『032:鍵穴』 ……………………………… |
※『001:クレヨン』の続編です。そちらを先にお読みください。 そもそも、『鍵』という言葉自体が様々な意味を内包しているのだと、福王寺孝也(ふくおうじたかや)はじっと手の平の中にある『それ』を見つめながら深々とため息を吐いた。 推理を解く『鍵』だとか、重要な役割を果たす人物を『キーパーソン』と言ったりだとか。何かを解決するのに必要なそれを人は良く『鍵』という言葉で表現したりする。孝也にとってのそれは、何かを明け渡す象徴だった。 心を明け渡す。 体を明け渡す。 孝也の切実な悩みを、親友である藤間は、 「まあ、鍵と鍵穴自体がセックスを連想させたりするしなあ」 などと意地悪な笑顔を浮かべてからかった。それほど下世話な発言だとは思わないが、それでも孝也は顔を真っ赤にして絶句してしまった。それを見た藤間は苦笑を浮かべただけで、それ以上はからかっては来なかったけれど。 アパートの部屋の合鍵を作ったのはもう一ヶ月も前の話だ。けれども、未だにそれを渡そうと思った相手には渡せていない。つまり、四ヶ月ほど前に手の込んだ告白をしてきた、今は『恋人』と呼ばれるポジションにいるはずの後輩の男に、だ。後輩の名前は横越邦光(よこごしくにみつ)と言う。 「で? ぶっちゃけ、孝也自身はセックスしたくないワケ?」 苦笑を浮かべたまま藤間に尋ねられ、孝也は頬が赤くなるのを抑えきれずに、それでも首を横に振った。孝也が注文したアイスティーは手付かずのままテーブルに水溜りが出来るほど汗をかいている。氷は殆ど溶けてしまっていた。 「そういうワケじゃ無いけど…」 「無いけど?」 「そう言う雰囲気になるとどうしても緊張する」 そして、そういう硬い空気を感じ取ると邦光は拍子抜けするほどあっさりと引くと言うのだ。 「なるほどねえ」 藤間はグラスの氷をカラカラと音を立てながらかき混ぜて、やはり苦笑を零した。おそらく本人は至極真面目に悩んでいるのだろうが、聞かされるほうにとってみれば馬鹿馬鹿しいことこの上ない。殆ど惚気を聞かされているようなものだ。だが、孝也にその自覚は全く無いだろう。 そもそも、孝也の保護者を自負している藤間にとっては、まるで初夜の心得を娘に請われている父親のような心境なのだ。孝也の背中を押すべきか、それとも引き止めるべきか暫く思い悩み藤間は沈黙した。 高校を卒業し、孝也と藤間は比較的離れた大学に進学した。だから以前のように頻繁に会って遊んだりすることは出来ない。それでも時々、こうして時間を作ってはお互いの近況を報告しあったりしている。 藤間は自宅生だが、孝也は自宅から中途半端に離れている大学だったので、今はアパートに独り暮らしをしている。とは言え、自宅まで鈍行で一時間程度の距離だが。邦光は今年受験生で、距離が離れていることも相まって殆ど遠距離恋愛のような状態だった。それでも、二日と置かずに電話やメールでコミュニケーションを取っているので、それほど不安は無いはずだった。不安は無いが離れている分、思いは募る。 孝也だって男なのだから、キスしたりセックスしたいという欲求が無いだなんて嘘だ。一ヶ月に数度しか会えないけれど、会えば触れ合いたいと思う。けれども、行き着く所まで行ってしまうことをどうしても躊躇してしまうのだ。それは、高校時代、ずっと自分の恋心を隠して、押し殺してきたことの後遺症だと孝也は思っている。 もっとも、藤間辺りは、それは後遺症じゃなくて単なる性格だと言うだろうが。孝也が初めての事や未知のことに臆病になってしまう性質であることを藤間は孝也本人よりも良く知っていた。だが、それを教えて勇気付けてやるつもりなど毛頭無い。 「久しぶりに会う親友に、初めてのエッチについて相談されるってのもなあ」 そうぼやきつつも、孝也を見る藤間の眼差しは少しも変わりが無い。穏やかで優しさが滲み出している。その暖かさにほっとしながら孝也はようやく、ぬるくなりかけているアイスティーに口をつけた。 「何か、きっかけがあれば良いんだと思う」 だから、邦光に自分の部屋の合鍵を渡したいと孝也は思っていた。もっと深く触れ合いたいと直截に誘うことが出来れば一番良いのかもしれないけれど、とてもそれは無理に思える。だから、間接的にメッセージを伝えたかった。 ここまで入ってきて良いのだと。 自分はすでに邦光に気持ちも体も明け渡しているのだと。 藤間はふっと口元を緩めて、胸のポケットからタバコを取り出す。それに火をつけて一呼吸置いてから、 「お前、何か聞いただろ?」 と、孝也の目を真っ直ぐに見つめた。孝也の目は取り立てて大きいというわけではないが、どちらかというと黒目がちではっきりとした二重だ。