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『072:喫水線』 ………………

 *変態寮シリーズその(9)




 遠くの沖合いにいくつかの船が見える。嘘みたいに晴れ渡った青い空と、心地いい程度の暑さと陽気。この高台から見下ろす景色が三和幸成は小さな頃から好きだった。

 故郷は遠くにありて思ふもの

 なぜだか、そんな俳句が思い浮かび、知らず口元が苦笑の形に上がる。海から届いてくる風は潮の香りだ。磯の嗅ぎ慣れた香り。
 三和にとって故郷とは間違いなくこの土地のはずなのに、なぜだか、ほんの数ヶ月前の仮宿を思い出すとき、こみ上げて来る寂しさのような感情は、どこか郷愁に似ていた。
 ベンチに腰を下ろしたまま、ただ、じっと海を見つめる。ゆるやかな時間の中にいると、どうしても思い浮かんでくる顔があった。今もそうだ。思い出せば溜息が零れる。寂しさと迷いが交じり合ったような複雑な感情を持て余す。
 そもそも。見えない感情だとか概念を言葉で定義付けること自体、三和は余り好きではない。感情はありのまま、自然のまま、名前などつけずにそのまま受け入れていたい。けれども、時折、その不安定さに足元が揺らぎそうになったりもする。こんな弱さは、以前の三和には無いことだった。
「始めから無いものは、無くても案外耐えられるものだと思う。でも。一度知ってしまうと、それを失うのがとても怖くなる。それは、人を弱くすることと同じだと思いませんか?」
 三和にそんなことを尋ねたのは、三つ下の後輩の白井瑞樹だった。卒業を間近に控えた寮の追い出しコンパでのことだ。周りは完全に出来上がっていて、白井もかなり酔っ払っていたので、もしかしたら、白井自身はそんなことは忘れているかもしれないけれど。
 その内容は、三和の心の根底の何かに引っかかるものだったから、今でも印象に残っていた。

 遠くの空をカモメが旋回する。気持ちよさそうに飛び回る姿に、自由を感じて三和は目を細めた。今日は土曜日のせいか、父親の使いも珍しく入っていない。書道塾も昼過ぎからの子供の教室だけだ。田舎での、のんびりとした暮らし。三和には、このテンポが心地よく、一番自分にあっていると思う。けれども、些か、不自由なところもある。田舎というのは良きにつけ、悪きにつけ、あまりに世界が狭く閉じている。悪い噂など立った日には、居心地が悪く、人目が気になり買い物一つも、しづらい。だから、三和のような性癖の持ち主は、むしろ都会で生きていたほうが良いのかもしれない。けれども、やはり、この土地を捨てる気には、どうしてもならなかった。
 父には、相当昔、中学の終わりか、高校の始めか、その辺りに全てを打ち明けていた。家を追い出されるかもしれないと、正直、三和は覚悟をしていたけれど、書道の大家として名を馳せている住職の父は、けれども三和を責めなかった。
 ただ、ひたすらに、三和を問い詰めた。心の底の、見つめ難い部分にまで父はメスを入れ、むしろ、言葉少なに叱責されたほうが楽だと思うような詰問を受け、けれども、三和はその時、自分の深層まで考えさせられた。そして、出た結論は、結局、最初に父に話したことと同じものだった。父は、最後には短く分かった、と言った。そして、好きに生きなさい、と悟ったような表情で続けた。それ以降は、余計なことは何も言わなかった。何も言われなかったからこそ、三和は自分を厳しすぎるくらい、律してきたようなものだ。父は、三和を見捨てたのではなく、自分に関する責任を全て三和に引き渡したのだと思った。だから、三和は、故郷に戻り、父の後を継ぐ道を選んだ。書道の道に進んだのも半分は、その為だ。父はそれを肯定も否定もしなかったけれど。
「酔ったときにね、一度だけ、お父さん、凄く嬉しそうな顔で、幸成が戻ってきてくれて良かったって言ったのよ」
 と、母は、こっそりと三和に告げた。だから、三和は一度も自分の選んだ道を間違っているとは思ったことが無い。思ったことは無いが。
 二兎を追うものは一兎も得ず、という言葉もある。どうしても譲れないものを守るために、時には何かを切り捨てなければならない事だってあるだろう。それでも、胸の痛みと寂しさは、別の問題だ。
 高い空を燕が一直線に飛んでいく。あんなに高く飛んでいるのだから、この陽気はしばらく続くだろう。三和は、ゆっくりとベンチから腰を上げる。嗅ぎ慣れた潮の匂いに、少しだけ慰められて、足を自宅へと向けた。





