novelsトップへ 『032:鍵穴』へ

『001:クレヨン』 ………………………………

 下駄箱の中、内履きの上にそっと置かれていた手紙に福王寺孝也(ふくおうじたかや)は気がついた。この光景はマンガだのドラマだので見たことがある。こういう場合、十中八九、この手紙はラブレターであると思われたが、孝也はそこで真剣に悩みこんでしまった。
 なぜなら、孝也が通っている高校は紛う事なき男子校だからだ。もちろん、男子校にありがちな男同士の擬似恋愛を楽しんでいる生徒もいないことはない。やはり、コレは男からの手紙なのだろうかと、恐る恐る孝也はそれを手に取った。表面を見れば、少しだけ右肩上がりの真面目そうな字で『福王寺孝也様』と書いてある。間違いなく自分あてらしい。
 いや、だがしかし、もしかしたらラブレターではなく、果たし状とかそんな類の手紙かもしれないと気を取り直して孝也はそっと中身を封筒から取り出した。もっとも、孝也は見た目も決してゴツくはないし、性格だって極めて穏やかでおとなしい。果たし状などもらうような好戦的な少年では決して無かった。
 どこか感傷的な雰囲気漂う 卒業式当日の生徒玄関で、孝也はカサカサと音を立てて手紙を広げる。動揺のあまり、周囲に気を配る余裕も無かった。
 だがしかし、孝也の不安と少しばかりと期待を見事裏切るかのように、その真っ白な便箋には何も書いていなかった。ただの一字も。文字通りの白紙。孝也は眉間に皺を寄せてじっとその白紙を睨みつける。これはひょっとしてからかわれたか、ただの悪戯か、と少しだけ面白くない気持ちになった。
「白紙の手紙ってのも珍しいな」
 ふと後ろから声を掛けられて孝也は驚いて振り返る。
「…藤間か。びっくりした」
「おはよ」
「はよ。やっぱり悪戯かな?」
 そう言いながら長身の藤間に孝也は手紙をひらひらと振ってみせる。藤間は腕を組んでしばらく何かを考えていたようだったが、不意に眼鏡の奥の温和な瞳を悪戯っぽく瞬かせて、
「暗号かもな?」
 と笑った。
「まさか。小説じゃあるまいし」
 孝也は肩を竦める。いくら藤間がミステリー同好会の前会長だとて、すこしかぶれすぎではないかと思った。
「あぶり出しの手紙かも」
「こんな薄っぺらい紙で?」
 孝也が呆れたように肩をすくめて見せると藤間は声を立てて朗らかに笑った。
「おまえも、一応ミステリー同好会の会員なのになあ。変に現実的だよな」
 そう言いながら二人並んで教室に向かう。185センチを超える藤間と、165センチ強しかない孝也が並んで歩いていると、まるで時計の長い針と短い針のようだとよく友人たちに笑われたものだが、それも明日からは滅多に見れない光景になるのだろう。二人の進学した大学は違う大学だからだ。
「そう言えば、邦光が式前に部室来てくれって言ってたぞ?」
「なんだろ?」
「さあな。いつものプレゼントじゃねーの? とにかく伝言したからな」
「ああ」
 そう相槌を打ちながら、さすがのリアリストの孝也も少しばかり感傷的な気持ちになってしまった。
 横越邦光(よこごしくにみつ)はミステリー同好会の現在の会長で、孝也の一つ下の後輩だ。同好会に入会した時からなぜか孝也に懐いていて、今では一番仲の良い後輩だった。だが、その邦光とも明日からは接点が無くなり、つきあいも薄くなるだろう。そう考えると孝也の胸は切なく痛む。
 いつから、こんな風に感じるようになったのだろう。気がついた時には抜け出しようが無い感情にどっぷりとはまっていた。
 孝也は横越邦光が好きだった。