派手ではないし、華美でもない。万人の目を引くというわけでもないが、落ち着いた品のある目元を藤間は気に入っていた。 その黒目がちの瞳がゆらゆらと揺れている。不安と焦りが混じり合って、それは今までの孝也には無かった艶を醸し出していた。こんな目で見つめられたら邦光もたまったものではないだろうと藤間は同情を禁じえない。同時に、こんな孝也を前にして理性を保っている邦光にひたすら感心した。そう言えば、1年半もじっと待ち続けた男だったなと思い出す。そもそも、それだけの男でなければ藤間は許す気などさらさら無かった。だが、そんな二人の無言の攻防など、目の前の人間は少しも気がついていなかったのだろう。当然、今現在も。 やれやれ、と藤間は煙を吐き出しながら肩をすくめた。 「隣の女子高の1年だっけ?」 口をつぐんで俯いている孝也の代わりに藤間が不安の在り処を言い当てる。孝也の少年らしさを残した肩が微かに震えたのを藤間は見逃さなかった。 「目が孝也に似てる女の子だって聞いたけど」 はっきりとした口調で藤間が言うと、孝也はそれまで詰めていたのだろう息を深々と吐き出した。それから、少しだけ言いづらそうに、 「…邦光を信じてないわけじゃ無いんだけど…」 と言った。だが、離れている自分と、すぐそばにいる少女を比べるとやはり心穏やかではいられないのだろう。 隣の女子高の、今年の1年生の生徒が邦光に惚れ込んで、どうやら言い寄っているらしいと孝也が聞いたのは一ヶ月前のことだ。邦光に聞いたのではない。たまたま電話した同好会の後輩から聞いたのだ。邦光はそんなことは一言も言っていなかったので、孝也はそれが初耳だった。 「結構かわいい子なんですよ。何か目元が孝也先輩にちょっと似てる」 軽い口調でその後輩は言っていたけれど、孝也は動揺しまくってしまった。次の週に部屋に遊びに来た邦光に自分から誘いを仕掛けるほど。その癖、行為が本格的に始まりそうになった途端、尻込みしたのも孝也だった。 孝也も男なのだから、それがどんなに最低なことなのか十分承知している。だが、邦光は孝也を責めなかった。ただ切なそうに苦笑しただけで、 「孝也先輩が、嫌だってことは絶対にしないよ」 と穏やかに言った。それが、ますます孝也を追い詰めることになるのだ、などと邦光は思いもしないのだろう。 「信じてないわけじゃないけど、不安だからとりあえずヤっとこうって?」 呆れたように藤間が言えば、孝也はハッとしたように顔を上げた。言い訳を許さない真っ直ぐな瞳が孝也を見つめている。眼鏡の奥の瞳はいつでも迷いが無い。特に孝也のことに関しては。どうしてそこまで分かってしまうんだろうかと孝也が不思議に思うくらい。 「そう言うのは邦光も喜ばないと思うけど?」 図星を突かれて孝也は無意識に唇を軽く噛み締めた。 「それに、そういうのは孝也らしくない」 更に言い訳を許さず藤間は続けた。けれども、孝也は頭の片隅で理解している。藤間が厳しいことを言うのは孝也が後悔しないためなのだ。それくらい分かっている。分かっているけれど。 「…俺らしいって、どういうのだよ」 愚痴るように孝也が呟くと藤間は、ふっと表情をゆるめた。 「無理に早く歩く必要は無いって事。邦光はお前がどんなにゆっくりでも待つだろ。…………そうだよな? 邦光?」 藤間の言葉に、え? と孝也が顔を上げると、一体いつの間にか来ていたのか、息を切らせて頬を紅潮させた邦光が立っていた。少しだけ、怒っているような表情を浮かべている。 「孝也先輩が嫌だって思うことはしません。でも、藤間会長の策略には乗りません」 憮然とした表情で邦光が言えば、藤間はニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべたまま、 「俺は元会長。今はお前が会長だろう? それに、俺は策略なんて張ってないけど?」 と返した。 「孝也先輩に暗示をかけるのは策略じゃないんですか?」 「人聞き悪いな。別に暗示なんてかけてないぜ? 孝也の頭を整理するために誘導してやってるだけだけど?」 「それが策略だって言ってるんです。それに…」 邦光は少しだけ言いよどんで、それまで藤間に向けていた視線をチラリと孝也に移した。それから、言いにくそうに、 「俺だって聖人君子じゃありません」 と声のトーンを落として言い切った。 何の話か全く分からずに、そもそも、なぜ邦光がこの場に現れたのか分からず、孝也はきょとんと二人の顔を交互に見やる。 「……大体、俺は、ちゃんと1年半待ちました。その後のことは藤間会長には干渉されることじゃ無いと思います」 「だから今の会長はお前だって」 藤間がおどけたように肩をすくめるのを邦光は憮然とした表情で睨みつけている。