「三和センセー。お願いします」
 どこか舌足らずの口調で、小さな少女が書道の半紙を持ってくる。わかば、とひらがなで書かれたその墨書を、三和は、穏やかな笑みを浮かべてしばらく眺めた。
 子供の字は良い。その形の整、不整に関わらず、とても自由で伸びやかだ。自分がとても恵まれた贅沢な事をしていると思うのは、こんな時だ。好きな事をして、好きなものにどっぷりと浸かってお金を貰っているのが、悪いような気さえする。
「うん。良い字だね。でも、ここは、もっと大きくはねて、ここは、きちんととめる」
 説明しながら朱の墨汁で三和は、少女の字を直してやった。少女は真剣な表情でそれを眺めている。三和が直しを終えると、少女はありがとうございました、と自分の席に戻っていった。
「若先生、お客さんですよ」
 と、不意に、部屋の入り口から声を掛けられる。寺の一番若い住職で、半見習いの柳谷、という青年だった。
「はい。みんな、ちょっと、一人で書いててな」
 十人ほどいる教室の子供達に三和は言い置くと、部屋を出ようとする。けれども、それより先に、柳谷の後ろから、ひょいと、彼が顔を覗かせるほうが先だった。
「ミワちゃん、ちゃんと『先生』してるんだ。なんか、良いね」
 と、実に自然な、あっけらかんとした口調で言われ、三和は、ポカンと口を開けて間抜けな表情を晒してしまった。なぜ、コイツがここにいるのか、と一瞬頭の中がハテナマークだらけになる。
「教室って、何時までなの?」
 だが、男は三和の同様など介しもせず、飄々とした態度でそんなことを尋ねてきた。あまりに馴染んだ、その口調と態度に三和は錯覚する。自分がいる場所が、実家の書道教室ではなく、数ヶ月前まで住処としていた、あの雑然とした学生寮なのではないかと。
「若先生の教室は四時までですよ」
 答えられずに絶句している三和をどう思ったのか、柳谷が横から代わりに答え、男は、もっともらしく頷いて見せた。
「じゃあ、俺、それまで時間潰してきますんで。四時過ぎにまた来ますよ。教室の邪魔しちゃ悪いし」
「そうですか? でも、この辺りは田舎ですし、時間を潰せる場所も、そうないですが」
「いえ、町の中をのんびり散歩してきます。天気もいいし。それじゃあミワちゃん、また後でね」
 そういって、胡散臭いぐらい穏和な整った笑顔を見せて、男は背を向けようとした。三和は、条件反射のようにその腕に手を伸ばし、ギュッと掴む。
「御影!」
 掴まなければ、そのまま幻のように、夢のように消えてしまうような気がしたのだ。馬鹿馬鹿しい思い込みだ。そもそも、消えてしまったところでどうだというのだ。自分は、あの日、寮を出た瞬間に、何もかもを胸の内に飲み下して来た筈なのだから。

 酷く曖昧な関係だったのだと、三和自身は捕らえていた。相手がどう思っていたかはしらない。好きだとか、付き合おうだとか、そんな明確な言葉を言ったことも無いし、言われたことも無かった。セックスしている最中に感極まっても、好き、だとは言わなかった。明確にすることに、何の価値も見出せなかったからだ。
 離れてしまえば、自然に消滅するだろうと、それで良いのだと覚悟を決めて、あの場所を出たはずなのに。

