novelsトップへ 『032:鍵穴』へ

『090:イトーヨーカドー』 ………

 ※『001:クレヨン』『032:鍵穴』の続編です。そちらを先にお読みください。



「……なんで、米の種類ってこんなに沢山あるの?」
 スーパーの食料品売り場の、米のコーナーの前に腕を組んで仁王立ちし、唸っている後輩兼恋人の姿を横目で見て、福王寺孝也(ふくおうじ たかや)は思わずと言った風に噴出して笑ってしまった。
「だよなあ。俺も、初めて見たときどうしようかと思った」
 そう言いながら、孝也はその中の一つをすっと指差す。男にしては若干小さめの手と、細めの白い指に、思わず隣の男、横越邦光(よこごし くにみつ)が見蕩れていることには気がつかなかったが。
「俺は、これ買ってるよ」
 指差された先には、大きな黒い文字で『無洗米』と書かれた米袋があった。水だけ入れればすぐ炊ける! というキャッチコピー付きだったので、実家にいた時には殆ど台所になど立ったことの無い邦光にも、研がずに炊ける米なのだということは分かる。
「…じゃあ、俺もそれにする」
 ポイッと軽々五キロの米袋をかごに入れると、邦光は再びカートを押し始めた。
「後、何がいるの?」
 どこか心許ない表情で尋ねられ、孝也はほんの少しだけ、そんな邦光が可愛いと内心で微笑んだ。表には出さない。表に出すと、邦光は拗ねてしまうからだ。孝也自身は、たかだか一年の違いで、大差ないと思っているのだけれど、邦光には、その一歳の差が大きく感じられるらしい。大体、邦光は孝也より10センチは背が高いし(邦光が特別にデカイというより、孝也が些か小柄なせいだが)、落ち着いた性格でしっかりしているから、むしろ、一つ先輩のはずの自分より大人だと思うこともしょっちゅうなのだ。
 けれども、邦光はそういう問題ではないのだと言う。先に孝也が新しい場所に進んで、邦光の知らない友人や世界を作っている、それだけで不安なのだと。けれども、それも今日までの話だ。今日からは、一年前よりもずっとずっと近い場所に邦光は来るのだから。
「うーん。もう、大体、いいんじゃないかなあ。足りないものがあったら、また買いに来ればいいし。ここのスーパー、11時までやってるよ」
 孝也がふいっと首を傾げながら邦光を見上げると、思いの外、嬉しそうな表情で見下ろしてくるのに気がついた。
「…何?」
 微かに頬を染め、戸惑いがちに尋ねる孝也に邦光は悪戯な子供のような笑みを浮かべる。
「うん? なんか、こういうの良いなあって思って。新婚さんみたいじゃない?」
 案の定、更に孝也が赤面するようなことを言うので、
「馬鹿!」
 と、照れ隠しに怒って見せた。怒ったところで、何の効果もありはしないだろう。孝也自身だって、嬉しくて浮かれているのを、この敏い年下の恋人が気づいていないはずが無いのだから。
「今日から、これが『毎日』になるんだよな」
 と、しみじみ言われて、孝也もその事実をじんわりと噛み締めた。この感じは何かに似ている、と思ったけれど、なかなかその名前が思い出せない。柔らかくてふわふわとしていて、口の中に入れるとクシャッと甘く溶けるお菓子の名前。
「俺、カレー作れるようになったから、今日、俺がカレー作るよ」
 一生懸命、孝也がそれを思い出そうとしていると、ふ、と邦光が何気なくそんなことを言う。
「え? ホント?」
「うん。一人暮らし始めるんなら、ちょっとは料理覚えろって、母親に無理矢理教えられた」
 得意げな表情は、明らかに、邦光も浮かれていることを教えている。けれども、今日くらいは良いかと孝也も笑った。
「俺、フルーチェなら作れるよ」
 だから、俺がデザートを作ると孝也が言ったら、
「それ、牛乳入れて混ぜるだけだろ?」
 と、邦光は声を立てて笑った。