 邦光が孝也に何かをプレゼントするのは別に珍しいことではない。
 一番最初に貰ったのは、確かハンカチだったはずだ。藍染の上品な瑠璃色のハンカチ。旅行のお土産だと言って渡されたそれを、孝也は何の疑問も抱かずに礼を言って受け取った。次にくれたのはちょっとした小さな写真集。色をテーマにして編集されたそれは、やはり瑠璃色を基調としていた。
 その次に貰ったのはシンプルなデザインのTシャツで、それもやはり瑠璃色だった。その時に孝也が気がついて、どうして瑠璃色ばかりなのかと邦光に尋ねたら、
「孝也先輩に一番似合う色だと思ったから」
 という実に簡単な答えが返ってきた。確かに、色の白い孝也に瑠璃色のTシャツは良く似合っていた。藤間も、
「邦光は良く分かってるな。その色、孝也にぴったりだ」
 と、何か含みのある口調で言っていた。
「華美じゃないのに綺麗で、落ち着いていて、清潔感があって、深みもある」
 藤間はからかうようにそう続けたが、それが瑠璃色に対する評価なのか、孝也に対する評価なのかはさすがに尋ねることが出来なかった。
 その後も、邦光は孝也に他愛の無いプレゼントをし続けた。柄が瑠璃色のスプーンとフォークのセット、瑠璃色のガラスで出来たペーパーウエイト、誕生日には少し値の張るラピスのピアスをくれたが、それ以外は高価なものではなかったので、孝也もあまり負担を感じることなくそれを受け取っていた。
 そのお返しとして、孝也は邦光の誕生日にダイバーズウオッチを贈った。決して安い買い物ではなかったから、邦光はしきりに申し訳ながっていたが、いつもプレゼントしてくれるし、その分のお返しも含めているのだと孝也が照れ隠しに誤魔化したら、邦光は気分を害してしまった。
 お返しが欲しくてプレゼントしていたわけではない、と。
 だが、孝也は言い訳が出来なかった。
 本当は純粋に邦光にプレゼントがしたかっただけだ。少しくらい高くても、邦光の喜ぶ顔が見たかったから。
 どうしてそんな本当の気持ちを伝えることが出来ただろう。
 その時にはすでに、孝也は邦光をすっかり好きになってしまっていたのだ。
「どうせ、もう少しで卒業だろ? 告白してみたら?」
 と、いつの間にか孝也の気持ちを見破っていた藤間は優しく言ってくれたけれど、孝也にはそんな勇気は到底もてなかった。拒絶されて嫌悪感を抱かれて、二度と会えなくなるくらいなら、先輩と後輩と言う関係に甘んじてでも、たまに会ったり出来たほうがよっぽど良い。自分の恋心を孝也は一生封印するつもりでいた。






