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一途な欲望 -4-

一途な欲望

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  4  

 駅前の人の多さにうんざりしながら、雨上がりの空を見上げた。
 二駅前までは土砂降りだったが、少し青空も見えてきている。まだ傘を差したまま歩く人もいるので、雨はやんだばかりなのだろう。
 もう濡れる心配は無かったが、人通りの少ない地下街を抜けようと知哉は踵を返した。
 久しぶりの外回りの上、1課から引き継いだ慣れない取引先ばかりで、いつも以上に気を張っていたのかもしれない。意識せず大きな溜息が出た。
 地下街入口の頭上にあるデジタル時計を確認すると、もうお昼を過ぎてしまっている。 1度会社に戻り書類を作成するつもりだったが、午後から別の取引先とのアポがある。会社には戻らずこのまま昼にしようと、地下街を出てすぐの喫茶店に入った。
 昔からあるような小さな店で、昼時だというのに客の姿も疎らだ。メニューも煤けていたが、落ち着くにはちょうどいい店だった。
 知哉は食事にはこだわらない。特に1人で取る食事はどうでもよかった。
 コーヒーと適当なランチセットを頼むと煙草に火をつけた。
 何年か前に禁煙したが、高原と関係を持つようになってまた吸い始めてしまった。女々しいと思いながらも、高原には内緒で同じ銘柄にした。
 ふと無意識に携帯を取り出し、着信を確認しようとしている自分に気付く。
 ついさっき、地下街を歩きながら確認したばかりなのに……自嘲ぎみに小さく笑って、携帯を開かずにテーブルに置いた。
 朝から何度も着信を確認し、メールを問い合わせては『新着メールはありません』の文字に落胆していた。
 高原から着信がないのは分かっているのに、何を期待しているのかと自分に苛立つ。
――連絡があるはずがない。
 高原は2日前に仕事で日本を発っていたし、日本にいる時でも、ホテルへの呼び出し以外で連絡があることはなかった。
 分かっていても落ち着かないのは、今日が金曜だからかもしれない。
 いつもならホテルへの呼び出しがある日だ――あの悪い夢のような夜から1週間が経つ。しかし時間は何も解決してはくれず、千千に乱れたままの心を抱えて知哉はまだ動けずにいた。
 ホテルへの呼び出しがないのは、今の知哉には救いだった。
 こんな状態で高原に抱かれるのは嫌だ――他の男に抱かれるのも――
 高原の非道を責めているのではない。不安なのだ……あんなふうに男を嗾け、知哉の方から離れていくのを、高原は待っているのではないか……と。
 高原に本心を確かめなくては……逃げてばかりはいられない。
 分かってはいたし、そのチャンスは何度かあった。
 高原が出発するまでの2日間、資料の作成を手伝った。会社ではたまに擦れ違うぐらいの接点しかない高原と、こんなに社内で一緒に過ごしたのは初めてだった。それは決して甘い時間ではなく、高原の足手まといにならないように、知哉はただ必死に仕事をこなした。
 仕事中に2人きりになることも多かったが、どう切り出していいのか分からず、結局あの夜のことを話せないまま、高原は日本を発ってしまった。
 テーブルの上に置いた携帯を、祈るような気持ちで見つめた。
 短いメールでも構わない、ワンコールだけでも構わない、ただ高原からの連絡が欲しかった。
 煙草の最後の1本を取り出すと、空になった箱をひねって潰した。
 いらない感情もこんなふうに潰して棄ててしまえればいいのに……