 一年の遠距離恋愛を経て、孝也に遅れること一年。邦光が見事現役で合格を果たした大学は、偶然にも孝也の通う大学と近接した大学だった。私鉄の駅を三つ挟んだ隣。孝也と同じく、アパートで一人暮らしをしながら大学に通うことにした、と告げた邦光に、孝也はとても喜んだのだ。どうせなら、近くに住めば良いのに、とひっそり思っていた。通学の都合もあるから、実際には口にしたことは無かったけれど。邦光は、そんな孝也の気持ちが分かっていたのかどうなのか、ある日、突然、不動産の契約書を孝也の前に差し出し、悪戯っ子のように笑って、
「これからも、どうぞよろしく」
 と言った。見てみれば、それは孝也と同じアパートの、しかも隣室の契約書だった。驚いて邦光の顔を見上げるばかりの孝也に、やっぱり邦光は子供みたいに笑って、
「丁度、卒業生が出て行って、空いたばっかりだったんだって。ダメもとで聞いてみたら、あっさり入れた」
 と何でもないことのように言ったのだ。それからは、あっという間だった。大学は春休みで、時間は沢山あったから、邦光の引越しの準備を手伝った。手伝いながらも、なんだか、どこか夢なんじゃないかと実感が湧かなかった。今だって、湧いていない。寂しさを堪えて、一ヶ月に数回の逢瀬をひたすら楽しみにしていた今までとは全く状況が変わるのだ。会いたくなれば、直ぐ隣に行けばいい。それどころか。
「孝也先輩、今日、泊まっていくよね?」
 カレーを作るという邦光を手伝って、玉ねぎの皮を剥いている時に何でもないことのように問われて、孝也はう、と言葉に詰まってしまった。ふと、親友の藤間の言葉が頭を過ぎる。邦光が自分のアパートの隣の部屋に引っ越してくるのだと伝えたら、藤間は呆れかえった様に溜息をついた。
「俺の可愛い孝也が、とうとう同棲かよ」
 と茶化すように言った藤間に、孝也は顔を真っ赤にして、
「そんなのじゃないよ!」
 と反論したけれど。これは、やっぱり『そんなの』ではないのだろうかとグルグル考えていた孝也に、何を誤解したのか、邦光は不安そうな表情を向けてきた。
「…孝也先輩、明日、何か用事あるの?」
「え? あ、何も無い」
「最後までしない方が良い?」
 ぼかしもせず、はっきりと尋ねられて孝也は顔が赤くなるのを隠せなかった。邦光は、殊、こういう事に関しては、相当にはっきりとものをいう。それは羞恥心が無いからではない。ただ、孝也を思いやっている、それだけのことなのだ。むしろ、恥ずかしがって肝心な事を曖昧にしておくと、孝也に負担が掛かると邦光が思っているのを孝也も知っていた。
 トラウマ、というほど大袈裟なことではないけれど、邦光がそんな風に考えるようになったのは、最初の失敗があったからだった。孝也が邦光と初めて最後の最後までしたのは去年の夏休みのことだ。後になってお互い話してみて分かったが、孝也も邦光も誰かと性交渉を持つのは初めてで、初心者同士だったのだ。自分はともかく、このしっかりとして大人びて見える後輩が、初めてだったというのは、孝也は少々意外だったのだけれど。
 とにかく、初めて同士で知識も十分でなかったくせに、感情の方が先走って、男同士なんだから適当に何とかなるだろうという甘い認識も相まって、初めてのそれは散々なものだった。結果だけを言えば、孝也は怪我をしてしまった。邦光だけが悪いのではない。いや、むしろ悪いのは自分だと孝也は思っている。痛がる孝也に何度か戸惑い、中断しようという素振りを見せた邦光を感情の昂ぶるまま、無理矢理引き寄せて続けてくれとお願いしたのは孝也だったのだから。
