう思いをする事が格段に少ないからだ。けれども、別の意味で苦しいと思うことはある。間接的なもどかしさを伴うような苦しさ。それをこの一年で瑞樹は梓に教えられた。遊びのように始まったこの関係が、実は厄介なのではないかと気がつき始めたのは半年ほど前のことだ。 瑞樹のその『欠陥』のせいで、知らないうちに、梓を傷つけていたことが何度もあった。それに気がついたとき、瑞樹はとても苦しくなったのだ。恋愛感情は抱けなくても情はある。友人として、同じ場所で同じ時間を過ごす仲間としてシンプルな意味でなら瑞樹は梓が『好き』だった。無闇に傷つけたくは無い。だから、別の人間を探したほうが良いと言ったなら、その言葉さえ梓を傷つけてしまったようだった。 欠陥品でいい、恋愛感情を抱けなくてもいい、と梓は言った。セックスさせてくれりゃそれで良い、とも冗談混じりの笑顔で言った。けれどもそこに滲んでいた苦さを瑞樹は無視できない。 「何で、俺なんかが良いのか理解できない」 独り言のように瑞樹がポツリと呟けば、御影はニヤニヤと嫌な笑みを浮かべる。 「そりゃ、白井がエロいからじゃないの? 俺もいっぺん位、ヒーヒー泣かしてみたいけどな」 返ってきた答えはあまりに御影らしくて瑞樹は盛大なため息を一つ吐いて見せた。 「じゃ、御影先輩はどうして三和先輩が良かったんですか?」 やり返すように問うてみたけれど。 「そりゃ、ミワチャンがエロいから。俺、やっぱり今週末三重まで会いに行くわ。悪かったな、白井」 唐突に御影は何かを吹っ切ったらしく、古びた椅子から立ち上がると瑞樹の手から紙コップをヒョイと取り上げた。中身はとうに空になっていたそれ。 「嗚呼、そうそう。さっき寮の電話に連絡あったぜ? 梓、明日帰ってくるってよ」 クシャリと潰してゴミ箱に放り投げながら、御影は何でもないことのようにサラリと告げた。瑞樹は一瞬だけピタリと動きを止めたけれど。 「……御影先輩、ホントはそれ伝えようと思っただけなんじゃないんスか?」 呆れたように呟いた言葉に御影は背を向けて、笑いながら談話室を出て行った。 |