「――知哉さん?」
 駅に戻る途中、どこからか呼ばれた気がした。周りを見渡したが、相変わらずの人通りと騒音だ。声は紛れて消えてしまった。
 諦めて歩き出そうとすると、
「知哉さん!」
 雑踏の間から伸びてきた腕に、突然二の腕を捕まれた。
 驚いて振り返ると、息を切らしながら背の高い男が立っている。
「やっぱり知哉さんだ」
 ラフなジーンズ姿の若い男。
 クセのある黒髪から覗く、その目に見覚えがあった。
――街の騒音が一瞬にして消える。
 焼き印のように体と心に刻まれた記憶が鈍く痛み出す。
 耳元での熱い息づかい。
 汗ばんでひんやりした手のひら。
 知哉の名を呼ぶ掠れた声。
 深く深くこの体に打ち込まれた若い雄。
 頭の中が真っ白になり、自分が立っているのかも分からない。真っ逆さまに落ちていく気分だ。
「信号の向こうでちらっと見えたからさ。見失わなくて良かった」
 男は悪びれる様子も無く、屈託無く笑う。
 スーツ姿ではないからだろうか、記憶しているよりずっと幼く見える。あの夜の獣じみた色気は感じない。
「もう逢えないかと思ってた。高原さんなんて、携帯も出てくれないしさ」
 吐いてしまいそうなほど気分が悪い。足元がグラグラする。
 ぐっと奥歯を噛みしめ、一歩を踏み出した。
「……どけよ」
 搾り出すようにしてやっと言葉が出た。そのまま男の脇をすり抜け歩き出す。
「ちょ、ちょっと!待ってよ」
 知哉は振り返らない。
「ね、知哉さんってば!」
 慌てて知哉の前に回り込むと、両肩を押し留めた。
「ごめん……仕事中、だよね。でも…」
「何の用だ?」
 冷たく男の言葉を遮った。
 ……また身体か?
 鞄には身分証も名刺も入っている。脅して適当な性欲処理にでも使うつもりか?
 知哉の怒気を含んだ声に怯む様子も無く、男は穏やかに微笑んでいる。
「オレ、川村真」
「は?」
「オレの名前だよ。真実の真って書いてマコト」
 自分を犯した人間の名前など知りたくない。名前や人格のある1人の人間として認めたくなかった。
「どうせ高原さんのことだから、オレの事、名前も何も話してないでしょ?」
 聞きたいとも思わなかったが、確かに何一つ知哉は知らなかった。
 この男――川村真と高原はどんな関係なのだろう?
 初めて真に会った時、夜の匂いがすると感じたのを思い出した。ラフな格好をしていても、その匂いは消せていない。誰もが認めるエリートの高原と繋がりがあるとは思えなかった。
 真は注意深く自分を観察する、知哉の視線に気付いたらしい。
「気になるの?」
 揶揄するような言い方だ。
「気になる? オレのこと……」
 その自惚れた言葉に知哉が表情を険しくすると、ニヤリと笑って先を続けた。
「冗談だよ。気になるのは、高原さんでしょ?」
「……別に」
「ね、知哉さん。高原さんとオレの関係……知りたくない?」
 ふいに挑むような目付きになる。それは真の夜の顔を思い出させ、知哉の心臓が痛いくらいに鳴った。
「……別に」
 目をそらさなければ、飲まれてしまいそうだ。
「冷たいね。今夜も高原さんと逢うんでしょ?」
「……いや」
 高原が日本にいないことも知らないのか、それとも知っていて知哉の反応を見ているのか、いいように操られている様で落ち着かない。
「じゃあさ、今夜はオレに付き合ってよ」
 事も無げに言う。その軽さに知哉は傷付き、目には怒りの色が浮かぶ。
 男なら誰でもいいと思っているのだろうか?
 もう2度と真と寝るつもりはない。
「あー…ご飯にってことだよ。知哉さんって顔に出るよね……Hなことだと思った?」
 ワザと知哉が誤解するような言い方をした。
 知哉の反応はベッドの中と変わらない。素直で健気でそそられる。知哉との会話に真はぞくぞくしていた。
「お酒でも飲みながら、語り明かそうよ」
 知哉はじわりじわりと真に追い詰められていた。動揺を隠して無表情に徹しているが、真には全て見透かされている気がする。
「お前と語ることなんてない。話はそれだけか? 俺は仕事があるんだ」
 こんなガキに振り回されるのはもう耐えられない。何を言われても癪にさわった。
「じゃ、最後にこれだけ。この店で飲んでるからさ、暇なら来てよ」
 1枚のカードを財布から出して知哉に差し出す。店のメンバーズカードらしく、裏に簡単な地図が書かれている。
 差し出されたカードを、知哉は受け取ろうとしない。
「酔わせてモノにしようなんて考えてないよ。知哉さんの嫌がることは絶対しないし。行儀良くするし。約束するから」
「今日は残業になる。何時に終わるか分からない」
 嘘ではなかった。確かに仕事は山積みで、遅くまでかかるだろう。
「オレは何時でもいいけど。終わったらおいでよ」
 言いながら店のカードをぐいぐい知哉の胸ポケットに入れてくる。カードの角が内側でつかえたが、それでもさらに押し込もうとする。うんざりした顔で知哉はその手を止めたが、もうカードはくしゃくしゃだ。
「……分かった。暇だったら、な」
 適当にあしらっておこうと決め、カードをひらひらと振って背を向けた。
 1歩踏み出した瞬間、後ろから強く腕を引かれ、真の胸に背中から倒れ込んだ。
 すぐ耳元で真の声がする。
「やっぱり服を着てると社会人って感じだよね。スーツ似合ってる。カッコいいよ」
 初対面から裸だったことを思い出し、知哉は耳まで赤く染まった。
「……あとでね、知哉さん」
「約束はしない!」
 忌々しそうに吐き捨てると、真の手を振り払って歩き出す。
 その背中を可笑しそうに笑って真が見送った。
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