 あの時は、自分でもどうかしていたと思うくらい感情が昂ぶっていて、途中でやめるのが本当に嫌だったのだ。途中でやめて、邦光がやっぱり男は面倒くさいと思ってしまうのが怖い、という打算もあった。邦光が、そんな不誠実な人間ではないと孝也が一番良く知っていたはずだったのに。
 怪我そのものは、一週間もすれば生活に支障をきたさない程度の軽いものだったし、結果はどうあれ、あの時、邦光が欲しいと思った気持ちにも嘘は無いから、それ自体は孝也には後悔は無い。無いけれど、あの後で、顔を真っ青にして自分を責めている邦光を見たときには、反省した。反省して、二人で話し合ってきちんと勉強した。
 生々しい、あからさまな知識を二人で知っていくのは、時々、居た堪れないほど恥ずかしかったけれど、邦光は真剣だった。
「孝也先輩に怪我させるくらいなら、しなくて良い。我慢したほうがマシ」
 とまで言い切った。だから、孝也も恥ずかしさを堪えて、必要なことを一つ一つ知った。今では、大分慣れてきたので最初のようなヘマは絶対にしない。けれども。
「し、しても良いよ…明日は、何もないし」
「ん」
 顔を赤くしながら孝也が俯くと、照れが伝染したかのように邦光も微かに頬を染め、短く返事をすると、素早い動作で体を屈め、掠めるようなキスを一つ、孝也の唇に落とした。
「今日は時間沢山あるし、俺に準備させて」
 と邦光は優しく笑ったけれど。
 この笑い顔が、最近、意地悪に見えるのは孝也の気のせいなのだろうか。
 とにかく邦光の『準備』とやらは執拗なのだ。本当に、孝也が恥ずかしさで居た堪れなくなるくらい。けれども、それが必要なことだと知っているから孝也は嫌だとは言えない。邦光が何よりも孝也の体を思っているからのことだとも知っているから、やっぱり言えない。第一、邦光は終始丁寧で、優しくて、乱暴なことなど一切しないのだから、文句の言いようも無い。
 そんな面倒な事を邦光にさせるのは嫌だから、自分ですると一度逃げを打ったときに、
「俺がしたいの。させてください」
 とお願いされてしまったので、その言い訳も使えない。八方塞だ。邦光は好きだし、孝也だって正直言えばしたい。抱き合うのは気持ちが良い。気持ちが良いのに、困ってしまう。奇妙な矛盾だ。
 わあー、と叫んで部屋の隅っこに逃げたいような気持ちになって、今日からはこれが『日常』になるのだと思ったら、なぜだか嬉しくて切なくて涙が出そうになった。
「明日の朝は、パンで良い?」
「あ、うん。牛乳ある?」
 交わされる言葉も、それを裏付けるみたいに『日常』だった。
「あ…買うの忘れた。でも、インスタントコーヒーがある」
「そっか」
 と相槌を打って、孝也はふと思い出した。一緒に荷解きした荷物の中に、『それ』を見た覚えが無いことに。
「…邦光。インスタントコーヒーは良いけど、このうち、やかん、あったっけ?」
 訝しげに孝也が尋ねると、邦光は、あっと声を上げて孝也の顔を見下ろした。二人同時に噴出してしまう。
「しょうがないなあ。明日の朝一で、スーパーに買いに行こう?」
 と孝也が笑いながら言うと、邦光も嬉しそうに、
「うん」
 と答えた。そこで、孝也は、ふっと思い出す。
「メレンゲだ」
「へ?」
 唐突に関係の無い単語を口にした孝也に邦光は不思議そうな顔をしたけれど。
「何でもない。明日、やかんと一緒にメレンゲの焼き菓子、買ってこよう」




 嬉しそうに笑いながら告げると、孝也は邦光の手をキュッと握った。





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