「何? どうかした、三和先輩」
 ひどく、きちんとした、丁寧な口調と姿勢で御影は尋ねた。その顔には、とても凪いだ穏やかな笑顔が浮かんでいたけれど、それが作り笑いではないと三和にはすぐに分かった。いつも浮かんでいる、どこか人を茶化すようなふざけた色も、その瞳には全く見えない。
 もともと、御影は外面はいいし、人当たりがいいので初対面の人には真面目な好青年のように映るのだ。けれども、あの寮にいた人間は、それが全くの嘘っぱちだと大抵知っているし、三和自身も、御影の本性など嫌というほど知っていると思っていた。けれども。
 今、目の前にいる御影は、三和の知っている御影とは少しだけ何かが違うように見えた。何が違うのかは分からない。分からないけれど。落ち着かない気持ちで、御影をじっと見上げると、御影は困ったように苦笑いした。
「海でも見てくるよ。三和先輩の育った町、一度、見てみたかったから」
 それだけを言うと、御影は軽く手を振って三和に背を向ける。突然の訪問をどう捉えていいのか分からず、三和は暫し困惑したまま立ち尽くしていた。けれども、すぐにその背に声が掛けられる。
「三和センセー、今の誰? すっごい男前だー」
 ませたことを言うのは、この教室で一番年上の六年生の少女だった。少女は、ふわふわとした表情で、俳優のだれそれに似ている、と御影を評した。三和はその無邪気なはしゃぎ方に苦笑いを浮かべると、
「今のは、俺の…」
 と言いかけて言葉を切った。俺の何だと答えれば正確なのだろうか。この関係は、何と答えても少しずつ嘘のような気がして三和は困った。困り果てて、結局、
「俺の、後輩だよ」
 という結論に辿りついた。そうとしか言いようが無い。それが、少しだけ寂しかった。ふと耳に言葉が過ぎる。
 始めから無いなら耐えられる。けれども、一度知ってしまえば失うのが辛い。
 自分は、一体、何を失ったというのか。何も失ってなどいないはずだ。それなのに、この感傷はなんだと思う。子供の字を直してあげながら、ふと三和は窓の外を見上げた。
 高い空を飛んでいる燕。今朝方見た燕と同じ燕だろうか。あの燕を、御影も見ただろうか。考えても詮無いことを三和は首を振って振り払うと、目の前の紙と筆と硯に意識を集中した。



「もう終わった?」
 と、遠慮がちに声を掛けられたのは、すっかり子供達がいなくなり、三和が教室の机の上を雑巾で拭いている時だった。
「ああ。あとは、この机を拭いたら終わり」
 まるで馴染んだ日常会話を交わしているような空気を不思議に思いながら、三和は答える。御影はこの場所では異分子のはずだ。けれども、妙に溶け込んでいる。どちらかと言えば身なりに気をつけて、お洒落な部類に入る男だから、こんな田舎町では浮きそうなイメージだったけれど、実際にこの場所にいるのを見ても、あまり違和感は無かった。
「この辺って、あんまりお店とかないんだね」
「ああ、田舎だからな。どうする? 夕食にはまだ早い時間だし、飲むにしてもやっぱり早いな。どこか、見たい場所でもあるか?」
 どうして、この場所に来たのか。一番聞きたくて、聞かなくてはならない質問を後回しにして、三和はそんな風に捲くし立てた。常に無いほど饒舌になっているとは自覚できない。
「うん。三和ちゃんがいつもいる場所なら、どこでも良いよ。どんな生活してるか教えてよ」
 穏やかな口調で御影は言うと、そっと三和の横に立った。不意に詰められた距離に、少しだけ緊張しながら三和は御影の顔を見上げる。見下ろしてくる目は、酷く穏やかで、優しげで、三和を困惑させるばかりだった。
「…天気もいいし、ちょっと暑いから海でも見に行くか。景色の良い場所がある」
 据わりの悪さを誤魔化すように、三和は早口で告げると、促すように教室を出た。