何が起こっているのかやっぱり分かっていない孝也は不思議そうに小首を傾げた。 邦光はどこか苛々したような表情で藤間を睨んでいるが、藤間は一向に頓着していない。からかうような、面白がるような笑みを浮かべて邦光を見つめ返している。時々、この二人はこんな雰囲気になることがある。それも必ず孝也を間に挟んでいるときだけ。何が原因なのか分からずに、孝也は落ち着かない気分で二人のやり取りを見守っていたが。 「孝也先輩、行こう」 埒が明かないとばかりに、邦光は藤間を睨むのをやめ、孝也の腕を取った。 「え? ちょ…ちょっと。邦光?」 腕を引かれながらも、孝也は慌てたように藤間を振り返る。だが、藤間は二人を引き止めるでもなく、薄い笑みを浮かべたままひらひらと手を振っただけだった。 「藤間会長は、ただ単に、俺の方が孝也先輩に近くなるのが気に入らないだけなんだと思う」 頑なに藤間を『会長』と呼び続ける邦光に孝也は首を傾げるが、そこに潜む感情には思い至らない。微かな劣等感と嫉妬から来る嫌味を多分に含んでいるのだと知っているのは呼ばれている藤間本人だけだ。 「でも、藤間と俺はただの友達だけど?」 「そんなこと知ってる」 何の後ろめたさも持たずに孝也が説明すると、邦光は憮然とした表情のままキュッと孝也の手を握り締めた。そんなことは知っている。藤間がそう言う意味で孝也を大事にしているわけではないということなど。でも、だからこそ性質が悪いのだ。藤間だけが常に冷静で、自分ばかりが振り回され、分が悪い。だが、孝也のことになると邦光はどうしても感情的になり目がくらんでしまうのだから仕方が無い。 結局、邦光に引っ張って行かれ、孝也は近くの公園のベンチに座らせられた。二人並んでボソボソと話しているのを、不思議そうな表情で見ながら子供達が通り過ぎる。夕方近くの公園は、学校帰りの子供達で賑わっていた。 「俺が、孝也先輩に例の1年のこと言わなかったのは変な心配掛けたくなかっただけだよ。それに、言うほどの事でもないと思ったし」 それだけ自分は孝也しか見ていないのだと邦光は臆面も無く告げた。元々、邦光はずるさを全く持ち合わせていない人間だったが、殊更、孝也に対しては駆け引きや小細工など用いない。告白の仕方は確かに凝っていたけれど、気持ちが通じ合ってからは、いつだって、直球過ぎるほど直球勝負で孝也のほうが気後れするようだった。 けれども、邦光のその真っ直ぐさが孝也は好きなのだ。孝也を真っ直ぐに見つめてくる黒い瞳には何の迷いも無い。ただ、真摯な邦光の気持ちだけがそこには溢れている。その眼差しを見つめ返していると、孝也の迷いや不安は綺麗に溶けてなくなった。孝也の心の奥にポツンと座っている邦光に対するその気持ちは何も変わっていない。それに気がついた。だから、少しだけ考えて、ポケットにしまったままの鍵を一つ取り出す。 「…邦光。これ、やる」 ボソボソと口元だけで言いながら手を差し出せば、邦光は一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐに鮮やかな笑顔を浮かべた。 「孝也先輩のアパートの鍵?」 「うん」 「俺が貰って良いの?」 「うん」 「それって、孝也先輩の中に入っても良いって意味だよね?」 『鍵』は孝也にとっては、明け渡すという象徴。 心を明け渡す。 体を明け渡す。 大事なのは、セックスするとかしないとかじゃない。気持ちなんだと今更のように孝也は納得した。体は気持ちの後からついて来ればいい事で、藤間の言うとおり無理に早く歩く必要なんてないと素直に思えた。逆に、気持ちに逆らって体を後回しにする必要も無い。だから照れ隠しに孝也は俯いて、 「良いよ」 と答えた。 「今度、遊びに行っていい?」 「良いよ」 「孝也先輩がいない時でも部屋に入っていい?」 「良いよ」 「夏休みに泊まりに行ってもいい?」 「良いよ」 「その時に抱いてもいい?」 「良いよ」 と、答えてから、孝也は、 「あっ!」 と弾かれたように顔を上げた。邦光は悪戯に成功した子供のような笑顔で孝也を見下ろしている。誘導尋問に引っかかったような気分で、少し釈然とはしなかったけれど、それでも孝也は前言撤回しようとは思わなかった。照れたように、少しだけ怒ったように頬を染めて上目遣いで孝也が睨みつけると、邦光は困った、という風に苦笑いした。 「孝也先輩、その表情は反則」 そう言われても、一体自分の顔の何が悪いのか孝也には分からない。邦光は、 「そこが孝也先輩だよなあ」 とやっぱり苦笑を零したけれど。 「夏休み、泊まりに行く約束したこと、藤間会長には絶対に内緒だよ」 と、釘をさすことだけは忘れなかった。 |