 推理小説で大事なのは伏線の張り方だと藤間や邦光は言う。
 いかに印象的に、だがしかしそれが伏線だとは思わせずに自然に描写するか。それが上手い小説ほど、真犯人が当てにくいと。
 ミステリー同好会の活動内容は、新しく出たミステリー小説の評論をしたり、連載中の推理小説の犯人を予想しあったり、時々はふざけてサスペンスドラマのビデオを鑑賞して、だれが真犯人を一番最初に当てられるか競争したりとか、そんな暢気な平和なものだった。
 その中でも藤間と邦光は特に洞察力が鋭いのか、周りが驚くほどの的中率でもって真犯人を当てて見せた。それと逆に孝也は最後の最後まで犯人が分からなかったりする。
「孝也先輩は基本的に洞察力が足りないんだよ。鈍いとも言うけど」
 などと邦光は失礼なことをカラカラと笑いながら言った。
「成績の良さとこういうのって関係ないんだなあ」
 などとも感心したように言う。確かに、孝也の成績は決して悪くない。いつでも上位をキープしていたし、藤間とも同じような成績だ。だが推理の話になると孝也は全く藤間には敵わない。
 だが、それでも孝也はミステリー小説が好きだった。最後に、小気味良いほど謎がすっきりと紐解かれていく。それを知っていく過程が爽快でいくつもの作品を読んだ。もともと藤間とは気の合う親友だったし、邦光が入会してからはなおさら、同好会の活動日が楽しみだった。その場所は、孝也にとっては酷く居心地の良い場所だったのだ。けれども、その場所も今日で卒業しなくてはならない。
 感慨にふけりながら孝也が部室のドアを開けると、中では椅子に腰掛けながら邦光が新刊らしき小説を読んでいた。まだ孝也が買っていない本で、反射的に、
「それ、俺読んでない、終わったら貸して」
 と言いそうになり、しかし、それを喉の辺りで押しとどめた。気軽に本を借りて気軽に返す。そんなことを邦光が卒業してまで続けてくれるのか不安になったからだ。
「ああ、孝也先輩」
 読みかけていた本から視線を上げて、邦光は柔らかな笑顔を浮かべた。邦光はどちらかと言えばあっさりとした顔立てで、それでいて男らしい印象を受ける。背も藤間ほどではないが割りと高い。恐らく孝也より10センチは高いだろう。
 対して孝也はどちらかといえば優しげな中性的な印象の顔をしているので、最初は邦光に対してコンプレックスを刺激されて抵抗を感じたりもしていたが、それも気がつけば、いつのまにかきれいさっぱり消えてなくなっていた。
「何か、俺のこと呼んでたって藤間に聞いたけど?」
「ああ、うん。最後のプレゼント渡そうかと思って。卒業記念」
 そう言いながら邦光は小さめの包みを孝也に差し出した。『最後』という響きに、孝也の胸はズキンと痛む。そこそこの重さを感じるそれは、少し揺らすとタプンと液体らしき音を立てた。
「何?」
「開けてみれば?」
 そう言われて、ガサゴソと包みを開ければ、中から水性のカラーインクのビンが出てきた。色はもちろん瑠璃色だ。けれども、カラーインクと言うチョイスに微かな違和感を孝也は感じる。孝也は別にイラストや絵を描く趣味など持ち合わせていない。なのに、なぜカラーインクなのだろうと孝也は首を傾げた。それを選んだ理由を尋ねようと孝也は顔を上げ、そして言葉を失った。
 邦光は目を細めて、眩しいものを見ているかのような表情をしていた。顔は微かに笑っているようだったが、それでも、どこか切なそうで、見ている孝也までつられて切ない気持ちになってしまった。もう、この場所で邦光と他愛の無い会話を繰り広げることもないのだ。それが無性に寂しかった。
 衝動的に、自分の気持ちを打ち明けてしまおうかと孝也は微かに口を開きかける。だが、孝也が勢いに任せて告白する機会は与えられなかった。
「孝也先輩、ソレ何?」
「あ? え?」
「ポケットからのぞいてる。手紙?」
「あ…ああ、うん」
 孝也は視線で促されるままソレを制服のポケットから取り出した。カサカサと音を立てて、白紙の便箋を取り出してみせる。
「なんか、今朝、下駄箱に入ってた。でも……白紙だったし。悪戯だと思う」
 ボソボソと孝也が答えると、邦光はふうんと相槌を打ちながら、その手紙を取り上げ、それからそれを丁寧にたたむと封筒にしまった。
「ラブレターじゃないの?」
「まさか。白紙のラブレターなんて聞いたこと無い」
 孝也が即座に否定すると、邦光は苦笑いを浮かべて肩をすくめて見せた。
「ホント、孝也先輩って鈍いよね」
「何でだよ」
 バカにされたと孝也がムッとすれば、邦光はその手紙をストンと孝也の制服のポケットに戻した。
「卒業式に手紙を送るなんて、十中八九ラブレターだって普通推理できない?」
「……でも白紙だし」
「あっきれるー。先輩、それで良く三年間もミステリー同好会の会員やってたね。その白紙の中に何か意味があるんじゃないの?」
 そう言われてみればそんな気もする。そう言えば、藤間もそんな事を言っていた。だが、推理音痴の孝也にはその白紙の意味などさっぱり予想も出来なかった。
「……邦光は……」
 何かを問いかけようとした声は予鈴の音にかき消される。
「早く行かないと式、始まっちゃうね」
 そう言って邦光は孝也を促す。背を押す邦光の手に、内側から発生する熱を感じながらも、結局、孝也はそれ以上何もいう事が出来なかった。