 三和がよく行く高台は、歩いて十分足らずの場所にある。意外と穴場で、人影は少ないけれど、見晴らしの良い場所だった。照りつける西日の太陽が眩しく、気温は高かったが風通しが良いので、案外心地が良い。海から吹いてくる、穏やかな潮風に御影が目を細めたのが横目に見えた。
「こういう場所で育つと、ミワチャンみたいな人が出来上がるのか」
 からかうように、御影はそんなことを言う。褒められたのか貶されたのか分からずに、けれども、その真意を尋ねることは憚られて、三和は、御影と同じ方向に視線をやった。すぐ近くに、大きな客船が停泊しているのが見える。恐らく、北に向かうフェリーだろう。白い船体に黒い船底。真っ青な空と深い青い海の狭間に浮かぶそれは、まるで絵葉書のように綺麗な景色を描いていた。
「…寮の皆は変わりないか?」
 視線は海岸に向けたまま、三和は、ぽつりとそんなことを尋ねる。御影は微かに笑ったようだった。
「ん。まあ、あんまり変わりないけど。ちょっと薫がトラブってるかな」
「三倉が?」
「うん。ちょっと不安定」
「……三倉は、繊細で脆いくせに、露悪的なトコがあるからな。御影、お前、ちゃんと面倒見てやれよ。副寮長なんだから」
 以前の癖で三和が、そんな風に窘めるように言うと、御影は肩を竦めて苦笑いした。
「ミワチャン、俺、もう副寮長じゃないよ。今年の副は寛太」
 間違いを指摘されて、三和は思わず、あっと声を上げた。新しい年度になって、寮長は大杉に、副寮長は寛太に代替わりしていたのをすっかり忘れていた。三和の時間が流れているように、寮での時間もまた流れているのだと思い出して、少しばかり胸の奥がチクリと痛んだような気がした。下らない感傷だ。そんな三和に気がついたのか、どうなのか。御影は淡々とした口調で、
「まあ、薫の事は俺も気になるから、見てるけど。笠井も相当テンパってるし。何やってんだろうね、あいつら」
 そう続けた。三和はそれに乗っかるように感傷を振り切り、
「不器用なんだろ。まあ、気に掛けてやれよ、俺も心配だし」
 と言葉を返した。そんな三和に、御影は苦笑を深くする。
「俺の心配は?」
「え?」
「ミワチャン、俺の心配はしてくれないの?」
 唐突に尋ねられた質問に、三和は思わず、え、と顔を上げてしまう。真正面から御影の視線とぶつかって、目を逸らすことが出来なくなってしまった。思いの外、御影の表情は真剣で、三和は言葉を失う。きゅ、と軽く唇を噛み締めると御影は何かを諦めたような表情で、ふっと息を吐いた。
「まあ、良いけど。俺から連絡しなけりゃ、とっとと忘れられるだろうなとは覚悟してたから」
 どこか自虐的にも見える薄い笑みを浮かべて御影はそんなことを言う。三和は、やはり、何と答えていいのか分からなかった。忘れたわけではない。むしろ忘れられたなら良かったのに、と思う。
「ミワチャンには、俺がずっと片思いしてただけだしね」
 不意に、真面目な顔で核心に触れるのは卑怯だと思う。三和はまだ、何の答えも用意できていないのだから。それなのに、御影からの答えだけは欲しがるのは浅ましいのだろうか。
「…御影。お前、ここまで何しに来たんだ?」
「そんなの、ミワチャン欠乏症になったからに決まってるでしょ。もう、限界。ミワチャンの幻覚が見えるくらい」
 ふざけたように御影は笑ってそういうと、三和に腕を伸ばし、その細い体をやんわりと抱きしめた。逃げようと思えば逃げられる、そんなゆるい抱擁に三和は肩の力を抜いて体を預けた。
「…寮にいる間だけの遊びじゃなかったのか」
 呟くように三和が零した言葉に、御影は少しだけ腕の力を強くする。
「そういう態度の方がミワチャンが楽かなと思ってたから、そうしてただけだけど」
「…別に、俺は、そんなつもりは…」
「あったでしょ。真剣になったらダメだとか、そういう風にブレーキ掛けてたの、分かってたよ」
 予期せぬ図星を突かれ、三和は絶句する。まさか、そこまで見抜かれているとは思わなかった。御影の言うことは事実だ。好き嫌い云々の前に、三和は理性的に未来を見据えすぎていたのだ。必ず、実家に戻り、家業を継ぐつもりでいた。その意思は絶対に曲げられない。だから、仮にあの場所で恋愛の真似事をしたとしても、結局は、その中だけの期間限定のことだと割り切っていた。そもそも、三和は同性愛者で、相手と結婚できるわけではない。自分の実家に来て、伴侶になってくれとは、誰が相手でも決して言えないだろうと端から諦めていたのだ。だから、御影の言うとおり、三和は心のどこかで必ずブレーキを掛けていた。そして、御影のことなど、これっぽっちも信用していなかったし、期待もしていなかったのだ。
 三和は、そんな自分にやりきれない嫌悪感と、寂寥感を抱く。きっと、三和は死ぬまで、何もかもを捨てても良いと思えるような情熱的な恋愛など経験できないだろう。ある意味、人として何かが欠けているのかもしれない。けれども、そんな欠陥品であるはずの三和に御影は言った。
「でも、俺、本気だから。諦めるつもりも無いし。前にも言ったけど、さっさと司法試験に受かって、ここにきて仕事するから」
 心許ない表情で三和が御影の顔を見上げると、御影はふ、と優しげな笑みを浮かべて三和に触れるだけのキスを落とした。
「そしたら、ミワチャン、少しは俺のこと信用する?」
 思いもかけない真剣な表情に、三和は困惑が先行する。一度だけ、卒寮する直前に確かに御影はそんなことを言った。三和が実家に帰るなら、自分が追いかけるしかないから、資格を取ったら三重に行くのだと。けれども、三和はそれを話半分にしか聞いていなかった。離れて時間が経てば、すぐに気が変わってしまうだろうと。今でも半分はそう思っている。だから、三和は正直に首を横に振った。
「…別に、俺じゃなくても良いだろ…御影は…モテるんだし、すぐに代わりが見つかるよ」
 途切れ途切れの小さな声で答えた三和に、御影はすっと表情を消し、どこか怒ったような表情でじっと見下ろしてきた。いつもの穏和な空気を脱ぎ去り、どこか、冷淡ささえ感じさせるようなその視線に、三和はひやりと背筋に冷たいものが走るのを感じる。
「どこにいるの」
「え?」
「だから。ミワチャンの代わりなんて、どこにいるのかって聞いてるんだけど」
 責めるように、詰るように掛けられた言葉に三和は口を噤む。御影と体だけの関係を結んだのは一年足らずの期間だったが、つきあいなら三年間あった。その間に、一度たりとも、御影が本気で怒っているところを三和は見たことが無い。けれども、今は怒っているのだと思った。
「別に、俺と同じ気持ちをミワチャンに返して欲しいなんて思ってない。そんなの、最初から信用してなかったし、期待もしてなかった」
 突き放すような、冷たい言葉に三和は胸の奥を鋭利な刃物で突き刺されたような気がした。自分と同じ事を御影はしただけだ。お互い様のはずなのに、傷ついてしまう自分が勝手だと自己嫌悪した。けれども、御影は容赦が無い。断罪するように、さらに言葉を続けた。
「だって、ミワチャンは、そういう意味で誰かを好きになれない人だって知ってたから」