 式の終わった教室でぼんやりと窓の外を眺める。教室の中は寄せ書きを交換したり、何となく名残惜しくてダラダラと居残っている人間でざわめいていた。式の間中、孝也はずっと白紙の手紙の意味を考えていたが、やはり何も思い当たることは無かった。この手紙の差出人は、この余白に一体、どんな思いをしたためていたのだろうか。机の上に腰掛けて思考にふけっていると、コツンと卒業証書を入れた筒で頭を軽く叩かれてしまった。
「……藤間」
「どうしたよ、そんな呆けた顔して。感傷に浸ってた?」
「…そういうわけじゃないけど」
 そう言いながら孝也はポケット手紙を取り出した。
「この手紙。意味があるのかなと思って。邦光も、何かの暗号じゃないかって言ってたし…」
 手の中の手紙を当所も無く弄っていると、藤間はそれを横から取り上げた。それから孝也の許可も取らずに中身を取り出して広げると、もう一度白紙を確かめる。すかしたり、表面を触ったりして検分していたようだったが、
「ふうん」
 と言っただけで、その便箋を孝也に返した。
「そういや、邦光から何を貰ったって?」
「うん? カラーインク。瑠璃色のカラーインク」
 ちょうど手元にカバンがあったので、そこから現物を取り出して、藤間に振ってみせる。瑠璃色の綺麗な液体がちゃぷんと音を立てて揺れた。
「インク?」
 藤間は訝しげな表情でそれをじっと見つめていたが。
 唐突に弾かれたように声を立てて笑い始めた。
「藤間……?」
 笑い続ける藤間を孝也は何事かと呆気に取られて見ていた。藤間はひとしきり笑い終えると息を整え、孝也と真正面から向かい合った。
「孝也。ミステリーで大事なのは何だ?」
「……はあ?」
「大事なのは何だ?」
 唐突な質問の意図を測りかねて孝也は思い切り訝しげな表情を作ったが藤間は全く頓着しない。
「…ミステリーで大事なのは伏線、だろ?」
「そう。伏線。それとわからないように自然に、けれども印象的に張られたのが良く出来た伏線だって言っただろ?」
「…それは何べんも聞いたけど…それが何だよ?」
「お前、この手紙ちゃんと調べた?」
「ちゃんとって?」
「すかしたり、触ったりしたか?」
「……してない」
「これだよ。ワトソン君、君はつくずく探偵には向いていない」
 そう茶化しながら藤間はやっぱり笑った。
「わるかったな。で、ホームズ君。お前にはこの手紙の意味が分かんのか?」
「当然。実に初歩的な手法だって。この表面ちょっと触ってみな」
 促されて孝也がその表面をさっとなぞると、何かの引っ掛かりを指先に感じた。ふとその指先を見れば白っぽく汚れている。もしかして、と孝也が思うのと、
「白い便箋に白で書けば何も書いてないように見えるよな?」
 と藤間が言うのは同時だった。
「孝也。指先のにおいをかいでみろよ」
 慌てて、孝也が指先の白い汚れを鼻に近づけると、微かに覚えのあるにおいがした。
「………クレヨン」
「ご名答。クレヨンは水を弾く。お前が貰ったのは水性インクだろ?」
 藤間はそこまで言うと、実に楽しそうに笑って見せた。
「ここまで言えば鈍いお前でもさすがに分かるよな? 分からなきゃ、ミステリー同好会のOB会から除籍するぞ」
 そんな藤間の言葉も耳を素通りする。孝也は慌てた仕草でインクの封を解き、蓋を開け、便箋の上にタラリと数滴零すとそれを躊躇無く指先でざっと広げた。
 孝也の白い綺麗な指先が瑠璃色に汚れたが、孝也はそんなことに構っている余裕は無かった。
 鮮やかな藍色の中にぼんやりと浮かび上がる白い文字。そこに書いてある言葉を読み取るや否や、孝也は藤間の存在など忘れてしまったかのように勢い良く踵を返して教室を飛び出してしまった。

 『貴方が好きです     横越邦光』

 そこには、それだけが書かれていた。












「さすがに次期ミステリー同好会会長だけはあるな」
 と、感心したように言いながら、落ちている便箋を藤間は拾い上げる。
「しっかしまあ、気の長い男だなあ。1年半もかけてこんな面倒くさい伏線張るなんて」
 藤間はくつくつと笑いながら、眼鏡の端を押し上げた。
 自分にはこんな真似はできないなと思う。

 伏線は印象的に、けれども自然に。

 孝也に瑠璃色が似合うといったのは決して嘘では無かったのだろう。けれども、どこかで邦光はこの計画を思いついたに違いない。これまで邦光が孝也に送ってきたものは、そのどれもが実用的で、きちんと使えるものだった。だが、今回のインクはそれとは明らかに質が異なった。しかし、それを『瑠璃色』でカモフラージュした所が上手い。鈍感な孝也は、その質の違いに違和感を感じつつも『瑠璃色』だということに納得してそれを疑問も抱かずに受け取った。孝也のあの鈍さでは、白紙の手紙も迷宮入りしたかもしれないのに。
 あるいは、藤間のアシストさえも計算のうちだったのか。
 孝也があの手紙の意味を一人で導き出すのは恐らく不可能だったろう。だが藤間がいれば簡単に解ける程度のトリック。ある意味、孝也が真実を知るか否かは藤間の思い一つだけだった。
 許すなら教えろ。許さないなら気がつかない振りをしろ。おそらく邦光はそう言いたかったに違いない。
「保護者の許可まで一緒に取る辺り、確かに抜け目は無いけどな」
 やはり一抹の寂しさは拭いきれない。娘を嫁に出す時の父親の心境というのはこんな感じなのだろうかと、孝也にとっては甚だ失礼なことを考えながら藤間は孝也のカバンを拾い上げた。今から部室に向かえば、ちょうどラブシーンに遭遇するかもしれない。邦光は気を悪くするかもしれないが。
「ファミレスで一番高いメニューを奢らせてやろう」
 藤間は人の悪い笑みを浮かべて、最後の教室を後にした。
 



novelsトップへ 『032:鍵穴』へ