 三和ははっとして目を見開き、心もち、顔を青くして御影の顔をじっと見つめた。正面切って指摘されたことなど初めてだった。そもそも、三和にとってそれは明らかな『罵倒』なのだ。けれども、指摘された三和よりも、御影はもっと傷ついたような顔をしていた。
 その時になって、三和はやっと気がついた。自分の言葉が御影を怒らせただけではなく、傷つけてしまったのだと。
「……御影…」
「ミワチャンのこと、責めたいんじゃない。俺は懇願しに来ただけ」
 それでも、三和が困ったように、不安げな表情でオロオロとすれば、御影は表情をふっと緩め、三和の髪を柔らかい仕草ですっと梳いた。
「別に同じ気持ち、返してくれなんていわないよ。ただ、隣にいさせて欲しいだけ」
 何かを諦めたように笑う御影が、切なくて仕方がなかった。その『何か』を諦めさせているのは、紛れも無く自分なのだ。
 体だけの冷めた関係だと自分に言い聞かせながら、三和は、どこかで知っていたはずだ。御影が、三和と関係を結んだ時から、決して別の人間に目を向けたことも、ましてや、別の人間と関係を持ったことも無かったことを。けれども、答えを避け続けていたのは、色々なことが重かったからだ。
「俺は、御影に返してやれるものが何も無い」
「だから、別に、何かが返して欲しくて好きなわけじゃないって。俺が、勝手に片思いしてるだけ」
 力なく苦笑いする御影に、三和はなぜだか泣きたい気持ちになった。『同じ気持ち』ではないかもしれないけれど。決して御影は『片思い』などではなかった。それを伝えたいのに、伝える言葉が見つからない。
 好きだ、とは言えなかった。御影の言う『好き』と三和の『好き』は言葉の意味が違っていると知っていたから。それでも、いつの間にか、御影が自分の中の、ずっと深くまで入り込んでしまっているのは嘘ではないのだ。三和の中に、これほどまで深く入り込んだ他人は、今まで誰もいないのだと本当は伝えたかったけれど。その答えが、御影の望むものとは違うような気がして、結局、三和はそれを言葉には出来なかった。
 視線を、御影の肩越し、遠い沖合いに移す。浮かんでいる大きな船舶。あの喫水線のように、心の深さが目に見えればいいのに、と、子供のような馬鹿馬鹿しいことを三和は真面目に考えた。
「……御影。俺、待ってるから」
 辛うじて、それだけを口にした三和に、御影はどう思ったのか、深い息を一つ吐き出した。
「うん。そうだね。俺、また、限界が来たらミワチャンに会いに来るし」
「ああ。俺も……そのうち、寮に遊びに行く」
 今まで、何度も考えて出来なかったことを三和は口にした。口にしてしまえば、何でもない簡単なことのように思えるから不思議だった。何を子供のように、意地を張っていたのだろうかと力が抜ける。
「そうしてよ。寮の皆も喜ぶし」
 御影は、最後にギュッと強く三和の体を抱きしめると、そっと腕を外した。それから、悪戯な笑みを浮かべて三和を見下ろしてくる。もう、いつもと同じ、見慣れた御影の表情そのものだった。
「それに、俺が一番喜ぶから」
 と、御影は三和の耳たぶを舐めるように囁き、三和はその顔に朱を上らせる。
「お前の、そーゆー所が俺は、嫌なんだよ!」
 逃げるように耳を押さえ、三和が怒ると御影は声を立てて、ケラケラと笑った。二人の頭上高く、燕がのんびりと飛んでいく。何とはなしに三和がそれを見上げると、御影もまた、顔を上げて、青い空を仰いだ。

 同じ燕を見つめ、同じ空を仰いでいる。

 それだけで良いのだ、と、どこか凪いだ心で思いながら、三和はそっと目を閉じた。






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